HOMEHOME CLAPCLAP

檻の中のカラスと孔雀

26:猛禽と、明日の選択


「殿下は」
  ほとんど中身の残ったカップを片付けながら聞くと、キールはソファに寄りかかったまま黒いコートの襟を緩めつつ、天井を指さした。
「……とっくに寝る体勢です。今は相当機嫌が悪いと思うので、近寄らないほうがいいと思いますが」
「アルノリトとマキーラは二階に行ったが」
「……お二方には当たらないと思いますよ」
 そこまで馬鹿じゃない、とキールは疲れ切ったため息をつく。
(そしてこいつも機嫌が悪いな)
 テオドールは、横目でキールの様子を見る。
 機嫌が悪いからと言って黙り込むような男ではないのだが、苛立っているような空気は感じる。足の投げ出し方が、完全にやさぐれている。
 まぁそれもそうだろう──と思うので、別にテオドールとしても、責めるつもりもなかった。
 自分の持ち場を散々引っ搔き回されて、苛立たない人間などいないだろう。しかも外部の、立場が上に人間から。この男にだって、この心中複雑な職場に対して、立場上のメンツくらいあるのだ。
 カップを厨房に持っていくと、テオドールは、窯から外して冷ましておいた鍋を開ける。中には黒々とした、どろりとしたもの。それを少量すくって小皿に盛ると、テオドールは客間に戻り、キールの前にさじと一緒に置いた。
「……なんですか、これ?」
 ガラスの器に乗った黒々とした塊を、キールは不審げに見た。
「キイチゴ煮たやつ」
 テオドールは不愛想に言う。
「……何故今?」
「疲れたやつには、甘いものを食わせるといいと聞いたので」
「……どなたから聞いたんです?」
「義姉」
 キールの対面にどっかり座りながら、テオドールは足を組む。
「日持ちするように煮たんだよ。アルノリトにも煮てやるって約束してた。お前に味見してもらおうと思って、この騒動ですっかり忘れてたが」
「ご当主じゃ駄目なんですか?」
「あいつは食いすぎるんだよ。味見にならん」
 普段は小食なのに、甘いものが出たときはよく食べるのだ。目を輝かせて「もっと」とせがんでくる。テオドールは毎回、口をぱっくり開けてぴよぴよ鳴く雛鳥に、食事を与えている気分になるのだ。
 その様子が想像できたのか、キールは肩の力を抜いて、苦笑した。
「なんだか、ご当主に内緒で食べるのに罪悪感がありますけどね。……うん、美味しいです。色は悪いけど。キイチゴの種類の問題かな」
 器を持ったキールは、さじで一口ふくんで、頷いた。
「あなたの作るものは、なんと言うか……母親というか、祖母の味付けを思い出しますね。素朴だ」
「田舎料理で悪かったな」
「だから、そう悪く取らないでくださいよ……これでも、私はちゃんと美味しいと思ってるんですよ? こういう場所で人の作ったものを食べられるというのは、私にとってありがたいことなんですから」
「料理、覚えようと言う気は?」
「それは、あなたから字を覚えるやる気を引き出すくらい、難しい」
「……納得した」
 わかりやすい例えだ、と思う。確かに教えてくれとは言ったし、実際教えてもらったのだが、三文字くらいしか書けないし覚えていない。苦手意識が先に立つ。やはり自分から興味を持たないと、人間なかなか覚えられないらしい。
「それで──明日、あの人たち帰るんだろう?」
 そっけなくそう言葉を向ければ、キールの表情にまた、機嫌の悪さが戻った。
「私たちの話、聞いてました?」
「いや。玄関先で、さっきの騎士とすれ違ったときに。確か──ハンスとかいった」
「様、をつけてくださいね、一応。その程度で市民に斬りかかる方でもないとは思いますが」
「……あの人たち、外で夜を明かすらしいけど」
「殿下の注文の一つですよ」
 キールは皮肉の様に言いながら、窓の外からかすかに見える、松明の明かりを眺めた。
「お前と同じ屋根の下で一晩過ごすなんて、気色悪くてしょうがない──と」
「あの人も言うな……」
 テオドールも眉を寄せた。別に褒めてはいない。あの美しい容姿で、よくあんな喧嘩腰の言葉がポンポン出てくるものだと、ある意味関心はしたが。
「……でしょう? まぁ、ハンス様は、殿下に対しては他が見えない忠犬のような御方ですので、それで帰ってくださるのであればと、素直に外へ」
「……お前の言い方も辛らつだ」
「身に覚えもないのに、間男を前にしたように睨まれれば、さすがに私もやさぐれますよ」
 そう言うキールも半笑いだった。テオドールが席を外している間、話している最中にも、どうやらそういうことがあったらしい。
「お前睨んでどうにかなる話かよ」
「なりませんけど、気が治まらないんでしょう。殿下が私の肩を持つので、余計に気に食わないんでしょうけどね。ハンス様も城に呼ばれていたのに、殿下はあの方を頼らなかったわけですから」
 キールの言葉は、ため息交じりだった。
 イラリオンの事は案じているが、そこにあるのは幼少期の綺麗な友情の思い出のようなものなので、ハンスが持っていたような強い執着とは全く種類が異なる。イラリオンとしても、幼少期の貴重な理解者であったキールのことは幼馴染のように大事にしているだろうから、別にそこに、愛だのなんだのはないのだ。
「あの人……ハンス、様? 殿下のこと、好きか」
「そりゃもう、見てわかるじゃないですか。今まであまり関りのない方だったし、騎士団の所属も違ったし、そんな噂は耳にもしませんでしたけど」
 キールは再度、ちらりと窓の外に視線を向ける。
「……ハンス様は、イラリオン殿下をお慕いしているんでしょう。美しい、姫君に向けるような感情で」
 そう吐き捨てるキールは、若干怒っているようにも見えた。
「まぁ殿下は見ての通り、美しくていらっしゃるので、そのように気が迷われるのも仕方ないかもしれませんけどね」
「あぁ、お前も経験者だったな」
「私の子供の頃の淡い憧憬を、あの方の肉欲の混じった劣情と一緒にしなくでくれません?」
 キールも鼻で笑いながら、キイチゴを完食した。
(肉欲とまで言われると……途端に生々しい)
 想像して、ちょっとげんなりした。イラリオンはおそらく、ハンスの気持ちもすべて知っているのだろう。あの騎士然とした男が、はっきりと口にするくらいなので、彼の中で、もう迷いなど吹っ切れているに違いない。
 しかしイラリオンにその気は全くない。同い年の異母兄に強すぎる忠誠と愛情を向けられれば、気色悪いと言いたくなる気持ちも、わからんでもない。
(あの人の家系はほんとうに闇が深いな)
 半分、イラリオンに同情してしまう。
 ハンスはイラリオンの犬にでもなんでもなる気ではいるのだろうが、当のイラリオンは、そのような犬を持つ気はない。勝手な忠犬気取りにも苛立つのだろう。
 とはいえハンスはまだ、イラリオンの味方ではあるのだろうが。
「……あなたもあまり、関わらないほうがいいですよ」
 キールは、食べ終えた食器とさじを、テーブルの上に置く。
「殿下には申し訳ないですが、人の愛憎だの嫉妬だの、その手の感情が絡んでくると、他人からの口出しに冷静さが保てなくなりますから。あの人のは、ちょっと怖い」
「わかったような口をきくんだな、お前も。そこまで経験豊富か」
 呆れたように言えば、キールも薄く笑った。
「そうでもないですけど……まぁ年上のあなたの方が、こういうことはわかるのかもしれないですけどね」
「俺がわかるかよ」
 笑って言ったが、胸の内では、必死になって押し隠そうとしていたものが、じわりじわりと顔を出す。
 自分の、恋のようなものは──別に成就しなくたっていいのだ。
 一生言うつもりもないし、誰かに言ってもいけない。
(これは、恥だ)
 だから表には出してはいけない思いだ。だがハンスの様に、なんだこいつと思わせつつも、己の煮詰まった気持ちを恥とも思わずに言える姿を見て──なんだか、ある種の羨ましさのようなものも抱いたのだ。
 自分はきっと、義姉に「気色悪い」なんて言われたら、立ち直れないだろうけど。
「テオドール」
 ふと己の思考に沈んでいると、キールが名を呼んだ。目線を上げると、目の前の男は、じっと真顔で、こちらを見ていた。
「……なんだよ」
「あなた、好きな人はいないって言ってましたけど……本当はいるんじゃないですか? 残してきた人とか」
「なんで」
「私とこういう話題になったとき、絶対黙るか、誤魔化そうとするから」
「俺の話はいいだろ」
「ほら、そうやって」
「だったら、なんだよ」
 テオドールは、むっとした口調でキールを睨む。
「面白がるくらいなら、言わせないでくれ」
「面白がる気なんて、ないですよ」
 キールの声も茶化すものではなかったので、テオドールはそれ以上怒れなかった。だがここで言う気にもなれなかった。人に言えば、この気持ちがもっと、はっきりと輪郭を持ちそうだった。自分は、ぼやけたままにしておきたいのだ。
「……俺のことは、いいんだよ」
 しばらく続いた沈黙の中で、テオドールは話題を切り替えるようにつぶやく。
「それより、こっちのことだ。明日、殿下は帰るのだと聞いた。アルノリトも連れていくのか」
「……私は変わらず反対ですが、悲しいことに多数決で。あとは、明日のご当主の気分次第」
 そう語るキールの口調には、抑揚がない。
 その点に関しては、本当に憤っているのだ。
「イラリオン殿下の主張は、先ほどおっしゃっていた通り。いずれ知るのであれば、父を、そしてこの国を知るべきと考えている。ご当主とは対話が成立しますし、先を見据えて、子供のときからきちんと、我々と理解を深めるべきだと」
「……もう一人の方は?」
「ハンス様は、当然ですが、殿下がお戻りになるならそれでいいと思っておられる。ご当主と共に城を訪れることも、賛成の立場です。むしろ、殿下が今後城内で身を守るのに役立つのではと思っている」
「……」
 テオドールは眉間を寄せた。
 この国の人間の、この森とそこに住む怪鳥への恐れ具合と言ったら、それはもう、魂にまでしみ込んでいるのでは、と思わせるほどのものだ。
 イラリオンは森に逃げ込み、その鳥の信頼を得た。その姿を周りに示すことで、周囲は祟りを恐れて、イラリオンに手を出さなくなるのでは──と思っているのだろう。アルノリトがまだ、無邪気で大人の言う事を聞く、父親に会いたがる素直な子供であることを知った上で。
「……手段を選ばない人だな」
 眉間にしわが寄る。愛する男のためならば、雛鳥さえ盾のように使うということか。
「あなたは嫌でしょうね、そういうの。一番可愛がっているし、信頼されているから」
「それはお前も同じだろ」
「私は……あなたほど純粋に、愛せていませんよ」
 キールはコートを小脇に抱えソファを立つと、テオドールのそばまでやってきた。
「現状、決まったことはそれだけです。……あなたは明日、どうするんです?」
「俺?」
 突然の問いに、テオドールは眉間にしわを寄せつつ疑問を浮かべた。
「明日、殿下は帰る。ハンス様はその伴につく。ご当主はおそらく行きたいと言い出すし、そうなれば私も同伴する。あなたは?」
「……行くわけないだろ、普通」
 何を言っているんだこいつは、という顔で、テオドールはキールを見た。
 自分一人だけ、国も身分も全く異なると言うのに。しかしキールは不満げだ。
「……ご当主が泣き出したらどうするんです」
「お前か殿下が頑張ってあやせよ」
「あの方が今日みたいに本気でぐずりだしたら、私じゃどうにもならないんですけど」
「今日のは特殊だろ。お前には遠慮があるから、普段あそこまでぐずらんだろ。機嫌悪くなったら菓子でもやっとけ」
「いや、そういうのじゃなくて……ご当主も寂しがるだろうし、その……」
 キールは言いにくそうに、小首を傾げつつ、眉を寄せた。
「……私が、不安なんですよ。あなたがいないと」
「……頼る相手、間違えてるぞ」
 思わず真顔でそう返す。目上にも自分の主張を曲げない立派な騎士様が、一体何を言っているのだ、という気持ちだった。
「お前、俺がどういう経緯でここに来たか、一番よく知ってるだろう?」
「知っていますよ。この国で今、私があなたの事を一番よく知っている」
 別に、思い上がりだとも思わない。事実そうだとテオドールも思っている。
「なら……」
「逆に、私の胸の内を今一番知っているのも、あなただと思ってる」
「……」
 細められた黒い瞳に、冗談のような色は交じっていない。下手に振り払うこともできなくて、テオドールは真顔でキールの顔を見続けるしかない。
 キールは手を伸ばし、座ったままのテオドールの肩に触れかけたが──あとわずか、というところで指を握り、触れてくることはなかった。
「……でも、これは私の勝手な思いです。我々の国のいざこざに巻き込むなんて、あなたはふざけるなと思うでしょう。明日の朝の、あなたの気持ちにまかせますから──あなたは、好きに選んでください。来ると言うなら、あなたの身は必ず守りますから」
「……キール」
「では、おやすみなさい」
 キールはそのまま目線も合わさず踵を返すと、部屋を出て、私室として使っている書斎の方へと歩いて行ってしまった。
 皮のブーツの足音が、徐々に遠くなるのを聞きながら、テオドールは一人客間に残されたまま、立つことも忘れていた。
(選べ、とか……)
 奴隷市で買われた人間に向ける言葉じゃないだろうに。自分は本当に贅沢をしているのだろうなと、思わず笑った。
 あのとき市場で一緒に並んだ人々が今、どうなっているのかなんて知らない。だが自分ほど、伸び伸びと生かしてもらっている人間は少ないだろう。勝手に考え行動し、文句も言える。己のすべてを否定されるわけでもない。
 そして今後どうするか、好きに行動を選べと言う。
(俺なんかを頼ってどうするよ)
 ──全部頼っているのは、自分の方だというのに
 家族の行方を探すことも衣食住も、すべて頼り切っているというのに。あの男の青臭い人の良さに救われている部分も、ある癖に。

(続く)