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202号の人が行方不明

202号の人が行方不明(サンブル)


 その日は、八月七日。
 昨日の台風が嘘だったかのようによく晴れ、蒸し暑い日だった。
 近くの国立大学三年生である松本竜樹は、人生初の一人暮らしを開始しようとしていた。
 法学部に在籍している竜樹は、まだ就職の予定はない。大学を卒業したら、法科大学院に行きたいと考えている。今後のため、勉強に集中できる環境を得るために――というのが、今回の引っ越しの理由だ。
 元々、今まで暮らしていた実家と大学は近い。住み慣れた環境の方がいいし、実家が近い方が何かと便利――そう思って選んだのは、実家から徒歩十五分ほどの距離にある、単身者用のアパートだった。
 そのアパート名は、キャッスル松本。
(どうして、これにキャッスルとかつけようと思ったんだろ……)
 アパート前に到着し、竜樹は今日から暮らすアパートを、まじまじと見上げた。
 キャッスルとは名ばかりで、その実態は二階建ての、外付け階段があるタイプの少々年季が入った物件だ。建物自体も大きくはない。一階と二階合わせても六部屋しかなく、そのうち一階の101号には、大家の男性が暮らしている。
 部屋は風呂トイレ別の1DKで、家賃は四万五千円。どうせここでは勉強するだけだし、安いに越したことはない。困ることがあれば実家に帰ればいいのだし、何よりここは古くからの住宅街で、夜も静かだ。騒がしいのは、何よりも困る。
(ちょっと見た目もぼろいけど……住めば都って言うし)
 これからの暮らしを思うと、多少の不安もあるが、どちらかと言えばうれしい気持ちの方が大きい。一人暮らしには、昔から憧れもあったからだ。
(俺の部屋は――203号室)
 竜樹は手の中にある銀色の鍵を見つめながら、狭い外付け階段を上る。手にはスポーツバッグに詰めた日用品と、一階に住んでいる家主への、挨拶の品が入った紙袋がある。
 203号は、二階の一番奥の角部屋だ。とりあえず、荷物を置いたら大家のところまで挨拶に行かねば――そう、これからの予定を考えつつ階段を上がり切ったところで、竜樹は思わず固まってしまった。
 階段すぐそばの、201号室。その扉が、少しだけ開いている。
 竜樹が見て固まったのは、開いていた扉ではない。
 扉の一番下。
 外付けの廊下に向けて、扉の内側から、人の手が、力なくはみ出しているのだ。
(えっと……これは……)
 いきなり思考停止した脳みそを、必死に動かそうと試みる。
(さすがに、こんな寝方は、しないよね……?)
 だんだんと、己の頬が引きつってくるのがわかった。今は真夏。犬じゃあるまいし、玄関のたたきが冷たくて、なんて寝方しないだろう。手だってドアに挟まれて、痛いはずだ。
 竜樹は次の瞬間、転げ落ちるように外付け階段を駆け下りていた。
「……お、大家さんっ!」
 向かったのは、大家が住んでいるはずの101号室だ。インターホンを何度か押すと、ドアが開いた。三十過ぎくらいの、白いシャツを着た眼鏡の男が、怪訝な顔をしてこちらを見ている。
「あ、あのすみません! 今日から203号に入る、松本竜樹なんですけど」
 そう言えば、若干神経質そうな顔をしたその男は、途端に笑顔を浮かべた。
「あぁ、はい聞いています。はじめまして。大家の加藤です」
 加藤と名乗った若い男は、よろしく、と言いながら頭を下げた。竜樹もつられて「よろしくお願いします」と頭を深々と下げたが――今は挨拶なんて、している場合ではなかった。
「あの、いきなりごめんなさい。201号のことなんですけど――」
「201号? あぁ」
「玄関先で、中の人が倒れているみたいで」
 住んでいる人間を思い浮かべていたのか、頷いていた加藤の顔が――見る見る青ざめた。次の瞬間、加藤は部屋を飛び出して、階段を駆け上がる。竜樹も、慌てて後を追った。
 201号の前に駆け付けた加藤は、扉を思いっきり開ける。
 中で倒れていたのは、男性だった。黒いTシャツにジーンズという姿で、サンダルを履いている。外に出ようとしたときに倒れたのだろうか。
「――鈴野宮さん、大丈夫ですかっ?」
 加藤はその男性と思われる名を呼びながら、体をゆすった。
「……松本君、悪いんですけど、救急車呼んでもらえません?」
「あ、は、はいっ!」
 こちらを見上げた加藤の顔は、焦っている。竜樹も慌ててカバンの中のスマートフォンを取り出した。救急車なんて呼ぶのは、人生初だ。思わず手が震える。
(一一○……じゃない、一一九!)
 焦りすぎて番号を押し間違え、何度かやり直したそのとき――倒れていた男が、なにか呻いた。意識を取り戻したらしい。
「あの、大丈夫なんで……救急車とかそんな、大げさな……」
 うつぶせのまま、男は力ない言葉を絞り出す。だが加藤が、それを叱り飛ばした。
「何言っているんですか、ぶっ倒れている人が! 倒れるなんて普通じゃないんですよ!」
「いや、ほんと、なんでもないんで……」
 男はよろよろと身を起こし、顔を上げた。竜樹と一瞬、目が合う。
「っ――!」
 すると男は、なぜか驚愕したような様子で、目を見開いた。
(な、なに?)
 携帯電話を握りしめたまま、竜樹は思わず後ずさる。一瞬、幽霊でも見たような――そんな顔をされた。だが男は気まずげに竜樹から目をそらすと、力尽きたのかその場で再び、ぺしゃりと平たく、うつぶせに倒れた。
「ちょっと、しっかりしてくださいよ鈴野宮さん! ここで死なれちゃ困ります!」
 加藤が必死に声をかけるのだが、鈴野宮と呼ばれた男は、うつぶせになったままゆるゆると首を横に振りながら唸った。
「大丈夫ですよ、加藤さん……」
「え」
 加藤が、目を丸くする。
「飯、食ってないだけなんで……原因、多分それ……」
 男は消え入りそうな声で、情けなさそうにつぶやいた。


「……なんかもう、本当にすみませんでした」
 201号の玄関で倒れていた男は、そう落ち込んだ口調で言いながら、しみじみと大盛りの親子丼を味わっていた。
 竜樹たちが今いるのは、大家である加藤の部屋、101号室だ。
 救急車は必要ないとこの男が頑なに拒んだので、加藤と二人で一階まで連れてきた。
 男はやたらと大柄な男で、細身である加藤が担ぐとつぶれてしまいそうだった。なので仕方なく、それなりに身長のある竜樹が担いで、一階まで下りた。
 男が空腹を訴えていたので、加藤が出前を取り、竜樹はアパート前の自動販売機までスポーツドリンクを買いに走った。水分と食事をとると、男は多少生き返ったらしい。
(でも、どうしてこうなった……)
 加藤から「竜樹君もどうぞ」と出された親子丼にぼそぼそと箸をつけながら、竜樹は悩む。
 なぜいきなり、自分はほぼ初対面の男たちとちゃぶ台で顔を見合わせながら、丼を食べる羽目になっているのだろう?
「でもとりあえず……悪い病気とかじゃなくて、良かったですよ」
 そう、竜樹が言葉に困りながらも言えば、目の前の男は米粒一つ残さず食べ終えた丼を置いて、こちらをばつが悪そうな視線で見た。
「申し訳ない、いきなりびっくりさせたみたいで……君、新しく入居の方?」
「はい。203号に今日から入居の、松本竜樹といいます」
「へぇ、若いねぇ。いくつ?」
「今、大学生三年です。今年二十一……」
「すごいねぇ、全然若いねぇ」
 何がすごいのかはわからないが、男は感心したような様子でつぶやいた。
「俺は、201号の鈴野宮です。これからよろしく」
 鈴野宮がぺこりと頭を下げたので、竜樹も頭を下げる。
 少々情けない表情で笑うこの男は、竜樹よりも随分と年上に見えた。年齢は加藤と同じく、三十を過ぎたころだろうか。背が高く筋肉質で、日に焼けていた。体格だけ見ると、大学にいる野球部員のような雰囲気がある。隣にいた加藤が色白で華奢な男なので、余計にそう見えただけかもしれないが。
「そういえば、最近外で見かけませんでしたけど、ずっとお仕事されていたんですか? 部屋で」
 そのとき加藤が、冷蔵庫から冷えた麦茶のポットを持ってきながら、あきれたような声で告げた。
「……そうです。俺、集中すると食わなくなっちゃうんで」
 正座姿の鈴野宮は、気まずそうに頭をかく。
「その方が、なんか頭が冴えるんですよ。それで、さすがになんか買いに行こうと思って靴履いたとき、めまいがして、つーっと意識が遠のいて。あれ、本当に目の前真っ暗になるんですね。一瞬、自分死んだと思いました」
「――で、倒れたんですか。多分、低血糖と脱水でしょうけど……ものには限度があると思いますよ」
 加藤が眼鏡の奥の目を細め、睨むように見る。
「いい大人なんですから、自己管理くらいしてください。稼ぎがないわけじゃないでしょう。自営なんて、誰も守ってくれないんですよ?」
「いやほんとうに……すみません」
 鈴野宮は、見かけによらず腰が低いようだ。何度も加藤に頭を下げていた。
「自営……鈴野宮さんはお仕事って、何をされているんですか?」
 なんとなく興味がわいて、竜樹も尋ねる。鈴野宮は、人のよさそうな笑みを浮かべた。
「しがない物書きだよ」
「しがなくないでしょう? この人、結構有名な作家さんなんですよ。これとか、代表作なんじゃないですか?」
 言いながら、加藤は居間の本棚から一冊の小説を取り出した。ハードカバーの白く、分厚い小説だ。灰色で書かれたタイトルは装丁通り「白」だ。「はく」と読むらしい。著者は『鈴野宮恋次』とある。
「鈴野宮恋次……白……」
 文字として読むと、なんとなく記憶に引っかかるものがある。竜樹は首をひねった。
「これ……何年か前に映画化していませんでした? 俺、映画見ましたよ」
「へぇ。すっごくどシリアスな重たい内容でしたけど、竜樹君、ああいうの見るんですか」
 加藤が意外、という顔でこちらを見る。
「いや、たまたま、なんですけどね。大学の休校かなんかで、時間があったときに」
 確か内容は、若干ホラーが入っていた気がする。
 主人公は数人で雪山登山に行くが、予期せぬ猛吹雪に遭遇し遭難。なんとか山小屋に避難するが、そこで様々な怪奇現象に遭遇し、恐怖と極限状態の中、人間関係が徐々に壊れていく――という、えぐい映画だった。
 怪奇現象が寒さによる幻覚なのか、どこからどこまでが現実か、自分たちがまだ「生きている」ことさえ、幻なのではないか――そんな思いに支配され狂っていく人間たちの数日を、観察するように描かれている。
 見た瞬間、すごく後悔した思い出があるのだが、なんとなく自分のツボにはまってしまったらしい。レンタル開始後、新作なのにDVDを借りてまた見てしまった。いろんな意味で、記憶に残っている作品だ。
「あれ、鈴野宮さんが書いてらしたんですか!」
「う、うん……」
 思わず興奮してそう聞いてしまったが、鈴野宮は竜樹の熱意に若干引き気味に頷くだけだった。 
「書いたけど……別にこんなえぐいのばっかり書いているわけじゃないよ。普通の恋愛話とかも書くよ」
「でも、鈴野宮さんの普通の恋愛話って、ちょっと変なの多いじゃないですか」
 加藤が茶を飲みつつ、口を挟む。
「インフルで高熱出してから、常に幻覚で理想の恋人が見えるようになる話とか……この人、頭いっちゃってるなぁ、としか思えませんでしたけど」
「それ書いたの、すっごく最近な気がするんだけど……しかも凄いマイナーなところで出したし……俺言ってないよね? 加藤さん、なんで知ってるの? 俺のストーカーなの?」
「いえ。僕はただ、あなたがどんなものを書くのか気になるだけですよ」
 鈴野宮は加藤を不気味そうに見ていたが、加藤は素知らぬ顔で麦茶を飲むだけだった。
「でも、俺そんな有名な作家さんと生で出会ったの、初めてですよ。ちょっと感動しました!」
「出会い、これなのにですか?」
 竜樹がそう感嘆の声をもらせば、加藤が鈴野宮を小さく指さした。彼ら二人はそれなりに仲が良いようで、加藤の物言いには遠慮がない。指さされた鈴野宮は、苦笑していた。
「いやだって、あの映画結構好きだったし……それに、こういうのは完全に別世界の話だと思っていたので」
 こんな近所に、作品が映画化されるような作家が住んでいたんだ――と思うだけで少しテンションが上がる。
 竜樹の住んでいる「赤割市」は、この付近では一番標高の高い山、赤割岳のふもとに存在している。
 赤割岳の標高は、一七二九メートル。末広がりの形は美しく、地域のシンボルでもあった。様々なルートの登山が楽しめて景色も良いことから、夏も冬も登山者に人気がある山で、そのふもとにはキャンプ場やスキー場、牧場もある。
 名産品としては、その牧場のジャージー牛のミルクを使った「あかわりジャージーシュークリーム」などが有名だが、逆に言えばそれしかない。周囲を山岳地帯に囲まれた、地方都市だ。そんなエンターテイメントの世界とは、まったく無縁だと思っていた。
「いやでも、そんなに凄くヒットしているわけではないから……書かないときは半分ニートみたいなものだし、ねぇ」
 だが竜樹の興奮をよそに、鈴野宮は苦笑しながら、恥ずかしそうにそう答えた。見た目は少し怖そうで、とっつき辛い印象を与える男だが、話してみるとそうでもないらしい。
 そのとき、部屋のインターホンが鳴る。加藤が応対に出た。宅配便のようだ。
「竜樹君、ご実家から荷物が来ましたよ」
 玄関に大きな荷物を置いて、加藤が開き戸の間から顔を見せる。
「えっ? 荷物って――」
「多分、お布団ですかね」
「あぁ……」
 そういえば、布団は新しいのを夕方までには送るね、と母親が言っていた気がする。大家在中のアパートということで、部屋の人間が不在な場合、加藤が荷物を受け取ってくれるようだ。
「いいマンションの有能コンシェルジュみたいだよねぇ、加藤さん」
 グラスに入った麦茶を飲みながら、鈴野宮が笑う。
「キャッスルとは名ばかりですけどね。ほら鈴野宮さん、満腹になって元気出たなら、竜樹君の荷物持って、一緒に二階に行ってあげてください。無駄にでかいあなたを、担いで降りてくれたんですよ。恩返ししないで、どうするんです」
「はい、大家様」
 言いながら、鈴野宮はごちそうさま、と顔の前で両手を合わした。そして立ち上がると、ひょいと竜樹宛の布団セットを持ち上げる。
「あ……いいですよ、体調良くないのに」
「いいよいいよ、迷惑かけたし。ご飯食べたら元気出た。あと、加藤さんには逆らえない」
 鈴野宮はにっこり笑うと、布団袋をかついで部屋を出る。玄関扉に手をかけたところで、鈴野宮は加藤に向けて振り向いた。
「そうそう。出前のお返しに、またお酒持ってきますね。うちの実家のでいいですか? 純米大吟醸」
「勿論。あれ、凄く好きですから」
 加藤はにっこりと笑って、二人を送り出した。


「鈴野宮さんの家って、お酒屋さんなんですか?」
 部屋を出て、竜樹は布団袋を担いでくれている鈴野宮に尋ねた。
「うん。弟が継いでやっているよ。竜樹君は、日本酒飲める?」
「お酒はまぁ飲めますが……でも日本酒とか焼酎とかは、まだあまり飲んだことなくて」
 敷地内で鳴くセミの声を聴きながら、竜樹は考えるように呻いた。ゼミの飲み会で酒は覚えたが、そこまで普段から飲むわけではない。ビールや酎ハイくらいしか飲まない。
「そっか。興味出たらまた教えてね。一升瓶であげるから」
「あぁ、はい……」
 思わず苦笑いを浮かべる。一升瓶で送られてうれしい、と思う日がくるのは、いつのことだろう。
「でも荷物持ってもらっちゃって、すみません。布団袋、でかいのに」
「全然。力はある方だし」
「何かスポーツとかやっていたんですか?」
「そう思う?」
「はい。体格いいし、野球部みたいな人だなーって、なんとなく思っちゃって」
 竜樹が初対面の感想を、正直にそう呟けば、鈴野宮はのんきに笑っていた。
「早く走ったりとか競争したりとか、そういうのは昔から苦手だなぁ。動くのもめんどいなぁ、と思う方だし。昔から背だけは高くて、バレー部とかバスケ部に勧誘はされたけど」
「あー……背高い人あるあるってやつですよね。わかります。じゃあ球技、やっていたんですか?」
「全然。俺、根性も協調性もないから。しつこい勧誘からどう逃げ切るかだけを考えていたよね。だって部活とか、上下関係面倒だったりするじゃない。運動好きでもないのにしごかれるとか、意味わかんない」
 なるほど、と竜樹は小さく頷いた。加藤がこの男のことを「無駄にいい図体」と辛らつに言っていた意味が、なんとなくわかった。
「でも竜樹君も、結構上背あるよね。何かやってんの? スポーツとか」
「いや、俺は運動神経、ポンコツなんで……」
「ポン……そんな感じしないけど?」
「いや、本当に駄目なんです。体育祭とか、全力で呪いたくなるレベルで」
 竜樹はため息とともに告げる。とにかく、自分はどん臭かったのだ。
 小さなころから足も遅いし、水泳も苦手で、なかなか水の中で目も開けられないようなビビりだった。
 そして忘れもしない、小学一年生のときの運動会。トップで回ってきたクラスのリレーでごぼう抜きされた挙句、何もない直線上で、派手にこけた。
 最下位となったことを別に責められはしなかったが、生徒や保護者、先生にまで笑われて、みんなの前で大恥をかいたことが、完全にトラウマになった。
 そして成長期を迎えて、背は思いのほかすくすく伸びたのだが……運動が苦手なのは変わらない。
「スポーツマッチとかで、無駄に背があるからってバスケに入れられたりして……後でがっかりされるのわかっているから、嫌で嫌で」
「あー、一緒一緒。でもちゃんとやっていただけ偉いよ。俺の場合は、どう言い訳して休むかだけに頭をつかっていたからねぇ」
 鈴野宮がけらけらと笑いながら同意した。この男、人が好さそうだが、結構ひねているのかもしれない。だがなんとなく自分と同じ匂いを感じて、竜樹は少しだけ警戒を解いた。
「実家は遠いところ?」
「いえ、全然近いですよ。歩いて十五分くらい」
「すっごい近いじゃん。なんで一人暮らしするの?」
「勉強に集中したいんですよ」
「へぇ? 大学どこ? 何学部?」
「大学はそこの国立で……法学部です」
「うわ、賢いんだねぇ」
 鈴野宮が呻くような声を上げた。竜樹は慌てて「そうでもない」と首を横に振る。
「じゃあ、司法試験とか受けるの?」
「予定としては……です。まだ院に行ってからの話なので、先の話ですけど。うち兄弟多いから、あまり家で勉強できる環境じゃなくて」
「何人?」
「俺合わせて、五人です。男ばっかり。俺のすぐ下に二人ほど小学生がいて、その下二人は幼稚園児。一卵性の双子なんですよ」
「……そんな小さな弟いるんだ。歳、だいぶ離れているよねぇ。そりゃ大変そうだ」
「そう。だから、うるさくって」
 竜樹も苦笑しながら、頷く。
「途中でうち、家建てたんですけどね。その後、両親がはりきった、というか……」
「うん……まぁ、仲が良いならいいじゃない」
「……ですねぇ」
 二人は、何とも言えない笑いを浮かべた。
 弟が生まれると最初に聞いたのは、竜樹が小学校の高学年のころだ。それまで一人っ子で、兄弟のいる友達が羨ましかったこともあり、そのときはとても喜んだことを覚えている。
 病院で初めて見た生まれたての赤ん坊は小さくて、可愛らしくて、これが自分の弟だと思うとなんだか気恥ずかしくて、ずっとによによしていた。
 だが次男が生まれた翌年には三男、そして数年後に双子の四男五男が生まれ、静かだった松本家は、にぎやかな大家族となった。
 歳の離れた弟たちは可愛い。彼らもこちらを兄ちゃん兄ちゃんと慕ってくれるので、それもうれしい。しかし弟たちはやんちゃ盛り。家の中を駆け回るし壊すし、泣いたと思った次の瞬間には転がって大笑いしているし、目が離せない。
(俺、こんなにエネルギーに満ち溢れてなかったよなぁ……)
 弟たちを見るたび、竜樹はそう思う。一人っ子の期間が長くのんびり育った自分と、生まれたときから複数の兄弟に囲まれて、わちゃわちゃしながら育った弟たちとは、少し性質の違いを感じている。
 今回竜樹がそんな家族と離れて一人暮らしをするのは、将来を考えてのことだった。勉強に集中したい――だが法学部に入ったのは、弁護士になりたいとか、裁判官になりたいとか、最初からしっかりとした目標があったわけではなかった。
 竜樹は、物静かな見た目に似合わず、案外プライドの高い男だったのだ。
 小学生の頃に運動会で大恥をかいたトラウマは深く、あれから数日、転び方を笑いの種にされたこともあり――かなり傷ついたのだ。
 今に見ていろ、と歯を噛みしめていたとき、家を建てる話が出てきた。それまで住んでいた賃貸マンションから一軒家に引っ越し、学区が少々変わったので転校もする羽目になったが、それは竜樹にとって、自分をやり直すチャンスでもあったのだ。
 運動は駄目だけど、勉強はやれば身につくはず――そう信じて、何もかもどんくさいドジっ子から、運動はいまいちだけど成績優秀な優等生へとキャラ変更を目指した。家で猛勉強をするようになったのだ。
 そんな意地と隠れた努力のおかげで、新天地では「運動はお察しだけど、凄く賢い奴」と一目置かれるようになった。中学高校と成績はトップで通過して、大学は地元国立大学の法学部。文系だった自分が、凄いねと思われたくてそこを目指しただけだ。
 二十歳を過ぎるとそういった自分を見返す余裕もできて、視野も少し広まって、今は昔ほど、周囲に自分を認めさせてやる、というような意気込みは小さくなった。
 しかし受かったからには、将来的には大学院まで行って、司法試験にも合格したい。受からなければ路頭に迷う。そのために、勉強に集中できる空間が欲しかったのだ。
「両親はずっと、さっさと一人暮らししろって言ってくれていたんですけどね。ただ共働きで帰りも遅いし、まだ双子連中が小さいし。次男と三男が小学校の高学年になるまで待とうか、と思って。で、やっと今、というか……」
「なんか、すっごいしっかりしているんだね、君。俺、自分が情けなくなってきたよ……」
「そ、そんなことないですよ。体調崩すときは誰だってあるし……」
 鈴野宮が肩を落としたので、竜樹は慌ててフォローする。
「でも、俺は作家とか、そういう何か作れる能力があるのは羨ましいし、凄いと思いますよ。俺はゼロから何か創り上げろって言われたら、それは多分できないですから」
「……どうかなぁ? 俺は生まれ変われるなら、器用な社会の歯車の、一因になりたいけどねぇ」
「そういうものですか?」
「たまに、そう思う。はみ出して好きなことやっているっていうのは、孤独を感じることがあるんだよ。そういう道を選んだのは俺だし、向いてないのもわかっているから、ぼやくことも身勝手ですけどね」
 鈴野宮は相変わらず、はは、とのんきに笑っていた。 「でも法学部かー。頭に詰め込むこと多いでしょ? 勉強ばっかりだと、気が狂いそうにならない? せっかく一人暮らしになったんだし、連れ込む彼女とかいないの?」
「残念ながら、実家にいるとき、俺にはもれなく弟がセットでついてきていましたからねぇ……」
「あぁ……。でも後ろにちょこちょこ小さいのが付いてくるのを想像したら、可愛いねぇ」
「可愛いですけど全然モテませんよね、同年代には」
 だらだらと笑いながら、しょうもない話をしているうちに、二階の一番奥の角部屋、203号の部屋の前までたどり着いた。扉を開くと、夏のこもった熱気と共に、真新しい畳の香りが漂ってくる。
「うわ、中暑いなぁ……」
「日当たりいいからねぇ、この物件。換気して、エアコン入れな」
 玄関の中に入った竜樹に、鈴野宮は「はい」と担いでいた荷物を差し出した。中は布団とはいえ、受け取るとやはりずっしりと重かった。
「すみません、ここまでわざわざ」
「いいえ。俺の体よりは全然軽いでしょ、布団。早々に迷惑かけたのはこっちだし」
 ぺこりと頭を下げると、鈴野宮はにっこりと、愛想のよい笑みを浮かべる。
「まぁ、こんな出会いも何かの縁かもしれないからね。これから、できれば仲良くしてよ」
「はい」
 こちらこそ、と竜樹は笑った。一応隣近所に挨拶に行くつもりではあったが、多分挨拶した程度では、ここまで込み入った話はできなかっただろう。そこまで近所付き合いなんてするつもりもなかったが、隣人たちとは、できるだけ良好な関係であった方がいいに、越したことはない。
「あ――あとね」
 片手をあげて去りかけた鈴野宮は、一瞬何かを考えて足を止め、こちらを振り返った。
「その、隣のことなんだけど」
「隣?」
「真ん中の部屋。202号室」
 鈴野宮は隣の部屋を指さす。そこは鈴野宮の住む部屋と、竜樹の部屋の間だ。
「ここ、今は空き部屋みたいなものなんだけどさ。誰かが訪ねてくるようなことがあったら――俺に教えてくれないかな?」
「いいです、けど……」
 ――空き部屋みたいなものって、なんだ? と竜樹は内心首を傾げた。
「見張っていてとか、そういうのじゃないんだけど……一応ここ、俺の友達の部屋でさ」
 鈴野宮も妙なことを言っているという自覚があるのか、気まずそうに頭をかいた。
「いろいろあって今そいつ、どこにいるのかわからないんだけど――その知り合いとかが来るかもしれないし、もしかしたら本人が戻るかもしれなくて」
「えっ……」
「いや別に、ヤバい感じのやつじゃないよ? ヤクザが金の取り立てに来てドア蹴ってくるとか、そういうのでもないし」
 竜樹が不安げな顔をしたのが伝わったのか、鈴野宮は慌てた様子でそう付け加えた。
「なんというか――山の好きな奴でね」
 鈴野宮は思い出すように、腕を組む。
「日本中の山に登山で行くような、本格的な奴だったの」
「……登山家ですか? 有名な人?」
「有名かどうかは知らないけど、職業にはしていなかったと思う。趣味でやっている程度。まぁ、俺の地元の同級生なんだけどね」
 鈴野宮は落ち着いた声で、202号室の扉を見つめた。
「ここに住んでいたことは確かなんだけど、長いこと本人と連絡がつかなくて。部屋もそのまま。今はそいつのご両親が、代わりに家賃払っているような状態」
「……行方不明、ってことですか?」
「うん。自分から出て行ったのか、本当に事件事故に巻き込まれたのか、それすらわからないんだけどね」
 鈴野宮は、困ったように苦笑して、肩をすくめた。
「ここに帰るのは正直望み薄だけど、もし帰ってきたら、叱り飛ばしてやりたいし……だから、さ」
「……それで、鈴野宮さんが隣に住んでいるんですか?」
 鈴野宮は、答えなかった。ただ、人の良い顔で笑っていた。
「まぁ、そういう事情があるんだ、くらいに思っておいて。君には迷惑かけないよ。初めての一人暮らし、満喫しなきゃね」
「……はい」
 笑顔でそう返事をすれば、鈴野宮も「じゃあ」と片手をあげて自分の部屋へと戻っていった。
(でも、行方不明、かぁ……)
 思わず、竜樹も202号の玄関扉を見つめてしまった。
 語る鈴野宮の口調は軽かった。だが「登山好き」で「行方不明」という単語を聞くと、あまりいい予感はしない。最悪の結果を考える――誰でもそうだろう。鈴野宮は、その男が「戻る」ことを望んでいるのだろうから、下手なことは言えなかったが。
 竜樹は、サンダルでペタペタと歩きながら部屋に戻る、鈴野宮の背中を見つめた。
(この人も、どっか不思議な人だったな……)
 いきなり倒れていたときは驚いたが、人当たりはよく、のらりくらりとしながら、どこか屈折しているような、陰も感じさせる男――今までの二十年ちょっとの人生では、出会ったことがないタイプだ。
 竜樹はそれなりに人見知りをする方なので、学校外の人間、それも初対面の年上の男と、ここまで話し込んだのも初めてのような気がする。気質が多少、似ているからなのかもしれない。
(でもなんか、しんみりした話を聞いちゃったなぁ……)
 暮らす人間は消えてしまったのに、その契約だけは続いているという部屋。
 このアパートで何か事件が起こったわけではないのだから、隣がそんな部屋であったとしても、不動産屋にも大家にも、告知義務なんてない。鈴野宮が教えてくれなければ、竜樹が知るはずのなかった話だ。
 きっと暮らす男が戻らないとわかれば、彼の両親があきらめてしまえば――部屋の契約は打ち切られ、中の私物は運び出されてしまうだろう。そして何も知らない人間が、新たにその部屋に入居するのだ。そういう部屋に住むのは、正直あまり気持ちのいいものではないのだろうな、と竜樹は思う。
 (……賃貸って、そういうのが怖いよな。前住んでいた人のことなんか、わからないわけだし)
 なんとなくざらりとした気分が残ったが、重い息を吐きだして、竜樹は部屋の中に入った。
 中は夏の熱気に満ちている。掃除は行き届いていたが、息を吸うと、閉め切られた室内のこもった熱気が、肺の中に入ってくる。言われた通り、早く換気をするべきだ。
 玄関を開けると、すぐにフローリングの台所がある。その奥にはガラスの開き戸があり、ベランダに面した六畳ほどの和室があった。畳は傷一つなく、まだ鮮やかな緑色だ。
 部屋に足を踏み入れ、カーテンのついていない大きな窓をからからと開けると、ベランダの向こうには周囲の住宅街を見下ろす景色と、この辺りのシンボルである赤割岳の雄大な姿、そして夏の真っ青な空が広がっていた。
 窓からは、心地の良い風が入ってくる。風通しも良い部屋だ。外ではまだセミが鳴いている。
(――あぁ、でもいい景色だなぁ)
 夏の、外の色鮮やかさにほっとした。
 ベランダに出て伸びをする。晴れ渡った空と、風が気持ちいい。
 ――初めての一人暮らし、満喫しなきゃね。
 鈴野宮の言葉を思い出し、無言で頷いた。このキャッスル松本203号室は、竜樹が人生で初めて一人暮らしをする部屋だ。これからの人生の記憶にも、きっと残るのであろう場所だ。たとえ勉強づけになる生活であろうとも、満喫せねば、もったいない。
(今日くらいお酒買ってきて、一人で乾杯しようか)
 そんなことを考えていたら、行方不明の隣人の話を聞いて生まれた心のざらつきなど、どこかへ行ってしまった。


 その日の夕暮れ。
 荷物を置いた竜樹は、市街地に買い物へ出かけていた。
 いざ一人暮らしとなると、意外にこまごまとしたものが必要になってくる。カップなどの食器類を買い足し、ぶらぶらしていると辺りが暗くなってきた。
 夕食をどこかで食べようと思ったが、あまり腹がすいていない。なんでだろう? と首をひねったとき、加藤の部屋で、親子丼をごちそうになったことを思い出した。でも何も食べないと夜に腹が減るだろうな――と思いつつ安いうどん屋に入り、スマートフォンを見るとメールが来ていた。母親からだ。
 ――みんな、お兄ちゃんの家に行ってみたいと駄々をこねています。
 そんないたずらっぽい文章と共に、半泣きで機嫌の悪そうな双子たちと、そんな彼らの面倒を見て、すでにげっそりと疲れ切った次男と三男の写真が添付されていた。思わずひとりで苦笑してしまった。
 弟たちは、兄がたった徒歩十五分の場所に引っ越しただけだというのに、今生の別れのように泣きわめいていたのであった。特に幼稚園の双子二人は、竜樹にべったりだ。共働きの両親に代わり、竜樹が幼稚園まで迎えに行ったり、よく面倒を見ていたからだろう。
初めての一人暮らしに浮かれる気分はあったが、やはりこうやって写真を見ていると、小さな弟たちへの愛しさのようなものがわいてくる。
(あいつら、こっちに泊まりに来てもいいけど、布団ないしなぁ)
 小さな弟たちに雑魚寝はかわいそうだ。だがそう言えば「布団も持っていくぅぅぅ!」と言うのだろう。押入れ狭いし、置いとく場所ないっつーの、とにやにやしてしまう。
(まぁ、はしゃいで走り回るだろうし……あまりアパートには連れてこないほうがいいよな)
 正直「キャッスル松本」は、あまり壁が厚くないように思う。同じ階には小説家も住んでいるのだ。隣接しているわけではないが、デリケートな仕事だろうし、あまりうるさくするのは悪い。
 そんなことを考えつつ「キャッスル松本」まで戻った頃には、夜の九時半を過ぎていた。真夏とはいえ、もう周囲は真っ暗。住宅街だが、道路沿いの街灯はぼんやりと暗く、夜の人通りはほとんどないようだ。
 昼前のやかましかったセミの鳴き声もいつしか聞こえなくなり、道端の草むらの中から、かすかにコオロギか何かの、虫の鳴き声がする。
 歩道から、外廊下の柵ごしに、自分の住む203号室の扉を見上げることができる。
 昼間見たときは、青々とした木々と青空に照らされて何も思わなかったが、こうして暗くなってからこの物件を眺めるのは初めてだ。少々くすんだ外壁、黒々と影をつくる敷地内の木々、周囲の虫の音……少し不気味だ。
(部屋帰って鍵開けた瞬間――真っ暗な部屋の中に、誰かいたりして)
 外付け階段を上がりながらそんなことを一瞬考えてぞっとし、自分で後悔した。たった一人で、真っ暗な家に戻るという体験は、久しくしていない。
(なんでこういう時に限って、怖い話とか思い出すんだろうなぁ)
 竜樹はため息をついた。実家にいたときはそういう話は全く平気で、家族そろって夏の心霊映像番組も見ていたくせに、今になってふとびっくり系の、恐怖映像を思い出すのだ。当時は、どうせこんなの作り物だよ――と本気になって騒ぐ弟たちをからかっていたくせに。
(……忘れよ)
 そう、少しだけ夜の闇におびえる自分を励ましながら、階段を上がり切り、二階の外廊下に足を一歩乗せたときだ。
 二階の通路に、誰かいた。
 ──男性のようだ。
(鈴野宮さんかな?)
 一瞬、201号に暮らす小説家の男かと思ったが、違う。
 この真夏に赤と黒のジャンパーのような防寒具を着ていて、フードを深くかぶっているので、その顔はよくわからない。黒いズボンもぶ厚く太く、靴も安全靴のようにごつかった。背には大きなバックパックを背負っていて、かなり重そうだ。
 一瞬、そんな男が一番奥の自分の部屋の前にいるのかと思って、恐怖で腰が抜けそうになったが、違う。
 その男は、例の202号の扉の前に、ぼんやりと立っているのだ。
(なにやってんだ、あの人……?)
 思わず階段そばの壁に身を潜め、竜樹は眉を寄せた。
 ふと、鈴野宮の話を思い出す。
 あの202号室に住んでいたという男。確か本格的な登山をする男で、今は生きているのか死んでいるのかもわからず、長期間あの部屋には戻っていないという――。
(もしかして、例の人が帰ってきたとか?)
 竜樹ははっとした。
 あの赤いジャンパーの男の装備は、確かに登山者のようにも見える。もしかすると鈴野宮が心配していたとおり、ひっそりと帰ってきたのかもしれない。
(鈴野宮さん、多分まだ気づいてないよね)
 誰かが訪ねて来たら教える、そういう約束だった――とっさにそう思い、階段を上がり切り、その男に声をかけようとした、そのときだ。
 自分の足が、まったく動いてくれないことに気付いた。
(……え?)
 初めての体験に、竜樹は戸惑った。足だけではない。買い物袋を持った手も、首も、ぴくりとも動かせないのだ。その男から、目を逸らすことができない。
(なんだ、これ……?)
 首筋を、じっとりとした汗が伝う。金縛り、という嫌な単語が脳裏をかすめた。

(本文に続く)