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RED!! vol.2

RED!! vol.2(サンブル)


 昔から、よく見る夢がある。
 そこは荒野で、でこぼことした土地だ。白い岩があちこち剥き出しになっており、歩きにくい事この上ない。風も強く、立ちがれた枯草がいつも風に揺れていた。
 ぴゅうぴゅうと吹く風に混じって聞こえる、波の音。ここは周囲を海に囲まれた、小さな離島だ。
 一人の少年が岩に腰かけて、必死に遠くに目を凝らしている。手も足も棒のように細い、ぼろをまとった裸足の少年だ。
少年は、じっと目を凝らしていた。広い広い、海の向こう。水平線のかなたにうっすらと、巨大な陸地が見えた。
 少年は、あそこに帰りたいなぁ、と思っている。
 だが、半ば諦めてもいた。この島の周囲は断崖絶壁で、荒々しい波が渦を巻いて、こちらを海の底に引きずり込もうとしている。運よく渦に巻き込まれず海に飛び込めたとして、沈まずにあの陸地に辿りつける可能性がどれだけあるのか――少年は、それがとてつもなく難しい事を知っている。
 そんな脱出困難な島だからこそ、自分はここに連れて来られたのだということも、少年はよく理解していた。
 遠くを見つめるその視線には、諦めを感じてもなお、消えない強い怒りがあった。
 ──お前たちの思い通りにはならない。
 なってやらない。
 いつか絶対に見返してやる。墓石の下から甦った者の、恐ろしさを知れ――。
 そんな物騒なことを、呪いのように何度も呟く、惨めな子供。
(あぁ、嫌だ。また何か言ってる)
『少年』を第三者のように眺めていた『自分』は、それに冷めた視線を送った後、ため息をついて視線を逸らす。そして意識は、再び暗闇の中にとぷんと落ちるのだ。
(……いい加減に俺も、この夢を見るのをやめればいいのに)
 暗い闇の中に沈んでいきながら、そう思う。何度も、自ら記憶を掘り起こす自分に、嫌気がさす。
 ──これは夢ではなくて、己の過去の出来事だ。
 それをそのまま見ているだけだ。
 過去など忘れて、別人としてこの世で生き直そうと思った。
(本当に、別人になれたら良かったのにね)
 記憶喪失にでもなって、過去の事など綺麗さっぱり忘れてしまえばいいのに。そうしたら、自分は何の後腐れもなく、特に困る事もなく、平凡な騎士として暮らす事ができるのに。
 こんなの、覚えていたってしょうがない事だ。なのに何で自分は、忘れないのだろう――リオリアは自己嫌悪の中で、目を覚ました。

 部屋の中は、ぼんやりと明るかった。カーテンを閉めているが、外はもう日が昇っているらしい。小鳥が窓の縁に止まっているらしく、賑やかなさえずりが聞こえる。
 硬い寝台の上で、腹の上にシーツをかけただけの状態で、リオリアは寝転がっていた。
 ふと手を持ち上げて、己の手を見上げる。傷やまめはいたるところにあったが、適度に肉がつき筋張った、鍛えられた若い男の手だった。棒切れのような手ではない。
「……枯れてない」
 寝起きのかすれた声で、リオリアはそう呟いた。ほっとしたような色が混じっている事に自分で気付いて、リオリアは目覚め早々何を言っているのだと、一人笑った。
 少々、熱っぽさのある額に手を添える。自分の指先は、死体のようにひんやりとしていた。その冷たい指先が、額の熱を奪っていくようで、気持ちが良い。
 嫌な夢を見た。
 夢自体は子供の頃からよく見るものだが、最近は見る回数も減っていたはずだ。だがここ数日は、連日この夢を見ている。脱出不可能な孤島で、本土を睨むように見る夢。今となっては、虚しさしか抱かない、あの感情。
「完全にあの人のせいだな……」
 苦笑交じりに、リオリアは恨み言を呟いた。
 興味本位でこちらの内面に首を突っ込もうとした、無礼な男と知り合った事で──自分は今、酷い目にあっている。

 ここ数日は、特に散々だった。
 ローランドの屋敷から、大雨に降られながら城に戻ったあの日から、リオリアは酷く体調を崩した。戻るとすぐに着替えたのだが、雨に体を芯から冷やされたのだろう。ずっと吐き気が止まらず何も食べられず、夜からは熱を出し、寝込んでしまった。
(なんか、頭ふわふわするな)
 寝台の上で腕を突っ張りながら、リオリアはゆっくりと身を起こした。体の力が入らないのは、ろくに食べていない日が続いているからだろう。寝込んでから粥を何度か届けてもらったが、食べると大抵夜遅くに気分が悪くなって、吐いてしまう。
内心、それを「勿体ないなぁ」と思う冷静さはあるのだが、吐くとわかっていても、食べなければ体が弱る。義務的に胃袋に詰め込んでいる感があって、食を楽しむどころの話ではない。
(でもそろそろ仕事しないと、まずいよなぁ)
 一息ついて起き上がると、クローゼットから騎士団の制服を引っ張り出した。
 真っ白な、高級感のある生地。正義と秩序と力の象徴である、中央騎士団の制服。
着任早々に病で離脱とは、情けない事この上ない。欠員を埋める戦力として、わざわざ呼び戻してもらったというのに、これでは師の顔に泥をぬる事になってしまう。着替えようと、己の寝間着の首元に手をかけたところで、扉が控え目にノックされた。
「はい?」
 こんな朝っぱらから誰だと思いつつ、怪訝な声で返事をしたリオリアだったが、静かに扉を開けた人物に、思わずぎょっとしてしまった。
「……団長! 何ですか、朝から」
「何ですかとは、随分な言いようだな」
 扉を開けたのは、リオリアの師でもあり、中央の騎士団長であるモルグだった。彼はこちらが団服を手に取っているのを見て、眉を寄せた。
「……もう復帰する気か?」
「何だかんだで、もう休んで十日近くたちますから。周りにも悪いですし」
「昨日まで、夜中何度も吐きに行っていた癖に?」
「あー……見てました?」
「そういう報告は受けた」
 そう言うとモルグは無言で、リオリアに寝台に座るよう指示した。
「今日は随分顔色もいいようだが、大事を取ってまだ休め。制服は片付けろ」
「それ、わざわざ団長が言いに来てくれたんですか? なんか優しくて、気持ち悪いですねぇ」
「……普段、やたらと元気でよく喋るのが何日も寝込んでいると、周りも気にするのだよ。あと、これを預かっている」
「?」
 モルグは手に持っていた、蔓で編まれた小さなかごをリオリアに突きだした。かごは、少女が片手に下げて花でも摘みに行きそうな、可愛らしい大きさだった。背がやたらと高く、常に小難しそうな顔をしている男が持つには似合わぬ品だ。上には布がかけられていて、中に何が入っているのかはわからない。
「これ、なんです?」
「見舞いの品だ」
「俺にですか?」
「先に言っておくが、私からではない」
「……へ?」
 不愛想な師の気遣いにちょっとだけ感動して、顔をぱぁ、と輝かせていたリオリアに、モルグはやはり愛想なく答える。
「今日の明け方、城門の警備兵に、お前にとこれを渡して、足早に去って行った者がいるらしい」
「……誰?」
「それが、名乗らなかったそうだ。兵の話では、うつむきがちに話す、青いドレス姿の淑女だったということだが」
 途端に、リオリアは顔を引きつらせた。青いドレスの淑女──何となく、嫌な思い出しかない。
「これ、中見てもいいんですかね……?」
「お前宛てだから、好きすればいい」
 モルグに促されて、リオリアは恐る恐る、かごにかけられた布をめくった。中には黄金色の、貝殻の形をした焼き菓子が、綺麗に並べられて入っていた。
 その焼き菓子の形に、リオリアは凄まじく覚えがあった。
(……ローランド先生)
 リオリアは苦々しい思いで、その名を呟く。
見れば、かごの内側には、自分があの男の部屋で落としたままにしていた黒のバンダナが、丁寧に折りたたまれて入っていた。汚れもない。洗ってくれたのだろうか。
(朝っぱらから何しているんだよ、あの人……)
 かごを抱えたまま呆れて、リオリアは脱力した。
 これを焼き上げて、冷えないように包んで──そしてわざわざ、化粧してドレスなど着込んで、これを城の前まで持ってきたらしい。
(ばれたら怖いとかそういうの、あの人にはないんだろうなぁ)
 女装男がそんなものを持って来たら、城門の番兵もさすがに不振がりそうだが、悔しい事に自分もときめいたくらいにその出来がいいので、番兵もただの美しい淑女だと思い込んだのだろう。あの男は、女装した自身を色目で見られることに、どこか楽しんでいる部分があるのだ。
自分が寝込んでいる、という情報がどこから漏れたのかは知らない。街にいた、警備の騎士にでも声をかけたのかもしれない。
「――その男と、何かあったのだろう?」
 かごの中身をじっと見つめていると、頭上から声をかけられた。長身の師は、焼き菓子抱えながらも呆れる弟子を、気遣う様な探るような、そんな視線で見ていた。リオリアは若干の反感を込めて、それを見上げる。
「なんで、そう思います?」
 モルグは、ただ黙って肩をすくめた。
「あの日、お前はその作家の元に行った。普段のお前なら、ああだったこうだったと、そのときの事を賑やかに報告してくるのだろうが、不自然なくらい何も言わなかった」
「……別に、何もないです。具合悪かったので、無口になっていただけで」
 へらり、とリオリアは笑って見せる。
 確かに、城に帰りついた頃から既に体調は悪かった。それに自分の体は、まだあの男に抱かれたばかりで、生々しい感触がいたるところにこびりついていた。
 耳の穴を舐める生温かい舌の感触も、太腿の裏を掴む指の力強さも、身を貫きこちらを攻め立てる肉の熱さも太さも――嫌になるくらい、全部覚えていた。
 男から与えられる快楽に、情けなく声を上げて乱れた自分の痴態を思い出すと、吐き気が増した。
自ら望んで抱かれに行ったのだから、別にその事であの男を恨む気は全くない。だが、わざわざ話題になんてしてやりたくなかったのは事実だ。
(それはそれ、だよ)
 リオリアはまだ少しだけ、怒っている。
こちらの事情勝手に勘ぐり、探ろうとし、隠したい過去まで興味本位で暴こうとした。それに情けなく動揺する自分を見て、あの男は楽しんでさえいたのだ。人の事は言えないが、性格が悪い事この上ない。
 ──ごめんね?
(一応、謝ってはくれたけどな)
 打って変わって、真摯にそう言って詫びた、あの男の顔も思い出す。申し訳なさそうな、こちらを気遣う様な視線だった。思い出して、苛々した。  多分、あの男はもうちょっとこちらをいじめて、楽しみたかったのだろうと思う。だが向こうが思っていたよりも呆気なく、際限なく、こちらが崩れそうになったものだから――慌てて焦って謝って、宥めてくれただけの事なのだ。
(今更腹立ってきたなぁ……)
 この菓子、捨ててやろうかとも思った。だが食べ物を粗末にするのは、個人的に嫌いだ。ローランドは、菓子に毒など入れる人間でもないだろうな、とも思う。確証など、一つもないのだが。
「それの扱いについては、お前にまかせる」
 モルグは黙るリオリアを見つめながら、かごを指差した。
「だがまともに食事ができそうなら、先に食堂まで降りてこい。痩せたぞ」
「今調子に乗って食べると、人前で逆流しそうなので、止めておきます」
「……なら、好きにしろ。ただ、あまり復帰は焦らなくていい。悪く言う者は誰もいない」
「なんか団長が優し過ぎて、怖いんですけど」
 からかうように言えば、師は少々むっとしたような顔をした。
「私とて、病人を気遣う心くらいある」
「知っていますよ。団長は元々、お優しい方です」
「……」
 にっこりと笑って言ったのだが、モルグは何が気に入らなかったのか、眉間の皺を深めた。
「寝ろ」
「はぁい」
 部屋を出ながら言ったモルグの言葉に、リオリアは気の抜けた返事を返した。普段なら「なんだその返事は」と叱られたと思うのだが、今回は叱られなかった。
 リオリアは寝台に腰かけながら、隣に置いていたかごに視線を移す。黄金色の焼き菓子は、ほのかな甘い香りを放ちながら、綺麗にかごの中で並んでいる。
 どんな味がするのかは、散々あの男の家で味わったから知っている。店が出せる味だとは言ったが、どこか家庭的な味わいも残っていた。きっと家で母親が菓子を焼いてくれるのだとしたら、こういう味なのだろう。
 無言で手を伸ばして、菓子を一つ手に取った。一瞬悩んだが、それを口に運ぶ。
 ふんわりとした焼き菓子は、噛むまでもなく、口の中でほろりとほどけた。卵と乳の良い香りがする。最近水気の多い粥しか食べていなかったので、甘味がゆっくりと舌の上に沁み込んでいく感覚に、舌が痺れるような思いだった。
「……うまい」
 無意識の上に、そう呟いていた。あの男に関しては少々腹も立てているので、そう思う事が少し悔しかった。だが菓子に罪はないと思い直し、それを飲み込む。
 そのとき菓子の下に、何やら紙が折りたたまれて入っているのに気付いた。菓子の油でかごが汚れないように敷いたものだと思っていたが、何やら字が書かれている。広げると、手のひらほどの大きさの紙には、整った文字でつらつらと文章が書かれている。
 何度か見た事のある、ローランドの文字だ。
 
 ──君の病が、早く良くなる事を祈っている。明るい君の笑顔が、また見たい。

「……」
(作家って、こんな恥ずかしい事、普通に書けるのね)
 リオリアはもぐもぐと口を動かしながらも、どこか冷静に感心した。自分だって女相手にこんな台詞、まだ言った事がない。あの男は官能小説や恋愛小説が得意だから、これくらいの台詞朝飯前なのだろう。元々、紳士の皮を被った好色野郎だ。息をするようにそういう事が言えるし、書けるのだ。手紙には、まだ続きがあった。

 ──もし君が、私の性質の悪い悪戯を許してくれるのであれば、また顔を見せてほしい。私は城の見える喫茶店で、君をずっと待っているから。

「いやいや、恋文じゃあるまいし……」
 呆れながらも、手紙の一番下に、喫茶店の店名が書かれているのに気付いた。城下にある、老舗の喫茶店だ。リオリアも、店の存在は知っていた。
(俺に、そこまで会いに来いってこと?)
 自分がこの手紙に気付かない可能性も、読むだけで捨てる可能性だってあるのに。今日まだ、寝込んでいる可能性だってあるのに。
 ずっと本当に待つ、と言うのか?
(でも、俺が行く義理もないだろうよ)
 人があまり口に出したくない事に首を突っ込もうとして、こちらの機嫌を損ねてくれたのはあの男だ。今更謝ってほしいとは思わない。だが……。
 ──俺が気絶するくらいの快楽を与えてくれたら、俺の秘密、少しだけ話してもいいです。
 あの日、ローランドの屋敷で、あの男の腕に支えられながら、リオリアはそう言った。
こちらの過去を知りたがっていたローランドがそれならと思ったのか、ただこちらに手を出したかっただけなのか、それはよくわからない。あの男は強く激しく、どこか優しく──こちらを抱いた。
 しかしリオリアは事が済んでも、その約束を守らなかった。それは次に会ったときにしよう、と去り際にこんな事を言った。
 ──そう言えば、次ができます。また貴方と会う理由が、できると思いませんか?
(……格好つけて、そんな事言ったな、確か)
 寝台の上で胡坐をかきつつ、考える。
 次。
 最初、リオリアに「次」を求めたのはローランドだ。去り際、ばたばたとあの未完成原稿を手渡してきた。
 ――君と出会う機会を、残しておきたいから。
 社交辞令の『また会おう』なんてものではなくて、確実な約束が欲しかったから、あの男はきっとそんな事をしたのだろう。有名作家の書きかけの原稿、読んで感想が欲しい、原稿はまた返してね――なんて言われたら、自分はまた、あの男に会いに行くしかなかった。今思えば、ローランドに乗せられていたのだと思う。
 首都に戻って、ローランドの屋敷を最初に訪ねたのも、自分の意思によるものではなかった。その後はなし崩しだ。投げられたものを投げ返すような付き合いを続けてきただけで、別にあの男に心から「会いたい」というような親しみを持ったことなど、一度もない。
 投げ返す『カード』は今、リオリアの手元にある。
 親しくもないのに抱き合ったのだから、顔を合わす事に多少の気まずさはあった。このローランドからの手紙を見なかった事にして、くずかごに投げ入れて、無視し続けること──それを選ぶことも、今のリオリアにはできた。
 だが、後味の悪さはある。人との約束を破らない騎士、というのはどうかと思うのだ。
(別に、あの人はどうでもいいんだよ。何言われたって。ただ……)
 ローランドは子供好きなようで、よく菓子など焼いて近所の子供に振る舞っているせいか、あの男は三区の子供たちに慕われていた。自分も、あそこにいた子供たちとは、少しだけだが仲良くなってしまった。
(あの人もそんな事、言わないと思うけどさ)
 あの騎士様、また会おうねって約束、自分から言い出したくせに破ったんだよ――なんて言われた日には、騎士の信用ガタ落ちである。大人に嫌われるのは別に構わないが、純真無垢な子供たちに嫌われるのは、なんだか刺さるものがある。
 ブルウズの騎士とは、どんな下っ端であろうとも、子供の憧れであるべきだ。嘘つきだなんて思われては、いけないのだ。
「……」
 カーテンを開けると、外はとても良い天気だった。少し悩んでから、リオリアは二個目の菓子を手に取った。


 体調不良で休んでいる癖に出かける、というのは非常に罪悪感がある。
 周りから厳しい目で見られるのを覚悟して、同僚の騎士達に少しばかり人に会ってくると告げると、何故か彼らは総じてニヤニヤと笑っていた。
 ──逢引きだろ? 上には上手く言っておいてやるから、楽しんで来いよ。
 どうやら、外部から見舞いの品が届けられた事、届けに来たのが着飾った淑女であった事というのは、城の人間にそこそこ広まってしまっているようだった。城を出るとき、門番の兵にも話しかけられた。
「いや、本当に綺麗な人でしたよ? 少しばかり背が高いのが残念でしたけど」
 いい匂いがしました、と嬉しげに言う若い門番兵が哀れだったので、リオリアは「それ、結構いい歳のおじさんだからね」とは言えなかった。
 ただ、お前口軽すぎ、と注意はしたが。
(……で。本当にいるのかな)
 実は、手紙を読んでから決断まで、かなり時間が経ってしまっている。うだうだと出かけるのをためらって、もう昼前だ。年末が迫っているからか、城下はどこも買い出しの人々で込み合っている。
 ローランドが待っている、と記していた老舗喫茶店「小熊」の存在は、そこに行った事のないリオリアも知っていた。
 店頭にはなぜか、店のモチーフとして躍動感のある、大きな木彫りの熊が飾られていたからだ。初めて店の前を通った時、「何で熊?」と疑問に思った事を覚えている。店の名前は「小熊」なのに、飾られているのは鮭をくわえて荒ぶる巨熊、というのも謎だった。
(あったあった。あの熊だ)
 大通りをやる気なく歩いていると、その木彫りの熊がリオリアを出迎えた。外のテラス席では、思い思いに過ごす人々の姿がある。一人で読書を楽しむ紳士、昼間っから優雅にワインなど開けて、チーズや木の実をつまみに友人たちと賑やかに話し込んでいる夫人の姿など。
(で、本当に、いるのかな)
 そんな思いが湧いてくる。テラス席の前を通りながら周囲の人を見渡したが、それらしき人影は見えなかった。
(待ってなかったら、もう知らん。もう二度と会わん)
 さすがに風が冷たいので外か、と中を覗く。
 ──いた。
 混みあった店内で、見覚えのある古風な青いドレスを纏った黒髪の淑女が、奥の席に座っている。
 しかし二人掛けの席の正面には、別の男が座っていた。裕福そうな身なりだが、ワイン樽のような体系の、中年男性だ。
 その樽のような男と、青いドレスの淑女は、何か言葉を交わしているようだ。淑女は気のなそうなそぶりだったが、男の方は、好色そうな笑みを浮かべて、目の前の淑女に向けて熱心に話しかけていた。
「……」
 その光景を見ていると、なんだか急にやる気が無くなった。別に店内で、あの女装男が誰と話そうが別に関係ないはずなのだが、自分の機嫌が一気に悪くなっていくのがわかった。
(……自分が女装して綺麗なの、あの人自覚しているもんね)
 苛立って、リオリアは乾燥した己の唇を噛む。
あの男は女の恰好をして、騙されて近寄って来た男たちを、内心嘲笑っているわけだ。そんな、意地の悪い男がローランドだ。
(作家だもんね。文章力あるもんね。さも反省しています、なんて文章、朝飯前だよね)
 こっちは嘘をつきたくないから、重い体を引きずって来たというのに、やっぱりあの男は、あんな男なのだ。こんなときまでそうやって遊んでいる。
自分も、ただからかわれているだけかもしれない。
(やっぱ、帰ろ)
 そう店内に、背を向けた時だ。
 がたん、と乱暴に椅子が倒れる音が聞こえた。反射的に振り返ったリオリアが見たのは──上質の青黒いドレスの裾を引っ掴み、親の仇でも見つけたような形相でこちらに突進してくる、長身の「淑女」の姿だった。
「っ……!」
 ぎょっとしたリオリアの腕に、その淑女は爪を立てるようにしてしがみ付いてくる。
「……」
 リオリアは完全に腰が引けた状態で、こちらを「捕獲」してきた淑女を見つめた。店内の視線が、一斉にこちらを向く。
「……ちょっと」
 顔が引きつっているのが、自分でもわかった。いきなりの事だったので、驚いてしまった。リオリアがこちらにしがみつく淑女を困ったように見つめると、その淑女はゆっくりと視線を上げた。
「……来て、くれたの?」
 少々かすれた小さな、不安そうな声で、その淑女は呟いた。
 厚塗りの化粧。けばけばしいほど真っ赤に塗られた、赤の唇──だが顔立ちの整ったその男には、嫌になるくらいよく似合っていた。ふざけているとしか言いようがない格好なのに、その青い目はこちらにすがるような、真剣そのもので、リオリアは怒る気力もなくなった。感じていた不満の燃えかすを、ため息とともに吐き出す。
「じゃないと、こんなところ一人で来ませんよ……」
 この喫茶店「小熊」は、上流階級御用達のお店だ。知識人が数人で議論をしたり、芸術家や女優志望の美女がパトロンを求めて立ち寄るという、高尚な店なのだ。一般人お断りというわけではないが、気楽に飲み食いしたいリオリアにとっては、縁遠い店だった。
「でも、良いんですか? あのお連れ、目をまん丸くしていますよ」
 思ったより、嫌味ったらしい声が出てしまった。呆気にとられている、ワイン樽体型の男に視線をやりながら言うと、ローランドは頷いた。
「彼は、知り合いの作家だよ。私の変装癖も知っている。たまたまここで会ったから、話をしていただけだ」
(そうかなぁ)
 リオリアには、あの男がローランドを好意が詰まった視線で、ねっとり見ているように思えたのだが。
 だがローランド自身は、そのワイン樽体型の男に、知人だという事以外興味など全くないようだった。息を吐きながら、リオリアの肩に額を埋める。
「……来てくれて、ありがとう」
「えっと……話は後にして……とりあえず、場所変えません?」
 周囲の視線が痛い。店員までが何事かと、心配そうにこちらの様子を窺っている。あまりじろじろと見られたくもない。ここにいる作家たちの、ネタにされたくもない。
リオリアは店員を呼ぶと、己の懐から取り出した銀貨を数枚握らせた。受け取った店員は、目を丸くしていた。渡した金額は、丸三日はここで茶を飲み続けられるような額だったからだ。
「……これ、迷惑料ね」
 リオリアは店員に耳打ちする。
「あと、あの樽みたいなおじさんに、一番高いワインをおごってあげて」
 店員は、男性の方を一瞥すると、無言で硬く頷いた。リオリアはローランドを引きずる様に、行先も決まらぬまま、足早に店を出た。

(本文に続く)