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檻の中のカラスと孔雀

36:猛禽と、カラスの「ろくでもないこと」


 沈んだ。

 その言葉は、徐々に自分のほの暗い深部にも、ざわざわとしみ込んでいく感覚がある。しばらく言葉も出てこない。おしゃべりなはずの隣の男も、何も言わない。
 あぁそうか──という思いが、自分を支配する。嘘であってくれたらいい。この男が、でたらめを言っているなら、その方がいい。
 しかし──こんな質の悪い冗談を言う男でも、ない。
「俺は……せめて」
 長い沈黙のあとで、ゆっくりと喉を上がってきた言葉は、自分でも意外なほど、淡々としていた。
「同じ土地を踏んだものだと、思っていた」
 きっと彼らもこの地に連れてこられて、不本意ながらもこの土地の一歩目を踏んで。
 どんな目にあっているのかわからないが、なんとかこの国のどこかで、同じ空気を吸いながら、自分と同じように、再会を願いながら生きて──だがそんな、自分のわずかな希望さえ、自分が呑気にそんな希望にすがっている間に、暗い海の底に沈んでいた。
 自分達は、同じものを踏んですらいなかったのだ。
 キールの言い方では、おそらく残骸も何も見つかっていないのだろう。
 船は忽然と姿を消した。きっと、近くに陸地がないような外洋の、水の底に引きずり込まれてそのままなのだ。
 キールが手渡された書類は、その船がブーチャに出向いたまでの経緯と、出航が遅れた理由、失踪、捜索とその結論。そんなことが事務的につづられた書類のようだった。
「……わけもわからず、恐ろしい目に合わされただけか」
 キールの手の中にある、読めもしない図形の羅列。それを眺めながら、テオドールはつぶやく。
 自分たちが捕らえられる理由もわからず。
 むしり取られるように船底に押し込められたのに、目的にたどり着くこともなく。
 ──無駄死に。
 そんな言葉が浮かぶ。
「そんな死に方をしなきゃいけないような人たちじゃ、なかったけどな……」
 言葉に力が入らない。今の自分は、怒ってもいない。涙も出ない。ここで泣けない自分は、悲しみ方が足りない、冷たい男なのだろうか?
 だが自分の体からは、どうしても、その激しいものが出てこないのだ。
 自分は──褒められて喜ぶ方法も知らないが、こんなときどうしたらよいのか、ということもわからないらしい。何かがきっと、欠落しているのだ。
 だが別に、それは自分を育てた、兄や義姉のせいではない。彼らのせいにはされたくない。自分が悪いのだと思っている。
 さぞ冷たい男と思われているだろうと、ふとキールの方を見れば、こちらの男の方が、唇をかみしめて、身内を亡くしたような顔をしていた。
 他人事だろうに、演技でもなくそんな沈痛な顔ができるこの男を見ていると、なんとなく羨ましくなってしまった。
 この男は、見た感じの堅物そうな印象よりも、ずいぶんとわかりやすい。正義感が強くて実直で、融通が利かなくて──社会の中で生きるには、青すぎると思うこともあるが、今のテオドールには羨ましい。
 先ほど、この男が自分に妙な絡み方をしてきたのは、たぶん、この書類を貰って読んで、彼の中で収拾がつかなくなったからなのだろう、とテオドールは思った。
 正直なこの男は、読んで伝えねばとは思ったのだろうが、内容が内容だけに、いつどこでどう伝えるか、戸惑ったのだ。
 極力言いたくない、黙っていたいという意識も生まれて、持ち前の真面目さと正義感の強さゆえに混乱したのだと思う。「やっぱり駄目でした」なんて、安易に言える男でもなかった。
「……後悔しています」
 しばらく見つめていると、キールは書類を折り畳み、封筒にしまいながら、つぶやいた。
「探してあげる、なんて、調子のいいことを言った。結果がどうなるか、なんて思っていなくて、どんな結果であれ、自分の口から伝えることになるという重大さ……あのときの私は、まるでわかっていなかった」
 キールの手は、封筒をくしゃりと握りしめる。
「これじゃ死神だ……」
 闇の中で、暖炉の紅い炎に照らされているキールの横顔は、いつものように涼しげではあったが、どこを見ているのかわからない、うつろなものがあった。
 カラスのように真っ黒な、騎士団の制服をまとった男。大鎌でも持てばそれらしくなるのかもしれないが、テオドールはこの男に、そんな陰鬱な印象はどうしても持てない。
「……お前は、この件一切絡んでないんだろう。あまり気に病むなよ」
「告げることで、あなたが生きる意欲も全部投げ捨ててしまったら……私はどうしたらいいんです」
 重い声だった。
「あなたは前に言った。彼らが生きているって思わなければ、自分が生きていられない。それくらいしか支えがないのだと。あのときのあなたは、珍しく激しかった。きっとそれが本音なんだろうとも思った。それが、わかるから……自分の楽観していた部分に、今ものすごく腹が立って。馬鹿すぎる。言い出した自分も、隠そうとした自分も、こんな現実も……あなたに、申し訳なくて……」
 そう言いながら、うつむく肩が震えている。
「そりゃあ、あまり聞きたくない方向だったけどな……」
 それを見ながら、テオドールは息をついた。
「生きる意欲とかはよくわからん。だからって、明日の朝死んでるとか、そういうのはないだろう……多分。ただ、これは俺が頼んだことでもあるから──礼は言う。俺だけじゃ、その結論にはたどり着けなかっただろうから。だから……ありがとう」
「……」
 キールに改まって礼なんて言うのは初めてだった気がするので、少々気恥ずかしい。だが、言っておかねばならないだろう。
 兄も義姉も、人に礼も言えないような弟というのは、望んでいないはずだ。
 しかし、あれこれ考えてみても、自分の中にあるのは、やはり──そうか、という静かな気持ちだけだ。それ以外がない。……見つからない。
「不思議なもんだ。お前が隠そうとしてたのを知ったときは、一瞬頭に来たけど……」
 テオドールは、体をソファの背もたれに預けた。暗闇の中で、わずかに椅子がきしむ。
「なんていうか、実際そうだと聞いてみれば、覚悟みたいなものができていたというか……そうか、と思った。本当に、不思議なんだ。涙も出ない。どういう態度をとるのが正解なんだろうな、こういうとき」
「……あなたのその『そうか』という気持ちも、間違ってないと思いますよ。受け止め方なんて、人にどうこう言われることじゃないです。外面だけ見て悲しんでないとかいう連中がいたら、私が殴ります」
「いや、殴るとかは別にいいんだが……多分、実感がまだない」
「そんなもんでしょう。理性と常識と感情って、全部別に動きますし。私の父も……遺体のない葬式でしたから、いつか帰るんじゃないかって思ってた部分はあるし……そこは、なんとなくわかります」
 そういえばそうだな、と思った。この男はアルノリトに周囲の森を案内されて、初めて父の墓らしきものがあることを知ったのだった。それからは、「これも仕事」アルノリトには言いながら、並んだ墓の手入れをしている。
 兄も義姉も、墓も作れないような死に方をさせてしまったのかと思うと、軽く眩暈がした。
 覚悟はしていた。だが受け入れきるのは……いつのことになるのだろう。
「俺は……義姉さんが好きだった」
 そう呟けば、キールが視線だけこちらに向けた気配があった。
 さすがに軽蔑したかと思って見れば、キールは眉間にしわを寄せながらも、どこか興味深そうな視線で見ていた。
「……引いたか?」
「いえ」
 小さく首を振る。
「そんなこと聞いたのは初めてだったので……意外で」
「そりゃ言ってないから。言う気もなかったし」
 言ってしまったのは、己が随分と、だめになってきた証拠だ。
「どっちかっていうと、母親みたいなもので……言っておくが、大人になってから指一本触れてない。兄から奪おうなんて思ったこともない。そりゃ、自覚したのがこっちに来てからなんだから……再会したら、どうなるんだろうって怖さはあった。そこだけは良かったと思ってる。勝手だけどな」
 彼らの中では、自分は永遠にただの「弟」であり「どちらかと言えば息子のような存在」のままだ。
 どす黒い衝動に突き動かされそうな「男」の部分を、知られなくてよかった。
 そう安堵する自分を、今は軽蔑している。故郷にいるときに気付いていたら、それを募らせていたら、一体どうするつもりだったのだ、と。
「悪いな。気味の悪い話聞かせて」
「いえ」
 キールは再び、首を横に振った。
「あなたはこういう話、私にはしたくないのだと思っていたから」
「したくないだろ、普通。育ての母に欲情する手前だったなんて、ろくでもない」
「誰かに好意を持つなんて……大体ろくでもない感情だと思いますよ」
 キールはやけに、不機嫌そうな口調で言った。
「思い込みが激しくなって、情緒不安定になって、やたら浮かれてみたり。その人に夢見て、勝手に裏切られて落ち込んだりして。……本当、ろくでもない。自覚する前に、戻れもしないってのが一番たち悪い」
「お前の方が、そういう経験ありそうだからなぁ」
 テオドールは、鼻で笑った。
「いいとこの一人息子なんだろ? 今頃、縁談山ほど来てるだろ。お前はもっとうまい具合に立ちまわって、早く正規の部隊に戻れよ。アルノリトは泣くだろうけど、お付きの騎士は変わるもんだとはわかっているだろうから。母親泣かせるな」
「急に説教臭いこと言い出さないでください。……あなたは?」
「今後?」
 キールは、黙って頷く。
「さぁ。まぁ、あいつとはもうちょっと、一緒にいてやりたいかもしれない。俺が選べるわけでもないが──」
「私とは?」
 食い気味に、キールは言葉をかぶせてきた。腕をつかまれて、顔を覗き込まれる。蔑ろにされたと思って、怒ったのかと思った。
「いや……探してくれたことは感謝してるって言ったろ。対価が足りないっていうなら、言われたことはやるから──」
「そんなのどうでもいい!」
 怒鳴ったキールは、すぐにはっと我に返ったのか、苦々しい表情で視線をそらした。
「……すみません。こんなこと言ってるときじゃないのに。だから」
 キールは目を固く瞑った。
「だから……駄目だなとは、思うんですけど」
 キールは、子供のように握っていたテオドールの袖を放す。
「私は……あなたのこと、お慕いしていますよ」
 伏し目がちに言われた。
 頭がぼんやりしていて、テオドールは反応が遅れた。しばらく考えて──この男の言う「あなた」は誰の事なのだと考えて、辺りを見回して、当たり前だが、自分しかいないことに気付いた。
 首を傾げながらキールを見れば──彼は、台詞に似合わぬ不機嫌そうな顔で、こちらを睨んでいた。
   
(続く)