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檻の中のカラスと孔雀

38:猛禽と、カラスの気遣い


 テオドールは自然と、早朝に目が覚めた。
 自分の体は、昨晩ベッドに入ったままの姿勢で固まっていた。横で小さな寝息が聞こえるのでそちらに首を動かせば、アルノリトが、まだ静かに眠っている。
 いろいろなことがあったはずだった。
 鈍い思考を動かして、ふと昨日、何があったのかを思い出して──すべて夢であってくれたらいいと思った。
 しかしその夢が覚めることもなく、突然世界が変わることもなく、景色も変わらず、昨日から淡々と続いている時間の流れの中に、自分はいる。
 寝ても、意識が途切れても、何も変わってくれないのだと思った。
 そしてマキーラも相変わらず朝が早く、枕元からこちらの顔を覗き込んでいる。
「……近い」
 テオドールは苦笑いしつつ、マキーラを優しく押しのけて体を起こす。
 隣で身を起こしても、アルノリトは起きない。この子供も普段とは比べ物にならないくらい、様々な人に出会ったので、疲れたのだろう。
 マキーラが外に出たがったので、ベッドから降りて窓を開けてやると、その大きな鷹は翼を羽ばたかせて、薄曇りの空へ飛び立っていった。
 テオドールは立ったまま、己の感覚を確かめる。眩暈は止まったが、頭の芯に力が入らないような気配があった。
 ──あなたが、生きる意欲もすべて投げ捨ててしまったら。
 そんなキールの言葉が思い出される。
(俺の生きる意欲ってなんだろうな)
 あの人たち以外何も思いつかないな、と思うと、思わず笑いが浮かんだ。
 欲がないと言えば聞こえはいい。
 だが自分という人間は、大した志もなく、望みもない。兄や義姉を楽させてやりたいという思いはあっても──それしかなかった。
 自分の世界というのは、それだけで完結していて、あの身内二人以外特に必要としていなかったのかもしれない。だから別に、他の人間に愛想が悪いだのなんだの言われようが、別によかったのだ。
(つまらん人間だ)
 誰に言うでもなく、テオドールは心の中でつぶやいた。
 そんな狭い世界で生きて満足していた自分の、どこがいいのだ、あの男は──キールの言葉を思い出し、テオドールは歩き出した。
 いろんなことを同時に言われ過ぎて、正直混乱している。
 しかし、兄と義姉のことだけであれば打ちのめされて動けなくなりそうだったが、キールの言葉で逆の混乱が加わることによって、不思議とまだ自分が保てている。
 もしかして、これを狙ってあんなこと言ったのだろうか──と考えてみたが、テオドールは黙って首を横に振った。
(あいつがそんな器用なことできるか)
 多分そこまでは考えちゃいない。なぐさめでそんなことも言うまい──ここ数カ月の付き合いで、それは理解している。

 重い足取りで客間を覗くと、キールもすでに起きていた。この男も、そう言えば早起きだった。
 多分、この男はあのままこの部屋で寝たのだろう。黒いコートを椅子の背に引っ掛けて、白いシャツ姿でソファ腰かけていたキールと、目が合う。
「……」
 テオドールは、客間の入り口で立ち止まってしまった。
(……気まずい)
 なんだか急に、何を言えばいいのかわからなくなった。キールはそんなテオドールを一瞥すると、立ち上がる。
「おはようございます。どうぞ座ってください。朝食、用意しますから」
「……お前が?」
 思わずそんな声が出た。キールは気を悪くした様子もなく、頷く。
「はい。とはいっても、私も先ほど用意してもらったものを、頂いただけですけど」
 言いながら、キールは脇のテーブルの上に盛られた、硬そうなパンを一つ手に取った。ナイフで中心に切れ込みを入れている。そばには、盆に乗った香り野菜のサラダと、薄切りにされた燻製肉が乗った皿があった。
 なるほど、と思った。どうやら自分が寝ている間に、朝食が届けられていたらしい。
「食欲、あります?」
「……正直、あまり」
「……でしょうね」
 言葉に反して、キールは切れ込みを入れたパンに、ぐいぐいと食材を詰め込んだ。中心の切れ込みからは、サラダと肉が、不格好に飛び出している。
「いや、入れ過ぎ……」
「これくらいは食べるべきです。あなたは昨日、夕食も食べていない」
「……」
 そうつっけんどんに言われて、テオドールは差し出された、パンの乗った皿を受け取った。そう言えばそうだった。昨晩は感情の高低差が激しすぎて──食事のことなんて頭からごっそり抜け落ちていた。
「ごゆっくりどうぞ」
 パンの皿を見つめていると、キールがカップに温かい茶を淹れて、テーブルに置いた。キールの視線は早く座れと言っているようだったので、テオドールは近くの椅子に腰を下ろした。
(しかしこういうところ、雑というか)
 テオドールは、その不格好なパンを見つめる。口の中の水分を持っていかれそうな、固いパン。
 確かに、どうせ食べるだけなのだが、パンの切れ込みは斜めだし、野菜はぼろぼろ落ちてきているし、薄切り肉は隙間に大量に、無理やりねじ込まれている。見ているだけで、胃がむかむかする。
 どちらかと言えば視界の端に押しやりたい気分だったが、この男は自分に食べさせたいのだろうな──と思いながらキールを見ると、彼は眉を寄せてこちらを見ていた。
「……そんなに睨むなよ」
「睨んでいません。元々目つきが悪いので、そう見えるだけです」
 そう言って、キールは細いその目を、さらに細めて言う。
(機嫌悪いな……)
 文句を言ったら倍になって返ってきそうだったので、テオドールは反論を諦めて、パンをかじることにした。
 やはり、かさかさのパンは口の中の水分を吸い取る。しかし野菜は新鮮でみずみずしく、肉の塩分と丁度良い。自分が作った以外のものを食べるのは久々だ。
 あごが疲れるようなパンをだらだら噛んでいると、ようやく胃と頭が起きてくれたらしく、何とか食べられそうな気がしてきた。頭の芯に力が入らないと感じていたのは、空腹のせいもあったのかもしれない。
 キールを見ると──若干ほっとしたような顔をしていた。
(あぁ、そうか)
 噛みしめながら、テオドールは気付いた。
 この男、別に機嫌悪いのではなく──こちらを心配していたのだ。だがどう話題に出したらいいのかわからなくて、あんな様子になっていたのだろう。この男、一生懸命になるほど、圧が強くなる。
(まぁ、俺も悪いか……)
 お慕いしている、なんてかなり思い切らねば出てこないような言葉だろうに、完全に呆けていた自分は、大した反応もできずにいた。
 嫌じゃないとは言ったし、確かに拒絶とかそういうものはないのだが、だからと言って自分はどうすればいいのかわからない。この男と男女のような仲になるなんて、正直想像もできない。
(こいつはどうなんだ?)
 自分なんかに、そういうものを求めているのか?
「食べながらでいいので、聞いてください。ご当主が起きてくる前に、話したいので」
 キールがこちらに歩み寄ってきた。思わず身構えた自分がいた。
 それに気づいたのか、キールはテーブルの向こう側で足を止めた。茶の入ったカップのそばに、小さな布袋を置く。じゃらり、と音がする。中には、小さく硬そうなものが入っているようだ。
「これ、あなたに」
「……なんだよ」
 不審げな目で見上げると、キールは眉を寄せた。
「差し上げますから、ご自分の目で、確かめてみてください」
「……」
 テオドールは食べかけのパンを置いて、袋に手を伸ばした。袋は、小ぶりの割にずっしりと重い。口がひもで縛られたその袋を開けると──中には大量の銀貨が入っていた。
「……お前、これ」
 思わずぽかんとした顔でキールを見上げると、彼は静かに頷いた。
「路銀です。あなたの故郷までは、十分行けると思う。この時期に船があるのか、まだ調べてないんですけど」
「こんな金……どこから」
「別にやましい金じゃないですよ? 私の私費です。この任務は出歩かないので、金だけは貯まりますから」
 キールは、何とも言えない笑顔を見せた。
「……一晩考えたんです。どうすればいいのか。あなたにとって一番いいことは何か。どうすればあなたに、償いができるのか」
「……俺はお前に償えなんて言った覚えはないぞ」
 蒸し返される話題に、テオドールも眉を寄せた。
「それに俺は、俺も帰らせてくれなんてお前に頼んでない」
「えぇ。あなたは言わないけど──私は」
 キールはそこで黙ってしまった。言葉を必死に考えているような顔だった。
 テオドールは、黙って路銀の入った袋の口を、紐でくくる。
「……お前が責任感じることじゃないって言っただろう」
 そしてそのまま、袋をキールの前に置き直した。
「俺にこんな大金使うな」
「私の金です。使い道くらい、自分で決めていいものです」
 キールは再び、こちらを睨むように見た。その目は、テオドールを非難しているようにも見えた。
 ──こっちの気持ちを知っているくせに。
 そんな色が見える。
 だがそれは、勝手な八つ当たりだという自覚もあるらしい。そんな複雑な感情を抱えて、キールは居心地悪そうにしている。
「お前……俺のどこがいいんだよ」
 思わずテオドールは、真正面から問いかけてしまった。
「俺はこういう人間だ。愛想がないって散々言われる。それは自分でもわかっているが、取り繕えるほど喋るのもうまくない。多分いろいろ足りない。人に好かれるような男じゃない」
「みんな、そんなものでしょう。欠点上げだしたらきりがない」
 キールは苦笑した。
「私だって所詮、青臭くて頭が固くて真面目で、融通の利かない男です。秘密とか嘘とか苦手で、そういう生き方しかできません。……実際、結構周りからは、煙たがられていたんでしょう。だからこの任務に配属された──薄々気づいています。自分は、正しい生き方をしたいだけなんですけどね」
 キールは一気に喋って、息を吐いた。
「……でもあなたは、私のそんな至らない部分を叱りはすれど、馬鹿にはしない。それに、数か月あなたと寝食を共にしましたが、あなたが私やご当主を出し抜こうとしたことは、一度もなかった。あなたの立場なら、あの屋敷から金品を奪って逃げだしても、私の寝こみを襲ってもおかしくないのに、ご家族のために、徹してくれた。ずっと見ていましたから、あなたが実直で、嘘がなくて、思いやりのある人だってことは、わかる」
「いやその、あまり……熱弁するなよ……」
 テオドールの中にわいてくるのは、こそばゆいというか──妙な恥ずかしさだ。
 こんなとき、どんな顔をしていいのかさっぱりわからない。顔を上げられないので、食べ途中のパンをかじる。おかげで味がさっぱりわからなくなった。
「私だって、できればこんなこと考えているなんて、あなたに知られたくなかったですよ。……許してくださいね。あなたの負担を増やした」
「……」
 この男も、言わなければ良かったと思っているのだろうか。本当なら、好意なんて、伝えるつもりはなかったのだろうか?
「……別にいい。怒ってるわけじゃない」
 テオドールは視線を落としつつ、パンを噛みしめる。葉野菜を噛む、しゃくしゃくとした音が室内に響く。
「それに今、帰ろうとも思ってないよ」
 今帰ったところで、残っているのは焼き払われて、人っ子一人いなくなった里だ。誰もいなくなったその荒れ果てた世界に、自分は絶えられそうもない。
 しかしこの国に残ったところで、自分の身分というのは、永遠に異民族の奴隷、というものでしかない。納得できないことも、さらなる屈辱を味わうことも今から先、あるだろう。
 だが──あれだけ交わってやるかと思ったこの国の一部の人間に、今や情があるのも確かだ。
「俺は、アルノリトのことが心配だ。それに……お前のことも、心配だ」
「……私も?」
 そう言えば、キールはわずかに、意外そうな顔をした。
「……無理していろいろため込むんじゃないかと思って。でも多分、そんなこと言いながら、本当は俺が寂しいだけなんだろうけどな。今……一人になるのが怖いんだろう」
 自分から、こんな言葉が出るなんて意外だった。
 一人は別に嫌いじゃない。一人で行動することは慣れているし、常にだれかいないと耐えられない、なんて人間ではなかったはずなのだが。
 苦笑いしながら答えたテオドールを見て、キールは静かに、目の前まで歩み寄ってきた。しゃがんだキールは、テオドールと視線を同じ位置で合わせる。
「今無理していろいろため込んでいるのは──あなたの方じゃないんですか」
「……だろうね」
 テオドールも自分でも驚くほど素直に頷いていた。否定する気力もない。
「なぁキール。……こういうとき、どうしたらいいのかわからない」
 全く元気というものが、沸いてこない。
「なんて言ったらいいのかもわからない」
 悲しいのか怒っているのか、辛いのか。
 だがそれをうまく表現もできないし、誰かにすがりつけるわけでもない。人によっては簡単にできるだろうその行為は、自分にとって難易度が高い。
 心の中で、持て余したその感情が、他の部分も浸食しながら、内側から黒く腐っていくようだ。
 この男たちが心配だ、という気持ちは嘘ではないが、今は、もう一つの思いも生まれつつある。
 目の前の男が顔を真っ赤にして怒ると思うので、とてもじゃないが、今ここで言えはしないが。

 (──自分も、沈んだ方の船に乗っていたら良かったのに)

 しかしそんなテオドールの心を知ってか知らずか、目の前の男は、真摯にこちらに向き合おうとする。困ったような顔をしていた。だが、必死に考えていた。
「そんな気持ちになるのは、誰でも当たり前のことです。気落ちするななんて、私にも言えることじゃない。……今は極力、おそばにはおります。あなたが悪い方向に考え込まないように」
 あまりにもまっすぐな瞳で言われたので、テオドールは肩の力が抜けてしまった。
 この男、別に格好つけてこんなことを言おうとするわけではないのだ。こんな言葉、多分一生かかっても、自分は言えないだろうに。
「……そういう台詞は、麗しのなんとやらに言えよ」
「まぁあなたは麗しとはちょっと違いますが……好いた人には何とでも言いますよ。茶化さないでください」
「茶化してないけど……」
 ──とテオドールが言葉に困ったとき、客間のドアが開いた。
 まだ寝ぼけ顔のアルノリトが、寝間着の裾を引きずりながらこちらにやってくる。
「おはようございます、ご当主」
「おはよう……」
 キールのあいさつに、半分寝ながら答えたアルノリトは、とてとてとテオドールのそばまで不機嫌顔でやってきて、隣に座った。そのまま、ぽすんと寄りかかるようにして、またうとうとしてしまう。
「……意地でもあなたの隣がいいんですね」
 キールが、感心したような声を出した。
 おそらくこの子供は、隣で寝ていたくせにこちらが先に起きたので、また「置いていかれた!」と思ったらしい。
「ここで寝るな。朝ごはん食べるか?」
 寝ぐせだらけの頭を整えてやりながら言うと、アルノリトはぐりぐりと頭を押し付けながら「たべる……」とつぶやいた。この子供は本当に朝に弱い。
「じゃあ、ご当主のぶんも作りますね。小ぶりに」
 キールは再び、テーブルの上からパンを取った。
「俺がやろうか」
「あなたは休んでいてください。こういう簡単な料理だったら、私もできますよ」
 そう言いはするが──やはり盛り付けが下手くそなのが気になる。だが今日、朝から妙に動くのは、この男なりの気遣いだと思うので、テオドールは黙っておくことにした。
 気持ちが、有り難くないわけではない。
 
   
(続く)