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黄金の国・下(サンプル)

黄金の国・下


城内の一階にある、少々雑多な雰囲気ただよう食堂。
ここは城で働く者たちが各々食事をとる場所だ。給仕の女性たちが、いつも忙しなく働いているのが見える。
前日まで寝込んでいたセルージャも、人の少ない時間を見計らい、その食堂に向かっていた。外はまだ突き刺すような眩しい西日。夕食にはまだ早い時間だ──そう思いながら歩いていると、道中で城内が妙に騒がしい事に気付いた。廊下で、何か資材を運ぶ者、地図のようなものを見ながら指示を出す者など、慌ただしく動き回る者たちとすれ違う。
(……何かあるのか?)
セルージャは首を傾げながら、その脇を通り過ぎて食堂内に入った。何か特別な催し物でもあるのかもしれない。ブルウズに来てからまだ一か月も経っていない上に、ここ一週間はほどんど自室に引きこもっていた。世の中から置いてけぼりにされた気分だ。
城の食堂の献立は、日によってある程度決まっている。
肉料理だったり魚料理だったりと様々だが、今日は鶏肉と野菜の煮込み料理だった。
メイン料理とパンを数切れ、お盆に乗せてもらったところで、少し離れたところにある大人数用のテーブルの端に、見覚えのある背中が食事をとっているのを見つけた。
周囲の人間たちとは少し違う、鮮やかな藍色に染められた、独特の紋様が刺繍された装束。少し迷ったが、セルージャは声をかける事に決めた。
「隣、座ってもいいか?」
歩み寄り、少しだけ緊張の混じった声をかけると、その背中はぱっと振り向いた。
「あぁ、お前か。どうぞ」
グラースだ。彼は食事をとりながら、テーブルの上に図面のようなものを広げていた。セルージャが隣に座ると、彼はそれを片付ける。
「……邪魔なら、どっか行くけど」
「そんな事はない。変な気を回すな」
何かに集中していたのかと思い、セルージャは遠慮して腰を浮かしかけたが、グラースに背中側のシャツを引っ張られ、無理やり椅子に着席させられた。その拍子に少々尻を打ったが、文句を言うのは止めておく。
何となくこの男の隣に来てはみたが、何を話せば良いのか咄嗟にわからなくなってしまった。とりあえず銀のスプーンを握ると、器に盛られた鶏肉と野菜の煮込みを混ぜてみる。嗅いだ事のないような、香ばしい匂いがした。恐らく香草か何かを一緒に煮こんでいるのだろう。見知らぬ野菜も沢山入っていた。大陸の西側と東側のでは、野菜の種類もかなり異なる。
「お前、もう体の調子は良いのか?」
その見知らぬ野菜を恐る恐る口に運んでいると、グラースがこちらを横目で見てきた。
「あぁ、もう全然」
セルージャは頷いて、答える。
「もともと、熱はすぐ下がったし……寝込んでいる間、暇で仕方なかったよ。勉強しようにも、イリダルに『怪我人が頭使うな』って、教本取り上げられたし」
「へぇ。あいつもちゃんと面倒見ていたんだな。感心」
「それは有難かったけど、あいつ全然優しくなかったぞ。怒ってばっかりだ」
「まぁそう言うなよ。あれで、あいつも悪気はないんだ」
様子を想像したのか、グラースが楽しげに笑う。
体調が落ち着いた後、セルージャはイリダルと同室である相部屋に戻った。しばらく療養するよう言われたが、元々じっとしているのが苦手な性分だ。ただ横になっているだけ、というのも退屈なものだった。
だから、この間にブルウズの文字の勉強でも進めようと思ったのだが、前述のとおりイリダルに「動くな読むな外に出るな!」と教本を取り上げられてしまったので、ほとんど何も進歩していない。未だセルージャは、食堂のメニュー表も読めなかった。周りが食べていたもので、今日の献立を察したくらいだ。
「でも、あんたがこんな時間に一人で飯食っているとか、珍しいな。大体誰かといるのに」
セルージャは、隣で食事をほとんど終わらせている男を眺めた。グラースは頬杖をついて、気だるげにこちらを見る。
「そうか?」
「それにまだ夕方だろ? 晩飯には少し早いし」
「今日は忙しくて、朝から何も食ってなかったんだよ。腹に何か入れておかないと、頭が回らん」
そう言うと、グラースは欠伸をかみ殺した。眠そうで、どこか疲れているようでもある。この男が浮かべる珍しい表情に、セルージャはここに来る際、城内がやけに慌ただしかった事を思い出した。
「そういえば、城の人達が何か忙しそうにしているようだったけど、あんたも何かやるのか?」
「あぁ、そうかお前は知らないのか。この時期はどうしても──」
「大隊長!」
グラースが言いかけた時、やけに威勢の良い若者の声が、食堂内に響いた。見ればイリダルが、夕飯の乗ったお盆を持って、いそいそと笑顔でこちらにやって来ている。
「城門の清掃と設営完了しました。隣いいですか?」
「おう、お疲れさん」
グラースも、尻尾を振る犬のような勢いでこちらにやってきた部下に、片手を上げて答える。
「他の奴らは?」
「来ますよ。俺が先に来ただけで――あ、セルージャ、いたのか」
 グラースの右側に腰かけたイリダルは、そこで初めて反対側に座るセルージャの存在に気付いたらしい。
「大隊長、聞いて下さいよ。こいつ、全然大人しくしていないんですよ。意識飛ばしていた癖に、ちょっと元気になったらすぐウロウロしようとするし。いい歳こいて、じっとできないガキみたいな奴で」
(だから何で、お前はそれをこいつに愚痴るんだよ。っていうか声でけぇよ)
セルージャは内心いらりとするのを堪えながら、噛んでいたものを渋い顔で飲み込んだ。同室で、いろいろと迷惑をかけてしまったのは認める。世話を焼いてくれたのも有難い。だがよりにもよって、こんなところでこの男にそんな事を言わなくてもいいじゃないか――そう思うと、負い目はあるが腹も立つ。
「注意しても文句言うし、可愛げがないったらないですよ」
ため息交じりに言われると、黙っていられなかった。
「……うるさいな。俺に可愛げ期待する方が間違っているだろ。元々そんな性格いい人間じゃないんだよ」
 セルージャが睨みながら言うと、イリダルはスプーンを持ったまま眉を寄せた。
「開き直っても意味ないだろう? お前はその人に噛みつく性格で、絶対人生損する奴だからな。多少は直せよ」
「別に噛みついてない。お前だって、そう偉そうに言える性格かよ、すぐ殴るくせに。少々年上だからって、すぐ説教するな」
「あぁ?」
「……うるさい、お前ら」
イリダルが苛立った様子で席を立ちかけた瞬間、間に挟まれていたグラースが、眉間に皺を寄せながら低い声で呟いた。
「喧嘩するなら余所でやれ。周りに迷惑だ」
「……悪い」
「はい、すみません」
セルージャが小声で謝ると、イリダルも驚くほど素早く従順に謝罪し、黙々と食事を口に運び始めた。
子猿のように短い金髪の、見るからに小生意気な男――イリダルは見た目通りに気の強い男で、セルージャが来るまでは隊の中で最年少だったというのに、全く周囲に物怖じせず、負けん気の強さを隠さない。だがグラースだけは別のようで、常に絶対服従だった。恐れているというよりは、非常に尊敬の念を持って接しているように見える。
(飼い主一直線の、犬みたいな懐き方だけどな)
イリダルのグラースへの態度は、セルージャにそんな印象を抱かせる。だが口にすると間違いなく殴られると思うので、言わないでおいた。
二歳年上のこの男とは、歳が近い事と、たまたまベッドが空いていたという理由で同室にされた。
イリダルは意外に世話焼きで、右も左もわからないこちらの面倒をよくみてくれたが、相変わらず生意気な奴だとは散々言われるので、あまり良い印象は持たれていないらしい。口が悪く、すぐ小突いてくるイリダルの事を、当初はセルージャも好いてはいなかったのだが、次第に慣れた。親しいわけではないが、遠慮なくものを言える関係にはなっている。
療養中も、イリダルなりに気を遣ってはくれたのだろう。時間があればセルージャの話し相手になってくれた。
そのときに、互いの昔の話や、イリダルがここに来た経緯も聞いた。
彼は元々孤児で、気付いた時には孤児院で暮らしていたらしい。
親の顔も知らないし、出身地も知らない。名前も孤児院に来てから名づけられたものらしく、どういった経緯でそこに入れられたのか、それすらわからない有様だと言っていた。
イリダルが幼い頃は、ちょうどブルウズで流行り病が猛威を振るった時期だった。そのため親を亡くした子供で、どこの孤児院も人が溢れていたようだ。片田舎の孤児院の環境は酷いものだったようで、劣悪な環境から、死に至る子が続出した。食事も満足に食べられない状態が続いたのだという。
そんな環境から逃げ出したくて、イリダルは十二歳のときに孤児院を脱走した。
仕事を求めてブルウズの首都にやって来たが、後は「ありがちに、落ちるところまで落ちた」とイリダルは仄暗く笑っていた。
仕事などなく、次第に裏路地で窃盗やスリに手を染めるようになった。腕っぷしに自信があったイリダルは、一時は町のごろつきとして名をはせた事もあるようなのだが、グラースと出会った事でごろつきから足を洗い、彼の下で働くようになったようだ。
イリダルもその詳細は嫌がって語らなかったが、何かのきっかけでグラースに「死ぬかと思うほど殴られた」らしく、その後しばらく彼の元で下積みをして、二年前に正式にグラースの部下となったようだ。
そういった経緯から、特に愛国心が強いというわけでもなく、権力や身分を鼻にかけている者の事を、小馬鹿にするような面がある。
当初、セルージャの事も「他国の王子」という肩書が気に入らなかったらしいが、話していくうちにそういったものではなく、至らない後輩として面倒を見てくれるようになった。叩かなければもっといいのに、とセルージャは思っている。
「──それで、俺はさっきの話の続きを聞きたいんだけど。他の人も図面とか資材とかを持っていたりしたけど、何かやるのか?」
イリダルのせいで、話が変な方向に行ってしまったと思いながら、セルージャはグラースに続きを促す。
「あぁ、そうそう。忙しいのは、建国記念日と陛下の誕生日を重ねて祝うからだよ」
「陛下の?」
セルージャは最近顔を見ていない、この国の隻眼の皇帝の顔を思い浮かべる。
「本当は陛下の誕生日は再来週なんだが、本人が面倒がってな。どうせ同じ月に式典やらなきゃならないなら、一緒にやっちまえば手間が省けるだろ? って言いだした。本人が言うんだから、誰も反対しないよな。実際その方が経費もかからんし」
「……いいのか? そんな祝い事を省略するような事」
「あの人、晩餐会とか大嫌いだから仕方ない」
「なんで?」
「そりゃお前、未だ独り身の陛下のところにちょっとでも出会いの機会を得ようと、年頃の娘を連れて偉い人がわんさかご機嫌伺いに来るわけで。あの人もいい加減、うんざりしているんだよ。まだ陛下はその気じゃないし、祝う気持ちよりも下心が見え見えで嫌だって」
「でも王侯の結婚なんて、そんなものだろ?」
「さすが、お前が言うと重みが違うね」
「いや……俺には縁のない話だったけど」
恐らく、自分は国で結婚などできなかっただろう。
そう思いながら、セルージャはパンを齧る。
艶のある特徴的な赤毛に、真っ青な海のような瞳。見た目麗しい、ただ一つ欠点というなら隻眼である事──そんなこの国の若き皇帝の名は、ミャサルファスという。
普段はミャサと愛称で呼ばれる彼は、グラースと同い年だそうなので、今年で御年三十四になるのだろう。まだそのような年齢だとは、とても思えない若々しい男だ。
そのミャサは「まだ独身を楽しみたい」と言って、婚約話を全て断っているらしい。国の混乱の中慌ただしく即位し、青春も感じる暇がなかった反動だそうだ。
セルージャは、君主の結婚相手は周囲が決めるのが当たり前だと思っていた。
実際、バーガトゥイではそうだったし、弟のニカも、幼い頃から顔も見た事がないような遠縁の娘を娶る事が決まっていた。
王家にとって、血の濃さや家の繋がりは何よりも大事なもので、そこに個人的な感情を挟んではいけないというのは、幼い姫とて知っている暗黙の了解だ。だからそんな「わがまま」が許されるミャサとこの国が、とても不思議だった。
「あと、ブルウズの建国記念日ってのは、城下の祭りの日でもある。どちらにしろ城にも町にも、外からの人の出入りが極端に増える。普段は城の警備なんて騎士団の仕事だが、さすがに手が回らないからね。俺らも借りだされるわけだ。俺は変わらず、陛下の御付きだけど」
「へぇ……」
セルージャは納得がいったように声を出した。この男が先ほど眺めていた図面。それはこの城と城下町の地図のようだった。統率する立場にいるこの男は、式典で皇帝の護衛をしながら、人の配置なども頭に入れておく必要があるのだろう。
「でも俺は、何も聞いてないけど? 何か仕事やらなくていいのか?」
「病み上がりの人間をこき使えるか。お前は、のんびり祭りでも楽しんどけよ。初めてだろうが、ブルウズの祭り」
「でも、人手足らないんだろ?」
「お前がいなきゃ回らないほど、切羽詰まってもいないよ。まだ町も城の構造もわかってないだろう。たまには頭からっぽにして、のんびり遊べ」
「……わかった」
自分が役立たずのようで、セルージャは面白くなかったが、半端な自分がいても結局この男たちに迷惑をかけてしまう。それがわかりきっていたから、素直に頷いた。
そのとき、イリダルに遅れて傭兵団の面々が食堂に入って来た。こちらに近づいて来た、中年に差し掛かった強面の男は、セルージャの姿を見ると意外そうに、片眉を上げて見せた。
「──誰かと思えば、セルージャか。もういいのか?」
グラースの補佐を務めるヴゴールだ。彼はセルージャの隣に腰かける。
「あ、あぁ。いろいろ迷惑かけたみたいで」
セルージャは言葉に詰まりながら答える。ヴゴールは基本無駄口を叩かない男のようで、セルージャもほとんど話した事がなかった。年季の入った武人、という様な茶色の瞳でじろりと見降ろされ、思わず微妙な返しをしてしまう。
「ヴゴール、お前の愛想が悪いから、セルージャが緊張しているじゃないか。新入りには優しくしてやれよ」
その様子を見ていたグラースが、からかうような声を出した。
「これが俺の素だが。……悪いな。この男と違って、へらへらと気の利いた事が言えないものでね」
「へらへらとは口の悪い」
「お前はよく喋り過ぎだ。それなりの立場にいるのだ、多少の威厳くらい出せんのか」
「この間黙っていたら、具合悪いのかって心配してきた癖に。どうしろって言うんだよ」
「……極端過ぎるんだよお前は。機嫌を悪くすると、すぐ喋らなくなるし。子供か」
ヴゴールの棘のある言葉に、グラースは気を悪くした様子もなく、けらけらと笑った。明らかにヴゴールの方が年上なのだが、年下の男に従う事も、こうして軽口を叩かれる事も、本人は気にしていないらしい。
「ヴゴールはな、こう見えて結構育ちがいいんだ。南部の貴族の息子でね」
「貴族?」
グラースの言葉に、セルージャは目を丸くした。確かにヴゴールの武器は、騎士が持っていそうな立派な長剣だった。立ち振る舞いや姿勢も、他の者と比べると少しだけ、武骨さの中に品の良さを感じる。
(じゃあ、なんでこっちにいるんだ?)
貴族なら、傭兵などやらずとも、騎士団に入れるのではないか?
  セルージャのそんな視線に言いたい事を察してくれたのか、ヴゴールは小さく頷いて見せた。
「大隊長のこう見えて、は余計だが……うちはど田舎の貧乏貴族だ。俺は三男坊だし、威張れたものではないよ。元々ここの騎士団にもいたのだが、諸事情あって、今はこちらでやらせてもらっている」
「諸事情……?」
「俺はもともと、騎士団側の間者だったのだよ。昔、こいつがそこそこの立場になったとき、妙な事をたくらんでいないか、動向を探る為に派遣された。親しくしながら、監視するようにと」
こいつ、と言いながら、ヴゴールはグラースに視線をやる。グラースはにんまりと、傷のある方の目を細めて見せた。
「……そんな事、ここで言っていいのか?」
 セルージャは思わず声を潜めてしまったが、ヴゴールは微かに笑うだけだった。
「隊の皆は知っているし、お前だけ知らんのも不公平だろう。それにこの男は妙に鼻の利く男で、早々に感づかれていたからな。あまり間者として入り込んだ意味はなかった」
「──そういう事。もう、昔の事だがね。でもお前も、大人しく上の言う事聞いて俺の寝首を掻いていたら、今頃騎士団で出世していたのかもしれないのに。自分で出世街道を潰しやがって、物好きな奴だよな」
グラースは頬杖をつきながら、半分呆れを含んだような視線でヴゴールを見る。
「寝首を掻かせるような隙も、見せない癖に」
 ヴゴールは温かい茶の入ったカップを取りながら、グラースを横目で睨んだ。
「仮にできたとしても、貧乏貴族の俺の出世など、たかが知れているよ。それに俺のような田舎者に、中央の騎士団は堅苦しい。無茶ばかりするうちの大隊長の面倒を見ていた方が、まだ気楽でいいよ」
「俺がいつ、お前に面倒かけたよ?」
「本気でそう言っているのか、お前は……」
へらりと笑うグラースに、ヴゴールは苦虫を噛み潰したような顔で、眉間に皺を寄せた。だが心の底から迷惑だとは思っていない様な表情だった。グラースもヴゴールを信頼しているようで、気の抜けた絡み方をする。大隊長とその副官という間柄だが、今は互いに、良い相棒なのだろう。
グラースが過去に、国の混乱に乗じて皇帝の命を狙ったというのは、誰もが知るところだ。
本来であれば逆賊として即処刑の身であったが、この男に片目を奪われた皇帝本人がこの男をいたく気に入り、自らそばに置いたのだと聞いている。
しかしブルウズの忠誠心に厚い騎士たちから見れば、皇帝を傷つけたこの男は許し難く、何よりその際に仲間の騎士数名を殺害している仇ともいえる存在だった。
ミャサがどれだけ気に入ろうとも、どれだけグラースがミャサに忠誠を誓おうとも、危険な男だという認識を捨てる事はできなかったのだろう。
グラースが、ブルウズでは地位の低い少数民族出身者という事も気に入らない要因の一つだったに違いない。
だがそれは、身分差別緩和というミャサの政策の体現でもあり、騎士たちは何も言えないもやもやを抱えていたようだ。
事実、その問題は十数年にわたって尾を引き、今回一気に噴出した。そのとばっちりを、セルージャは食らってしまったかたちになる。もう気にはしていないし、元々グラースのせいだとも思っていないのだが、あれで解決したという簡単な話でもないだろう。ブルウズ国内の身分の差というのは、表面上は見えないのだが、潜っていくと根が深い。
(皆、いろいろ事情があるんだな)
セルージャはスプーンを握りしめたまま、考え込んでしまった。
自分のここに来た経緯も特殊だと思っていたが、この男たちがここに集った経緯というのも、またそれぞれ理由があるのだと知った。だからこそ、この男たちの結束は固いのかもしれない。
そうこうする間に、周囲はグラースの部下達が勢ぞろいしていた。まだ話した事がない者も多いのだが、視線が合ってもセルージャがここに居る事に、誰も疑問を示さない。一応、この集団の一員としては認識されているらしい。
(──大所帯で食事するとか、初めてだ)
そんな事を考えているうちに、話した事のない者から会話を振られた。
慌ててしまい、自分でも幻滅するほど上手く答えられなかったが、周囲はさほど気にしていない様だった。自分が同席している事に、誰も嫌悪感を抱かない食事の場というのが、新鮮でならない。
セルージャは国にいたときから、食事は一人で取るのが常だった。両親が健在だったときも、弟のニカが王となってからも、常に別室で食べていた。それを当たり前の事だと思っていたから、別に一人で食べる事に何の抵抗もなかったのだが、こうして他の人たちの話に耳を傾けながらの食事も、悪くないと思う。賑やかでいい。
(何の抵抗もなく、って言うのは、嘘かな)
香草の香り漂う、よく煮込まれた鶏肉を口に運びながら、セルージャは己の心に問いかける。
──本当はずっと、そうしたかったのではないか?
──周囲を羨ましく思っていたのではないか?
ニカの手前、そうした気持ちを表に出した事はなかった。
自分が周囲に受け入れられない苦しさを表に出せば、より身内を苦しめる。だから自分は平気だ、と常に言い聞かせて、いつもの事だ、仕方ないのだと自分を誤魔化し続けて、本当の気持ちを見失っていたのではないだろうか。
死んだニカの事を思い出すと、やはり心が痛む。途端に口の中の鶏肉を、苦く感じた。
一時的、何を食べても枯葉を含んでいるような嫌悪感しかなかったのは、ニカに対する『生き残ってしまった申し訳なさ』からだろう。自分が生き残ったのはニカの仇を取る為だけで、本来であれば、自分がニカを庇って死ぬべきだった。ほんの些細な差で、自分が生き残ってしまったのだ。だから、残された人生の時間を楽しむ資格など、自分にはないのだと思っていた。だが──。

──飯が旨いのも眠くなるのも、生きているから当たり前だ。

そんなセルージャにそう言ってくれたのは、今隣に座る男だ。セルージャは、今部下達の話に楽しそうに耳を傾ける男を、横目でちらりと見つめる。
そう感じるのは当たり前だから、悪い事ではないのだ、と言われた。真摯にそう告げられて、まるでこうして情けなく生きている事を、許されたような気持ちになった。
それからは異国の料理の味も、美しい景色も、周囲の人々に受け入れられて内心「嬉しい」と思う気持ちも、多少の罪悪感を残しながら、少しずつ受け入れる事ができるようになった。
もう食べ物も、全部枯葉の味だとは思わない。ときどきびっくりするほど口に合わないものもあるが、今は味わって食べられる――セルージャがそんな事を思いながら、口の中の物を飲み込んだ時だ。
混みはじめていた食堂内に、突然ざわりとした、戸惑いのような空気が広がった。
その瞬間、席に立っていた者たちが全て、無言でさっと立ち上がる。セルージャも何が起こったのかわからぬまま、つられて立ち上がった。
そしてセルージャは、食堂内の空気が一変した理由を察した。
「お忙しいところすまないね。私の事は気にしないで」
咄嗟に膝を折る給仕の女性たちに声をかけながら、左目を眼帯で隠した優男が、一本に束ねた赤毛を揺らしながら食堂内に入って来た。
遠目からでもわかる、白地に銀の糸で刺繍が施された、壮麗な膝丈のコート。装飾の施された立派な騎士剣を手にこちらへやってくるこの男は、この国の統治者だ。
──ブルウズ帝国七代皇帝、ミャサ。
そばには長身の騎士団長、モルグが立つ。
「どうか、食事を続けてくれ。私はただ私用で立ち寄っただけだから」
 緊張する周囲へ向けてにこやかに言うと、ミャサは周囲を見渡し、何かに気付いたように表情を緩ませ、こちらへやって来た。
「探したよ、グラース」
ミャサの目的は、セルージャの隣に立つ男だったらしい。グラースの向かいから、ミャサはにっこりと笑いかけた。
「……セルージャ、椅子」
「あ、あぁ」
グラースの指示に、セルージャは慌てて空いていた近くの椅子を運んで差し出す。
「ありがとう」と気さくな皇帝陛下は微笑んだ。近くの兵が慌てて場所を譲ったので、ミャサはグラースの真向かいに腰かけた。
「あの、モルグ様もどうぞ」
セルージャがもう一脚椅子を差し出そうとすると、モルグはやんわりと首を横に振った。
「私はこのままで構わない。それより、私は君に用があって来たのだ」
「え?」
 周囲の誰よりも長身のモルグは、眉間に皺を寄せた表情のまま、まっすぐにセルージャを見下ろしていた。君、と言われて思わず周囲を見るが、その言葉は間違いなくセルージャに向けられているらしい。
「何を……」
用と言われても、全く思い浮かばなかった。困惑を浮かべていると、モルグが突然頭を下げる。
「君に、直接謝らなければならないと思っていた。私が至らないばかりに、部下が君に酷く迷惑をかけた。本当に申し訳ない」
突然の謝罪に、セルージャは固まった。
「え……いや、もう終わった事ですから。そんな、あなたがこんなところで……頭を上げる必要は」
周囲の視線が、一斉にこちらを向いている。皇帝の側近でもあり、大陸最強と謳われるブルウズの騎士団の長が、得体のしれない傭兵団の新兵にこんな人前で頭を下げているのだ。
「モルグの希望なのだよ、セルージャ」
椅子に腰かけたまま、ミャサがこちらを見上げる。
「君にきちんと謝罪したいと。呼び出すような真似はしたくないから、自分から出向いて、皆の前で非を詫びたいとね。だから、受け入れてあげてほしい」
「……」
セルージャは無言で、目の前に立つ長身の騎士団長を見上げる。
正直、モルグに対しては、今まであまり良い印象を持っていなかった。
自分が正反対の組織に属しているからというのもあるのだろうが、いつも小難しい顔をして眉間に皺を寄せた、表情の乏しい男だ。自分に言いがかりをつけてきた、あの若者たちの上長でもある。グラースとも因縁が深く、仲が悪い。あまり関わりたい男ではなかった。
しかしこの男にとっても、こんな場所で謝罪など恥以外の何物でもないだろう。
謝罪したいなら誰もいないところでやればいいのだ。
威厳を損なうだけだろうに、こうしてこんな場所で、まっすぐに頭を下げてきた意味を、セルージャは考えた。グラースがモルグの事を、悪い男ではないと言っていた意味が、ようやくわかってくる。
この男は、あのときの半端な騎士たちとはまるで違う。身分や立場という事よりも、礼と義を重んじる、絵に描いたような純粋な騎士なのだ。そう思うと、自然と背筋が伸びた。
「自分にも、至らない面が多くありましたから。周囲に迷惑をかけてしまった事を、申し訳なく思っています」
セルージャが真っ直ぐにモルグを見上げながら言うと、彼は軽く首を横に振った。
「君が謝る事は何もない」
「いえ。でも、もう終わった事です。あなたがこれ以上、自分に詫びる必要はありません。お気持ちは十分頂きましたから」
「──ありがとう」
モルグは小さく、セルージャに感謝を述べると、テーブルの向かいに立つ、グラースに視線をやった。何か言いたげな視線だった。グラースもそれを察したのか、微かに頷いた。
「本人がそれでいいと言っている。俺も今更、あんたにあれこれ言うつもりはない。俺たちの話はもう終わっただろう?」
「……そうだったな」
グラースの愛想のない言葉に、モルグも無表情に頷いた。
「私は早急に戻らねばならない。貴様は、後で陛下を送って差し上げてくれ」
「了解した、騎士団長殿」
グラースが真面目に一礼して答えたのを見て、モルグは一人周囲の視線を集めながら濃紺のマントを翻し、食堂を出て行った。
「──良くも悪くも、真面目だからね、モルグは。公に君に謝りたいのだと言って聞かなくて」
 しん、と静まり返ってしまった食堂の空気を切り替える様に、ミャサが微笑みながら周囲を見渡した。
「団らんの時間にお騒がせしたね。皆さんも座って、食事を続けてください。私の事は、そのあたりの壁のシミだとでも思って頂ければ」
「随分と、派手な壁のシミで」
席に座ったグラースが、不機嫌そうに前に座るミャサを睨んだ。
「モルグを連れて来たかっただけなら、一緒に帰れば良かっただろう。なんで普通に居座っているんだ。ここは、あんたが来るような場所じゃないんだが」
「そう言わないでよ。一度来てみたかったのだから。大勢で仲の良い人と食事とか楽しそうだし、昔からこういうのって憧れがあってね」
「あんたがいると周りが委縮するんだよ。察しろ」
「あ、お嬢さん、私にもお茶もらえるかな?」
棘のある台詞を吐くグラースを無視して、ミャサは近くに居た給仕の女性に声をかける。まだ少女と言える年頃の給仕は素早く、だが緊張に震える手で茶を運んできた。
「でも私だって、酔狂で残ったわけじゃないさ。モルグの為だけでもない」
ミャサは温かい茶の入ったカップを手に取る。
「私も君に、個人的な頼みがあった。明日の事なのだけどね」
「まだ俺の仕事を増やす気か、お前」
グラースの皇帝に対する物言いに、思わずセルージャは冷や冷やしてしまうが、周りは慣れているのか関わらない方が良いと思っているのか、素知らぬ顔で黙々と食事を進めていた。
「そう言わないでよ。ユーリ先生が、明日会いに来てくださるんだ。だから城下まで、迎えに行ってあげてほしい。君にも会いたがっていたし」
「先生が?」
グラースが途端に、不機嫌さを引っ込めた。この男がそんな反応をするとはわかっていたようで、ミャサはにんまりとした表情を浮かべる。
「そう。忙しいだろうから一人で来るって言われているのだけど、明日は町も混雑するだろう? 心配でね」
「あぁ、あの人はまたそんないらん気を遣って……わかった、行く。という事だからヴゴール、俺がいない間は」
「陛下の命だろう。気にせず行け」
ヴゴールは慣れたものらしく、即答した。
「で、どうだ? イリダル。お前も久々に、ユーリ先生に挨拶に行くか?」
「えっ」
グラースが、何故かいたずらっぽくイリダルに話を振る。それまで黙って食事を続けていたイリダルが、ぎょっと引きつったような顔をした。
「あ、あの、俺はその……あの方にはいろいろご迷惑をおかけした過去がありますので、遠慮します。よろしくお伝えください」
イリダルは、ミャサの前だからというのもあるのだろうが、妙に硬い口調で、珍しくグラースの誘いを拒否した。
「それに……あぁ、セルージャが暇ですから、代わりに連れて行ったらどうですか? こいつ、動きたくてしょうがないみたいだし」
「は?」
話を逸らすようにこちらの名前を出したイリダルに、今度はセルージャが目を丸くした。
「何かよくわからないけど、行きたくないからって俺を売るなよ」
「ちょ、行きたくないわけじゃねぇよ馬鹿! でも実際、お前暇だろうが!」
「……だから、お前らはうるさいよ」
グラースのため息と共に、二人して頭をぺしりと叩かれた。ミャサはそんなやりとりを見ながら、頬杖をついて楽しげに笑っている。
「でも、いいんじゃない? セルージャにも気晴らしは必要だろうし。連れて行ってあげたらいい。ちょうど祭りもやっているし、案内も兼ねて」
「……だそうだ。まぁお前、寝込んでいた時間が長かったし、用がないなら気分転換も兼ねてついて来いよ」
「それは、いいけど」
セルージャは戸惑いながらも頷いた。用事なんてないし、断る理由もない。
「でもその、ユーリ先生って、どんな方なんだ?」
自分だけが置いてけぼりになっている気がしながら尋ねると、グラースは機嫌よく笑って見せた。
「陛下の恩師で、俺の恩人だ」
「恩師で、恩人……」
──ミャサの師であり、この男が恩人と呼ぶ男。
全く想像ができず、セルージャはただ感心したように頷いているしかできなかった。
(本文に続く)