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狼と旅路を行く(冒頭サンプル)

狼と旅路を行く


肌に痛みを感じるほど日差しの強い、夏の昼下がり。
近場のスーパーの買い物袋を手に帰ってきた殿川良介は、肌に滲む汗を手のひらでぬぐいながら、玄関の引き戸に手をかける。
室内はきっと、むっとするような暑さなのだろう。
そう思った瞬間、家の中からびりびりと響くような、大きな虫の鳴き声が聞こえてきた。
セミの鳴き声だ。
殿川は、その爆音とも言える音量に眉を寄せる。
買い物に行く前、この家には人間が一人残っていたので、窓は開けたまま出てきた。どうやらそのせいで、中に入ってきてしまったらしい。鳴き声のする方に行ってみると、居間の網戸の内側に、茶色く光るアブラゼミがとまっていた。家の中で、元気に全身を響かせて鳴いている。
(……セミってこんなにうるさいんだなぁ)
「こんなに小さいのに」と、殿川は少々感心した思いでセミを見つめていた。
思えば幼い頃から都会の団地暮らしで、虫取りなどした記憶がない。両親もアウトドアには興味のない人間で、家族で自然の中に行くという経験もないまま成長してしまった。セミなど、公園で鳴き声だけ耳にするか、夏の終わりに死んでいるのを見るくらいの存在だった。
生きているもの、今鳴いているものを、こんな近くで見るのは、この歳になって初めてだ。そう思うと、なんだか少し感慨深い気分になってきた。
「……おい」
そのとき、猛烈に機嫌の悪い声が、蝉の声に交じって聞こえて来る。
殿川は慌てて、我に返った。
恐る恐る声の方を向くと、作業部屋の扉が少しだけ開いていて、薄暗い部屋の奥から、爛々と光る目だけがこちらを見ている。
「それ、怖いから止めてくださいよ……」
 どこかの心霊ビデオでありそうな絵だな、と殿川は思った。だがその部屋の奥に潜むのは幽霊でも妖怪でもなく、この家に住む画家である。目つきはお世辞にも、良いとは言えないが。
「そいつうるさい。どうにかしろ」
殿川の呆れた声を無視して、声の主である山田は猛烈に機嫌の悪い、低い声で呟いた。
「嫌なら、自分で追い出せばいいのに」
「刺しそう。気持ち悪いし触りたくない」
「……」
 山田の情けないが大真面目な発言に、殿川は何も言う気がなくなった。網戸にとまったセミを指でつまんで、窓の外に放してやる。蝉はあっと言う間に、青空の向こうに飛んで行ってしまった。
「ほら、逃しましたよ。ちなみに、セミは人間刺しませんから」
網戸を閉めながらそう言ったが、山田は隙間から、まだこちらを不満げに、じっと見たままだ。作業中だったらしいが、集中力も切れてしまったらしい。
(ほんとに、機嫌悪いなぁ……)
「さてどうしようか」と、殿川は手に持ったままの、スーパーの袋の中をあさり始めた。

殿川がこの家で「家政夫」として働き始めたのは、まだ寒さ厳しい冬の事だった。
「気難しくて、生活能力のない画家の面倒を見てほしい」という怪しい仕事を、美大時代の先輩である三河から受けたのは、もう半年近く前になる。
当時は職もなく金もなく、その画家には個人的で一方的な因縁を感じていたので、殿川は迷いながらも結局、その話に飛びついたのだ。
この家で、ゴミに埋もれるようにして暮らしていた画家、山田聖は確かに気難しい男だったが、ここ数か月の付き合いで、彼の事は何となくわかるようになってきた。
気性は荒い荒いと言われるが、どちらかと言えば山田は機嫌の良し悪しの差が激しい、子供のような男である。
その「子供」もいろいろあった結果、多少こちらとの付き合い方を覚えてきたようで、以前のように物を投げつけて、激昂するような事はなくなってきていた。
だがここ数日は、目に見えて機嫌が悪い。
しかも作業部屋にこもりきりで、殿川がいる間は部屋から一歩も出て来ない。一応「死なせては大変」と食事を部屋の前に置いているのだが、いつの間にか食べているあたり、作業に集中していて出て来ないというわけでも、こちらに対して腹を立てているわけでもないらしい。絵を描いている最中の山田は、他の事には目もくれない。
(でもなんかそろそろ、日に当てないと……)
 ──カビでも生えるんじゃないだろうか、あの人。
そう考えて、殿川は手に持ったままのスーパーのビニール袋から、ひんやりとしたアイスの袋を一つ取り出した。
たった今買ってきたものである。
「その部屋暑いでしょう? アイス買ってきましたから、食べません?」
 殿川はアイスの袋をちらつかせる。山田の目が少しだけ興味を持ったように、苛立ちを和らげた。
「……こっちまで持ってきてくれたら、食う」
「駄目です。出て来ないなら俺が食べます」
「……」
「早く来ないと、溶けますよ」
「…………」
蒸し暑い部屋の中で、重苦しい睨み合いが始まった。

山田が普段絵を描いている部屋は、四畳半程度の小さな部屋だ。西向きで直射日光がよく差し込むせいか、室温が上がりやすい。
一応エアコンもあるのだが、山田はほとんど使わない。
油絵の画材は臭いのきついものが多く、臭いに敏感な山田は、夏でも冬でも窓を全開にして絵を描いている。
以前「エアコン、あるなら使えばいいのに」と殿川は言ったのだが、山田は「結局窓開けるし、電気代もったいないし」とらしくない事を言っていた。
この家の光熱費も税金も、全て自分が払っているわけではないのに、妙なところに遠慮があるらしい。そんな狭い部屋にわざわざエアコンが設置されているあたり、家主である御津吉が「山田が絵を描きやすいように」と気遣ったものとしか思えないのだが――。
そんな事を考えていると山田は観念したらしく、静かに部屋を出てきて、大人しくアイスの袋を受け取った。首筋に、光る汗が見える。
 山田は庭に面した大きな窓を開け放つと、そのまま床に座り込む。レースのカーテンを揺らす柔らかい風を感じながら、ガリガリとソーダ味の氷の塊を齧り始めた。
(食べてるときは、大人しいなぁ)
「子供か」と思いながら殿川も自分のアイスを手に取り、山田の反応を見ながら隣に座った。「あっちに行け」とは言われないので、今話しかけても邪険にはされないだろう、と判断する。
「……例の絵、進んでるんですか?」
 何気なくアイスの袋を開けながら問うと、山田はどこか疲れを感じさせる瞳で、こちらを見た。
「全然」
その言葉に、殿川は「あぁ、やっぱり」という納得をした。大体そんなところだろうと思っていたのだが、言えるわけもない。
「珍しい。あなたがスランプだなんて」
正直に告げると、山田は気が重そうに息を吐いた。
「……お前は俺を何だと思っているんだ」
「天才様で、俺の神ですけど?」
 真顔で言ってのけた殿川の顔を、山田は少々不気味なものを見る視線で見る。若干引かれている、というのはわかった。
「俺だってスランプくらいある。あれから何枚か描いたんだが、これでいいのかどうかがわからん。テーマの意味もよくわからん」
「ある意味、漠然としたテーマではありますけどね。でも、山田さんの感覚で描けばいいんですよ」
「その感覚ってのが、わかれば苦労しない」
「うーん……」
答えに困って、殿川は唸り声を上げた。山田も機嫌の悪い表情のままで、ガリガリとアイスを齧り続ける。
「こんなに描けないのは初めてだ。もう俺駄目なんじゃないかと思って、イーゼル蹴り倒したくなりながら三日こらえた」
「画材は大事にしてくださいよ。まぁでも、息抜き感覚の依頼なんだから、そこまで自分を追いつめなくても」
「……」
山田は返事をしない。「これは、結構重傷だ」と思いつつ、殿川もアイスに歯を立てた。

山田は数日前から、依頼された絵を描いている。
その依頼自体は「小学校に飾る絵を描いてほしい」という、とてもシンプルなものだった。
依頼元は私立小学校の理事長をしている人物で、御津吉の造ったブロンズ像を校庭に設置したりと、彼とは長年親しく友人付き合いをしていた男らしい。
その男から「学校の玄関が殺風景だから、何か絵を飾りたいんだよね」という何気ない相談が、御津吉にあったのだと言う。
その依頼主は山田の存在も、そして御津吉が山田と近い関係にあるという事も知っていたようで「せっかくだから、彼に描いてもらいたいなぁ」という強い希望があったそうだ。
御津吉も、その話を面白いと思ったのだろうか。
「時間が空いたときでいいそうだから」と言いながら、山田に絵を描くよう、電話で依頼をしてきた。

(本文に続く)