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檻の中のカラスと孔雀

40:猛禽と、孔雀の攻撃


 さすがに、お手洗いに行く! と言っている子供を引き留めるようなことはされなかった。
 キールはその場に残り、テオドールはアルノリトについて行く。
 戻り道、絨毯の敷き詰められた長い廊下を歩きながら、テオドールは気が重くて仕方なかった。
(あの人も、アルノリトとつながりを持っておきたいんだろうか?)
 人を使い慣れているような男だ。人と会いたければ、当然相手を呼びつけるような男に見えるのに、わざわざこんな別邸にやってくるとは。
 あんな男でも、怪鳥の祟りとやらは恐ろしいのだろうか──そう思いつつ、少し前を歩くアルノリトを見ると、なんだかちょっとだけ、機嫌が良いように見えた。歩き方がうきうきしている。
 おそらく、土産だけ渡して帰る者が多い中で、わざわざ自分に興味を持って会いに来てくれた、というのが嬉しいのだろう。
(素直な奴)
 テオドールは前を行く、その小さな後ろ頭を見つめる。
 まだ「利用する」とか「されているかも」とか、そういうものは頭にない。純粋に、ちょっと変わった自分に歩み寄って、仲良くしてくれる人を探している。そのわりに、あまり人の名前を覚えないし、呼ばないのだが。

 考えながら廊下を歩いていると、客間の前に、待ち構えるようにしてミヒャエルが連れて来た強面の騎士が二人と、キールが共に立っているのが見えた。
 あの仮面の男は、もう少し人を引き連れていたように思うので、残りの人間は中か、外に待たせているのかもしれない。
 キールは戻ってきたこちらに気付くと、歩み寄ってきた。
「ご当主、ミヒャエル殿下が中でお待ちですから、早く」
「うん」
 アルノリトが小走りでキールのもとに走る。キールがアルノリトの手を握ったとき──扉の前にいた二人の騎士は、手を突き出し、テオドールがそれ以上先に進むのを制した。
「……そちらは、他の場所で控えておいてもらおうか。事情は把握しているが、あまり我が物顔で敷地内を歩き回ってもらっては困る」
「殿下は高貴な立場の方である。気安く近寄ってもらっては困るのだ」
「……貧乏くさい臭いが移る」
 そう小声で、笑い交じりに付け足した男たちは、テオドールとそう変わらない歳に見えた。その顔には自信と、その奥にこちらを見下す嫌なものがある。
(あぁ。わかっちゃ、いるよ)
 テオドールはその男たちの言葉の棘と視線を受け止めながら、どこか冷静に、そんなことを考えていた。
 こんな目はこの地に来てからも散々見たし、市場でも言われてきたことだ。外に出ればこういう反応は絶対目の当たりにするだろうと思っていた。
 あぁ、やっぱりこれが現実か、と思う。
 同時に、こういうものと遭遇しないでよかったあの森の中の不気味な館は、自分にとってはそんなに居心地は悪くなかったのだ。
 もう怒る気もしない。今の自分は、睨み返してやる元気もない。頷いて、一歩後ずさったところで、キールが言葉を発した。
「面と向かってそういう言い方は、よしてください」
 キールは、男たちとテオドールの間に割って入る。
「素直に控えよ、と言えばいいだけの話です。殿下の護衛も任されているような方々が、そろって品のない」
 男たちはキールをしばらくじっと見つめていたが、やがて二人のうち、髪を後ろに流した神経質そうな男の方が、口の端を歪めて笑った。
「……噂通りの男なんだな。いい子ぶるだけでは上には上がれんと、未だに気付かんとは。立派な親父殿も、大切なことを教え忘れたと、あの世で嘆いておられるだろうよ」
「父は今関係ない」
 キールの眉間にしわが寄った。場の空気が、すっと冷える。
「……おい、今そんなことを話している場合では」
 騎士の片割れは、睨み合う二人を見ながら、苦々しい顔で静止する様な声を出す。しかし二人は、互いの棘を引っ込めようとはしなかった。
「キール、よせ」
 テオドールも、見ていられず声をかけた。
「俺が下がれば済む話だろう」
「奴隷の方が、話がわかっているじゃないか。あぁ、下がれ下がれ。この廊下にさえ、お前は場違いだ」
 男はテオドールを手で追い払う仕草をしながら、キールに顔を近づけて、囁く。
「……いい子ちゃん。お前は、人に苦言を呈すことで、心の綺麗な人格者を気取りたいだけなんだよ」
「あなたこそ、私を否定することで、人を馬鹿にする自分を正当化しているように見えますが……あまり顔を近づけないでください」
 キールは、静かにそう呟いた。目を細めて、心底嫌なものを見るような目をしていた。
「あなたの口、ドブみたいな臭いがするので」
 その言葉が言い終わらないうちに、かっと来た男は拳を握ってキールに殴りかかったが、キールは素早くそれを払いのけて男の襟首を掴むと、背後の壁に叩きつけた。鈍い音が廊下に響く。
 叩きつけられた男は、一瞬驚いたような顔をした。こうもあっさり反撃されるとは思わなかったのだろう。自信を傷つけられた男は、怒りと屈辱で、みるみる顔を赤くした。
「貴様……!」
「いい加減よさないか、殿下がお待ちなのだぞ! こんなところ、殿下に見られたら……」
 わきで見ていた男は、慌てて怒気を上げる男を引きはがした。
「お前もやめろ!」
 テオドールも、キールの肩を掴んで引き離す。
「……あまり自分の立場悪くするようなことするな」
 小声でそう諫めたが、ちらりとこちらを振り返ったキールの目は、ぞっとするほど怒っているのが分かった。なんだか、こちらが責められている気分になった。

「……ねぇ」

 そのとき、それまで黙ってこちらのもめ事を見ていたアルノリトが、口をはさんだ。
 怖がって言葉が出ないのかと思っていたが、その顔は妙に落ち着いている。黙って、ゆっくりと大人たちの間に入ってくる。
「テオドールとキールにそんないじわる言うなら、帰って?」
 アルノリトは、かたちのいい眉を寄せながら、男を見上げ、はっきりと言う。
「いじわるするならお話ししない。僕も、もうおうち帰る。お菓子もいらない」
 その言葉に、廊下がしん、と静まり返った。
 わめくわけではないが、その表情や言葉には、強い怒りがあった。そして、キールに噛みついていた若い騎士を、しっかりと見上げる。
「おじさん、嫌い」
 瞬きもしない、大きな黄緑色の瞳は、騎士の姿を映している。あどけない口調で出て来た「嫌い」という強い言葉に、妙な緊張感が漂い始めた。
 その瞬間、テオドールは「きぃん」という小さな、だが異常に甲高い音と同時に、耳に鋭い痛みを感じた。
(なんだ?)
 思わず片耳を押さえたが、痛みはすぐに消え去っていく。
 キールを見れば、彼も一瞬、同じように顔をしかめていた。
 ──だが。
「おい、お前……それ」
 戸惑うような声が聞こえた。
 その声に視線を向ければ、先ほどまで相方を止めようとしていた騎士が、表情を固まらせていた。その視線の先には、キールに食って掛かっていた男の横顔がある。
 その男も、何か違和感を覚えたのだろう。そっと、己の耳に触れる。
 耳に触れた指先には、べったりとした、赤い血がついていた。
 耳の穴の奥から、出血している。
「ご当主……まさか」
 キールがはっとした顔で、アルノリトを見た。
 アルノリトはまだ、大きな目を見開いて男を見つめているが──キールは何かを悟ったのかもしれない。
 テオドールも、キールがその脳裏に何を思い浮かべたのか、瞬時に理解した。
 ──数年前にあの森の中の屋敷で起きたという惨劇。
 卵から現れた赤子は、危機を感じると異様な声で泣き叫び、そこにいた騎士たちは耳から血を流して死んだという。
 助かったのは、卵を落とした動揺から、赤子に向かって剣を抜けなかったという、一人の男だけ。
「おい、アルノリト!」
 テオドールが大きな声で呼ぶと、暗闇の猫のように開ききった瞳で男を睨んでいた子供は、はっとしたような顔をしてこちらを見上げて、慌ててテオドールの後ろに走って隠れた。そのままぎゅっと、足にしがみついてくる。
「なんだ、これは……」
 未だに耳からたらたらと流れ出ている血に、男は一人、動揺している。
 だが仲間の男も、テオドールもキールも、言葉なくそれを見つめるしかなかった。
 どうしたらいいのかわからなかった。
 先ほどキールと争ったとき、この男は背中を壁にぶつけていたが、互いに鍛えた騎士同士、こんな怪我をするような小競り合いではなかった。
(これが、アルノリトの「攻撃」なのか?)
 名の知れた騎士であったというキールの父が、抵抗もできずに命を落としたという、屋敷での惨劇と同じような。
 そんな時が凍り付いたような無言の中で──ふと、離れた場所から、ため息が聞こえた。
 そちらを見れば、いつの間にか客間の扉が開いており、一人の男が腕を組んで扉の前に立っている。
「……なかなか入ってこないと思えば」
 顔の左側に仮面をつけた男が腕を組み、騒ぎを面倒そうに眺めていた。
「私を待たせて喧嘩に興ずるとは、いい度胸をしている」
「……殿下!」
 お付きの騎士二人は、引きつったような声を上げて、膝をついた。キールも、一瞬遅れて膝をつく。
「お前たち二人はもうよい。外に出ろ」
 ミヒャエルは、顎をしゃくった。
「血が出ているではないか。手当してもらえ。もう、戻ってこなくていいぞ?」
 笑いながらの言葉だったが、騎士二人は顔面蒼白だった。耳から未だに血を流す男を、引っ張り上げるように立たせると、二人は玄関の方へよろよろと向かって行く。
「……殿下を前にしてこの状況……大変申し訳ございません」
 キールが膝をついたまま、押し殺したような声で告げる。声に動揺があった。叱責を恐れているのではなく、この状況に、心の整理が追い付かなかったのだろう。
 おそらく彼の中には今、様々な思いが浮かんで、消えることなく漂っている。
 しかしミヒャエルは楽しそうに、喉を鳴らして笑っていた。
「構わんよ。……しかし面白いものが見られた。成程、これは話に聞いた通りだな。なぁ?」
「……」
 同意を求めるような声だったが、キールは黙ったまま、何も言わなかった。
 (部下の心配とかしないのか)
 テオドールは、まだこちらにしがみついているアルノリトを抱きとめたまま、そんなことを思った。
 わざわざこんな場に連れて来たのだから、信頼のおける部下ではないのか。文字通り「駒」でしかなかったのか。
 状況は把握している、とあの男たちも言っていた。
 まさかこの男は、異国の奴隷を見れば差別的な言動が我慢できないというような人間を用意して、こちらを罵倒してみることで、あの子供がどういう行動に出るか、どこまでだったら刺激して大丈夫なのか、反応の度合いを見たかったのではないだろうか?
(まさか)
 嫌な考えだ。そこまでするか? と思うが──。
 しかしミヒャエルは、アルノリトに向かって優しく微笑む。
「臣下の非礼は詫びよう。親しいものを侮辱されて、腹が立ったのであろう? もうあの男たちは、君の前には出さん。少しだけ、私と話をしてくれないか? 私は君の事を全く知らないからね」
「……」
 アルノリトはまだ不機嫌顔だったが、ミヒャエルに穏やかに言われて、少しだけ怒りをひっこめた。
「……いいよ。でもテオドールもキールも一緒ね。またいじわる言うなら、お話はしない」
「あぁ」
 仮面の男は、目を細めて笑った。
「そろそろ館の中にいるのも飽きただろう。今は雨も降っていない。そのあたりを散策がてら、一緒に歩いてみないか? ちょうど、そこらに花も咲いている」
 ミヒャエルはそう言いながら、アルノリトに手を差し出した。アルノリトも、確かに外に出られないことに飽きていた。しばらく迷ってこっくりと頷くと、テオドールから離れ、ちょこちょことミヒャエルのそばへ歩いて行った。
「そこの、異国生まれの男」
 突然自分に向けたと思われる言葉が飛んできて、テオドールは視線を上げた。ミヒャエルはこちらを見ているようだったが、顔を左半分隠している無機質な仮面に隠れて、彼の表情はうかがえなかった。
「その気があるならついて来るといい。他の誰でもない、この私が言うのだ」
「……」
 おそらく自分は人生の中で、こんな自信にあふれた言葉を迷いなく吐く日はないだろう。
 はい、ともいいえとも言えず、テオドールは視線を落としつつ頷く。ミヒャエルは、近寄ってきたアルノリトと一緒に、館の外へと出て行った。扉が閉まる瞬間、アルノリトがこちらを振り返った。顔が「早く来て―」と言っている。だがその顔は、外で控えていたらしい他の騎士たちの背中に隠されてしまった。
 後を追おうとしたが、キールが黙って突っ立っているのが気になった。どうしたのだとその横顔を見ると、彼は仄暗く、思いつめたような顔をして、閉まった扉を見つめていた。
「キール」
 不安な気持ちで声をかければ、こちらを見ると同時に、薄く微笑まれた。
「……大丈夫です。早く行きましょう。いろいろ、謝りたいことはありますが」
「別にいい。でもお前は最近、頭に血が上りすぎ」
「もとから私は血の気が多い」
 気持ちを切り替えるように苦笑して、キールも歩きだした。
「ちなみに、さっきの男が耳から血噴いたの、偶然だなんて呑気なことは私、思いませんから」
 速足で行きながら、キールはつぶやく。
「……あなたが普段抱っこしたり添い寝してあげているあの可愛い子供は、ああいう生き物ってことです」
「……あぁ」
 キールの半歩後ろを歩きながら、テオドールもつぶやく。
「強い生き物だ」
 それだけ言うと、キールはじっと、横目で見てきた。ほかに何か言う事があるんじゃないか、というような視線だった。
 だが、あえて無視した。
 キールが、あの子供に消化できない複雑な思いを抱えているのは知っている。しかし今はそれに付き合いたくない。自分が今、唯一穏やかでいられる場所まで、消えていくような気がしたからだ。
 
   
(続く)