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鳶の巣島は、今日も晴れ

タクシー、乗車拒否できず(サンブル)


 よし、家出をしよう、なんて軽快な気持ちで出てきたわけではない。
 家を出る瞬間、ぎりぎりまで迷ったのだ。こんなことをしていいのか、自分はこれからどうするのか、自分が家を出たことを知った相方は、何を思うのか──。
 希望なんてなく、不安しかない。
 だが人間、完全にいっぱいいっぱいになってしまって、とにかく行動しなければという強迫観念に駆られて、何もかも放り投げて逃げてしまいたくなるときはあるのだ──と心の中で言い訳をしながら、 木戸壮太は平日の閑散としたバスターミナルから、できるだけ自分を遠くに運んでくれそうなバスへと飛び乗った。
 一応、計画的な行動である。
 会社には事前に、一週間の有給を申請していた。ここ数年休みを取ることもなく働いていたので、有給は溜まりにたまっていた。いきなりそんな長期の休みを申請したら、文句を言われるのではとも思ったのだが、 上司は意外にも、あっさりとそれを受けてくれた。
 ──お前、最近顔が険しかったからねぇ。どこ行くの? 温泉? 仕事も閑散期だし、ゆっくりしてきたら?
 悩みがあるというのは、顔に出ていたらしい。そんな上司の優しい言葉に感謝しつつ、木戸は後ろめたさも感じていた。もしかすると、自分はこの会社に戻らないかもしれないな、と漠然と考えていたからだ。
バスの一番後ろの窓際に腰かけて、そんなことを思う自分を笑う。
(辞めて、どうするんだろね。ここまでいくと、自棄になりすぎだろ)
 気が付けば年齢は三十目前。車メーカーの技術開発部門に勤めて八年近く。対人関係にも特に問題はない。仕事は好きだし、慣れている。
 給料は特別良いわけでもないが、特に不満もない──そんな環境なのに辞めて、この先どうするというのか。一時の感情に流されて、全部捨てようとしている自分が滑稽だとも思えた。
 ともに暮らす相方は仕事で家を空けており、今日帰ってくる予定だが、不規則なのでいつになるのかわからない。普通に仕事に行く時のように、安いスーツとコート、くたびれた革靴を履いて出てきた自分が、まさか家出したとは思わないだろう。
 木戸は動き出したバスの窓際に頬杖をついて、流れていく景色を眺める。
(年甲斐もなく家出なんてした俺を見て、あいつは愛想を尽かせばいいんだ)
 木戸はそう、目を閉じる。身勝手な考えだとは思うが、考えた挙句、それが一番最善だと思ったから、こんなことをしているのだ。
 バスの行き先は「快速、小野崎港行き」とある。港と書いてあるからには海のそばだと思うのだが、あまり聞いたことのない場所だ。
(まぁ、どこでもいい)
 自分をどこか遠くに連れて行ってくれるのなら、今はそれでいいのだ。

 木戸には、長年付き合い、共に暮らしている男がいた。
 名は、村山昴。大学に入学したときに出会った同い年の男だ。
 第一印象はどことなく地味ではあったが、手足が長くてスタイルが良かった。茶髪にしていた髪の根本はすっかり伸びて黒くなっており、少々ずぼらな印象も受けた。顔の造りも悪くないし、もう少し見た目に気を遣えばいいのに、とそんな余計なことを思ったのを覚えている。
 学部も異なり、最初は親しい仲でもなかったのだが、話しをするようになったきっかけは、大学の学園祭だ。暇を持て余した木戸が、友人が出演する学内の演劇サークルの舞台を、冷やかし半分で見に行ったことだ。
 校内の演劇サークルなんて、所詮学生のお遊びだと思っていたし、あまり演劇自体も興味がなかった。だがチケット販売ノルマがあったらしい友人に「買ってくれ」と泣きつかれたので、仕方なく買って、付き合いで行っただけなのだ。
 舞台は、思っていたより面白かった。どうやら学生演劇の世界では、母校のサークルは有名で、みんな真剣にやっていたらしい。最初から馬鹿にしていた自分が、少し恥ずかしかった。
 そしてその中で、村山の存在は際立っていた。
 彼は主役を演じていたが、どこか陰気でずぼら、という印象を感じさせないほど、役そのもの、別人になっていた。いつの間にか木戸は、村山の演技に飲まれていた。
(……こういうのって、才能って言うんだろうな)
 舞台終了後、拍手をしながら、そんなことを思ったのを、今も覚えている。
 そのまま、友人たちに引っ張られるように打ち上げの飲み会にも参加したのだが、たまたま座敷で隣になった村山の印象は、舞台のそれとも第一印象ともまったく異なった。
「木戸君って、こいつの友達なの? へぇ、こんなまともそうな知り合いがいるなんて思わなかったよ。うちのサークル連中、大体変人だからさぁ。現実世界で生きづらいやつばっかりなんだよね」
 そう、けらけら笑いながら楽し気に酒を飲み、ほぼ初対面のこちらにも臆することなく接してきて、その人懐っこさに逆に戸惑ってしまった。
「……お前、そんなに喋る奴だったんだな」
「え? あぁ、そうかもね。よく舞台見た人から、印象違うって言われる。まぁ役は役」
 村山はそう、苦笑していた。
「プロとか目指すの?」
 そう尋ねると、村山は少し考えていた。
「……なりたいとは思うけどね。まだまだだよ」
 そう謙遜はしたが、その真剣な瞳に、この男は真剣に役者を目指しているのだろうな──と木戸は思った。
 それをきっかけに友人と言える関係になり、木戸はよく彼の舞台を見に行くようになった。いつの間にか、村山が次はどんな役を演じ、どんな表情を見せてくれるのか――というのが楽しみになっていた。
 大学卒業後、木戸は昔から興味のあった車メーカーに就職をした。やはりというか、村山は演劇を続けるつもりで、一般の劇団に入った。しかしその劇団は、メンバー全員がアルバイトをしながら演劇を続けているという小さな劇団だったので、生活は苦しいようだった。
 村山は自身のことをあまり話さないのだが、実家を頼れる状態ではなかったらしい。家族仲は悪くないのだが、経済的に豊かではない中で大学進学もさせてもらったので、これ以上のわがままは言えないとのことだった。
「……うち、来てもいいけど?」
 家賃が払えず、アパートを追い出されそうだという話を聞いたとき、木戸はそう呟いていた。確か、飲みに行った帰りの、電車の中だったと記憶している。
「……いいの?」
 村山は遠慮がちに、そう言った。木戸は頷く。
「うち、親が海外勤務でね。家建てたはいいけど、ほとんど住んでない。当分帰る気もないみたいだし、今俺一人だし。別に家賃とかも払わなくていいよ」
「……なんの仕事してるの? 親」
「天然ガスの買い付け。会社が面倒見てくれるから、日本よりよっぽどいい生活できるとかでね。お手伝いさんがいる生活みたいなこと言っていたし」
「木戸は、行かなかったんだ?」
「あんまり、海外暮らしに興味もなかった。大学受かったばっかりだったし」
「へぇ……でも、本当にいいの?」
「いいよ。部屋も余っているし。俺も寂しいから、ちょうど猫でも飼おうかと思っていたところ」
「人間より、猫の方が気楽だと思うけどねぇ……可愛げあるし」
 村山は苦笑した。
「じゃあ俺、そのかわりと言っちゃなんだけど、ご飯は作るね。朝と夜はご飯作る。どう?」
「別に、そこまではいいんだけど……」
 本当に軽い気持ちだったので、見返りは求めていなかった。そう困惑したのだが、村山は首を横に振る。
「だって、何もしないってのも悪いから。俺も木戸のヒモになる気はさらさらないんだ」
「なったら蹴りだすぞ」
「勿論。俺、結構バイトで鍛えているからね。自慢じゃないけど、料理そこそこできるし。……でも、なんで木戸は、俺なんかにそこまでしてくれるの?」
 村山は、意外に長いまつ毛を瞬かせながら、木戸の顔を覗き込んできた。木戸は眉を寄せながら、しばし考える。
「……お前が好きなこと、続けてほしいからだよ。俺、お前が演技しているところ見るの、結構好きだからさ」
 仏頂面で告げれば、村山は目を丸くしながらも、顔を赤くしていた。おそらく、木戸がそういうことを言ったことがなかったので、恥ずかしかったのだと思う。そんな村山を見ていたら、 下心なんて全くなかったはずなのに、なんだかこちらも恥ずかしくなってしまった。
 
 それからすぐ同居が始まったが、村山は木戸約束した通り、金銭的な迷惑などかけなかった。
 むしろ、仕事から帰って、温かい夕食が出来上がっていること、話し相手がいるということが、木戸には有難かった。
 父が海外勤務となったのは、木戸が大学に入学が決まった頃だ。もともと話はあったらしいのだが、息子の子育てもひと段落したということで、引き受けたらしい。父もやりがいのある仕事だと喜んでいたし、 母も海外で暮らすことに憧れの強い人だったので、喜んでいた。二人仲良く外国に行って、今は温暖な国で、セレブ生活を満喫している。
 一人で暮らすのは寂しいなんて思う歳ではないと思っていたが、やはりそれまで家族で住んでいた家に誰もいない、帰っても真っ暗、という状況は、どこか寂しかったのだろう。その関係に、不満はなかった。
 ──そんな中で、最初に変化球を投げてきたのは、村山の方だった。
 休日、アルバイトも劇団の練習も休みだった村山が、木戸に昼食を作ってくれていた。木戸は元々料理なんてしなかったので、料理ができる人のことは尊敬している。テレビを見ながら、横目で手慣れているなぁ、と感心していた。
「なぁ、木戸」
 村山が、ガス台の前でフライパンを握りつつ、声をかけてきた。
「んー?」
 リビングで胡坐をかいて、テーブルの上に頬杖をつきながらテレビを見ていた木戸は、生返事で返した。
「お前に聞きたいことがあって」
「なに?」
「……お前のこと好きだって言ったら、駄目?」
「……」
 最初、言われた意味がよく理解できなかった。木戸は、しばらくその意味をゆっくりと考えて、台所を振り返った。
「……なにそれ」
「駄目か、駄目じゃないかで答えてよ。駄目だって言うなら、もう言わないからさ。気持ち悪い、無理って言うなら、出て行くし」
「でもお前、金がないだろ」
「貯金は、ちょっとずつしていたよ。全くないわけじゃない。安いところ借りられるくらいは貯まった。だから」
 舞台上でもそうはならない村山の声が、少し震えていた。
「……ごめんな、こんなこと言って。俺、おかしいよな。でも、もう我慢ができなかったんだよ。このままだと俺、お前に酷いことしそうだった」
 村山はこちらを振り向かなかった。夏場の換気扇が回る蒸し暑い台所で、首筋に汗をかきながら、フライパンの柄を掴んでいた。
(酷いこと? ……出て行く?)
 この男は今、男の自分を好きだという。拒絶したら、この男は、まばゆい才能を持った陽気な男は、この家を去る。
 それは、すぐに嫌だと思った。そっちの方が、自分にとって酷い。
 金がなくて、だが才能があって、真面目に夢を追いかける──そんな困った男を、自分は好意から助けてやっている、という気分だったのに、いつの間にかこの男は、木戸にとっても離したくない存在になっていたのだ。それが恋なのか何なのか、木戸には整理がつかなかったが。
「……駄目じゃない」
 悩む時間もない。どうすればいいのかわからなかったが、口は自然とそう呟いていた。
「駄目じゃないから、そんなこと言うなよ」
 そうつぶやくと、村山は子供のように、なんだか泣きそうな顔をして、こちらを振り向いた。
(……あぁ)
 こいつにとって、その質問はすごく緊張するもので、何でもないふりをしながら、必死に勇気を振り絞って言ったのだ――と思うと、何とも言えない気持ちになった。
 村山は火を止めると、木戸の前までやってきて、床に膝をつき、無言で抱き着いてきた。
「……ごめんな。好きになってごめんな」
(なんで謝ってるんだ、こいつ)
 ゆっくり床に押し倒されながら、木戸は村山の謝罪と、己の気持ちについて考えていた。おそらく、村山と同じ熱量ではあるまい。村山と同じ必死さでもあるまい。
 だが、自分もこの男を離したくなかった。必死に縋りつき、理性も何もかも捨てて、がっつくように自分を抱こうとしている男の姿を眺めながら、不思議と悪くない、と思ったのだ。
 ――この男に、ここまで執着されることも、悪くない。
 少々特殊で、自分にはない輝きを持っている男が、こんな無難な人生を歩む平凡な自分に必死になって執着していることが、妙に快感だったのだ。
(俺も……歪んでいるのかな)
 木戸に、男と抱き合ったような経験はなかった。男を好きになった記憶もない。だが特に抵抗することもなく、そのまま村山の体を受け入れた。

 友人から恋人となったのは、その瞬間だったのだろう。
 しかし自分たちの関係が特に変わったわけではなく、村山は舞台出演の傍ら食事を作ってくれたし、木戸も家から追い出すことはしなかった。
 村山は、こちらを愛してくれていた。こんな無愛想で、面白みがないだろう男を大事にして、ときどき愛を囁く。後ろから抱き着いてくるのが好きだった。よく着替えている最中に、子供のようにしがみついてきたものだった。
 抱かれることは苦ではなかった。
 後日、村山の口から「告白する前から、何百回も妄想の中で抱いていた」と飯時に言われたときはこいつ、どうしてくれようかと思ったが、無邪気にこちらに懐いてくる姿を見ていると、何も言う気がなくなった。
 村山のそんな姿は、今も変わっていない。変わらず自分を愛し、一番の友人として、恋人として接してくる。
(でも俺は、それから逃げたい。逃げなくちゃ、いけないのか)
 バスに揺られながら、木戸はため息をついた。
 自分たちは、何も変わっていない。変わったとするなら──村山の知名度と、彼を取り巻く環境だろうか。
 地道に舞台出演を続けた村山は、次第に人気を得ていった。舞台出演がメインなのは変わらないが、地方の小劇場ではなく、木戸も知っているような有名人が主演の舞台に出演する機会にも恵まれるようになった。
 周囲に勧められるがままにドラマのオーディションも受けて、名前付きの役がもらえるようになってきた。所属も、小さな劇団から芸能事務所へと変わった。世間の知名度はまだまだだったが、演技派の若手俳優として評価されるようになってきた。
 それ自体は、木戸にとっても喜ばしいことだった。もともと彼の素と、役に入ったときのギャップが好きで、演じている瞬間を見るのが好きだったからだ。それを見る機会が増えることは、単純に嬉しかった。
 しかしある程度知名度が伴ってくると、今までのようにはいかないことが増えてきた。
 村山の事務所は、木戸と村山の関係を知っていた。そして、村山の役者としての才能も確信していた。彼が今後成長していくためには、木戸の存在は邪魔でしかなかったのだろう。
 ある日、木戸の帰宅を待ち構えていた村山のマネージャーに、村山が不在にしている隙をついて、近場のファミレスへと連れていかれた。真面目そうで人の良さそうな、眼鏡をかけた痩せた男で、別に威圧的な態度は何もなく、木戸に何度も頭を下げた。
 ──彼は今、大事な時期なんです。
 そう申し訳なさそうに、何度も謝りながら、木戸に告げた。
 このマネージャーも、村山の役者としての素質に惚れ込んでいること。少々名が売れてきたが、今は一つのスキャンダルで致命的な傷になりかねないこと。事務所としては、彼を大事に育てたいこと。それを淡々と語られた。
 ──ようは、別れろってことですか?
 木戸が冷静に告げれば、そのマネージャーは言いにくそうに頷いた。
(まぁ、そうだよね)
 不思議と、そのマネージャーに対する怒りはなかった。これはこの男の独断ではないのだろう。事務所の意向というやつだ。それなのに、こんな仕事嫌だろうに、やらねばならないこの男が、少しだけ気の毒にも思えた。
(最近話題の俳優が男とできてるって、そりゃね)
 今週刊誌などにすっぱ抜かれたら、一生そういう目で見られるわけだ。村山を大事に育てたい事務所としても、ようやく表舞台に立ち始めた村山にしても、それは致命的だろう。
 多分自分たちの関係を知った時点で、事務所の人々は村山に別れるよう説得したのだ。だが彼は応じなかったのだ。だから彼らは、木戸の方から別れてくれるよう、秘密裏に手を回してきたのだ。
 ──もちろんただでとは言わない。酷いことを言っているのは、こちらも自覚済みだから。君にある程度の誠意を支払う用意は、あります。
 誠意という言葉を聞いて、木戸は思わず笑ってしまった。
(馬鹿にすんな)
 最終的に金で解決か──そうは思ったが、悲壮なマネージャーの顔に、なんだか応じない自分が悪者のような気もしてきたのだ。
 ──こういう仕事、嫌になったりしませんか。
 返事よりなにより、木戸はマネージャーに向けて、そう呟いていた。マネージャーは苦笑して、小さく息を吐く。
 ──悪者になることも人に恨まれることも、僕の仕事です。この業界で、そんなこと気にしていられない。
 その言葉を聞いて木戸は、この男も引く気なんてさらさらないのだ、という事を知ったのだ。
 さすがに返事は即答できなかったので、お互いに平行線のまま、その日は別れた。
 しかしそれからというもの、木戸の携帯には頻繁に事務所の人間からの連絡が入るようになっていた。それを見ていると、胸がざわざわする。返事を急かされているようで、神経が逆立った。 家に帰ろうにも、以前のようにばったり待ちかまえられていたら――と思うと気が休まらない。木戸の精神は擦り減っていた。
 こんなこと誰にも、村山にも相談できるわけがない。彼は最近多忙で、家を空けることが多くなっていた。仕事を終えて家に戻っても、そこは誰もいない、真っ暗な部屋がある。今は舞台の最中だった。余計なことで気を紛らわせてはいけない。
 そして、そのざわついた精神面は、ついに仕事にも影響を及ぼし始めた。簡単な、小学生でもわかるような計算を続けてミスした。元々数字に強かった木戸にとって、それは限界を突き付けられたのと同じだった。
(もう駄目だ)
 このままでは、もっと大きな失敗をする。自分も駄目になる。
 その日のうちに木戸は有給申請を出し、自分の生活から一時的に逃げることを決めた。
(最初から、一緒に暮らすなら、言葉の喋れない猫にしとけばよかったのか)
 帰宅し、真っ暗な部屋の中で立ち尽くしながら思う。猫なら、こんな風に他人から口を出されずに、穏やかなまま過ごせたのか。
 最初は、彼を助けてやっているのだ、という上から目線の気持ちも若干あった。夢を追いかける貧乏劇団員を助ける、安定企業のサラリーマン。
 だがいつの間にか立場は逆転し、彼は己の才能を認められ、華やかな世界に飛び立とうとしている。自分は代り映えせず、家と会社を往復するだけの、平凡な男だ。
(もう俺が、守ってやる必要もないわけだ)
 自分以外の者にも評価され、もう自分だけが知る存在ではなくなってしまった村山への嫉妬心もあったのかもしれない。貴重品を通勤鞄に入れて、携帯の電源を切ろうとして──しばらく考えて、村山に一通のメールを送った。
 ──もう飯は作らなくていいよ。お前の貴重な時間は、お前のために使え。
 今、舞台で夜の部に出演している村山がこれを読むのは、もう少し後になるだろう。メールを送ると、木戸は携帯の電源を切った。
 最初の約束なんて、もういらない。彼ならこの意味が分かるだろう。返信なんていらない。ただ、察してほしかった。
 そのままリビングのソファで横になっていたが、頭は疲れているのに、あまり寝られなかった。外が明るくなりはじめたころ、木戸は飛び起きて、家を出た。
 行き場所なんて決めてない、逃亡の始まりだった。

 昨日までのことをぼんやりと考えている間に、路線バスはぐんぐん進んでいく。早い時間なので、人は少ない。途中で数人乗っては降りてを繰り返し、終点間近になると、乗客は木戸一人となっていた。
『次は終点、小野崎港前です』
(もう終わりか)
 そのアナウンスに、首を動かす。乗っていた時間は二時間弱。ぼんやりとした頭で乗っていると、一瞬だった。いつの間にか景色は海岸線となっており、寂れた港町に到着している。
「寒っ……」
 料金を払いバスを降りた瞬間、あまりの風の強さにコートの首元を押さえた。木戸が降りると、バスは行き先を回送と表示して、そのまま走り去っていく。バスが小さくなるのを眺めていると、妙な心細さが生まれてきた。
 バス停は、道路際にバス停の看板と色あせたベンチがあるだけの、簡素なものだった。
 港はどこにあるんだ──と思って周囲を見渡すと、少し離れた場所にそれらしきものがあり、いくつか船が止まっていた。 フェリーのような船もある。どこに行くのだろう、と海を眺めていると、沖合にいくつか離島があった。遠目に、人家のようなものが見えないこともない。
(定期船か何かだろうな)
 そういえば高校生だったころ、離島からわざわざ船で通っている友人がいて、台風のたびに船が欠航になるので休んでいたな――とそんなことを思い出した。
「離島か……」
 行き先なんて決めていない逃亡。小野崎港のことはよく知らないが、調べようにも今スマートフォンの電源を入れようものなら、メールに気付いた村山からの連絡がわさわさと入ってきそうで、嫌だ。入っていなかったらいなかったで、たぶん落ち込む。
 木戸はポケットの中の携帯を握りしめた。自分は勝手だ。こんなことをしている時点で、今更なのだが。
 ──温泉にでも行って、ゆっくりしてきたら。
 そんな上司の言葉も思い出す。
(この辺り、そんなのがあるのかどうかも知らんけど)
 港に行ってみたら、何か案内くらいあるだろう──と一歩そちらに足を向けかけたときだ。
 一瞬、目の前をばさりと、白い布のようなものがよぎった。
「……?」
 木戸は目をこすった。だが目の前にそんなものはない。周囲は交通量の少ない、まっすぐに伸びた道路と海岸。バス停の裏はうっそうとした荒れ地で、立ち枯れたススキが揺れている。その奥は森。人家は遠い。
(最近、疲れ目だからな……)
 思わず目頭を押さえた。視力は良いが、仕事で一日中パソコンを眺めていて、慢性の眼精疲労はある。
(それともあれか、とうとう幻視まで……)
 そこまで自分は今病んでいるのか──と思った時だ。
「おい」
 すぐ近くから、男の声が聞こえた。
「……」
 木戸はぞっとした。その声にではなく、真面目にそんなものが聞こえてしまった自分に、だ。
(まずい……これは本気でまずい)
 ──自分のメンタルが、瀕死だ。  逃亡なんてする前に、病院でも行くべきだったのかと思ったとき、目の端にまた、ひらりと白いものが舞うのが見えた。
「おい。お前、俺が見えるな?」
 今度はすぐ真後ろで声がした。何かがいる気配もあった。
「……」
 木戸は恐る恐る、背後を振り向く。
 背後に人がいた。

(本文に続く)