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RED!! vol.1

RED!! vol.1(サンブル)


「……今日も砂嵐が来そうだねぇ」
 見張り用の塔の上に立ちながら、リオリアはため息交じりに呟いた。
はるか遠くの荒野で、風が渦を巻いているのが見える。周囲は全方位、乾いた大地と岩山しかない。もはや見飽きたその光景を眺めながら、手に持った葡萄酒の瓶を口に運ぶ。ぬるく苦みのある液体が、乾いて砂だらけになっていた口の中を洗い流していった。 
 ここは大陸の三分の一を領土とする東の大国、ブルウズの国境近く、ルドルという街だ。
 ルドルというのは、昔この辺りに住んでいた先住民族の言葉で「赤土」という意味を持つらしい。その言葉通り、この地の大地は燃えるような赤い色をしており、特に夕暮れ時になると、何もかもが真っ赤に染まる。岩山の黒い影と、赤の対比が非常に美しかった。
 雄大な自然美を眺めていると、少々高尚で感傷的な気分にもなってくるのだが、舞い上がる砂ぼこりが目の中に入って、すぐ現実に引き戻される。この地は雨が少なくいつも乾いていて、風も強い。身にまとう質の良い騎士のマントも、リオリアの艶のある金の髪も、そして口の中も、一日外にいれば容赦なく砂まみれだ。
 そんな環境で人々が生きていけるのは、この地に唯一の水源である巨大な湖があるからだ。どれだけ日が照っても干上がらない、深い湖の周囲には、細々と木と草地が生い茂っている。人々はその恵みにすがりつくように、そばに石造りの家を建て、狭苦しくごみごみと暮らしていた。
 そんなブルウズの僻地であるルドルの街には、国から派遣された騎士たちが駐留していた。
 はるか遠くに見える岩山の向こうは、既に他国の領地だ。国境近くにあるルドルは、ブルウズにとっても古くからの重要な拠点だったのだが、幸いな事に、まだこの地が他国に蹂躙された事はない。騎士たちの仕事と言えば、街の警備と治安維持、たまに現れる盗賊退治といったところだった。
 しかしこんな場所なので、国からの命令とはいえ、この地に配属される事を多くの騎士たちは嫌がっている。他の街からは離れ食材の数は少なく、何もかもが砂にまみれている上に、娯楽も少ないからだ。
 だがリオリアは、ここでの生活を案外楽しんでいた。
 砂ぼこりには辟易するが、僻地故に国の干渉も少ないし、酒というものも、味はどうしようもないものだったが、とりあえず安全に酔える程度のものはある。なので、普通の騎士が二、三年で喜びながら帰っていくところを、望んで六年も居座っている。そして気が付けば、素行もそんなに良いと自分でも思わなかったのに、ルドル駐留騎士団の副団長という肩書までついていた。
「リオリア様、こちらにおられましたか。……って、また昼から飲んでいるんですか」
 そのとき、こちらを探して見張り塔を上がって来た部下の騎士が、リオリアの姿を見るなり眉を寄せた。
 彼は、最近やって来たばかりの若い男だ。生まれながらに持った八の字眉毛のおかげで、いつも困った顔をしているように見える。彼はそんな容姿に悩んでいるらしいが、可愛らしくていいじゃないか、とリオリアは言ってやった事がある。もちろん怒られた。
 中央の騎士団から、こんな土地に出向を命じられた可哀そうなこの男は、どうしようもなく真面目な性格をしていた。別に何かをやらかして、この地に飛ばされたわけではないようだが、この部下は健気にも「これも鍛錬」と出向を前向きに受け入れ、日々淡々と、人の仕事までこなしてくれている。
 リオリアは「初っ端から張り切り過ぎてもバテそうだなぁ」と思い、彼がこの地に早く馴染めるよう、善意からこの地の賭け事のやり方を教えてやったりしたのだが、彼は昼間っから、そんな行為が横行するこの地の騎士団の風紀に愕然としていた。
「仕事はしているぞ? 俺は元々、夕暮れまで見張りの予定だっただろう。今日も全方位異常なし、砂嵐来襲に備え……お前も飲むか?」
 ちゃぷん、と音をたてる葡萄酒の瓶を掲げてやると、部下は軽蔑するように目を細めた。
「……私は早く国許に帰りたいので、真面目に任期を終わらせたいんですよ。何度も言いますが、巻き込まないで下さい」
「お前ね、俺は素行不良で左遷されて帰れないわけじゃないんだよ? 自分で望んでここにいるの。大体、ここも重要拠点だっていうのに、皆帰りたい奴ばっかりじゃないか。それじゃ陛下もお困りよ? 俺がここにずっといるのも、国の為、陛下の為、皆の為ってやつだよ」
「じゃあ、多少はそう言う姿勢を見せてくださいよ……あぁ、私は無駄話をしに来たわけじゃないんです」
「だろうね。お前真面目だし」
 リオリアが真顔で頷くと、部下は懐から白い封書を取り出した。砂がつかないように、大事に持って来たらしい。
「……何だそれ。俺にか?」
 封書を見た瞬間、何となく嫌な予感がして、リオリアは顔をしかめた。
「中央からの書簡ですよ。今届いたばかりで……真面目にやっていない事がばれたんじゃないですか?」
 この、明らかに上司を尊敬していない部下は、冗談のように言いながら笑った。その笑いを聞きながしながら、リオリアは封書の表面を見る。
 ――リオリア・ハッカン殿。
 宛名は日頃、自分が名乗っている名だった。裏返して見ると、封の部分に赤い封蝋が押されている。蝋に刻まれた刻印は、見覚えのあるものだった。二本の槍と蔦がかたどられた紋章は、中央の騎士団長が代々受け継ぐものだ。
「……」
 こめかみから、どっと嫌な汗が噴き出てきた。リオリアは、この手紙の差出人の事を、嫌になるくらいよく知っている。
「……なんか、まっずいところから手紙来たんだが」
「差出人、モルグ様ですよね」
 凄まじく低い声で呟いてしまったこちらとは対照的に、部下はにっこりと笑いながら騎士団長の名を出した。封蝋の刻印で気付いていたらしい。
「私の前の、上司だった方です。真面目で厳格で、いかにもブルウズの騎士という御方です。リオリア様は一度お会いして、騎士道精神を正された方がいいですよ」
「いや、俺も散々顔合わせているから知ってるよ……」
 なかなか失礼な事を言う部下に、リオリアはげんなりとしながら答えた。
「え、そうなんですか?」
 意外だったのか、部下は目を丸くする。
「俺、もともとは中央の騎士団出身だからね。あの人の事はよく知っている」
「へぇ。……で、素行不良でここに飛ばされたんですか」
「いや、違うけど……もういいだろ、お前も持ち場に帰れよ。ありがとな、これ」
「とんでもない。では、私はこれで」
 ぺこりと頭を下げ、背を向けた部下は、思い出したように足を止め、こちらを振り向いた。
「……くれぐれも、飲み過ぎには気を付けてくださいね。酔っぱらって階段から落ちても、知りませんよ」
「へーへー」
 適当にあしらうと、部下は律儀にも再度頭を下げ、足早に階段を降りて行った。その足音が遠くなるのを聞きながら、リオリアは封を乱暴に破る。中には薄い、一枚の白い紙が入っていた。
 文章は簡素だ。
 季節のあいさつも何もなく、整ったお手本のような字で、一文記されている。
 ――任期は終了。至急首都まで帰還せよ。
「……」
 右下には、騎士団長の直筆のサインもあった。有無を言わせぬその命令書に、リオリアは脱力し、見張り塔の壁にもたれて座り込んだ。
(……何これ? いきなり任期終了? 帰れ?)
 部下が言っていた通り、自分のこの、だらけた状態がばれたか。だがあの騎士団長は、その程度の事でわざわざ自分を呼び戻したりしないだろう。そこまで暇な男ではない。
(なーんか、嫌な予感がするなぁ……)
 リオリアは砂だらけの髪を掻き毟り、周囲に広がる赤茶けた大地を見下ろした。広大な、美しくも過酷な大地。砂だらけだが、誰にも干渉される事のなかったこの六年。
 楽園追放を突き付けられたような気分で、残りの葡萄酒を一気に飲み干した。


 気は全く進まなかったが、自分も「ブルウズの騎士」という階級組織に属している身分だ。上からの命令を無視するわけにもいかないし、そんな度胸もなかった。詳しい事情もわからないまま、リオリアはルドルの街に別れを告げた。
駐留騎士団の団員たちや街の人々は、それなりにリオリアとの別れを惜しんでくれた。
だが揃いもそろって「中央に呼び戻されるなんて、昼から飲んでばっかりだった事がばれたんですね」とか「やっと左遷が終わったんですね」とか、適当な事を言って笑いながら送り出してくれた。
 この街の連中とはそれなりに上手くやっていたと思うのだが、どうやらリオリアは、彼らにまで「素行不良で左遷されていた、情けない騎士」だと思われていたらしい。
(まぁ、昼間から飲んでばっかりだった事は、認めるとしてもね)
 他にやる事がなかったのだ。他の連中だって、似たようなものだった。何とも言えない気分で、馬に乗り荒野を行く。
 ──東の大国と呼ばれる軍事国家、祖国ブルウズ帝国。
 多くの民族が入り乱れるが故に、古くから戦の絶えなかったこの地を、武力で平定し出来上がった多民族国家だ。領地拡大主義のもと、周辺諸国相手に戦を続けたブルウズの領土は、今や大陸の三分の一を保有するまでに膨れ上がっている。
 広大な領地を統治する為、街道は僻地の隅々まで整備されていた。その為道に沿ってさえ行けば、旅は市民でも難しいものではないのだが、地域によっては山賊などが出るなど、治安の悪い場所もあった。国は放火、山賊、盗賊を特に厳しく取り締まっており、それらは表沙汰になれば速攻縛り首という重犯罪であったが、地域によってはその地方の領主と癒着して、目立たぬように悪事を隠蔽している場合もあり、取り締まりは困難な事が多い。
 リオリアが旅の終盤に訪れた、エウリユ川一帯も、そんな土地だった。
 寂れた船着き場についたリオリアは、馬を引きながら、近くにいた船頭に話しかけた。
「向こう岸まで行きたいんだけど、次の船はいつかな?」
「……馬連れか? なら、昼過ぎまで待たないとないよ。大きな船は、今行っちまったばかりだ」
 ロープを巻かれた大きな石に腰かけ、煙草をくもらせていた船頭の男は、リオリアを見上げて顎をしゃくった。真っ黒に日に焼けた男で、短く固そうな短髪は白髪交じり。あまり若くはなさそうだが、まくった袖から見える二の腕が逞しい男だった。男の言う通り、川の遥か向こうを見れば、小さくなりつつある定期船が見える。
「急ぎでも、次は俺が船を出すから、それまで待ちな。もしかしたら、国の騎士様なら喜んで乗せてやるって声かけてくる奴がいるかもしれないが――」
「目ん玉飛び出るような金額請求されるかも、でしょ? 嫌だ嫌だ。大事なものいっぱい持っているのに。そんな目にあったら、偉い人に怒られるよ」
 リオリアがおどける様に言えば、中年の船頭は「わかっているならいい」と笑った。
今リオリアが立つエウリユ川は、この大陸最長最大の河川だ。対岸ははるか遠く。目を凝らしても、向こう岸で手を振る人の姿も見えない。それほどの大きな川だった。
 ブルウズの南側から首都に行こうと思えば、この川を渡らなければならない。一部川幅が狭まっている部分に橋もあるのだが、かなり遠回りをしなくてはならず、その橋も頻繁に洪水で流される。エウリユ川を渡るときは、船で渡るのが一般的だった。
 しかし船の本数は、そこまで多くない。川の流れが速く、昔から水難事故の絶えないこの川で、川渡しができる者は一定の技術を持った者と決まっているからだ。リオリアが声をかけた船頭も、代々この辺り一帯で川渡しを家業にしている者だ。
 だがこの川を越えて首都に行きたい、という連中は山ほどいるので、密かに「船を出してやろうか」と声をかけてくる者もいる。そういった連中は、大概が急ぎの客の足元を見て大金を請求するたちの悪い輩で、「今日は危険なところを、わざわざ渡してやったんだ」と言いがかりをつけて、最初の提示額よりもさらに金を上乗せして請求してくる。支払えなければ身ぐるみ剥され金品を奪われたり、暴行を受けたりと酷い目に合うらしい。
 リオリアが六年前にこの川を渡った頃はそうでもなかったのだが、この地の領主が死に、後を息子が継いだころから、そういった行為に対する取り締まりが甘くなったと聞いている。先代は地味ながらも名君として地元民に慕われていたらしいが、どうやらその息子は、どうしようもないぼんくらだったらしい。何でも、その悪党たちとその息子は繋がっていて、悪事を見逃す代わりに、稼いだ金をその領主に一部上納しているらしいのだ。
「騎士様は、どこまで行かれるんだ?」
 船頭はのんびりとした声で、こちらを見上げた。
「首都だよ。ルドルにいたんだけど、急に戻れと手紙が来てね。大騒ぎしてここまで帰ったところ」
「ほう、栄転かい」
「……栄転ならいいんだけどねぇ」
 リオリアは小声で呟きながら、眉を下げて笑った。
 あの部下の言っていた通り、自分のだらけきっていた状況が本国にばれたのだとしたら、あの手紙の差出人に怒られる。自分が悪いのだが、そう思うと憂鬱だ。二十代も半ばを過ぎて、人に怒られるのが怖いというのも情けないと思うのだが、怖いものは怖い。
「中央に戻るなら、皇帝陛下にお会いするか?」
「会うと思うよ。帰って挨拶なしじゃ、さすがにね」
「それなら、よくよく言っておいてくれ」
 船頭は煙を吐き出して、ため息交じりに言った。
「最近、ヤクザな商売をしている奴が多すぎるとね。潰しても潰しても、きりがない。この辺りの領主じゃ当てにならん」
「あぁ、今の若い領主ね。悪いのとつるんで、小金稼いでいるんでしょ? 元々使えない奴だって評判はよく聞く」
「言うねぇ、騎士様は」
 船頭は、清々しそうにこちらを見上げた。この国の騎士らしくない物言いだと思われたのだろう。自分でもそう思った。そもそも自分が騎士に向いているのかと言うのは、未だによくわからない。
「まぁ、陛下には確実にお会いすると思うから、言っておくよ。もう何かしら、ご存じだとは思うけどね」
 川を渡れば、首都は目と鼻の先だ。皇帝陛下の御ひざ元である。対岸の治安の乱れを、彼が知らないはずもない。
「あの方普段は優しいけど、怒ったら容赦ないからねぇ」
「生意気な若造は、優しい者ほど怖いって事を知らないのさ」
 船頭は楽しげに笑った。
「まぁ、頼むよ。あいつらには困っているんだ。俺らまで同類扱いされたら、たまったもんじゃない」
「はいよ」
 呑気に笑って答えた時だ。何やら周囲が慌ただしくなってきた。何事かと思っていると、旅人らしき気は弱そうだが人の良さそうな青年が、きょろきょろと辺りを見回している。そしてこちらの姿を見るや否や、はっとしたような表情を浮かべて駆け寄ってきた。
「……騎士様、お助けください!」
 青年は泣きそうな顔をしていた。慌て過ぎていたのか、青年はリオリアの前でぬかるんだ地面に足を取られ、派手に転んだ。
「ど、どうしたの?」
 今、顔面からいったけど大丈夫かなぁ――とリオリアが心配していると、青年は泥のついた顔をがばりと上げて、涙目で告げた。
「すぐそこで、身なりのいい女性がごろつき共に絡まれているんです。お願いです、誰も手が出せなくて――」
「……またかい」
 喧嘩がめっぽう強そうな船頭は、ため息をついて煙草を石に押しあて消すと、立ち上がる。
「例の奴らだよ。最近、天気が悪くて船が出せなかったからな。連中、稼ぎが減ってやたらと強引になっているのさ。俺も手を貸すよ、騎士様」
 船頭は指の関節をぽきりと鳴らして見せた。大きな肉厚の拳は、鍛え抜かれているように見える。
「助かるよー。俺一人じゃ怖いし」
「天下のブルウズの騎士様が、よく言う」
 がたいのよい船頭は、ちらりとリオリアを値踏みするように見た。
「――あんた、へらへらしているが、相当できるだろ?」
「さぁ?」
 リオリアは曖昧に笑いながら、立ち上がったばかりの、派手にすっ転んだ青年の方を振り向いた。
「君は、俺の馬を頼むね。こいつがいないと俺が困るから、責任重大だよ? 頼んだよ」
 人の良さそうな青年は何度も頷きながら、馬の手綱をがっしりと掴んだ。愛馬の鼻先を軽く撫でてから、リオリアは船頭と共に周囲の人々が案内する場に駆け付ける。
 ちょうど船を待つ人々が多い時間帯だった事もあり、周囲には人だかりができていた。船着き場の粗末な小屋が立ち並ぶ一角で、いかにもがらの悪そうな連中が、一人の女性を囲んでいる。
 女性は深い青のドレスを身にまとい、上から防寒用のケープを纏っていた。頭の上には羽飾りのある小さな帽子が乗っており、透けるケープがその女性の顔を隠している。とても旅人には見えない。貴族の貴婦人が、着飾ったまま出てきてしまった――と言う様な雰囲気だった。
 女を取り囲む男たちは、にやつきながら声をかけていた。
「遠慮しなくたっていいんだぜ? 急いでいるなら、俺たちが船を出してやるって」
「あんたは上玉だ。特別安くしてやるからさぁ」
 下卑た笑いに、倉庫の壁際まで追い詰められた女性は、無言で首を横に振るばかりだった。
 恐らく、彼女自身はあんな連中に声をかけたりはしていないのだろうが、身なりの良さに目をつけたあの男たちが、しつこく絡み続けているのだろう。周囲が見かねて、助けを呼んだのだ。男たちは若く、体も大きい。作業用らしき、大きな鉈や小斧も腰にさしている。様子を窺うように見ている人々は恐ろしくて、なかなか手出しができないでいるようだ。
「――はいはい、そのあたりにしときなよ」
 悪党と言うのは、どうして似たような言葉しか吐けないのか――とうんざりしつつ、リオリアはそちらに歩み寄った。男たちは胡散臭そうな視線を、一斉にこちらに向けた。
「その女性、もう放してあげたら? あんたらの船には乗りたくないって、散々首振っているじゃない」
「いくら騎士様でも、余所者が土地のやり方に口を出すもんじゃないぜ」
「余所者じゃないのも、いるけどな」
 共に駆けつけた船頭が、腕を組みながら言った。
「言ってもきかねぇ連中だ。またぶん殴られてぇのか? それとも、今度こそエウリユ川の魚の餌になりてぇか」
 心底腹立たしそうな声だった。どうやら、この船頭とこの悪党たちは顔見知りであり、何度かやり合っているようだ。男たちもうっとおしそうな表情を浮かべた。
「またてめぇか。正義面しやがって。お前が――」
 若い、粋がった風貌の男がそう告げた瞬間だった。壁際に追いつめられていた女性が、突然持っていた傘で、その男の頭をぶっ叩いたのだ。
「っ……!」
 相当痛かったらしく、男は頭を抱えて声にならない呻きを上げながら、よろめいた。
「この、こっちが優しくしてれば糞女……!」
 男が、女性の胸ぐらをつかみ、殴りつけようとしたその瞬間、リオリアは腰の長剣を素早く引き抜き、背後から男の首筋に押し当てた。ひやりとした冷たい感触に、女の胸ぐらをつかんだまま、男の動きがぴたりと止まる。
「はい、そこまで。俺の剣、すごーく良く斬れるからね。動くと、首から血が噴き出るよ?」
 リオリアがにっこりと言ってやると、男は冷や汗を浮かべた顔で、銀色に光る刃先に視線を落とした。リオリアは意地悪く、わざと刃を男の首に、ぐいと力を込めて食い込ませた。
「刃物って言うのは不思議だよねぇ。どんなにいい剣でも、押し当てた程度じゃ人の肉は斬れないんだ。ただこれで、俺がちょいと剣を動かせば、あんたあっさり死ぬけども」
「……」
 男は目玉をかっぴろげたまま、この騎士、頭おかしいんじゃないかと言う様な色を視線に乗せ、こちらに向けた。
「あんた、若造の分際で偉そうに……俺らにこんな事して、ただですむと……!」
「俺らの後ろに偉い人がついているんだぜって? ここの領主様に言いつけるかい?」
 後ろから殴りかかって来た、別の男の顔面に裏拳を叩きこんで黙らせてから、リオリアは目の前の男の顔を覗き込んだ。
「頼りになるかねぇ、そいつ。辺境勤めだった俺でさえ、この辺りの領主様の悪行の噂を聞いているんだ。首都の皇帝陛下は、きっととっくにご存じよ?」
 首に剣を押し当てられたままの男は、微動だにできず、冷や汗を垂らす。その耳元に、リオリアは囁くように冷たい声を吹き込んだ。
「お前らの言い分とか、領主の噂が嘘か真かなんて、俺が判断する事でもないし、ここでどうこう言う事でもない。俺も首都に戻ったら、ちゃんとこの件報告しておくから、あんたらも、さっさと逃げた方がいいかもよ?」
「お前、中央の騎士か……」
 男は顔を引きつらせた。まずいところに手を出した、と思ったようだ。リオリアは肩をすくめる。
「まぁ所属はどこでもいいけどね。俺の首飛ばしたいなら、そっちに申し立てしろって、領主様に言っておいて。金髪のルドル帰りの奴って言ったら、すぐわかるから」
 ――まぁ、そんな事をしたら、余計なことまで皇帝陛下に筒抜けになるわけだが。
 そんな視線で囁いてやれば、男は押し黙り、リオリアを押しのける様にして、泥をはね上げながら逃げ出した。でかい図体しているわりに逃げ足は速いなと、リオリアは鼻で笑う。
(子供みたいな事言った気もするけど、まぁいいか)
 自分はこのまま帰って、陛下に言いつけるからね――と言ったようなものだ。しかし彼らは顔色を変えて逃げ出した。あんな連中でさえ、この国の皇帝陛下を「怖い」と思う感情というのはあるらしい。
 ブルウズの皇帝――特に初代皇帝は、広大で多くの民族が入り乱れるこの土地を統一し、強国に育て上げた英雄であり、国民から見れば長い戦を終わらせた戦神のような存在である。
 彼が死に、その後は彼の血を受け継ぐ者が代々この国を治めているが、彼の血筋は変わらず尊い存在として、民は見ている。
 あの男たちは、首都にいる現皇帝の姿など見た事もないだろうが、その名だけで震えあがるのだ。この国の民の、正常な反応とも言える。
 だが逆に、そうした皇帝一族への畏怖や尊敬の念がなければ、この広大な多民族国家は統治できないのだ。他の誰が上に立ったところで、全ての民族や併合国が納得できるはずもなく、収拾がつかなくなる。そして崩壊を始めるだろう。それはこの国の恐ろしい点でもあるのだ、とリオリアは思う。
 だからこそ、国と代々の皇帝陛下に仕える騎士たちは、命をかけて時の皇帝を守るのだ。彼らの血筋は特別でなくてはならない。
 ふと背後を振り返れば、後ろで船頭の男が、逃げ遅れた男の仲間を何人も殴り飛ばしているところだった。やたらと腕っぷしの強い男のようで、殴り上げられた男の体は随分と吹っ飛んでいた。
(うわ強ぇ)
 俺、いらなかったかもなぁ――思わず苦笑いした。だがさすがに、あの男も本気であの連中を、エウリユ川の魚の餌にはしないだろう。
 逃げ遅れた連中の事はあの船頭に任せる事にして、女の方を振り返ると、青いドレスの女は、落ち着いた所作で服の汚れを払っているところだった。泣きも震えもせず、男たちに怒りの一発を与えたあたり、随分と肝の据わった女性だ。
「大丈夫ですか? 災難でしたね」
 剣を鞘に納め、紳士的な声と表情をつくりながら手を差し出す。女性がちらりと、黒のベール越しにこちらを見上げてきた。
 ななめ四十五度の角度で、視線が合う。
(……めちゃめちゃ美人じゃねーか)
 思わず、口の中に溢れてくる唾を飲み込む。リオリアはふいに、気持ちが昂るのを感じた。ルドルに、こんな垢抜けた女はいなかった。
 肌は白く、形の良い切れ長の瞳は、澄んだ湧水のような青。それを縁どる、長く黒いまつげ。
 かなりの厚化粧のようにも見えたが、基本の造りは悪くない。だが、目元や口元には、隠し切れない小じわがある。
(化粧で化けていても四十手前くらいかな? でもいいじゃんいいじゃん。俺、年上でも全然いけるよ)
 思わず口元がにやけた。
 若くて綺麗な女は、いい。弾けるような張りのある肌は、撫でまわしていても気持ちがいい。
 だが、少々年季を重ねた女も、嫌いではなかった。酸いも甘いも知り尽くした女。はじけるような張りは失ったが、少し柔らかくなった、こちらを包み込んでくれるような豊満な女の体というのも、言葉では言い尽くせない良さがある。若い女にしか手を出さない連中と言うのは、損な生き方をしている、とリオリアなどは思うのだ。
(……って考えたら俺、あんまり顔重視してないのか)
 暗がりで抱き合ってしまえば、顔なんてわからないわけだし――と思いつつも、その女の顔は好みだった。どこか退廃的で、気だるげな雰囲気も。
 そんな事を思ううちに、ドレスの女はさっと立ち上がった。女は予想外に背が高かった。決して小柄なわけではないリオリアと同じか、それ以上。足 元は茶色い、皮の編み上げブーツで、そこまでヒールが高い靴、というわけでもない。
 でかいな、と呟く前に、その女性の赤い唇が弧を描く。
「――若いのに、度胸の据わった騎士だね」
(ん?)
 小鳥のさえずりのような声を予想していたリオリアは、面食らった。聞こえて来たのは落ち着きしっかりとした、妙に低い声だったからだ。
 美女は楽しげに笑っていた。蠱惑的な笑みだ。女は顔を近づけて来て、周囲の人々には聞こえないよう、リオリアの耳元に小声で囁いた。
「君は、首都に行くのか?」
「え。あぁ、はい一応――」
 美女の外観と、低い声。何かがかみ合わず、リオリアは違和感を持て余しながら答える。
「今から、急ぎ戻る予定ですが……」
 小声で答えれば、美女が耳元で微笑む。
「それは奇遇だ。私もそうなのだが、この辺りは少々乱暴な連中が多そうだ。もしよければ、共に歩いてくれないか? 対岸まででいい」
「……」
 美女は、こちらを誘うような視線で見つめている。やたらとでかい事を除けば、顔立ち、雰囲気共に好みの女だ。いつもであれば、喜んではいはいと返事をした事だろう。だがリオリアは、なかなか首を縦に振る事ができなかった。
(何かが、おかしい……)
 ふと感じた疑惑だ。己の奥底にある危機察知能力というか、動物的な本能と言うか。声を聞いた瞬間の違和感が、徐々に確信に変わりつつある。何となく、嫌悪感のようなものがぞわぞわと、足先から這い上がって来た。
 首元に羽をあしらったケープで隠されていたが、その女の肩幅や骨格は妙にしっかりしていて、喉元にはくっきりとした、喉仏があった。自分の肩に触れる指も、いやに関節がごつごつとしている。爪も大きい。そして、この低い声。そして、ベールの奥に隠れた、妙な骨太感……。
(――男か、これ!)
 思いもしなかった衝撃から、リオリアは目を見開いた。
「……おや。気づいたか?」
 ドレスの「女」は、少々残念そうに眉を寄せ、首を傾げる。
「えっと……あなた……」
 男、と言いかけた瞬間、ドレスの「女」の節ばった人差し指が、それ以上言うなとでも言う様に、リオリアの唇に触れた。
「ここは人が多い。話が大きくなると面倒だ。詳しい話は、後にしないか?」
 悪党が痛めつけられ歓声に沸く船着き場で、リオリアは一人固まっていた。
 久々に感じた熱き熱情は、周囲の盛り上がりとは反対に、どんどん萎えてしまっていた。


 そうこうするうちに船の時間が来たので、リオリアはようやく馬を連れて、船に乗る事ができた。
 あのやたらと腕っぷしの強かった船頭は、ごろつきを追い払ってくれた礼にと、リオリアと美女をただで船に乗せてくれた。しかもわざわざ、個室まで用意してくれたのだ。
 今リオリアの目の前には、向かい合う様に先ほどの美女が腰かけている。何でこんな事になってしまっているかと言うと、船頭の粋な計らいのせいだ。
 ――恋、しちまったんだろう? 騎士様よぉ。
 船に乗るとき、青い顔をしていたリオリアの肩を叩き、船頭はそう楽しげに耳打ちした。
 年上の、美しい女性を見つめたまま動かないリオリア。そして若き騎士に何やら耳打ちをする女性――という姿を、彼は間違った方向に解釈したらしい。「あんたは年上好きか」と、何か面白がるように同室にしてくれた。年上好きというのは間違っていないのだが、これは何だか違う。だがその「美女」は、船頭の勧めを断ることなく、しずしずとリオリアについて来ているのだった。
(どうしてこうなった……)
 船が動きだし、リオリアが内心頭を抱えていると、対面に座っていたドレスの男が、小さく頭を下げた。
「……何よりもまずは、礼を言うべきだったな。無礼をお詫びする。先ほどは助かった」
「いや、礼とかは別にいいんですけどね……」
 美しい女性を助けるのは騎士の務め――と思ったのだが、これが女性なのか、と言われると疑問が残る相手だった。
「騎士として、困った人を助けるのは当然の事ですので」
 はは、と引きつった顔で言えば、目の前の美女は右手を胸に当て、深くリオリアに礼をして見せた。男性の礼の仕方だった。
「私の名は、ローランド。ローランド・ウスティノフ。今はわけあってこんな恰好だが、男だよ」
 ローランドと名乗った男は、ひらりと青いドレスの裾をつまんで見せた。
「あー、ですよねぇ」
 リオリアはどこかほっとした声でそう言った。もし、これで本当に自分は女なのだと言われたら、自分の感覚を信じられなくなるところだった。
「私は、リオリア・ハッカンと言います」
「リオリア・ハッカン……どこかで聞いた名だな」
 青いドレスの美女もといローランドは、顎の下に指を添え、考えるような仕草をしながら身を乗り出した。
「先日まで、ルドル駐留騎士団の副団長をしていたので、それですかね。中央に戻れという指令が届いたので、今慌てて戻る途中なのですが……」
 自分はそんなに有名人ではないはずなのだが、と思ったが、ローランドはまだどこか引っかかるような顔をして、リオリアの顔を覗き込んでいた。
「……まぁ、いいか。それにしても、その若さで騎士団の副団長とは、やるね。君いくつ?」
「今、二十六ですね」
「ふぅん、若い若い。可愛い顔して優秀なのだねぇ」
 ローランドは何故か感心したように頷いていた。
「……優秀かどうかはわからないですけど。で、貴方は何でそんな恰好を?」
「趣味と仕事半々、かな?」
「え?」
 リオリアが眉を寄せると、ローランドは口元を押さえながら、肩を揺らして笑った。
「君は素直な反応をするなぁ。ブルウズの騎士様というのは、もう少し糞が付くくらいまじめで、取っつきにくい連中だと思っていたのだけどね」
「大半はそうですよ。ご想像の通り」
 リオリアは船の窓枠にひじをつきながら、言った。
「……そういうの、好きなんですか? 女の恰好するのとか、ドレスとか、ひらひらしたのとか」
 世の中、そういう趣味の方もいなくはない――と思いながら言えば、ローランドはまた笑った。
「女装趣味、とはまた別かな。でも完成度はそこそこ高いだろう? 君も、間近で私を見るまで、男だと気づかなかったようだし。あの連中もね」
「あぁ……」
 いい女だと思って近づいたのに、実は女装した男だった挙句、自分とあの船頭に殴られ脅され散々な目にあったあの男たちが、少しだけ哀れになって来た。
「何と言うかね、君がわかってくれるのかどうかはわからないのだけど……自分ではない、別人になりたいときって、ない?」
 ローランドは顔の前で指を組み、小首を傾げた。
「別人……」
 リオリアは怪訝な声を出す。
「そう。私は私、ローランドという名の人間だけど、それを全て捨て去ってみたいときがある。私ではない、全く別の誰かになって、街を歩いてみたい。別の人間関係を持ちたい、とか。……まぁ格好いい事を言ったが、結局はただの、気分転換だがね」
「それで女装ですか? 化粧までして」
「女性というのは男の私にとって、一番対極の存在だから。一番己から離れられたような気がするんだよ」
「へぇ……」
 よくわからない。その感情は、もろに自分の顔に出てしまったらしい。
「心底どうでもいい、って顔をしているねぇ、君……」
「いや、心底ってほどでもないですけど」
 ローランドに半眼で見つめられて、リオリアは乾いた笑いを浮かべながらも首を横に振った。
 別人になりたい――というのは全くわからない感情でもないのだが、それで女装に走るという思いきった行動が、リオリアには理解できなかった。
「でもそんな恰好で旅行して、よく今までばれませんでしたね。仕事って何です? そういうお店とか?」
「違うよ。これは、取材」
「……何の?」
「私は物書きでね。小説を書くのを生業にしているんだ。今は、こういうのを書いている」
 ローランドは手荷物の中から、一冊の本を取り出した。表紙は深い赤色だ。題名は、繊細な金の装飾文字で書かれている。
「エカチェリーナ物語……?」
 題名の最後に小さく「3」とあった。どうやら、続き物の小説らしい。
「どんな本なんです? これ」
 リオリアは本を持ち、胡散臭そうに表紙を眺めた。
 よく意外と言われるが、リオリアはそれなりに本を読んだ。だが熱心な読書家というほどでもない。首都にいた頃は読めと言われても本なんて読みたくなかったのだが、ルドルがあまりにも暇過ぎたので、活字に時間つぶしを求めていた時期があるだけだ。
 暇をしていたのは、他の駐留騎士たちも同じだったらしい。騎士の詰所には、過去に誰かが持ち込んだと思われる古い本が、大量に詰まれていた。きっと本好きな者がいたのだろう。
 酒を飲む気分でもなく、誰かと遊ぶ気分でもないときは、それを一人黙々と眺めていた。戦記物から図鑑まで、幅広い本がそろっていたが、それを眺めているリオリアの姿が面白かったのか、地元の子供たちが寄ってくるようになったので、その場で読み聞かせたり、読み書きまで教える羽目になってしまった。子供はそんなに嫌いではないので、自分の中では微笑ましい思い出である。
 しかし、この本は初めて見る本だった。ローランド・ウスティノフという作家名も知らない。装丁も色鮮やかで、女性向けの本のようでもある。リオリアはぱらりと、中を捲った。愛とか恋とか、そんな文字がちらりと見えた。
「……甘ったるい、恋愛ものとか?」
「半分当たり」
 ローランドはリオリアの怪訝な反応を楽しむように、ほくそ笑んだ。
「正確には、美人で気立てのよい貴族の娘が、複数の立場の違う男たちに求婚されて、翻弄されながらも、真実の愛に辿りつくという物語だ」
「……すみません。純愛小説を楽しめるほど純粋でなくて」
 リオリアは眉を寄せながら、小説をローランドの胸元に突っ返した。
「それは残念」
 ローランドも大して気を悪くした様子もなく、本を片付ける。
「まぁ、今この続きを今書いているわけなのだが、主人公がエウリユ川のほとりで、物思いにふける場面があってね」
 窓のそばにひじを置きながら、ローランドは船室の窓の外に広がる、一面の川面に視線をやる。
「でも私は、エウリユ川には来たことがなかったし。主人公の見ている情景も、心理描写も上手くつかめなかった。それで実際来てみたのだけど、ゆっくり己の思考に浸る暇もなかったよ。川辺に立った途端、妙な男に話しかけられてねぇ」
「……言っちゃなんですが、貴方凄く目立ちますよ?」
「……少々着飾り過ぎたかねぇ」
 リオリアの眉を寄せた指摘に、ローランドは頷いた。
「でもこんな恰好で遠出する、女性の大変さもわかったし、今回の事もいい感じに小説に使えそうだし。損はしていないかなぁ。颯爽と助けに入ってくれた若き騎士なんて、女性はたまらないだろうね。今度使っていい?」
「……船頭さんの活躍も忘れないであげてくださいね」
 大半を片付けてくれたのは、あの男だ。くつくつと笑うローランドを前に、リオリアは内心ため息をついた。
助けに入ったとき、妙に落ち着いているなとは思ったのだ。内心、「いいネタになりそう」などと思われていたと思うと、微妙な気分になる。こんな男にいろいろ妄想をめぐらして、ときめいてしまったあのときの自分を殴りたい。
 そのとき、順調に川を進んでいた船の速度がゆっくりとなり、やがて止まった。窓の外を見れば、すぐそばに陸地が見える。どうやら無事、対岸に着いたらしい。
「船旅も終了か。話していれば一瞬だね。いや、なかなか予想外に楽しい時間だったよ」
 ローランドは微笑みながら言うと、立ち上がった。腰に手を当て、日傘を男らしい姿勢で肩に置くと、リオリアを見下ろしながら笑いかける。
「君はこれから、首都勤めになるのかな?」
「……そうですね。まだ細かい指令を貰っていないのでわかりませんが、多分そうなります。とりあえず城に戻って、中央の騎士団長と陛下にご挨拶を」
「残念。では引き留められないね。この後お茶でも――と思ったのだけど」
 こつこつと靴音をたてて出口に向かっていたローランドは、背中越しに振り向いて苦笑した。
「私も首都住みだから、機会があれば寄ってよ。三区に住んでいる。川沿いの、一番雑草に埋もれた風見鶏の屋敷が私の住処だ。お礼らしいお礼もできていないし、茶と菓子くらいは出す。君なら、いつでも歓迎するよ」
「まぁ、機会があれば」
 リオリアは言いながら、剣を持ち立ち上がる。どうせ社交辞令だと思った。こんな事を言いながら別れて、その後も付き合いが続いた覚えがない。
「お気をつけて」
「どうも。君も頑張るのだよ。また会おうね、騎士様」
 リオリアの言葉に、ローランドは微笑みながら頷いて、先に船室を出て行った。
 何となく心配で、その後ろ姿を視線で追っていると、彼は船着き場に停まっていた乗り合い馬車に乗り込み、首都の街へと向かう街道を走り去っていった。ここから先は皇帝陛下の御膝元だ。何かあれば城の騎士団が血相を変えてすっ飛んでくるので、ここで騒ぎを起こすような怖いもの知らずは、ほとんどいない。
(何だか異常に疲れた……)
 リオリアは己の中の淀んだものを、吐息と共に吐き出した。盗賊退治にルドルの大地を走り回った時だって、こんなに疲れなかったというのに。
「なんか、首都に帰ったって感じだなぁ……」
 思わず声に出してつぶやいてしまった。
 ルドルは田舎町だったし寂れていたので、あそこまで突飛な人間はいなかった。さすがブルウズの最大人口を誇る首都だと思う。変人も多い――と思うと、自分がすっかり田舎者になった気分だった。
 作家と言うのは、やはり変わった者が多いのだろうか? そう思うのは、ただの己の偏見かもしれないが、あんな男が、どんな少女の恋愛を書くと言うのだろう?
(落ち着いたら、本屋でも覗いてみようかな) 
 まぁ出会いは一期一会だ――とリオリアはそんな考えを振り切り、甲板を歩く。これから自分は忙しくなるはずだ。帰還報告、間違いなく受けるであろう叱責、偉い人へのご挨拶。女装男に気を取られている場合ではない。さくさくと気持ちを切り替えていかねばならない。
 心地のよい風を甲板で受けながら、リオリアは船から馬を引き、共に大地に降り立つ。
「ただいま俺、ってか」
 川辺のぬかるんだ大地を踏みしめて、リオリアはまだはるか遠くに見える、首都の街並みに視線をやった。
 ぼんやりと、城壁に囲まれた街と、巨大な石造りの城が見える。皇帝の住まうブルウズの中心部だ。最初はあれほど帰る事には乗り気でなかったのに、やはり生まれ故郷の近くに来れば、己の気持ちは昂るのだと知った。

(本文に続く)