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頭の中の、破裂音

頭の中の、破裂音(サンブル)


 頭の中の、破裂音

 セミの鳴き声が響き渡る雑木林。
 ところどころ夏草がはびこる砂利道を来た七瀬仁は、目の前に現れたY字路のどちらを行くか、悩んでいた。
 右は、道幅が広い。だが最近人が行き来している痕跡がない。地面の草はさらに伸び、道の左右からも木々の枝が飛び出し、道を塞いでいる。枝をかき分けながら進まなければならないような悪路だ。
 一方左は、ひょろりと細い道。しかし草が刈られた痕跡があり、整備されているように見える。
「左、かなぁ……?」
 分かれ道を前に、七瀬は首を傾げた。近くには「マムシ注意!」と書かれた、黄色と黒の毒々しい立て看板もある。
(マムシが出るなら、草むらの中とか歩きたくないなぁ)
 ――多分、左の綺麗な道だ。
 方向的には一緒だし、と七瀬は楽観的にそう思って、左の道を進み始めた。
 七瀬はこの山道の先にあるという、長尾ダムという場所に向かっていた。目的は一つ。
 懇意にしていた故人との、約束を叶えるためだった。
 七瀬の遠縁に、高村という男がいた。
 年齢はかなり離れていたが、近所に住んでいたその男は温和で優しく、共働きの両親に変わりよく遊んでくれていた。七瀬少年にとっては兄のようでもあり、何でも知っているよき友人のような男だった。
 高村は一人暮らしだった。若い時に一度結婚していたそうだが、相手はある日、年上のお金持ちのおじさんと逃げてしまってそれっきり、だという。
 その話を聞いたとき、「おじさんを裏切るなんて」と七瀬は泣いて激怒し、逆に高村に慰められるくらい、彼には懐いていた。
 高村は釣りが好きで、手先も器用だったので、ルアーなどの仕掛けを手作りすることを趣味としていた。
 七瀬は「じっとしているのが嫌い」という理由で釣り自体にはほとんど興味を持たなかったのだが、きらきらした宝石のようなルアーを見るのは楽しくて、よくねだって作ってもらったものだ。
 しかし七瀬が大学を卒業するころ、高村は突然入院してしまった。職場の検診で、がんが見つかったという。
 七瀬には、切れば治るよと明るく伝えていたが、実はもう手術もできない状態だった。周囲はそれを知っていたが、高村は七瀬にだけは、それを伝えたくなかったらしい。周囲は、固く口留めされていたようだ。
『おじさんが退院したら一番やりたいことって、なに?』
 七瀬は、高村の言葉を完全に信じ切っていた。痩せていたが、今は悪くとも手術で治るとそう思っていて、見舞いの際にそんなことを言った。
『そうだなぁ』
 高村は病室で、考えるようにつぶやきながら、笑顔を浮かべた。
『子供の頃、一時期住んでいた場所があって……そこに行きたいかな』
『どんなところなの?』
 そう尋ねると、高村は思い出すように、軽く息を吐いた。
『……どえらい山の中で、何もないんだけどね。長尾ダムっていう、そういうダムがあって。上流がきれいなところで。釣りができて』
『へぇ。じゃあ、治ったらそこ行こう。俺運転するし。免許も取ったからね』
『じゃあ、連れてってもらおうかなぁ』
 高村は苦笑した。そんな他愛もない会話をしたのが、彼とまともに会話をした、最後になってしまった。
 その数日後、彼は容体が急変し亡くなった。彼の作った釣り道具は、一番彼に懐いていた七瀬が、形見としてもらい受けることとなった。
 みんな彼が長くないと知っていた。自分だけ、何も知らされていなかった。
 大事なことを教えてもらえない子ども扱いされたのだと思うと、悲しいやら悔しいやら腹立たしいやらで、気持ちのやり場もないまま七瀬は春を迎えた。ちょうど桜の咲く時期だったが、今は綺麗なものは見たくない、と思ったくらいに落ち込んだ。
 しかし七瀬自身も就職し、一人暮らしを始めた春だった。
 無理をしてでも明るく振舞わなくてはいけないことも多く、落ち込んでばかりもいられない。怒涛のような新生活にようやく慣れて、夏季休暇を迎えたとき、七瀬はようやく、もらい受けた釣り道具を、手に取って一つ一つ、じっくりと眺める余裕を得た。
 きらきらと光を反射する、青い手作りの、魚型のルアー。これは、ブラックバスを釣るときに使用するものだと言っていた。
(確か長尾ダム、って)
 そこでようやく場所を調べる気になった。両親にも尋ねて、それが県北にある、隣県との県境に存在するダムだと突き止めた。高村の言っていたとおり、場所はかなりの山間部のようだ。
(おじさん、行こうか)
 約束だったからね、と七瀬はそのルアーを、優しく手で包むように持つ。
 自分は結局、釣りを教わらないままだったので、使うことはできないだろうけど──彼の思い出の品と一緒に、彼の行きたかった場所に行くことで、約束を守りたかった。 
 もう、嘘をつかれたことは怒っていない。
 最後の嘘に対する怒りより、小さなころから可愛がってもらった彼への親しみと愛情の方が、七瀬の中ではずっと勝る。

 ――そんなわけで七瀬は行動を起こし、今、県北の山の中にいるのだ。
 ダムの近くまでは車で行けるので、そこまで乗りつければ良かったのだが、ナビの言う通り走ったはずなのに、道に迷った。
(なんで、こんなところにいるんだ……?)
 スマートフォンで現在位置を確認して、七瀬は首を傾げた。七瀬はどうにも方向音痴である。うろうろと車で走って、ようやく出会った地元の若者にダムまでの道を尋ねると、怪訝な顔をされながらも「あの山の真裏ですけど、ここからも歩いて行けたと思いますよ」という林道を教えてもらった。
 そこは、地元の人しか使わない様な道らしい。
 近くの道の駅に車を停めて、七瀬は徒歩で林道を進み始めた。当初舗装されていた道も、奥に行くにしたがって砂利道となる。当然、誰にもすれ違わない。途中、黒いワンボックスの車が一台停まっているのが見えた。なんだか、逆に不安になった。
(道なりに沿って行けばいいよって言われたけど)
 分かれ道があるなんて聞いてないんだよな──と思いつつ、七瀬は選んだ細い道を行く。周囲は深い木々に囲まれて、日陰になっている。夏の日差しも届かない。
 しかし、歩き始めてからしばらく、なんだかこの道もおかしいなという気持ちになってきた。
 ダムは山の向こう側。まだ登らなければならないはずなのに、道は下り、細くなってきている。
 周囲にはかなり古いであろう、人為的に盛られた石垣や段差がある。多分畑の痕だ。昔はこのあたりに人が住んでいたのかもしれないが、今や完全に山に飲み込まれつつある。
(……これ、間違えたかな?)
 引き返そうかと思い始めたとき、やぶの中でがさがさと動く人影が見えた。──誰かいた。七瀬は、ほっとする。
「あの、すみません」
 何気なく、道を聞きたくて声をかけると、人影は作業を止めて、やぶの中からぬっと姿を現した。
 現れたのは、若い男だった。歳の頃は三十前。日に焼けた長身の、たくましそうな男だ。黒い長そでのTシャツに軍手をはめて、下は迷彩柄のズボン。こめかみには汗が滲み、手には、草木の汁で濡れた鎌を持っている。
(ひぇっ……)
 なんか物騒な人が出てきた、と七瀬は一瞬たじろいだ。
(さっきの車って、この人のか?)
 道中に停まっていた黒い車。こんなところで鎌持って何しているんだ、と、こちらに歩み寄ってくる男を見上げた。男はかなり背が高い。そしてこちらを不審げな目で見たままで、にこりともしない。
 だがふと──七瀬は妙な違和感も覚えていたのだ。

 ──この人、誰だっけ?

 初対面のはずなのに、そう心の中でつぶやいていた。そんなことを思った自分に、驚いてもいた。
(いやいや、誰って、知らない人だし)
 友人はそれなりに多くいるという自負がある。だが中学高校大学と、いろいろ思い出しても、こんなたくましそうな友人がいた覚えがない。
(ただの顔見知り? もしかして有名人とか)
 でもどこか、懐かしさのようなものを感じるのは、なぜなのだろう?
 一人考えている間に、男は目の前に立った。手には、鎌を持ったままだ。
「あ、あの……」
 見上げつつ話しかけようとした瞬間、男は一瞬、何かに気付いたように眉を寄せ、すばやく手に持っていた鎌を頭上に掲げ、振り下ろしてきた。
「ちょっ……!」
 見覚えがあるとかそういうのじゃない。
 これ、完全にヤバい人じゃないか──と身をすくませた瞬間、鎌は七瀬の背後の、何かを突き刺す。
 恐る恐る目を開けると、鎌は七瀬が立っていたすぐ後ろの、土に埋もれた古い石垣に向けて振り下ろされていた。鎌の刃先には、茶色の蠢く生き物がいる。太く短い、まだら模様の蛇が、鎌の刃先で頭を潰すように貫かれていた。蛇はまだ、ぐねぐねとうねって鎌に絡みついている。
「……え?」
「……マムシです」
 男は低い声でつぶやいた。
「え」
 七瀬はまだ、状況がうまく理解できない。
「だからマムシ。そこ、立っていると危ないですよ」
 男は物騒な見た目に寄らず、穏やかな口調で語りながら、こちらを困ったように見つめる。
「その石垣、マムシの巣なんです。暑い間は、石の隙間に潜んでいるんですよ。近くにいたら、飛び掛かってきますから危ない」
「……」
 七瀬は、まだぐねぐねと動いているマムシを見つめた。つまりこのマムシは、石垣に近づいた七瀬に、今まさに飛び掛からんとしていたわけで──。
 男は腰の後ろに手を伸ばす。迷彩柄の作業ズボンのベルトには、鉈も装備されていた。鎌で頭を突き刺したままのマムシを地面に押し付け、足で踏んで固定すると、戸惑いなくその頭を切り落す。
 そして長靴の先で地面に穴を掘ると、さくさくと蛇を埋め始めた。妙に、手慣れた解体ショーだ。
「……」
 思わず、へたりと腰が抜けた。
「……大丈夫ですか? まさか、噛まれたとか」
 座り込んでしまった七瀬に、男は表情をこわばらせながら振り向く。
「いや、噛まれてないですけど……」
 二重にびっくりしただけです──と七瀬は消え入りそうな声でつぶやいた。周囲ではジィジィとにぎやかなセミの鳴き声がする。
 高村を偲ぶという神妙な気持ちが、一気に吹き飛ぶような気分だった。

「……本当にすみません。驚かせてしまって」
 その場からさらに道を下ったところに、一軒の古い平屋の住宅があった。
 その部屋の、日に焼けた畳の上に正座したその「迷彩鎌男」は、ぴんと伸ばした背筋から、丁寧に頭を下げる。
「いや、その……こっちこそ。私有地に勝手に入ってたのは、俺ですし」
 己のヘタレ具合が情けない。完全に腰が抜けていた七瀬は、この男に支えてもらいながらこの家に入り、冷たい麦茶をもらってようやく落ち着いたのだった。
 やはりというか、自分は完全に道を間違えていたらしい。
 あの下草の刈られた道、この辺りは、この男の親類が所持している土地だというのだ。つまり七瀬が下ってきた細い道は、この家に繋がる「私道」のようなものだった。
 ただ今は、この場所に誰も住んでいないようだ。襖続きの隣の和室は仏間となっており、仏壇があった。真新しい祭壇に乗った果物や、花。キャビネサイズの遺影写真。この家の主は、世を去ってまだ間もないらしい。
「……祖父が死んでからは、周りが荒れる一方なので」
 七瀬が仏間を見ていることに気付いたのか、その鎌男は静かに補足を入れた。
「ときどきこうして俺が、周りの草取りなどしているのです。草の勢いに追いつきませんけど」
(早合点してしまった……)
 別にこの男は、刃物を持った「ヤバい人」などではなかったのだ。はびこる夏草相手に、真面目に労働していただけである。
「問題はあの、分かれ道ですよね。昔は確かにダムまで行けましたが、去年この先が土砂崩れを起こしたので、それから放置されています。元々、ほとんど使われない道なので、地元でもそのことを知らない人が多いかと」
「そ、そうだったんですね……」
 行き当たりばったりも危ない──と七瀬は少し反省した。
「でも、あなたは釣り人という感じもしませんが、ここまで何をしに?」
「え?」
 男はその精悍な顔の眉を寄せながら、七瀬の挙動を見つめている。
「あのダムを目指す人間は、大体三種類なので」
「……というと?」
「管理の人か、釣り人か、肝試し」
「うーん……俺はどれも当てはまらないかなぁ」
 釣り竿持ってきてないしなぁ、と七瀬は腕を組みつつ考えた。肝試しなんて元々頭にない。そもそも、そんな場所だとは思いもしなかった。
「なんていうか……供養、が一番近いかな?」
「……供養」
 ますます男が眉間にしわを寄せるので、七瀬は焦った。もしかすると、地元の人間らしきこの男は、不純な動機でダムを訪れるよそ者に対して、良い感情がないのかもしれない。
「あの、変な意味じゃないんです。俺の遠縁の人……仲良かったおじさんなんですけど、春先にがんで亡くなって。死ぬ前に来たいって言ってたのが、この先のダムらしくて」
 七瀬は背負っていたバックから半透明のプラスチックケースを取り出す。中には色とりどりの、手作りルアーが入っている。
「子供のとき、よくそのあたりで釣りとかして、遊んでいたらしいです。……これ、その人が作った道具。俺自身は釣りとかやったことないので、ただこれ持って、近くに行ければと思って」
 なんだか言い訳のように喋ってしまったので、伝わったのかどうかはわからない。苦笑いをしながら言えば、男はなんとなく、信じてくれたようだった。警戒というか、叱責する様な視線を、少しだけ緩める。
「……一緒に来た、みたいなつもりなんですか?」
「そのつもりです。悪さはしませんから。俺は釣りもできませんし、近くに行ったら、すぐ帰ります」
「……だったら」
 男は一瞬、目を伏せた。
「ご案内しましょうか? 長尾ダムまで。確かにここから、歩いて行けないこともないですし」
「いいん、ですか?」
 七瀬は、目を丸くした。男は真顔で頷く。
「この家の先の、山道を抜けるかたちにはなりますけどね。こちらも、鎌など持って驚かせた詫びです」
「いや、詫びって言うほどのことでも……」
 マムシ事件も驚いたが、一応助けてもらったわけだ。別に謝ってほしいわけではない。
 この男、ぱっと見怖いのだが、喋り方は固く、丁寧だ。ずいぶんと生真面目な性格をしているように見える。
「自己紹介が遅れました。自分は、一馬と申します。一馬新」
「……七瀬です」
 七瀬はぺこりと頭を下げる。一馬と名乗った迷彩鎌男は、正座したままお手本のような角度で礼をした。
「あの……失礼ですがご職業は?」
 七瀬は思わず尋ねた。
「職業?」
「いや、なんというか……すごいぴしっとされているから」
 おっかなびっくり尋ねた七瀬に、一馬は嫌な顔することなく、小首をかしげる。
「以前は、自衛官をしていました。陸上自衛隊。もう辞めていますが」
(あ、なんか納得した……)
 確かにすごくそれっぽい。迷彩柄のズボンは、さすがにただの、作業用の私服なのだろうが。
「では、行くなら行きましょうか。日が暮れる前に」
 一馬はそう言いながら、立ち上がる。
「あの……」
 七瀬もそれに同意しながら、一馬に迷いのある声を向けた。
「すっごい変なこと聞くんですけど……俺、一馬さんと初対面ですよね?」
「……多分」
 一馬は少々困惑したような顔で告げた。そりゃ、困惑もするだろうな──という納得もあったので、深くは聞かずに頷くだけでとどめた。自分は何を聞いているのだろう?
(他人の空似ってやつかな?)
 今まで出会った、誰かに似ているのだろうか?
 でもその『誰』に似ているのかが、七瀬にはどうしても思い出せないのだった。

 長尾ダムまでは、ここから山道を歩いて三十分程度だという。
「一馬さんくらい鍛えてて、三十分ってことですよね」
「いや、別に……」
 細い山道を、一馬は黙々と進んでいく。舗装された道のように整えられたわけでもなく、半ば獣道状態の道を、登ったり下ったりするわけだ。歩きなれない七瀬は、必死になってついて行く。しばらく歩いてようやく自分のペースが速いと気付いたのか、一馬はゆっくり歩くようになってくれた。
「一馬さんは、今は何をされている人なんですか?」
 先を歩く一馬は寡黙だった。七瀬は静かな時間に耐えられず、この男に興味もあって、やたらと喋った。
「今は……一応学生です」
「学生?」
 意外だったので、思わずそんな声が出た。
「秋に受けたい試験があるので、勉強のために」
「へぇ、なんの?」
「消防士」
「あぁ、いいと思います。防火服とか似合いそうですね。迷彩も似合ってますけど。何年自衛隊にいたんですか?」
「……長くはいなかったですよ。二、三年くらいです。高校出てから」
「へぇ……。俺そういうの、なろうと思ったこともないからなぁ」
「完全に、親父の影響ですから」
 七瀬の言葉に、一馬はそっけなく言葉を返した。
「親父がまだ現役で、海上自衛隊の方にいるんです。人のためになる仕事につけと延々言われて、自衛官を勧められて。人のためっていう部分に異論はないのですが、親父のあとを追うだけでは能がないな、と思いました。今のままで、父を超えられるとも思えないし」
(――なるほど)
 それで消防士か、と七瀬は納得した。人のためになる仕事はしたいが、父の後ろを追うだけにはなりたくないのだろう。
「親父はまだ気に入らないみたいですが、俺は俺なので、知りません」
「でも、親と子供ってやっぱり別だし……一馬さんなら消防士とか余裕でなれますよ。ああいうところの訓練って凄いんだろうし、鍛え方違うだろうし」
「どうですかね。それはそれなので……七瀬さんは、今は何を?」
「俺ですか? 今はイベントの、企画運営の会社に勤めてますよ」
「学生かと思ってました……」
「あぁ、よく言われます」
 七瀬は明るく笑う。
「今は、子供向けのイベントが多いですね。現場が足りないときは俺、ときどき着ぐるみの中に入って踊ったりしてますよ。結構楽しいです」
「……向いてると思います」
「あ、ほんとですか? って言っても、今年入ったばかりなんですけどね」
 頑張ります、と笑うと、一馬も少しだけ笑ってくれた。多分、こいつうるさいなとは思われているのだろうが。
「でも俺、この先のダムの事って、実はあまり知らないんですけど……肝試しとかでそんなに有名なんですか? なんか怖いことあったとか?」
 七瀬は周囲を見渡す。どこまで行っても深い森。置き去りにされたら確実に遭難する。樹々の隙間から見える空は快晴だが、背の高い木々に囲まれて、周囲は暗く肌寒いほどに涼しい。ときおり野鳥の甲高い声が聞こえてきて、不気味だ。
「別に事故とかあったわけではないですけど……結構前に、何故かネット上で心霊スポットみたいに取り上げられて有名になって。夜に人が押し寄せたりして、ちょっと問題になったことがあって」
「あぁ……」
 やっぱりなー、と七瀬は思った。この男も最初、こちらのことをそういう「迷惑な暇人」だと思って、警戒していたのだろう。
「なんの幽霊が出るんですか? ダムで死んだ人とか?」
「噂では、銃を持った旧日本兵の霊とか」
「えぇ……」
 なんだそりゃ、と七瀬は眉を寄せた。
「脈絡が無さすぎですよね。なんでダムに日本兵が出るんだか」
 一馬も、あまり真面目に信じてはいないらしい。
「この辺りは昔から田舎ですから、空襲なんかも無縁で。誰が言い出したか知りませんけど」
「じゃあなんでそんな噂に……」
「ダムの成り立ち、もあるんじゃないですか。多分」
 前を歩く一馬は、淡々と答える。
「もともとあのダム、昔あった村の一部が沈んでいて。水の下に古い墓だの、そのまま残っていますから」
「……それは噂じゃなくて、真面目に?」
「真面目に。俺も、子供の頃に見ました。水不足で、ダムの貯水量が減ったときに。むき出しになった墓石群」
「……」
 想像して、ぞっとした。
「なんでそのままにするんですかね、そういうの……」
「ダムができた時期は、この辺りはまだ土葬でしたから。棺桶も朽ちて、土と混じった古い骨なんか全部拾いきれませんし。そういう墓の話とか、誰かの見間違いが混ざって、胡散臭い方向に話が膨らんだだけだと俺は思ってます」
「一馬さん、冷静に怖いこと語りますよね……」
 こんな暗い、山の中で淡々とする話ではないような気がするのだが──一馬は不思議そうに、肩越しに振り向く。
「怖いですかね」
「怖いです」
「そう言われても、歴史というか、事実ですから」
 この男と自分の「恐怖」を感じる域というのは、ちょっと異なるらしい。
「でも見た目は、普通の静かなダムですよ。釣り人も多いし……ちょうど見えてきました。あれが、長尾ダムです」
 前を歩く一馬が足を止め、下を指さした。七瀬もその背に追いつく。
 延々続くかに思われた雑木林が途切れた。今は随分標高の高いところにいるらしく、真下に水をたたえたダムが見える。
「古いって聞いてたんですけど、結構しっかりしてますね」
 七瀬は近くの樹にしがみ付きながら、長尾ダムを見下ろす。
 上流から滝のように、勢いよく流れている細い川をせき止めて造られたダムだ。水面は、濃い青緑色をしている。そこまで巨大というわけではないが、周囲はコンクリートで固められ、今もまめな補修がされているように見えた。
「ここの斜面を下れば、ダムのそばまで行けますよ。行きますか?」
「あ、はい。せっかくだし」
 七瀬がそう答えれば、一馬は頷いて斜面沿いの小道を歩き始めた。
「道が細いので、滑らないように気を付けて」
「はい」
 七瀬は頷く。山のすそ野に沿うようにして、一人がやっと通れるくらいの細い道が、延々と下まで続いている。滑落したら、どこまで転がり落ちるのだろう──という不安が生まれる。途中で樹に引っかかるとは思うのだが、下手したらダムへ落下だ。笑い事ではすまない。
(確かにこんな抜け道、地元の人じゃないとわかんないよな)
 慎重に歩こう──と気を引き締めたときだ。
 急にくらりと、めまいがした。
(……あれ)
 七瀬は額を押さえつつ、近くにあった樹に手をついて体を支える。
(なんか頭も痛い……)
 眉を寄せつつしばらく目を閉じてみたが、回転性のめまいは治まってくれない。森の景色が、斜めにぐるぐると回る。先を行く一馬の背が、少しずつ遠くなっていくのが見えた。
 風に揺れる木々のざわめきが、妙に大きく聞こえる。頭の中で響いて気持ち悪い。吐き気もする。
(なんだよ、これ)
 こみ上げてきた胃液を吐きだした時、先を行く一馬が、七瀬がついてこないことに気付いたのか、こちらを振り向いた。
 目が合った瞬間──不思議と眩暈が止まった。
 ざわめきも止む。無音が続いた瞬間、頭の中で「ぱん」という銃声のような、乾いた破裂音が響いた。
 七瀬の体は、音をきっかけに平衡感覚を失い、ぐらりとよろめく。
(やば……)
 今の音は、頭の血管が切れたとかそういうのだろうか。くも膜下出血とか、頭の中で音が鳴るんだっけ──という考えが、どこか冷静に頭を巡る。割れるような頭痛と吐き気で、もう立っていられない。
「……七瀬さん!」
 気付いた一馬が駆け寄ってくるのが見えたが、七瀬はそれ以上意識を保っていられなかった。
 よろめく七瀬の目に、はるか下に広がる巨大なダムが見えた。
 青緑の、深く不気味な静けさに包まれたダム。懐かしいような、恐ろしいような──そこで、七瀬の意識はぷっつりと途切れた。
     
(本文に続く)