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檻の中のカラスと孔雀

28:猛禽と、仮面の男


 馬車は、すでに馴染み深い森は抜けて、市街地に入っていた。街の様子を眺めるのは、テオドールにとっても久しぶりのことだった。ここ最近は、ひたすらに濃い緑ばかり眺めていたような気がする。
 馬車は、とある広場にさしかかる。
 そこは、見覚えのある場所だった。小雨の降る中でも、賑わいは少ないが、朝の市場が開かれている。
 さすがに、早朝から人は売られていないようで──テオドールは若干、ほっとした。もうあまり、見たい光景でもない。
 手首や足首には、未だ枷が食い込みこすれた痕が、黒ずんだ状態で残っている。めくれた皮もふさがっているのだが、もう治らないのだろうか。記憶もこの傷も、この先ずっと自分についてまわるのだとしたら、それは随分と煩わしい。
「……目的地、見えてきましたよ」
 そう手首を無意識に撫でていたとき、黙っていたキールが口を開いた。その言葉に再度馬車の窓を覗く。だが、周囲は変わらず、市街地が広がっているだけのように思う。
「城なんか見えないぞ」
「市街の奥に、城壁が見えるでしょう?」
 言われてみると、延々と続く大きな石壁が見える。その奥には、背の高い木々が生えているようだが──。
「あれ、全部城の城壁ですよ」
「……建物が全然見えないんだが」
「敷地が広大ですからね。ここからは全貌が見えないんじゃないかな」
「ふぅん……。グーテンの城ってのは、馬鹿みたいにでかいんだ、とは聞いてたけど」
「あぁ。あなた、うちの国の名前、ちゃんと知ってたんですね」
「……今まで、口にも出したくなかっただけ」
 そう言えば、キールは言葉に困ったように苦笑していた。
 学がなくとも──ブーチャという、ここから船でなければ行けないような距離の小国にさえ、この国の噂は届いていた。
 周辺国にはその軍事力は脅威だと聞いていたが、まさか得るものが何もないような自分たちの国が襲われるとは、思ってもいなかった。 前情報があったところで、所詮自分たちは、逃げるしかできなかったはずなのだが。
「あ、お菓子屋さんがある!」
 気が重い自分たちとは逆に、アルノリトはまだ外を眺めながらはしゃいでいた。視線の先には、色とりどりの菓子を売る店がある。アルノリトはきらきらとした目で、キールを振り返った。
「キール、帰りにお菓子買って!」
「まぁ、お行儀よくされていたら……でもあの店より、今から行く城の方が、正直茶菓子はあると思いますけど」
「ふぅん。お城って凄い。美味しい食べ物いっぱいあるんだね。楽しみだなぁ……あ、でもテオドールのご飯も好きだよ!」
 なんだか、慌てた様子で付け足された。こちらは全く気にしちゃいないのだが、そのじたばたした様子が面白かったので、思わず笑ってしまった。
「それはありがとう。でも、俺が来るまでこいつが料理していたんだから、キールのご飯も褒めてやらなきゃ可哀想だろ」
「え、えっとね……キールのは、そざいのあじで美味しかったよ!」
「素直に芋そのものだったって言ってくださっていいんですよ……まぁ、塩加減くらいはできるようになります……」
 キールは投げやり気味に笑っていた。出発前の、緊張に満ちた雰囲気はなくなっている。若干肩の力も抜けたらしい。
(こいつも、気を遣うんだろうなぁ)
 アルノリトはまた、窓の外をじっと眺め始める。この子供なりに、少し重苦しくなっていた馬車の中の空気を、なんとかしたいと思ったのかもしれない。ときどき、自分たちの顔を見ながらどう振舞うべきか、考えているようにも見える。
 ──心がある。見極める。
 この子供に対してそんな言葉を残したのは、キールの前任者だったはず。
 テオドールは、自身こそがこの地では馴染めていない異物だと思っているし、この地に縁がないゆえに、みなが恐れる怪鳥の祟りとやらも、それほどぴんとこない。
 だからアルノリトを見慣れた今となっては、それほど気にせず叱ったり甘やかしたりしている。この子供が、まだ甘えたい盛りで、別に周囲に敵意も恨みもなく、小さな胸の内に不安をたくさん隠しているも知っているからだ。驚くような別の生き物とも思えない。
(お前は、どう見極めた?)
 テオドールは、対面で剣を肩に抱いたままの男に視線をやる。
 願う事なら、自分と同じ方向であってほしいと、テオドールは思う。

 広大な敷地だと言われた通り、見張りが立つ城門を抜けても、なかなか目的地には到達しない。しかし、深い木々の生えた小道をいくらか進んだところで、ふいに馬車が停まった。
「着いたのか?」
「いや、まだ乗りつけるような場所では……」
 側面の馬車の窓からは、前方の様子が良く見えない。扉を若干開けて外の様子をうかがったキールは、その瞬間ぎょっとしたような顔をして、テオドールの二の腕を掴んだ。
「降りましょう。でもご当主はそのままで。私が言うまで降りないで」
 キールは馬車の扉に手をかけながら、緊迫した顔でこちらを見る。
「ただ──降りたらすぐ、地面に膝ついて、頭下げてください。文句は後で聞きますから、今は私の言う通りにして」
「……」
 テオドールも黙って頷いた。キールの顔を見れば、文句を言っているような状況ではないのは理解した。
 きょとんとしているアルノリトを残し、二人して音を立てないよう、静かに馬車から降りる。小雨の降る中、地面に片膝をつき、首を垂れる。
 外に出てわかったのは──前方にいるイラリオン以外、騎士はみな馬から降りて、すでに片膝をついているということだ。
 イラリオンは何者かと対峙している。
(全員膝をつくような相手……?)
 テオドールは頭を下げつつも、視線だけを前方に向けて、注意深く様子を見守る。
 ちらりと見えたのは、イラリオンが対峙するその男の姿だった。
 紫の分厚い生地に、金糸の刺繍がされた上等な外衣をまとい、腰に剣をさした、雰囲気的には四十手前の男。独特の灰色の髪は襟足までの長さで風に揺れ、髪と同じ色の瞳も、気難しそうな、だがこの場を楽しんでいるような色を浮かべていた。
 だがその男は、顔に、縦半分に割った奇妙な面のようなものをつけているのだ。そのため男の表情は、半分ほどしかわからない。
「……戻るとは思わなかったよ、イラリオン」
 男はにこりと穏やかに微笑み、腕を組んでいた。だが遠目に、その目は笑っていないように見える。
「残念ながら、しぶとさと悪運だけはあるもんでねぇ」
 イラリオンはいつもの調子で答えていたが、若干その声に、いら立ちがあるのがわかった。
「直々のお出迎え、感謝するよ、お兄様」
「感謝されるほどの事でもない。こちらも、お前のことは案じていたのだ。傷を負っているという話を聞いていた。……背の傷は、痛かろう?」
「……さすがお兄様」
 イラリオンの顔が歪む。
「ほかの人が知らないようなことまで、なんでもまぁ、よぉく知っていらっしゃる」
 男二人は笑顔だが、周囲には、ぴりぴりとした空気が流れていた。イラリオンと共にいたハンスも、その傍らに膝をつき、唇を噛んでいるような様子が見える。
「……あの方は、ミヒャエル様といいます」
 テオドールにだけ聞こえるような声で、キールは囁いた。
「あの方を、殿下やハンス様と同じようには思わないでください。……容赦がない」
(それは、見りゃわかる)
 我は生まれながらの統治者である──とでも言いたげな、妙な威圧感。人をひざまずかせて当然というような、その態度。それは、イラリオンにもハンスにもないものだった。
 周囲で膝をつく騎士たちは、どことなく恐れを持って、この男の声を聞いているように見えた。
 そしてその男に、イラリオンだけは歯をむき出しにして、噛みつかんばかりの様子。
 きっとイラリオンは、この男によい印象などまるでないのだ。
 おそらく彼を長年虐げてきた相手であり──今回、イラリオンの背に傷を負わせた黒幕だと、確信しているのだ。

(続く)