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檻の中のカラスと孔雀

32:猛禽、カラス、孔雀の寝言


 怒りだの不快感だの、そのあたりの感情は不思議と生まれなかった。
 ただ、この男が何を考えているのか、急にわからなくなった。不本意ながら共に暮らして、顔を見れば言いたいことくらい、大体わかるようになっていたはずなのだが。
「……意外に抵抗ってのは、ないものだ」
 己の唇を手の甲でぬぐって、キールはそう、一人感慨深い呟きを漏らす。その表情に、悪びれたものはない。
「……一人で納得するなよ」
 その顔には、少し腹が立った。アルノリトが近くですよすよと寝ていなかったら、顔面張り倒していたかもしれない──そんな声が出た。
 だが自分がそんな物騒な気配を出しても、目の前の男は相変わらずへらへらと笑っていて、自分の目の前の椅子に、先ほどと同じように腰を下ろすだけだった。
「……寝たら?」
「何故?」
「お前、ちょっとおかしいから」
 ここ数日、この男があまり寝ていないことは知っている。まだ若いし、短い睡眠でも己を休める術は教え込まれているのだろうが、我慢だの余裕だの、そういったものが徐々にこの男から消えているような気がした。
「おかしくなんてないですよ」
 キールは若干むっとしたように反論したが、テオドールは軽く息をついて、諭すような視線を向けた。
「……やけにはなるなよ。俺らの側に立ってくれるのは嬉しいが、お前、死ぬまでここの担当やりたいわけじゃないんだろうが。だったらもうちょっと、うまくやれ。俺相手に多少当たってくるのは構わんが」
「……あなたは」
 キールは再び、こちらを機嫌の悪い瞳で見つめてくる。
「こういうとき、妙に冷静で、悔しいくらいに大人ですよね。……私はそれを見て、自分の子供っぽさを思い知らされる。私に当たられたって、良い気分じゃないでしょうに。それでもいいと?」
「それくらいは飲んでやるって言ってるんだよ。……お前とは取引している。そっちの方が、俺には大事」
 キールもため息をついた。
「……忘れていませんよ。それは、勿論。偉そうに、取引だって言いだしたのも、私だってことも」
 緩慢な動作で、テーブルの上に投げてあった書類入りの封筒を手に取る。不機嫌なこの男が乱暴に書類を入れ直したため、封筒は不格好に膨らみ、口からは紙が飛び出している。それを整えながら、キールはなんだか不満そうな顔をしていた。部屋に帰ってきてから、この男の心はずっとささくれ立っている。
 がさがさと紙を整理する音と、子供の幸せそうな寝息と、雨音と──そんな静かなだけの時間がしばらく過ぎて、封筒を閉じると、キールはちらりと、ばつが悪そうにこちらを見た。
「……さっきは、いきなりすみません」
 いたずらをして、親が怒らないか確認しながら事の顛末を言い訳しようとしている──そんな目だった。
「からかいたかったわけでも、あなたの反応を見たくて遊んだわけでもないですよ」
「お前にそんな余裕も、趣味の悪い茶目っ気があるとも思ってないよ」
 そう呟けば、キールは苦笑いを浮かべた。語ることを許されて、安堵したような顔だった。
「周りが勝手なことばかり言う中で、あなたは淡々と変わらなくて。私を信じてくれていることが嬉しくて、有難くて、申し訳なくて──なんというのかな。こう、気持ちが押さえきれなくなってしまって……。うまい言葉が見つかりませんけど」
(お前は、押さえきれなくなったらそう出るのかよ)
 酔っぱらったら誰これ構わず抱きついたり、口づけする面倒な奴がたまにいるが、こいつもそういうのだろうか──と考えたが、キールも言いにくそうにしているので、聞いているこちらもだんだん恥ずかしくなってきてしまって、強く言う気が失せる。
「……怒ってません?」
「……別に。減るもんでもないし」
「意外に、慣れてらっしゃる?」
「そうでも……ないかな」
 正直な話、テオドールには恋愛経験など、ろくにない。今の自分の気持ちも、相手と離れて初めて気付いたくらいだ。生活に精一杯で、自分の事は後回しにしがちで、年齢の割に、そういうものとは縁遠い生活を送っていたように思う。
 ──この男はどうなのだろう?
 昔の初恋はちらりと聞いたが、外部に恋人がいるなんて話は聞いていない。兵士だの騎士だのは、戦場では男を抱くことも決して珍しくないという。根っからそういう環境に育ったこの男は、自分よりもそういうものに、抵抗はないのだろう。何よりまだ若い。ため込むものも、あるのだろうが──。
 「ただ何て言うか……せめて相手は選べよ。お前は、殿下みたいに華やかで綺麗なのが好きなんだろう。目の前にいるの、そういうのじゃないからな」
「でもじっくり見て、時間が経って、ようやくいいなって思える地味なものもあると思うんですけど」
「は?」
「あなたとか。最初の印象と、随分変わりましたよ」
「……」
 しばらく、見つめ合う痛々しい空気のまま、沈黙してしまう。
「すみません」
 先に口を開いたのは、キールだった。テオドールの引きつった顔を眺めて、だんだんと冷静になったのか、頭が痛そうに額を押さえる。
「なんか今日の自分、妙に飛ばしたこと言ってる気がします……確かに、寝た方がいいんでしょうけどね。そういう状況でもないですから……」
「あ、あぁ……」
「自分ではまだ本当に、おかしくなっているつもりはないんですけど、なんかすみません……何してるんだろ自分……」
「いや、お前が疲れてるのは、知ってるし……」
 苦悶の顔で自問自答される姿を見せられて、テオドールも、それだけ言うので精いっぱいだった。
「とりあえず……仮眠くらいとってもいいと思うぞ。俺起きてるし……いきなり斬り込まれるようなこと、ないだろうし」
 そう言って平静を取り繕うが、なんだか心は落ち着かない。
(なんだこの空気)
 緊張感に満ちた空間のはずなのに、自分たちはなぜか、妙にふわふわした話題でそわそわしている。
 そんな中、ソファではアルノリトが、ころりと寝返りをうった。
「……ぱぱー」
 穏やかな寝顔で、そんな寝言をつぶやいた。おそらくこの子供は、夢の中で「優しいパパ」と会えているのだろう。なんだか幸せそうな顔で眠っている。
「……」
 二人して、アルノリトがころころ寝返りをうつ姿をじっと見ていることに気付いて、顔を見合わせて、声を潜めて笑う。
 キールは気合を入れ直すように、己の頬を両手で何度かぱしぱしと叩いた。
「……寝言言ってる場合じゃないですね。私はちゃんと仕事しますから」
「お前の邪魔だけは、しないようにしておくよ」
「邪魔なんてとんでもない。あなたがいるから、ご当主がお屋敷と変わらず、落ち着いて過ごせているんですよ。私も愚痴れる」
「まぁ、お前の愚痴聞くのが一番の仕事かもな」
 アルノリトが寝返りをうつたびにブランケットが床にずり落ちそうになるので、テオドールはかけ直してやった。
「テオドール」
 名を呼ばれ振り向くと、キールは椅子に座ったまま、微笑んでこちらを見ていた。
「私は、寝言は言いましたけど、嘘は言っていませんよ」
「……それを聞いて、俺はどうすりゃいいんだよ」
「特に何も。変わらずにいてくだされば、それでいいです」
 真摯な笑顔で告げられて、テオドールは曖昧な笑みで返すしかなかった。
 変わるなんて、逆にどうすればいいのだろう? 
 自分は結局この男を頼るしかなくて、自分の力では何もできないというのに。明日の事でさえどうなっているのか、周りに流されるだけだというのに。
(しかし、こいつはよくもまぁ、恥ずかしいことをぽんぽんと言える……)
 なんだかこそばゆい。口づけというか、唇を舐められたというか──そんな感触はまだ残っているのだが、テオドールは極力、忘れることにした。
 おそらく──この男の精神に限界が近かったゆえの、事故だ。
 テオドールはちらりと、そんなキールを見る。彼はいつの間にか、冷静そうな落ち着いた顔に戻っていて、椅子に座ったまま、剣の手入れなどを始めていた。すらりとまっすぐな、細身の長剣。この男の性格と、よく似ていると思った。
 自分は、感謝や好意を、上手く口で伝えることができない。自分では十分に感謝しているつもりだったが、恥ずかしさや緊張が上に立って、上手く出てこない。だから、自分で思うより、周囲に己の好意や感謝は、伝わっていないことが多かった。
 この男のようにまっすぐだったら、己の感情を恥じない男だったら、自分の生き方というのはもう少し変わっていたのだろうか? もう少し違う男に見られていたのだろうか?
(こいつも、好きーとか、よく言うもんなぁ)
 テオドールはソファの前にしゃがんで、すよすよ寝ているアルノリトの頭をなでる。自分の子供時代なんて、もうあまり覚えていないのだが、率先して義姉や兄に抱きつきに行った記憶もないし、好き、と自分から言って甘えたこともなかった。やり方がわからなかったし、やっていいのかもわからなかった。
 だがされると──案外悪くないものだ、と思う。それは自分が、少し歳をとったからなのかもしれないが。
(……今更教わることも多いのか)
 この地には無理やり連れてこられたはずなのに、そんなことを思うのが不思議だった。
 自分こそ、この二人には随分と癒されているのだと思う。
 
(続く)