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檻の中のカラスと孔雀

31:猛禽とカラス


 キールが戻ったのは、それから随分と時間が経った頃だった。
 おそらく昼は過ぎていたのだろうが、外は薄暗いままで、正確な時間はよくわからない。
 この館の周囲は、今はむっとするような、白くて深い霧に包まれている。その中を突き抜けて帰ってきたであろうキールは、肌と前髪を湿らせていた。
 扉を開けて、すぐ横に立っていたハンスの姿に気付いたキールは、特に表情を変える様子もなく頭を下げる。
「……お手間おかけして」
 ハンスがそこにいることに驚いてはいなかったようなので、彼はハンスがこの場所にいることを事前に聞いていたのだろう。
 だが頭を下げられたハンスは、手でそれを制した。
「君が頭を下げることはない。……むしろ私が謝らなければならないことが多い」
「それは、もういいです」
 深刻な話になりそうな気配を察したのか、キールはため息のような息を吐いた。
「ハンス様も早く、ご自分が行かれるべきところに行かれた方がいいと思います。こんなときですので」
 ハンスはしばらくキールを無言見つめていたが、やがて頷いた。冷静ではあったし、イラリオンの命令だから──とここにいてくれたが、心の中は穏やかではいられなかっただろう。ハンスはテオドールの方を向いて会釈すると、足早に屋敷を出て行った。
「キール、お帰り!」
 ハンスが部屋を出たところで、ソファに座っていたアルノリトがキールの前までやってきた。足元でにこにこと笑いながら出迎えるアルノリトを見て、キールも表情を崩す。
「遅くなってすみません。良い子にされていましたか? ……あぁ、お菓子も用意してもらったんですね。食べすぎたりしてませんよね?」
 テーブルの上に盛られた焼き菓子を見て笑うキールに、アルノリトは怒られると思ったのか、ドキドキした様子で答える。
「に……二個食べた」
「あぁ、それくらいならいいですよ。でもあまり食べ過ぎないように。ご飯が食べられなくなりますからね」
 そう言いながら、キールはテーブルの上に、茶色の紙でくるまれた包みを丁寧に置く。
「なんだ、それ?」
 テオドールの言葉に、キールは一瞬苦笑いした。
「これも菓子だそうです。ミヒャエル殿下から」
「……あの人?」
 ほかにも持っていた封筒だの書類だのをソファの上にばさりと置いたキールは、何とも言えない顔でテオドールの方を振り向いた。
「子供にここは、退屈だろうということで。差し入れですよ。直接頂いたわけではないですけどね。毒など入っていないと、使いの方も笑っておられましたが……正直、反応に困った」
「……」
 テオドールも、眉間にしわを寄せた。そんな気遣いをするような男には、全く見えなかったのだが。
「ねぇ、キール」
 再びソファに戻り、つかない足をぷらぷらさせていたアルノリトは、無邪気に問う。
「まだパパと会えないの?」
 アルノリトの目的は、それだ。美味しいお菓子を食べることでも、外に出ることでもない。だから、今まで駄々をこねることもなく、ハンスが感心するほど行儀よく待っていた。
「……ご病気ですからね」
 キールもその期待を込めた笑顔を前に、言いにくそうに答える。
「今、いろいろと準備をしているかようですので……もしかすると、夜になるかもしれません。ご当主、それまで待てますか?」
「うん。待つ!」
 アルノリトはこっくりと頷く。満面の笑みで頷かれては、キールもそれ以上、何も言えなかったらしい。微笑んだまま頷くだけだった。

 いつまで待つのかわからない、という状況は、時間を異常に長く感じる。アルノリトはソファに座ったまま、こくりこくりと舟をこぎ始めた。
「眠いなら、寝とけよ」
 テオドールは声をかけるが、アルノリトは目をこすりつつ首を振る。
「でもー」
「呼ばれたら起こすから」
「……僕が寝てる間に、みんながどっか行っちゃったりしたら、嫌だもん」
「移動するときはきちんと俺が起こすから。安心して寝てろ」
「うん……」
 そう言うと、アルノリトはころりとソファに横になり、すぐに寝息を立て始めた。
(朝、早かったからなぁ)
 テオドールは、そのあたりにあったブランケットをかけてやる。すぐに、すよすよと眠れてしまうところは、ある意味羨ましい。
 子供と生活するようになって知ったのは、幼い子供というのは、はしゃいでいても静かになったなと思った瞬間、寝ていたりするということだ。朝寝坊して昼寝もして、夜もきちんと寝ている。眠れなくて悩むことなんて、きっとないのだろう。
 ふとキールを見れば、彼は少し離れた場所の窓際の椅子に陣取り、大量に渡された資料を眺めていた。その横顔にはなんとなく機嫌が悪いというか、あまり話しかけてほしくなさそうな空気が漂っている。
「んー……」
 アルノリトはうなりながら、もぞもぞ寝返りをうつ。よく寝ているので起こすのは悪いと思い、距離を取ろうと思ったが──部屋の中を見渡してみて、座れる椅子がキールのそばにしかなかった。しょうがないが、機嫌が悪いのを承知で、目の前に座る。
「……何も、変わりはなかったですか」
 椅子を軋ませながら腰を下ろすと、意外にもキールの方から声をかけてきた。ただやはり、不機嫌ではあるらしく、書類に視線を落としたままだ。
「……特には」
「なら、よかったです。周りが、あなた方にハンス様が付かれていることを知って、焦っていたので」
「あの人がそこまで信用ないか?」
「違う。あの方の身に何かあったら、と。そちらの方を心配されていた」
「……代わりに来る気もない癖に。よく言う」
 テオドールはソファの上で、すよすよと寝ている子供に視線をやる。まだ見ぬ父に会いたいと願い、大人の様々な都合も重なって、外に出て来たアルノリト。
 あの屋敷にキールの派遣を決めた上層部たちは、あの子供が人間を誰であろうと構わず、頭から齧るとでも思っているのだろうか? そんなことを思っていると、キールがわずかに笑った。
「あなたのその、歯に着せぬ物言い。聞いていると胸が晴れますよ」
 おそらく「責任取れ」とまではいかないが、相当小言を言われたに違いない。
「ちょっと前の私なら、そんな言い方はよくないとか何だとか、説教臭いことを言っていたかもしれないですけど……私も擦れたんですかね」
「潔癖過ぎても嫌がられるからいいんじゃないのか。角が取れて」
「だといいですけどねぇ」
 キールは読んでいた資料をまとめ、少々乱暴に封筒に突っ込んだ。
「まぁ、私も大丈夫でしょう、とは言いましたよ。信頼はしているので」
「あの人か。話してみると意外に話しやすかったな。肝も座って」
「……そうなんです? でも私が言ったのは、ハンス様のことではないんですけど」
「は?」
 そう問えば、キールは封筒の口を曲げて、テーブルの上に放り投げた。
「あなたがいるから大丈夫、という意味ですよ。……でもみんな、目を丸くしていましたけどね。そして皆様、いろいろ勝手におっしゃるわけですよ。どこの馬とも知れないだの、奴隷を城に上げるなだの、何ができるだの」
「……」
 テオドールは黙った。当然自分の身の上は、この男によって報告されているはずだった。おそらくこの男が発した言葉以上に、散々な言われようをしたのだと思う。一瞬来なければよかったのかと思ったが、キールはなんだか愉快に笑っていた。
「でも、私も腹が立ったので言い返してやりました。じゃあ私の代わりに、一緒に来てくださった彼以上に、ご当主の面倒がうまくみれる人を連れてくればいいじゃないかと。そこまで言うなら、あなた方が行かれて私に見本を見せてください、と。……みんな黙っちゃいましたよ。上に歯向かったのは初めてかなぁ。出世できないだろうなぁ。まぁ、もうそういうルートからはとっくに外れてるでしょうけど」
 キールは言いながら、椅子の背もたれにぐったりと全身を預けた。機嫌が悪そうに見えた原因は、そういうひと悶着があったから、だったらしい。
 テオドールは言われたことに怒ると言うより──呆れていた。
「お前、本当にそういう立ち回り下手だな……俺がそんな風に言われるのは、当たり前だろ。はいはいって、聞き流しとけばよかったのに」
「そこを流してしまっては、貴方に対する侮辱を私まで肯定することになるじゃないですか」
「……潔癖」
「どうせ、こういう生き方しかできませんよ」
 キールの声は嘆きというより、開き直っているように感じた。
「あなたの性根が、救いようもないほど悪かったらかばいもしませんけどね……意外に、悪い人じゃないと知ってるわけですよ」
「意外は余計だろ」
 そう言えば、キールは苦笑した。
「貴方は顔と態度で損しすぎです。……まぁ冗談は置いておいて。そういう誠実な面は、いくら見栄えが良かろうが身分があろうが、持てない人には持てない部分だと思うから。だからご当主もあなたを慕うのだと思うし。子供はそういうの、結構見抜くみたいですからね」
「……」
「やっぱり、褒められるの苦手ですよね。あなた」
 言葉に困って黙ってしまうと、やはりキールに笑われた。面白がられているような気がする。さっさと話を変えたかった。
「俺のことはいいだろ。それより……この城の中、どうなってるんだよ。活気も何もありゃしない。大国の城って言う割に、どいつもこいつも葬式中みたいな顔してる」
「実際、似たようなものでしょう」
 キールは足を組み、目を細めた。
「報告を聞いた限りでは──陛下の病状は思ったよりも深刻。イラリオン殿下の言っておられる通りです。後継者の指名が済んでおられないのも事実。おおよその感じでは年長のミヒャエル殿下だと思われていますが、いろいろと噂をお持ちでもあるので……」
「……母親殺し、とか?」
 ぽそりとつぶやいたテオドールを、キールは複雑そうに見た。
「ハンス様は、そこまで喋ったのですか」
「まぁ、話の流れでいろいろと。あの人も板挟みなんだと思うけど」
「……」
 キールも黙った。おそらくあの男の周りで不審な死や失踪が続いているのは確かで、いくら優秀でも、そんな男が世継ぎとは──という声も、あるにはあるのだろう。
 対してイラリオンは、ミヒャエルと性格が正反対。芸術家肌で扱いづらい面もあるが、気さくで親しみはある。君主に向くかという話は別として、彼を押す声があることも、わかる気がする。
「今回、帰還の際にミヒャエル殿下が待ち構えておられたことで、対立構図ってのが周りの者にも見えてしまいましたからね。ひと悶着あるだろうって、みんな顔色も悪くなりますよ。殿下は皇位なんて欲しくないでしょうけど、周りの者はそうさせてくれない。結局……殿下が懸念されていた通りになってしまった」
 キールは嘆く。
 あのイラリオンという男は、あのまま──誰も来ないような森の中で、好きな絵でも描いて穏やかに暮らしていれば良かったのかもしれない。しかし彼の血筋と身分が、それを許さなかった。イラリオン自身もそれは、わかっていたのだ。いずれ表舞台に帰らねばならないことも。そして自分が周囲に流されるまま周りと対立すれば、周囲や己も血を流すだろう、ということも。流されたくなくても、結局抗えないだろう、という事も。
「でもそれに……あいつを使ってほしくはないな」
 テオドールはソファですやすや寝ているアルノリトに視線を向けた。
 イラリオン自身は、アルノリトへの同情と父への嫌がらせという名目で、あの子供を森から出すことを進言した。そこに裏なんかなくて、本当にそうとしか思っていないのだとしても、周囲はそう思わないだろう。怪鳥の威を借りて身を守ろうとしていると思われても仕方ない。事実、ハンスはそうする形で、イラリオンを守ろうとしている。
「……あなたは」
 キールは組んでいた足を戻し、若干前のめりになって、テオドールの顔を覗き込む。
「私も殿下のために、そういう手に出るのでは……と思ったりは、しない?」
「お前?」
 テオドールは、真顔で小首を傾げた。
「お前は、そういうのは好かんだろう。ずるく生きられないから、今も苦労している癖に」
「そう、見えますか」
 キールは微笑んだ。微笑んだまま立ち上がると、手をこちらの肩に添える。この男への警戒心というのもなくなりつつあったので、テオドールは何をするのかと思い、特に振り払いもしなかった。
「何──」
 そう問おうとした瞬間、キールが身をかがめた。意図が分からないまま、唇にぬるりとした感触が走る。
 これが人の唇で、今こんなことをするのはこの男しかいなくて──ということは、一瞬遅れてやってきた。戯れにしては度が過ぎるほど、ねっとりとこちらの唇をねぶった男は、呆然とするテオドールから身を離すと、唾液に濡れた自分の唇を、手の甲でぬぐう。
「お前……今」
 思考が固まる。なんとかそれを解きほぐして、必死に状況を理解しようとしたが、考えれば考えるほど、絡まっていく。
「俺に、何した?」
 ようやく絞れ出せたのは、そんな間抜けな言葉だった。
 
(続く)