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黄金の国・上(サンプル)

黄金の国・上


ここはとても暗い、森の中だった。
太古から人の手がほとんど入っていないとされるこの森には、恐ろしい魔物の伝説がいくつも残っている。この森の深部にまで足を踏み入れたのは初めてだが、魔物の姿も気配も、これっぽっちも感じない。あるのは恐ろしいほどの静寂と、闇ばかりだ。
 セルージャは、その森の巨木に背を預けるようにして、手足を投げ出し座り込んでいた。体には、強い疲労感がある。息をするのも、体全体を揺らさなければできない有様だった。
「……疲れたな、ニカ」
 セルージャは隣で、同じような姿勢で樹に寄りかかっている青年に声をかけた。雨に濡れた美しい金髪。いつもは蜂蜜ようだと思っていた褐色の肌には、血の気がない。
 セルージャの問いかけに、その青年は答えなかった。俯き、閉じられたまぶたはぴくりとも動かない。金糸で刺繍を施された美しいはずの白い衣装は、今は血と泥で汚れ、見る影もなかった。
何も答えない双子の弟を優しく見つめながら、セルージャはその髪に手を伸ばし、髪の乱れを整えてやる。直毛の、艶のある髪の手触りが心地よい。その感触は、その体が命を失っても変わる事はない。
「……お前が先に逝っちゃ、駄目じゃないか、王様」
 セルージャは笑いながら、優しく語りかけるように叱った。ニカの口の端に血が滲んでいるのを見つけ、指でぬぐってやる。
先ほどその目で、セルージャは彼の最期を看取った。
だが、答える事がないとわかっていても、話かけることを止める事ができなかった。つい先ほどまで、ニカはセルージャの問いかけに、弱々しい声ではあったが答えてくれていたのだ。
ニカは死んだ。
頭では理解していたが、双子の弟の死を、すぐに受け入れる事などできはしなかった。
「お前を一人にはしない」
 ニカの肩を抱きながら、セルージャは呟いた。彼の体は、まだ温かい。その事に少しだけ安堵した。やがてその温かみも消え失せ、彼の体も固くなっていくのだと思うと、足先から痺れのような震えが這い上がって来た。だがセルージャは足を叩き、己を叱咤する。打ちひしがれて動けなくなっている場合ではないのだ。この深く暗い森の中、血の臭いを嗅ぎつける獣もいるだろうし、自分達を負う追手も、そう遠くはない場所にいるはずだ。今頃仕留め損ねた自分達を、血眼になって探しているに違いない。
セルージャは己の装備を確かめる。手元にある武器は、短弓と護身用の短剣。しかしもう、矢の数が心もとない。短剣にも敵の血や脂がこびり付いており、刃先は欠けてしまっていた。刃の汚れを丹念にふき取りながら、セルージャは神経を張りつめて、周囲の気配に気を配る。
(獣でも追手でも何でも、来るがいい)
 ニカは渡さない。相手の思惑通り、簡単に死んでもやらない。抗って抗って、できるだけ多くの人間を道連れにして死んでやる。
 そう誓い、セルージャは闇の中で、獣のようにその透き通った緑の瞳を光らせた。

 セルージャとニカが暮らしていたこの国の名は、バーガトゥイと言う。
バーガトゥイとは、この国の古い言葉で「豊かさ」を指す言葉だ。その名の通り、豊かな土壌、そして質の良い金鉱脈に恵まれ、貧しい国の多い大陸の西側の中では突出して豊かで、恵まれた国だった。そのため、周辺諸国とは古くから資源を巡って衝突が絶えず、戦を嫌ったバーガトゥイは今から百年ほど前に、他国との付き合いを絶った。その鎖国状態は近年まで続いていた為、バーガトゥイは独自の文化で発展を続けた。その謎に満ちた文化と質の良い金の産地であることから、他国からは「黄金の国」と呼ばれ憧れを持たれているのだ、と幼い頃から聞かされている。
バーガトゥイの人々も、自国で採れる黄金には強い誇りを持っていた。バーガトゥイでは、国を豊かにした美しい黄金は天からの贈り物と考えられており、それを扱う自分達も「それを扱うにふさわしい、選ばれた民族だ」という意識が非常に強い。
そういった考えが生まれた背景には、バーガトゥイの民の特徴的な容姿もあった。この国の人間はみな美しい金髪・褐色肌という黄金を連想させる容姿であり、身に黄金を持つ自分達だからこそ、黄金に選ばれたのだという考えが、幼い子供にまで染みわたっている。他国の人間は、バーガトゥイのこのような民族的思考を「黄金信仰」と呼んでいる。
その独自の文化を持つ国で、若くして王となったのが、先王の子であるニカだ。セルージャの双子の弟でもある。王の急逝に伴い、ニカは五年前に十三歳という若さで王位についた。
本来であれば、バーガトゥイは長子相続の国である。双子の兄であるセルージャに王位継承権があるはずだったが、セルージャは容姿の問題から、生まれた時から王位継承権を持たない王子だった。
セルージャは、身に黄金を持っていなかったのだ。
父と母は間違いなくバーガトゥイの王族出身で、どちらも見事な金髪と褐色肌を持っていたにも関わらず、セルージャは黒髪に白い肌という、バーガトゥイでは異色の姿で生まれた。
まだ他国の人間であれば、そのような容姿であっても受け入れられる。だがバーガトゥイの民の始祖とも言える、直系の王族──しかも互いに由緒正しい純粋のバーガトゥイの民の子でありながら、その子が黄金を持たなかった事は、当時王宮を震撼させた。
何故セルージャがそのような姿で生まれたのかは、誰にもわからない。双子でありながら顔が似ていない、というならまだわかる。だが髪も肌も、共に生まれた双子のニカがとは全く異なっていた。ニカは誰よりも美しい金の髪を持っていたのに、だ。
──この子は、この国の過去の災いを背負っているのだ。
セルージャの命運はこの国一番の占い師に託され、その占い師が言った一言を、周囲は信じた。
殺せば災いが解き放たれるとされ、一応王子として育てられる事にはなったが、城の下働きの者も重臣も、セルージャを見る目は決まって不気味な生き物を見つめるような色を含んでいた。物心ついたときから周囲の自分に対する態度はそんなものだったので、王位を継がせないと言われたときも、大して反感はなかった。むしろそうだろう、と思っていた。このような姿の自分が王位に就いたところで、国民は納得しないだろう、という思いがセルージャの中にもあったのだ。
双子の弟のニカは、セルージャから見ても王の素質を持った人物だった。幼い頃から賢く周囲を良く見ており、国の行く末をいつも考えながら勉学に励み、他国とも交流を深めていくべきだとの考えを持っていた。王宮内でも城下でも、そんなニカは次期王としてとても周囲に期待された人物であり、自分などよりよっぽど王に向いている人間だと、セルージャは納得していた。
そんなニカとは、非常に仲が良かった。王位継承権を巡って険悪になるという事もなく、仲の良い兄弟関係を長年続けられたのは、ニカが常にこちらを庇い、色を理由にセルージャを見下す人間を許さなかったからだろう。
もともと冷静ではあるが、非常に気の強い一面を持っていたニカは、セルージャが目の前で悪口を言われようものなら相手が歳上であっても食ってかかったし、卑屈になりがちで何を言われても笑って誤魔化していたセルージャの事も、よく親身になって叱ってくれた。 自分の事にそこまで親身になってくれるのは、ニカだけだった。だからセルージャは、彼が叱ってくれる事は非常に嬉しく感じていたのだ。
 ニカは次期王として忙しい毎日を送っていたが、セルージャには何も役目を与えられなかった。
 自分が王家の厄介者だという事は、セルージャにもよくわかっていた。だから城の危険な場所の修繕や、家畜を襲う獣の駆除など、裏方の仕事を細々と引き受けながら暮らしていた。何もしないというのも頭がおかしくなりそうだったし、そういった仕事は、人とあまり関わらないでも良かったからだ。
そうした孤独な日々を送りながら、セルージャはどうすれば今後ニカの役に立てるのか、どうすればこれ以上迷惑をかけないで済むのか、そればかり考えていた。しかし次期王となるニカの周りには、彼を支える優秀な人間が多くいて、セルージャがニカの為にできる事など、兄弟だからこそできるくだけた話をして、ニカの気分転換をしてやる事くらいだった。
しかし王であった父が突然倒れ、ニカは予想よりも早く王として立たねばならなくなってしまった。いくらニカが優秀な人間だとしても、経験もない少年一人に国を任す事などできはしない。その為、自分たちの叔父であるムフという男が、ニカの後見人として寄り添った。
ムフは他の者たちのように、セルージャにもあからさまな嫌悪感を現す事のない数少ない人間だった。父の代から要職に就いていた叔父の助言は適格で、王宮内でもムフは人格者として信頼の厚い男だった。
ニカもそんなムフの事は信頼しており、セルージャも彼のような男がそばにいるなら、と安心していた。ニカはまだ若いが、幼い頃から王になる者として育てられたその器量には問題ない。先王の時代からの忠実な家臣に支えられ、ニカの統治はこの先何十年も続いて行くのだろう──そう信じていた。
しかしそのたった数年後に、そのムフが王であるニカを排除し、王宮の権力の掌握に出る事を、当時誰が想像しただろうか。
もともと野心があって若き王の後見人を引き受けたのか、王政に関わる中で欲が生まれたのか、それは今となってはわからない。自分たちが事態に気付いたとき、既に王宮内はニカに変わらず忠誠を誓う者と、ムフの手の者との二つに割れてしまっていた。いつしか二つの派閥の対立は避けられない状態となり、殺気立った王宮内をニカは何とかまとめようとしたが、それは叔父側の者たちの反発を生むだけとなった。
そしてこの日、ついに叔父は若き王を歴史上から抹殺する強硬手段に出たのだ。
だがその情報はセルージャ達も事前に掴んでおり、ニカの寝室を蹴破って入ってきたムフ派の兵たちを、ニカの忠実な兵たちが出迎え、乱戦となった。
 しかしムフは元々国の兵士を統率する立場にあり、手練れの兵たちはほぼムフ側についていた。兵の数の違いもあり、結局あの場で自分たちができた事と言えば、闇にまぎれてニカを城から逃がす事だけだ。
 ムフも王家の親戚すじとは言え、直系のニカがいる中で王となるには、それなりの理由が必要だ。若く知的で美しかったニカの民衆からの人気は強く、下手に排除をすれば民からの反発は避けられない。そのためには民衆も心から納得するような理由が必要だった。
──黒髪の王子が、その扱いの恨みから国家の転覆を狙っている。王はそれを知りながら、見過ごそうとしている。
 寝室に踏み入って来た際、ムフ側の兵士はそう言った。
 結局のところ、叔父は厄介者扱いされていたセルージャにこの謀反の原因を全て押し付け、王を排除する理由としたのだ。
勿論、セルージャには寝耳に水の話だった。国家転覆など考えてもいないし、ニカはただ双子の兄弟として、セルージャの容姿に関係なく親しく接してくれただけなのだから。だがこちらが何を言おうとしたところで、セルージャを庇う者などほとんどいなかった。ニカの忠実な部下さえ、眉をひそめてセルージャを見る有様だった。
 城内での乱戦をどうにか抜け出し、闇にまぎれてこの深い森の中に逃げ込んだが、追手の追及は厳しく、供の者は一人倒れ二人倒れ、最終的にはセルージャとニカの二人だけとなってしまった。そのニカも途中背に矢を受け、それが致命傷となった。しかし数年王を務めた青年の肝は非常に据わっており、死を悟ってもなお、決して取り乱す事はなかった。
──俺など置いて行け。
 薄く笑いながら、ニカはそばを離れぬセルージャに何度も言い聞かせた。
──行くんだ、セルージャ。
 何度も何度もそう呟いて、ニカは逝った。最後まで、こちらの事ばかり心配していた弟だった。苦しさも見せず、気高い王のまま、自分の前から去ってしまった。
 行けとは言われたが、セルージャはニカの傍らを離れる事などできなかった。
 唯一の理解者であったニカ。
 死ぬべきは厄介者の自分だったはずで、何故ニカがこんなところで命を落とさねばならないのか、それが全く理解できなかった。自分を嘲笑われるだけなら、まだ我慢できた。だが多くの城の人間たちは、ニカに忠誠を誓うふりをしながら、もう随分前にニカを裏切っていたのだと考えると、腹の底から燃え上がる様な怒りが渦巻いてくる。叔父も、家臣も、そしてこの国も。全てが憎くて仕方なかった。
(……お前に近づく者は、全て殺してやる)
(あんな者たちに、ニカの亡骸を渡してたまるものか)
たった一人になったセルージャを支えていたのは、その一心だった。
 狩りの経験から、武器の扱いには慣れている。手持ちの弓と矢を使い、周囲には簡素だが罠を張り巡らした。森の中に張られた蔓に足を取られれば、その位置を知らせるように木々がこすれた音を立てるか、矢が構えられた方角に向かって自動で飛ぶ。弓と矢は全て罠に使ってしまった為、今セルージャの手元には、刃先の欠けた短刀一本しかない。
 もはや自国の者を殺すことに、何のためらいもない。己が死ぬことへの恐怖もなかった。自分が死ねば、ニカの後を追うだけだ。だが簡単には死んでやらない、と意地でセルージャは短刀の柄を握りしめる。
 ──少しでも多くの道連れと共に死ぬ。
(本当に、お前たちに災いを呼ぶ者になってやる)
 そう心の中で呟いたとき、うっそうとした森の奥で何かが擦れる音がした。セルージャの張り巡らした罠に、何者かが触れたのだ。 (来た)
 セルージャは口の端を吊り上げて笑う。
 ついに来た、と歓喜のような気持ちが湧き出てきた。こちらはたった一人。命の危機であるにも関わらず、そんな気持ちになったのは、ニカの死で自分が既におかしくなっていたからかもしれない。
もし大勢に取り囲まれるような事があれば、まず勝ち目などないだろう。しかし叔父の手の者に、自分達を裏切った国に、ニカの遺骸を傷つけさせるわけにはいかないのだ。
(結構いる……十人、いや二十人?)
 今セルージャの感覚は、野生動物のように研ぎ澄まされていた。ざわざわとした、こちらの様子を窺う様な気配がある。森で狼の群れに囲まれた事があるが、そのときと同じような感覚だった。だがあの時より、数が多い。しかし弓矢の罠が発動した様子がない。罠には気づかれたのかもしれない。その事に舌打ちをする。
(何もかも、あんたの思うようになってたまるかよ)
 紳士然としていながら、腹の中ではニカを葬る事ばかり考えていたのだろう叔父の顔を思いうかべながら、セルージャは顔を引きつらせて笑う。
その瞬間、静寂の中に、ぎちりと何かを絞るような音がした。
(矢が来る……!)
 セルージャは本能的に横へ飛び退いた。それとほぼ同時に、唸りを上げて飛んできた矢が、今まで身を預けていた大木に突き刺さる。緋色の、見た事もないような鮮やかな矢羽だった。
「……動くな」
 どこからか声がした。聞き覚えのない、低い声だ。
周囲からはぞくぞくと、矢を構えた者たちが立ち上がる。暗闇に紛れたその男たちの姿は良く見えなかったが、月明かりを反射して、こちらを向く矢尻がきらりと光っているのが複数見える。
「通り道に、こんな危ない物を仕掛けまくったのは、お前か?」
 森の奥から、男が一人、姿を現した。
(……猟師?)
 一瞬、セルージャはそう思った。男は深くフードをかぶり、艶のある銀色の、毛皮のマントのようなものを羽織っている。顔は暗くてよく見えなかったが、がっしりとした体躯の大きな男だった。
その男は壊れた弓と蔦を、セルージャの足元に投げてよこした。先ほど、セルージャが設置していたものだ。セルージャは一歩下がり、両手で短刀をしっかりと握り、男を見据えた。
こんな男、知らない。長らく王宮内で暮らしてきたが、こんな出で立ちをした男を見た事がない。顔は良く見えないが、フードの端から見えるその髪は黒い。
(……うちの国の人間じゃない?)
 セルージャは眉を寄せた。肌も褐色ではないように見える。
「お前たち、何者だ。ムフの手の者か?」
「……ムフ?」
 男がわずかに首を傾げたのがわかった。男はそのまま茂みを抜けて、刃を構えるセルージャの前までやってくる。男は頭一つ分、セルージャよりも背が高い。大柄の男の体を覆う毛皮は、見た事もないものだった。この辺りの獣ではない。
「何の事だかわからんが……わけありそうだな、お前」
 男の視線は、セルージャの側のニカへと移った。死んでいる、という事は男の目にもわかったようで、男は何を思ったのか眉を寄せた。
「近づくな!」
 その表情にセルージャは弾かれたように叫びながら、男に向かって斬りかかった。相手が誰でも構わない。だが咄嗟に飛び込んだにも関わらず、男も素早く腰から短剣を抜き放ち、セルージャの刃を弾く。強い力で弾かれ、手にしびれが走った。
「っ……!」
 セルージャは一瞬焦りの表情を浮かべた。体勢が乱れている。今斬りこまれたら、避けられない。だが男は冷静で、こちらに向かって踏み込んでくることはなかった。
「その死体、バーガトゥイの人間か。お前は違うようだが」
「……うるさい!」
 お前は違う、との言葉にセルージャは怒りにまかせて刃を振るが、刃は空を切るばかりだ。男は最低限の動きで、セルージャの刃をかわしていく。
「落ち着け。ただ聞きたいだけなんだよ。質問に答えろ」
「知るか! ニカに近づくなら誰でも殺す!」
「ニカ?」
 男は一瞬疑問の表情を浮かべると、セルージャの刃を持った腕を掴み、捻じり上げた。男の力は強い。骨を押しつぶされるような痛みに思わず、セルージャは呻きながら短刀を落としてしまう。
「なんか大変なところに遭遇したような……。いいからちょっと落ち着けお前」
「うるさい、離せ!」
「……まぁ、そんな余裕もないか」
 ため息をついた男の拳が、暴れるセルージャの腹にめり込む。
「っ……!」
 強い衝撃に息が詰まる。胃液がこみ上げ、ぼたぼたと地面に落ちたのが見えた。視界はそのまま暗転し、ぐるりと世界が回る。地面に体を打ち付けるかと思った瞬間、男の太い腕で体を支えられた。
「……さわる、な」
「あ?」
「ニカに、触るな」
 男の腕にしがみつくようにしながら懇願の言葉を絞り出すと、男の口元が少しだけ笑ったように見えた。まばらに無精ひげの見える口元だ。
「わかったわかった。お前の大事なものには触らんよ」
 周囲からぞろぞろと、大勢の者たちが出てくる気配がする。どうにかして動きたかったが、セルージャの意識は急速に薄らぎ、体を動かす事ができない。
(追手じゃない……?)
 薄れる意識の中で、セルージャはぼんやりとその光景を眺めていた。

 ぼんやりとした、生温い空気。セルージャは己の体が、ふわふわと浮いているような感覚を覚えた。どこにいるのか確認したかったが、まぶたが非常に重い。目を開けたくない。眠い。夢の中にいるのかと思った時、すぐそばで笑いを含んだ女性の声が聞こえた。
「ニカ様は──あんな綺麗な金の髪をお持ちなのに──」
「どうしてセルージャ様は──あんな──」
 途切れ途切れだが、それはセルージャの陰口なのだと、一瞬でわかった。何度となく聞いてきた言葉だ。
(俺のいるところで言うな)
セルージャが忌々しく思いながら、重たいまぶたを開けると、そこは一面眩しいほどに真っ白な世界だった。セルージャは一人中心にいて、周囲を王家の人間や市民に取り囲まれ、指をさされていた。
「黄金なしの王子」
「なんでこいつだけ違う」
 そのとき一際大きな笑い声が聞こえ、はっきりと言葉が耳に届いた。
「きっと王妃様が、余所の国の男と交わったのよ。ほら、あの時期たくさんの商人が出入りしていたわ」
(……やめろよ)
 耳を塞ぎたくなるような言葉に、セルージャは無言で耳を塞ぐ。だが手のひらを突き抜けて、言葉は直接頭蓋に響く。
(母は悪くない。無関係の人間まで悪く言うのはやめてくれ!)
そう思うのに、笑い声は強くなるばかりだった。
「ニカ様だって、仲の良い振りをしているけど、内心迷惑しているはずよ」
「今回の事だって」
「あいつが原因で」
(やめろ!)
 セルージャは必死に、耳を塞いだ。だが嘲笑う声は止まらない。
 ニカはセルージャの身を案じてくれた。何を言われても笑って流してしまう事に、本気で怒ってくれた。自分の存在がニカに迷惑をかけているとは感じていたが、ニカにまで否定されているとは思いたくなかった。そんな事、疑いたくなどない。
 だが今回の謀反は、ニカの存在を良く思わない者たちが、疎まれていたセルージャを利用して、王を排除しようとしたものだ。結局自分がいる事でニカに迷惑をかけてしまった。
(迷惑どころじゃない)
 その結果、どうだ。ニカは命を落とし、自分だけまだ生きている。自分がニカの側にいた事で、何か良い事があったと言うのだろうか。ニカの優しさに、甘えていただけではないのか?
「──お前は、悔しくないのか?」
そのとき、目の前にニカが立った。いつものように、煮え切らないこちらを叱るように、美しい眉根を寄せて言い放つ。
(悔しいさ)
 セルージャは歯を噛みしめた。
 嘲笑される事が、平気であるはずない。そんな人間がいるのであれば、見てみたい。笑われるたび、未だに心は傷ついている。受け流すのがうまくなっただけなのだ。どうにもならないと、諦めているだけだ。
ニカの前で平気な振りをしていたのは、傷ついているとは思われたくないという自尊心と、ニカに心配をかけたくないという気持ちからだった。
 だが「悔しくないのか」と言われても、一体どうすれば良かったのか、セルージャには未だにわからない。
己が「黄金」を持たずに生まれた事で、母は嘲笑の的となり、ニカさえも心無い事を言われた事がある。その事は本当に悔しかったのだ。何度、誰もいないところで石壁を殴ったかわからない。
 努力すれば周囲がわかってくれるとか、そんな問題ではなかった。この国、バーガトゥイの王族として、命よりも大事と言われる黄金に選ばれていない、と嘲笑われる屈辱には終わりがない。挙句の果てに、謀反の口実として利用され、ニカを守る事もできなかった。死ぬべきは、役立たずの自分の方だったはずなのに。
(それとも)
 もっと早く、自分からニカの側を去っていれば良かったのか。優しくしてくれる、彼の存在に甘えなければ良かったのか? 
こんな国など、見切りをつけて去れば良かったのか。それとも、こんな命など早々に絶っていた方が、周囲の為だったのか。
「ニカ……」
 セルージャは血を吐くような思いで、ニカを見上げる。気付けば、周囲はニカだけとなっていた。だが彼は、呼びかけには何も答えてくれなかった。ただセルージャをじっと、見下ろしているだけだ。謝罪したい事は山ほどあった。だが、今更何を言っても取り返しがつかない。

「おい」

 その時突然、背後から無遠慮に声をかけられた。知らない男の声だ。
(うるさい)
セルージャは苛立つ。邪魔しないでほしかった。自分は今、ニカと向かい合いたいのだ。
「おい!」
 だがひときわ大きな声と共に、セルージャは肩を掴まれた。強い力で、無理やり体を振り向かされる。その瞬間、白い世界が一斉に砕けていった。ニカの姿さえも、共に消えようとしている。
(待ってくれ)
 そう叫んだ声は、声にならなかった。必死にニカに向けて手を伸ばすが、彼の姿は光に包まれるようにして消えていく。
「行くな!」
 腹の底から叫んだ瞬間だった。
はっと目を開けた瞬間、セルージャは自分が見知らぬ空間にいる事に気付く。
(夢……?)
息が荒い。恐ろしい夢を見た後のように、心臓が激しく胸の中で脈打っている。体はじっとりと汗ばんでいた。非常に気分が悪く、胸のあたりがむかむかする。セルージャが吐き気をこらえながら周囲を見渡すと、周囲は丈夫な布で覆われていた。大型のテントの中のようなところにいるらしい。その中で、セルージャは両手足を縛られた状態で、地面に転がされていた。こんな場所は知らない。自分の状態が、全く理解できなかった。
(捕まった……?)
 セルージャは痛む体に眉を寄せながら、状況を思い出す。確か、大勢の何者かに襲われた。まるで猟師のようないでたちをした男に気絶させられたような気がする。一瞬追手に捕まったのかと背筋が冷えたが、確か相手はバーガトゥイの民ではなかったような気がした。
「おい。……大丈夫か?」
 聞き覚えのある声に首を動かすと、セルージャの側に、先ほどの毛皮の男がしゃがんでこちらの様子を見ている事に気が付いた。夢の中での呼びかけは、この男の声だったらしい。
「泣いているじゃないか。どこか痛いか?」
「え……」
 泣いていると言われ、初めてセルージャは自分の顔が濡れている事に気付いた。しかし両手を縛られている為、涙をぬぐうこともできない。
「顔拭いてやるわ。ちょっと待ってろ」
 男は面倒そうに立ち上がり、手拭いを取り出すとセルージャの顔を勝手にぬぐった。
「……痛い」
「あ?」
「ごしごし擦るなって言ってんだよ、馬鹿力」
「あぁ、それは失礼」  男は笑うと立ち上がり、近くにあった椅子に腰かける。
「思ったよりも、元気そうで良かった。悪いね、こんな小汚い場所で。急ごしらえなもので」
 男の言葉に、セルージャは周囲を見渡す。大人一人が立っても窮屈ではないほど、大きなテント。自分とこの男以外に、人はいない。荷物置き場のようになっているのか、セルージャの周囲には布製の袋や木箱のような物がたくさん置かれていた。そう長時間気を失っていたわけではないようだ。テントの中の小さなランプの明かりに照らされて、ぼんやりと男の顔が見えた。
「どこだ、ここは」
「さっきの場所と、そう離れてはいないよ。安心しろ」
「……ニカは」
「あの死体か? 外に」
 死体、という言葉に、セルージャは男を睨みつけた。男はセルージャの視線を、表情を変えずに受け止める。
(こいつ、やっぱりバーガトゥイの人間じゃない)
 睨みながらも、セルージャは男を観察した。褐色肌とは違う、日に焼けた浅黒い肌に、黒い髪。声音からして年齢は三十代前半くらいだろうが、男の顔には大きな傷があり、野性的な人相も重なって正確な年齢がよくわからない。傷は左目の上から顎にかけて、刃物で縦に切り裂かれたような醜いものだ。しかし目玉を失っているわけではないようで、黒い瞳が二つ、セルージャの姿を映している。
「お前、名は?」
 男は落ち着いた、低い声で尋ねてきた。
「聞く前に、己が名乗るのが礼儀だろう」
「正論だ」
男は怒る様子もなく頷き、答えた。
「俺はブルウズの傭兵部隊を束ねている者だ。名はグラースと言うが、部隊の連中は大隊長とか何だとか、勝手に呼ぶ」
「ブル、ウズ……?」
 その言葉に、セルージャは肝が冷える思いで目を見開いた。思わず、声が震える。
ブルウズとは、この大陸の東側を統治する大国である。長い年月をかけ、多くの国々を吸収してできた多民族国家で、強力な軍事力を持っている。数十年前までは強欲な領地拡大主義を持っており、周辺諸国と何度も戦争を繰り広げたと聞く。
近年は広大な自国の統治に重きを置いているのか、目立った動きはないとされるが、バーガトゥイが存在する大陸の西側は、いつブルウズが西側に手を出すのかと、恐れを持って見ている部分があった。だから他国の事に疎いセルージャでも、ブルウズの名くらいは知っていた。
「そんなところから、何を……?」
「俺は名乗ったぞ。名乗らんかい、お前も」
 グラースの言葉に、セルージャは唇を噛む。
「セルージャだ。バーガトゥイの……一応、王族」
「一応?」
「……わかるだろう。王族だけど、バーガトゥイでは珍しいこんな見た目だから、厄介者扱いされていてね。先ほどの金髪の死体は、ニカ。俺の双子の弟で、バーガトゥイの王だ」
「バーガトゥイの……なるほどねぇ」
 男はセルージャの前で、納得したようなつぶやきを漏らしながら足を組んだ。
「聞いた事があるな。バーガトゥイはブルウズとは違う。同じ民族でできた国だから、皆容姿は同じで、国民全員金髪で褐色肌。だが今回の王の兄弟に、違う毛色の奴がいると……それがお前か」
「そんな話、ブルウズにまで広まっているのかよ」
 思わぬ返答に、セルージャは皮肉のような笑みを浮かべた。
「気を悪くしないでくれよ。うちの陛下が、そういうのが大好きでね。下世話な話じゃなくて、民族学の研究的な意味でだが。しかし、それは困ったな。何で王が殺されているんだ?」
「謀反」
 セルージャは隠さず告げた。
「信じていた後見人の男に裏切られた。すんでのところで逃げたが、このざまだよ」
「ふぅん……まぁそういう話自体は珍しくもない話だが、まさか他国の謀反に遭遇するとはね。さて、どうしようか陛下?」
(陛下?)
 グラースはテントの入り口に向かって声をかけた。疑問を浮かべて見ていると、テントの入り口の布をくぐって、一人の男が中に入ってくる。その男は、赤毛の髪を後ろでゆるく束ねた、色白の美しい顔立ちをした美男子だった。しかし片目を失っているのか、左目に武骨な眼帯を付けている。
その男は防寒用のローブを脱ぐと、グラースの横に腰かける。男の衣装が随分と上質な物だという事は、セルージャにもわかった。男は地面に転がったままのセルージャを一瞥すると、にっこりと柔らかい笑みを浮かべた。
「どうしようも何も、だよ。初めましてセルージャ王子。君と顔を合わせるのは初めてだね。私の名はミャサ。ブルウズの、第七代皇帝なんてやっている者だ」
「皇、帝……?」
 驚きのあまり、セルージャは声を失った。なぜこんな辺境の森の中に、大国の皇帝がいるのか。それが信じられなかった。
「嘘だ。何故、こんなところに……?」
「嘘と言われても仕方ないけどね。証拠と言われても、今はこれくらいしかないのだけど」
 ミャサと名乗った隻眼の美男子は、腰に差していた長剣を抜いた。その鞘には、豪華な装飾が施されている。そこには、鷲が翼を広げた形の紋章が刻印されていた。鷲の紋章を使用するのは、セルージャが知る限りではブルウズしかないはずだ。
 セルージャが紋章を見て黙り込んだのを見て、ミャサはセルージャが自分の話を信じたのだと確信したのか、小さく微笑む。
「──もともと、他国の王族の結婚式に呼ばれていたんだ。帰りに物見遊山で、バーガトゥイの国を見てみたいと私がわがままを言ってね。お忍びで、こっそり立ち寄る事にした。でも、道中の森には、何故かたくさんの罠が仕掛けられていてね。血の臭いもして、森の中にはいくつも死体がある。ただ事ではないなと思っていたら、君たちと遭遇したのだよ。グラース、もういいだろう。縄を解いてあげなさい」
 ミャサの言葉に、グラースは短刀を取り出した。
「いいけど、暴れても知らんぞ」
「今は大分落ち着きを取り戻したようだ。それに何かあったら、君が私を守るから大丈夫だろう?」
「あてにされても困るんだけどな。王子、暴れるなよ、怪我するから」
 言いながら、グラースはセルージャの手足の紐を短刀でぶつりと切った。ようやく自由に動けるようになり、セルージャは素早く身を起こす。
「……ブルウズの皇帝。あの、ニカは」
 まだ事態がうまく飲み込めないセルージャは、動揺しながらも隻眼の皇帝に尋ねる。彼は静かに頷いた。
「外に安置してある。本人である事に、私は疑いを持ってはいないよ。私は彼と会った事があるからね」
 ミャサの言葉に、セルージャははっとした。バーガトゥイの鎖国を取りやめたのは、ニカだ。彼はもっと諸外国と関係を気付くべきだと主張し、外交に力を入れようとしていた。
「そう言えば昔、ブルウズに挨拶に」
「そう。若く美しい顔立ちをしていたから、よく覚えているよ。知的な若者だと思っていた。まさかこんな形で再会するとは、思いもよらなかったけどね。会うかい?」
 ミャサに促され、セルージャはこくりと頷いた。よろけながら立ち上がると、グラースに体を支えられた。
「すまない」
 素直に詫びると、グラースは苦笑いを浮かべながら首を横に振る。彼はセルージャに肩を貸しながら、共にテントを出てくれた。
 テントの外には、二十名名程度の兵がいた。森の中で、セルージャに向かって矢を構えていた男たちだろう。
「悪い、道を開けてくれ」
 グラースの言葉に、兵は一斉に道を開ける。その先には、ニカの体が横たえられていた。
「……」
 無言の再会に、セルージャは唇を噛んだ。ニカの死体は、荒らされた様子もない。そのまま運び、外に安置してくれていたのだろう。 「うちの追手が来た様子は?」
 ニカの死体を見つめながら、肩を貸してくれているグラースに尋ねる。
「お前が寝ている間に、数名森の中をうろついているのがいたよ」
 セルージャは驚いて、男の顔を見た。やはり、こちらを探して近くまで来ていたのだ。
「……そいつら、どうした?」
「こっちにまで見境なしに攻撃してきやがったからな。うちも陛下がいるとは知られたくない。全員ぶっ殺して川に放り投げたが、残しておいた方が良かったか?」
「……いや」
 何でもない事のように尋ねる男に、セルージャは少しだけ恐怖を感じた。
 今、肩を貸してくれているこの男は、ブルウズの傭兵を束ねる大隊長という位置にいるのだという。皇帝と砕けた口調で話す様子からも、皇帝の信頼を得ており、それなりの立場にいるのだという事がわかる。グラースというこの男は、あのときは状況を確認するのが先で、セルージャを殺す気などなかったのだ。恐らくその気であれば、その追手のように、ゴミ屑のように殺され、川に放り投げられたに違いない。
 セルージャはグラースの肩を放れ、ニカの下に歩み寄ると、傍らに座り込んだ。衣服に血は滲んでいるが、顔は寝顔のように穏やかなままだ。苦痛の表情もない。その事を、心から良かったと思った。
「弔うなら、手伝うが?」
 セルージャの横に立ち、皇帝ミャサが静かに告げる。
「他国の方に、手伝わせるなど……」
「構わないよ。これも、何かの縁だろうから。それにいつまでもこのままでは、いずれ居場所が割れる。これ以上傷つけたくないなら、もう眠らせてやった方が良い」
「……」
 セルージャは無言で頷く。ニカを誰にも触らせたくない。ずっとそばにいたい。追手に首を持ち去られるなど、もってのほかだ。だがこのまま、ニカの体が朽ちていく姿を見続ける勇気は、落ち着きを取り戻した今はない。
 皇帝の命で、兵士たちは深く穴を掘る。先ほどいた大木の根元だ。その中にニカの体を安置し、セルージャも一緒に土をかけた。掘り返されないように土を固めると、セルージャは目を閉じた。
 もう、永遠に会えない。彼の顔を見る事も、声を聞く事もできない。そう思うと、体の力が抜け、セルージャは地面にへたり込んだ。不思議と涙は出なかった。
(仇は俺が取る)
 ぐらぐらと煮えたぎりそうな復讐心を押さえつけながら、セルージャは誓う。
 自分達を裏切った国を。人を。
「……必ずぶっ壊してやる」
 肩を震わせながら、セルージャは小さく呟いた。誰に向けて呟いたものではなかったが、その呟きは背後にいた、グラースにも聞こえていたらしい。
「……気持ちはわからんでもないがな、セルージャ王子」
 名を呼ばれ、セルージャがのろのろと視線を向けると、グラースは腕を組み、真顔でこちらを眺めていた。
「お前、当てはあるのか? バーガトゥイじゃ、皆お前の首をここぞとばかりに狙ってくるだろう。これからどうするつもりだ?」
「……」
 これから、という言葉に、セルージャは視線を落とした。
 確かに、当てなどない。
そもそも国外に出た事すらないのだ。どこに行けば良いのかなんて、咄嗟に考え付かなかった。しかし国内に味方がいない以上、この地に留まるわけにもいかない。自分はなんとしても、生き延びねばならない。生き延びなければ、ニカの仇を取る事などできないからだ。
「まだ何も、決めてはいないけど……」
 セルージャが拳を握りしめながら答えると、グラースは目を細める。
「どうせ、ろくな当てもないんだろう。だったら、俺たちと一緒に来てもいい」
「……え?」
 突然の言葉に、セルージャは驚いて目を丸くした。
「大隊長。お言葉ですが、何言ってるんですか?」
 言葉をうまく飲み込めないセルージャの脇で、事態を見守っていたグラースの部下が、呆れた様な顔をした。細い眉の、若いが神経質そうな男だった。歳の頃は、セルージャと同年代か、少し上くらいだろう。
「何って、勧誘だが?」
 グラースは何でもない事のように、苦言を吐く部下の顔を見た。
「勧誘って。まさか部隊に入れるつもりですか? こんな線の細い、まだ子供ですよ? しかも、謀反で国を追われた王族だなんて、面倒な事になるに決まっているんですから!」
「そう言うけどなぁ。イリダル、お前も俺のところに来たときは、栄養失調の鶏みたいなガキだったぞ? 今はしっかり育ったが」
「何なんですかその例え! 鶏とか酷すぎる!」
 イリダルと呼ばれたその若い兵士は、顔を真っ赤にしながらグラースに詰め寄る。グラースは彼を宥めつつも、そばに立つ自国の皇帝をちらりと見た。
「どうだろう、陛下。こいつ、なかなか良い筋をしていると思うんだ。度胸もある。鍛えたら面白いだろうなぁ、と思うのは俺の勝手なんだが」
「君が責任もって面倒を見てあげると言うなら、そこまで反対はしないけど?」
 ミャサは口元に小さく笑みを浮かべ、グラースを見た。その視線は「もの好き」と言っているようでもある。
「こんな若者を、山中で見捨ててしまうのも、忍びないしね。それに正直、バーガトゥイの話は私も聞いてみたいんだ。せっかく黄金の国に立ち寄れると思っていたのに、それどころではなくなってしまいそうだからね」
「謀反真っ只中の国に行かせられるか、馬鹿」
「馬鹿はひどいな、グラース。でも、どうだろうセルージャ王子。これも縁だと思うし、悪い話ではないと思うんだ。ブルウズ国内であれば、バーガトゥイはそうそう手出しできない。これからの事は、ゆっくり考えてみたら?」
「これからの事……」
 呟きながら、セルージャは視線を落とした。
 これからの事なんて、考えるまでもない。自国に復讐する事しか頭にない。悠長に時を消費するつもりはない。
「それとも王子。感情のままに立ち向かって、無駄に命を散らすか? 俺一人に勝てないお前が、より多くのものに立ち向かえるとは思えないが」
「……」
 グラースのこちらをあざ笑うかのような言葉に、セルージャは目を閉じた。言い返したい気持ちは強かったが、この男の言う事も事実だ。この男には、全く歯が立たなかった。仇を取るのだと粋がったところで、自分の力不足は痛感している。そもそも己の力不足故に、ニカを守りきる事ができなかったのだから。
もし、この男ほどに自分が強ければ、結果は違っていたのかもしれない。そう思うと自分が悔しくて、許せなかった。
「……あんたは」
 セルージャは目を開けて、グラースの顔を睨む。
「あんたは俺を、強くしてくれるって言うのか? 何のために? あんたのところに行ったって、俺はブルウズに忠誠を誓えるわけじゃない。そちらの国の為には働けない。そんな人間を拾う利点が、どこにあるって言うんだ」
「別にお前の忠誠なんて期待してねぇよ、王子様」
 グラースは傷のある目を細めて、顔を歪めるセルージャを楽しげに見つめながら、腰から短刀を抜いた。月明かりを反射して、その鋭い刀身がきらりと光る。グラースはその切っ先を、セルージャの喉元に突き付けた。
「お前の復讐とやらに、こっちは加担してやる気もない。ただお前が意地でも強くなりたくて、そのために何でも利用してやるってくらいの気合があるなら、それに乗ってやってもいいって言ってるんだよ。最低限の条件はあるがな」
「……条件?」
「その無鉄砲な刃を向ける相手を、間違えない事だ。そのときは、俺が責任もってその細い首を掻っ捌いてやるから、安心しろ」
 グラースはくすりと笑いながら、耳元で囁いた。セルージャは、刃先を突き付けながら微笑む男の視線を、睨むように見返した。何が何でも強くなりたいと言うのなら、鍛えてやってもいいが、ブルウズには逆らうな──この男は、そう言っている。
「難しく考える事はないよ、セルージャ王子」
 それまで会話を黙って見守っていたミャサは、グラースの肩に手を添えた。刃を仕舞え、と言いたいのだろう。
「この男は、いつもこんな調子なんだ。良くも悪くも、根っからの武人でね。見込みのある若者がいれば、声をかけずにはいられない。傭兵団は、そんな経緯の者で溢れているから、何も珍しい事じゃない」
「俺がところ構わず口説きまくっているとでも言いたいのか、あんたは」
 グラースは不服そうな目で笑う皇帝を睨み、刃を収めた。
「でもおかげで、うちの傭兵部隊の練度は大陸一だぞ。本国の騎士団にも負けん程度の腕も度胸もある。そうだろう、イリダル」
 突然話を振られた、先ほどのイリダルと呼ばれた兵士は、ため息をつきながら頭を抱えた。
「そりゃあ、騎士団に負けるつもりは毛頭ありませんけど……入れるなら、ちゃんと面倒見て下さいよ。あなたはほんっとに、子供に甘いんですから」
「子供って俺、一応十八なんだけど……」
 バーガトゥイでは、一応成人済なのだ。セルージャが小声で呟くと、一同が「え」という声を出して一斉にセルージャを見た。
「……俺、十三か、十四程度だと思ってた」
「私も。バーガトゥイの民族って、ちょっと童顔な顔の造りだからね。年齢わからないんだよねぇ……」
 ブルウズの皇帝と傭兵部隊の大隊長は、セルージャの顔をしげしげと眺めながら好き勝手言っている。複雑な気分だが、誘いは渡りに船とも言えた。
「でも、本当にいいんですか? 俺が行く事で、ブルウズに迷惑がかかるような事は」
「今のところないと思う」
ミャサは肩を竦め、答えた。
「バーガトゥイとはそこまで活発に交流があるわけでもないし、君の叔父とやらがこれから国をどうしていくのかわからないけど、個人的には謀反を起こすような輩は好きではないからね。求められたとしても、私が引き渡しに応じる義理もないから」
「相変わらず面倒くさい性格してるなぁ、あんた」
 グラースが呆れた視線でミャサを見た。
「君ほどではないよ。まぁ、嫌なら去ればいいだけの話だ。ニカ殿も一度は見た国、見てから決めてもいいのでは?」
「……」
 ニカも見た国。
 ミャサの一言に、セルージャは数年前、ブルウズから帰ったニカの様子を思い出す。ニカは年齢のわりに、普段は静かで冷静な男だったが、そのときは妙に弾んだ顔をして、ブルウズの感想をセルージャに語って聞かせた。
 ──バーガトゥイとは、何もかも違うんだ。
 ──様々な人が、同じ国に暮らしている。国も広大で町も発展している。ブルウズは怖い国だと言うが、バーガトゥイもあんな風に発展できたら。
 そのときセルージャは、ニカの話を物珍しく聞くだけだった。しかし普段は冷静なニカがこれほどまでに目を輝かせて語るのだから、きっと楽しかったのだろう。それくらいしか思わなかった。
(そうか……あいつはもう、見たんだったな)
 セルージャはニカの眠る大木に視線をやる。ニカの見たもの、彼が心奪われたものを見てみたいと思った。きっとこの機会を逃せば、一生そんな機会はやって来ないかもしれない。
「……行きます。世話になるからには、ブルウズに刃向う気はありません。恨みがあるのは、そちらではない」
 セルージャは短く、だがはっきりと答えた。皇帝を見て、そして傍に立つ毛皮の男を見る。
 ニカを魅了した国を、この目で見る。そしてこの男の近くで腕を磨く。そして、来るべき日に備えるのだ。
 セルージャはそう決意した。
(本文に続く)