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檻の中のカラスと孔雀

36:猛禽と、海の底


 何を言ったらいいのかわからず、テオドールは黙るしかなかった。真面目に考えるべきなのか、笑うべきなのか。反応に困ったのは、先ほどと同じだ。
 だが今少しでも笑い飛ばせば、隣の男は瞬間こちらを刺し殺しそうな顔で睨んでいたので、笑い声は自然と引っ込んだ。
 何か言うべきだ、この男もこちらの出方を窺っているのだ──というのはわかるのだが、どうすればいいのかもわからない。
 しばらく無言で見つめ合った後、先に視線を外したのはキールだった。
「……さっきの、情けない台詞に付け足しますと」
 なんだか、疲れ切ったようなため息をつかれる。
「好意を持って、自分だけ盛り上がって……相手のことも考えずに気持ちを口にしてしまうと、こういう感じで気まずくなります。……すみません、余計なことを言った」
「いや……」
 それだけ言うのが精いっぱいで、テオドールも黙ってしまう。
 そんな真剣に申し訳なさそうな顔をされたところで、自分はどうしたらよいのだろう。
 この男の中で、自分の何がそういう方向に引っかかったのだろうか?
 テオドールはそれが疑問だった。
 先ほど、この男は睡眠不足から若干おかしくなっていて、よくわからないことをぽろぽろ言ってくれたが、書類の内容に動揺していただけでもなかったらしい。
 冗談、というわけでもないだろう。たぶん、こんなときに趣味の悪いことを言って場を和ませようなんて考えは、この男の頭からは出てこない。
「……多分、外に出て」
 テオドールは、ソファの背に体を預けつつ、キールとは反対の方を向くように、体をねじった。体が異様に重い。立ち上がりたくない。
「普通の生活に戻ったら……あのときはおかしかったなって、そういう風に目が覚めると思うけど」
「また私が、頭打ってるとか寝てないからとか言いたいわけですよね」
 キールの声には、また不機嫌さが戻る。
「私も、今それなりに落ち込んでいるわけですけど」
「落ち込む……?」
「だって、そうでしょう」
 キールも、椅子にぐったりと身を預けたような気配があった。椅子の背がきしむ。
「あなたにこんな残酷な宣告しなきゃならないわ、ずるい部分を見透かされて情けないわ、好意を小出ししたところで全然気づいてくれないわ、空気読まずに告白してみたところで、あなたは全然上の空だわ……まぁ、最後のは、私が悪いですけどね。今言うことでもなかったし……相変わらず、自分のことしか考えてないなぁと、嫌になる」
 乾いた笑いで自身に毒を吐く。この男も、なかなか自棄になってきている。
「一つだけ、答えてもらっていいです?」
「はいか、いいえか?」
「……というより今聞きたいのは、あなたがどう思ったか、かな」
「……またそれは、俺が言いにくいほうだな」
「だからこそ、ですよ」
 子供のように笑いながら、キールは言う。
「殿下がおっしゃっていたように……気色悪い、とまで思うならそれも感想だな、と。私はハンス様のように、邪険にされてもずっと一途に後を追う、というような根性はきっとないので……あ、でも職務放棄する気は今のところないですよ。だから、私の頭打った言葉を聞いて、あなたはどう思ったのかなって」
「どう思う、って……」
「反応が知りたいだけです」
 適当に話を切り上げて席を立つ力というのもなかったので、ぐったりしつつも、テオドールは考える。頭の芯がしっかりしない。思考がぐらぐらする。
 イラリオンはハンスの好意を知っていたし、今この時のように、好意を告げられたこともあるのだろう。
 だが、あの美麗な男は嫌がっていた。美しい顔に嫌悪といら立ちをこめて「気色悪い」とまで言い放つ。
 彼らの場合は、父を同じくする間柄、という縛りもあるのだ。赤の他人である自分たちと、同じ天秤にかけるべきではないのかもしれない。
(難しい)
 なぜだかわからないが──自分は悩んでいる。
「殿下みたいに……あんな顔で気色悪いって、お前に言う気分でもないな」
 考えてみたが――そこまでの拒絶は、ない。この青年のことは、それなりに好ましく思っている。あんな顔をする理由は、今のところない。
「無理です、っていうのも別にないんだけど……全然今、頭回らんな」
 泣き言のような声が出た。もともと回転が速いとも思っていないのだが。普段以上に、何も出てこない。お慕いしていると言われて、どう思ったか──そんなの、人生で初めてだ。今までの経験も役に立たない。 
 だが、すぐに扉を閉めてしまいたい気持ち、というのでもないのだ。
 扉は開けておく。相手の声を聞こうとは思う。
 しかし情けない自分はいつものように、うまく反応できないのだ。正解の対応をいつも考えるのだが、とっさに言葉にならず、妙なことを言うくらいなら黙っていた方がいいと思ってしまって──そんな経験ばかりが思い出される。
 故郷にいたころのテオドールなら、こちらの沈黙と視線で察してくれ、と思っただろう。しかしこの地に来て、特定の人間と濃い付き合いをするうちに、他人というのは言わなきゃわからないものだ、察してくれ、というのはと簡単なことではないのだ──というのを思い知った。好意も感謝も、口にしなければ意味がない。
「なんて、言うのか」
 言っておけばよかったと思っても──気付いたときは、もう遅い。そんな気持ちが、少しだけ、テオドールの口を滑らかにした。
「……こんな風に言われたことはないもんだから、言葉に困るが……嫌ではないよ。お前はいいやつだ」
「いいやつ、で終わるんですか」
「反応、だろ? 今日は、これくらいにしておいてくれよ」
 不満そうな声に、テオドールは苦笑した。
「正直何も考えたくないくらいなのに、頭使ったんだよ。……疲れた」
 ずるずると、ソファの肘置きに上半身を預ける。なんだかもう、いろいろと力が出ない。
「……大丈夫ですか? 立つのしんどいなら、ここで休んでもいいですけど」
 キールが立ち上がって、そばにあったブランケットを手に取る。
「……いや、寝室行く。あいつがちゃんと寝てるかも心配だから。……お前は?」
 眩暈を感じながらも無理やり立ち上がると、キールは首を横に振った。
「こっちにいることにします。余計な事言ったんで、私がいたらゆっくり休めないでしょう?」
「いや、別にいいけど……」
 そういえば、なんだか複雑そうな顔をされた。自分としては「別に不快とか気にするとかないから」の意味だったのだが、キールにしてみれば「別にどうでもいいけど」と言われているように感じたのかもしれない。
(また失敗したか……)
 だがとっさに取り繕う言葉を出せないあたり、やはり自分は本当に駄目だなと思う。次に生まれ変わるなら、もう少し喋るのが上手な人間になりたい。
「……とりあえず俺は寝に行くけど、お前も、ちゃんと休めよ。寝るところあるならちゃんとそこで寝かせてもらえ、俺は気にしないから。大体、普段からソファで寝てるから疲れ取れないんだろうが」
「うーん……まぁ、自分的に落ち着いたら、そっち行くかもです」
「なんだよ、落ち着くって」
「……私も思うところあるんですよ。やらかしたなとか。反省会しないと眠れそうにない」
「真面目な……」
「でも、ちょっとだけ安堵もしています。嫌われているわけではないようで。私のしょうもない部分も、少しは報われるってものです」
「……しょうもなくはないと思うがね」
 テオドールは、ぼそりとつぶやいた。
「お前のなんだかんだで人間が素直な部分は……ある意味尊敬してる。俺もそうだったら……悪い、喋りすぎた。寝る」
「喋ってください」
 苦笑しながら背を向けたとき、キールがそう、こちらに向けて言葉を投げた。からかう様子もない、真面目な声音だった。
「どんどん喋ってください。私に言ってくれたらいいんです。こんな状況で、心の内でもんもんとして、気持ちを腐らせるなんてこと、しなくていいと思う。あなたは多分、そういうのが癖になっているんでしょうけど……言ってください。それで楽になるなら」
 肩越しに振り返り、生真面目なこちらを気遣う視線と目が合って、テオドールは情けなくなってしまった。
「……もう十分、気はまぎれてるよ」
 関係ないことでも、喋っていた方がいい。喋るのをやめた瞬間に、どすんと自分の中を圧迫するものが、膨れ上がる。
 キールが必死にこちらを慰めようとしているのがわかるので、テオドールはいたたまれなくなり、そのまま部屋を出た。今すがりつくことは、自分の自制心が許さなかった。
 寝室の扉を開けると、奥のベッドに小さな膨らみが見える。アルノリトが寝ているらしい。そばの出窓の部分にマキーラがいた。まだ彼は起きていて、こちらの姿を見かけると、そわそわした様子で小さく鳴いた。
「……静かに。こいつが起きるだろ」
 声をかけながら、アルノリトが眠っているベッドのそばに行く。アルノリトはシーツの間に潜り込んで丸くなり、すよすよと寝ている。
 その、ベッドの端に座る。マキーラが、ふわりと足元にやってきて、無言で見上げてきた。この賢い鷹は、何かを察しているのかもしれない。大きな翼をしまう優美な仕草を見て、テオドールは羨ましくなる。
「お前みたいに……飛んで逃げられたら、良かったのにな」
 あの人たちも──そう、口の中でつぶやく。
 飛べたら、船ごと海の底に引きずり込まれることなんて恐ろしい死に方、しないで済んだかもしれないのに。
 奇跡が起こって、周りが死んだと思っているだけで、彼らは案外無事に、近くの陸地にたどり着いていればいいのに。
 限りなく可能性が低いとしても、現実的じゃないとしても、そう思う。誰も死を確かめていないなら、そう信じたっていいだろう、という自分もいるのだが──心の大半は、すでに諦め始めていた。そんな都合よくは思えない。
 兄や義姉との再会を願っていた。もちろん彼らが大事で、愛していたから無事を願っていたのだが、そう思うことで、心折れそうになる自分を保っていた。自分のため、という部分はあった。
 土台が、完全に揺らいでいた。先ほどから頭がふらふらする。
(──自分だけ故郷に戻ったって意味ないって)
 そう思っていた。
 この先どうするのだ? そもそもこの先なんてあるのか。
 何のために頑張ればいい? 歯を噛みしめて耐える理由はなくなった。
 自分のために頑張る? 自分のことなんて、それほど好きじゃない。そんなに頑張れない。
 兄と義姉──あれほど自分を理解してくれる人たちもいなかった。
 きっとこの世に、あなたがいい、と心から自分を欲してくれる人なんて、身内以外に誰も現れないんだろう、と思っていた。
 自分一人生き残ったところで──意味なんてないのではないか?
 だがあの男は、そんな自分に「お慕いしていますよ」なんて言う。
(わけがわからない)
 あの男は、テオドールからしてみれば羨ましくなるような、きれいなものをたくさん見てきたのではないのか? そういうのが好きだったのではないのか。反応の悪い自分を見て、傷ついたような顔をして。そこまでして自分を「慕う」必要なんてないじゃないか。
 そんな考えがちらついたとき──シーツがもぞもぞと動いた。そちら見れば、アルノリトが暗闇の中で大きな目を開けて、こちらを見ていた。眠そうな顔はない。本当は、寝ていなかったのかもしれない。
「……いっしょに、寝ていい?」
 むくりと身を起こしたアルノリトは、不安そうな声と瞳で、テオドールを見つめる。
 この子供も、今日は随分といろんなことがあって、理想とは違う現実に、打ちのめされていたはずだ。
 テオドールは微笑んで、頷く。
 暗い海の底に引きずり込まれそうな気持ちを、なんとか振り払う。
 特に望んで出会ったわけではないはずの者たちが、今の自分の手を握ってくれている。

   
(続く)