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檻の中のカラスと孔雀

35:猛禽と、カラスの死生観


 今、この国は揺れているのだと思う。
 民はまだそれに気づかず、昨日までと同じ生活が続くと当然のように思い暮らしているが、この広大で、強固な石壁に囲まれた閉鎖空間の中では、明日の状況も読めない日々が続いている。
 だがそれはテオドールには関係のないことで、自分がいる雑木林の中の別棟も、周囲の焦りから取り残されたように静かだった。
 どうやら、主だった護衛や警護の騎士たちは、キールとアルノリトについて行っているらしい。ドアを開けて、廊下や二階の様子を確かめてみたわけではないが、あまりにも静かなこの状況が、自分一人だけ、ここに取り残されていることを教えてくれた。
 ──ここで待っていて、くださいますか。
 キールはそう、緊張した面持ちで、こちらにそう告げた。彼がこちらの顔色をうかがうような顔をしたのは、初めてだったと思う。
(俺に責められるのは嫌か)
 それとも──責められるようなことをした、という自覚があるから、あんな顔をしたのか。
 テオドールは一人で笑った。むなしい笑い声は、部屋の中に妙に響いた。
 隣ではマキーラが、変わらずぴたりと自分に寄り添っている。この健気な鳥に、自分の情けない姿を見せたくないというだけの気持ちで、テオドールは己を保っていた。
 いつしか日もとっぷりと暮れて、屋敷の周囲も闇に包まれる。暖炉の中で燃える薪だけが、部屋の中を照らす明かりとなった。部屋のテーブルの上には、燭台やろうそくもあったが、テオドールはそれに手を伸ばすことはしなかった。
 今更、自分を包もうとする闇に、あらがう気力もない。

 ──キールとアルノリトが帰ってきたのは、それよりもずいぶん後のことだった。
 時刻は深夜に近い。わずかな人の気配と共に、客間のドアが、静かに開いた。
 振り返れば、部屋を出て行ったときのままの姿で、二人が立っている。だがともに、浮かない顔をしているようだった。
 おかえり、と声をかける前に、アルノリトはこちらに走ってきて、座るテオドールの上に飛び乗ってきた。そのまま、ぎゅっと抱きつかれる。
「……どうした」
 泣いてはいないようだったが、アルノリトは見るからに不機嫌だった。時刻もおそいので、眠いというのもあるのかもしれないが、しばらくその小さな背を撫でていると、じっとりとした視線で、こちらを見上げてきた。
「……パパと、会った。おじさんたちと一緒に」
 テオドールは頷く。そのために、この子供はここに来た。緊張と喜び、期待を胸に来たはずだった。
「でも……パパは、僕のことわかんないみたいなの。名前呼んでも、こっち見てくれないの。ずっと天井見てるの」
「……」
 テオドールは想像して──眉を寄せた。
別にこの子供の父親は、アルノリトを無視しているわけではないのだ。目は開けているが呼びかけにも反応しない、そんな状態というだけだ。小さな子供に見舞わせるには、酷な姿の気がする。
「……殿下が立ち会われた時より、少しずつ、悪くなっておられるようで」
 ドアの前に立ったままのキールが、小さくつぶやいた。
「今となっては、周りの状況が見えているのかもわからない。……確かめるすべも、ありませんから」
 倒れたばかりの頃は、会話できないながらも、まだ意識を保っているのでは、という状態だったらしい。
 だからこそイラリオンは、弱った父への嫌がらせのため、アルノリトを連れてきたがった。
もちろん、父と会いたいと泣くアルノリトを思いやった部分も、多少はあったと思う。
 おじさんたちと言うからには、イラリオンやハンス、ミヒャエルもその場にいたのだろう。彼らにとって父への感情というのは様々だが、答えない父親に呼びかける小さな子供の姿というのは、どういう風に映ったのだろうか。
 アルノリトにとっても、初めての父との対面というのは──どうやら、思っていたような、そんな幸せなものではなかったらしい。死を前にした人間というのを初めてまじまじと見て、言いようのないざわつきを処理しきれないまま、帰って来たようだった。
「パパ……怖かった」
 アルノリトはうつむいたまま、つぶやいた。
「怖いって思ったらいけないんだろうけど……見てたら、怖かった。まばたきも、しないんだもん」
 大人だって、そんな状態の人間を見ているのは辛い。この子供は、いけないと思いつつも、怖いと思ってしまったらしい。
「前の人も……ああやって……死んじゃったのかな」
「……」
 この子供は、人が衰えて死んでいく過程というのを、その目で見たことがない。自らが起こした屋敷での惨劇は、おそらく小さすぎて覚えていない。
 死、という単語も知っているし、意味も分かる。だが知っているだけと、体験したことは全く違う。この子供は、初めて目の当たりにする人の死というものに、大きな衝撃を受けてしまったらしい。テオドールの膝の上で、しゅんとしてしまっている。
「人の死というのは……ただいなくなる、というだけの話ではないんですよ」
 ドアの前に立っていたキールが、静かに歩み寄ってきた。
「眠るように亡くなるというのも、一部の恵まれた方だけです。綺麗になんて死なないし、多くの方は、苦しんで亡くなる」
 アルノリトの上着をそっと脱がし、目線を合わすように、片膝を地面につく。
「周りの人間も、心の一部まで持っていかれてしまうような……そういう感覚になるんです。いなくなって終わり、じゃない。周りの人も、負った傷が癒えるまで時間がかかる。……それが、完全に治らないまま人生を送る人もいる。ひどい人だと、一生引きずる」
「……」
 アルノリトは大きな目で、そう語るキールを見つめていた。
「ご当主はお優しい。人のそういった気持ちを、わかってくださる方だと思っている。どうか、覚えておいてください。身近な人の死は、怖いことです。……そしてとても、悲しいことです」
「……うん」
 キールの話が、きちんとわかったのかどうかはわからない。だがアルノリトは神妙な顔で頷いて、テオドールの膝の上から、よじよじと降りた。
 テオドールは、難しい顔で黙り込んでしまったアルノリトの頭を撫でる。
「もう、今日は寝な。いろいろあって疲れただろう?」
「うん……テオドール、も」
 アルノリトも、悩んだように視線を向けて言う。
「早く寝た方がいいよ。すっごく、疲れた顔してるよ」
「……そうだな。そうする」
 子供の言葉に、苦笑交じりに頷くと、アルノリトは背中にどこかしょげた空気を漂わせながら、部屋を出た。隣の寝室に向かう気らしい。
「マキーラ。ついていってやれ」
 隣に座るマキーラに声をかけたが、マキーラはしばらくじっとこちらを見上げたまま、動かなかった。
「……どうした? 行ってやれよ」
 何度か呼びかけると、マキーラは渋々、という様子でアルノリトの後を追っていった。
 部屋の中に残されたのは、陰鬱な空気をまとう、大人二人だ。
「……子供っていうのは、時々妙に鋭いな」
 子供と鷹がそろって部屋から出ていくのを見送る。
 そしてそばでは、部屋の闇より黒い男が、ゆらりと立ち上がった。
「……隣、座っても?」
「来るな、なんて言った覚えはないが」
 少々とげのある口調で言えば、キールはわずかに息を吐き、横にどっかりと腰を下ろした。
 どういう顔をして今自分と接しているのかと思い横を見れば、キールは真顔だった。
 子供に『死』を語って聞かせた男。きっと、自身の思いも込められているのだろう。
「……言い訳とか、練ってきたのか」
「言い訳?」
 何のことかというような声を、キールは出す。
「お前、本当はとっくに、兄さんたちの情報、掴んでたんじゃないのか。俺に今まで、まだわからないんですって、言ってただけじゃないのか。俺が何も読めないからって」
「それは……悪いけど、違いますよ」
 キールは視線をうつむかせつつ、腿の上で指を組む。
「城に戻るまで──きちんとした情報を掴んでいたわけじゃありません。今回、ここまで早く報告を頂いたのは、私にとっても予想外だった。……とっさに言えなかったことは事実なので、誤魔化そうとしたと思われたなら、言い訳はできませんが」
「あの人たち……死んだのか」
 直接的な物言いに、キールは何も答えなかった。横目でじっと、こちらを見るだけだった。どことなく、非難の色を含んだ視線だ。
「……そんな目で見るくらいなら、そうじゃないって言ってくれ」
 テオドールは息を吐く。
「言えないなら……そんな目で俺を見るなよ。……言ったろ。その可能性、考えないわけじゃないって」
「……」
 キールは視線を落として、答えなかった。沈黙がこの男の答えなのかと思うと、体の力は抜けたが、不思議と取り乱したりはしなかった。
 あぁ、そうか──と思うだけ。
(俺は薄情なんだろうか)
 それとも考える時間がありすぎたから、ある種の覚悟ができてしまっているのか。
 死に別れる可能性、というのを考えていなかったわけではない。むしろずっと考えていた。ずっと脳裏をちらついていた。そちらの恐怖の方が勝ることが多かった。だからあえて考えないように、再会できた後のことばかり考えていた。言いたい言葉ばかり考えていた。
 キールは立ち上がると、部屋の端の丸テーブルに置かれたままの、くしゃくしゃになった茶封筒を持ってきた。
 中から一枚書類を抜き出すと、それをテオドールに差し出す。そして自身は、先ほどと同じように隣に腰を下ろした。
 テオドールには理解できない、びっしりと並んだ記号の羅列。
「……読んでくれよ」
「……」
 キールは何も言わない。
「いいよ。お前が黙ってたってことは、そういうことだと俺は思ってるし」
 ため息が漏れる。
「お前は他人に頭下げて探してくれて──結果を出してくれた。……責めてどうする」
「別に責められても、構いませんよ」
 キールは、突き返された書類を受け取った。
「……でも、先にお伝えしておきます。あなたのご家族、きちんと行く末を見つけられたわけではないんです。これ以上追えないと判断されただけ」
「……というと?」
 キールは書類に視線を落とす。男の黒く細い目は、暖炉のオレンジの明かりの中で、浮かび上がる細かな文字たちを追う。
「……あの日、わが国はあなた方の国に、労働力確保の名目で、船を出しました。大きな、数十人を乗せられるような帆船です。私はあまり海になじみがないですが、あなたは見たんでしょうね、動く大きな船を」
「見てはしゃぐような空気でも、なかったがね」
 船には乗ったが、大海原なんて、テオドールも記憶にない。暗い船底に、捕らえられた同郷の人間と一緒に、身動きも容易にできないほどに押し込まれていた。
「派遣されたのは、合計三隻の帆船です。こういってはなんですが、あなたがたの暮らす地域と我々の国では、武器の技術も戦の経験も文化も、大きな差があった。集落一つ制圧し、人材を確保するまで、一晩もかからなかった、とあります。ですが、この遠征は、わが国の視点から見ると──失敗でした」
「失敗? あれだけやってか?」
 テオドールは沸いて出てくる怒りを抑えながら、キールの横顔を睨んだ。キールは書類から、視線を外さない。
「今回の遠征で、無事帰還した帆船は、あなたが乗っていたであろう、一隻だけなんです」
 冷静に語られたが──しばらく意味が、わからなかった。
「あとの……二隻は?」
「……あなたが乗っていた船が、一番先に出航したのでしょう。あとの二隻は、同時に出航できない、何かしらの問題を抱えていたようです。帆の損傷であったり、収容した人材が暴動を起こしかけたり……。ようやく問題なしとされて出航したのが、最初の船から遅れること二日。しかし未だ、船はこの国の、どこの港にもたどり着いていません。周辺国に立ち寄った形跡もなければ、目撃情報もない」
「どこに……」
 あんな巨大なものがどこに消えるのだと、思考が固まる。しかし妙に冷静な自分が、答えを出そうとしていた。
 船は確かに巨大だった。見上げるほどの大きさ。人が造った、あんな大きなものが動くところを、テオドールは初めて見た。
 しかし、自分たち以外にも船員や兵士たちが、あの船に乗っていた。積み込んだ食料や真水には限りがあるわけで、補給もなしに、幽霊のように、永遠に彷徨えるわけがない。
「……あなたが来た頃から、ちょうど天気が悪かったですよね。長雨の季節に入りました。この季節は風も強い。ふいな強い嵐が来る。……海も荒れる」
 キールは言いにくそうに、目を閉じた。
「我々の出した結論は……二隻は航行中に沈んだのだろう──そういうことです」
   
(続く)