HOMEHOME CLAPCLAP

檻の中のカラスと孔雀

閑話:自戒と反省


 この子供は、人に引っ付くことが好きだ。
 一人遊びもよくするし、一人で寝られないわけでもない。
 しかしひとしきり一人で遊んで、ふと人恋しくなることがあるのか、よくこちらにやってきては、テオドールの足にしがみついたり、座るこちらの膝の上に乗ってくることがある。
 前任者との関係がうまくいっていなかった、とは思えないくらい、人への甘え方を心得ていた。
 そして今も、こちらがソファに座っているところにやってきて、背中によじ登ったり、隣でごろごろしているうちに眠くなったのか、体を丸め、こちらの足を枕にして、いつの間にか寝てしまった。
(立てない……)
 テオドールは、その穏やかな寝顔を、真顔で見下ろす。別に重くはないので、足がしびれるといったこともないのだが、気持ちよさそうに眠っている子供を起こしてしまうことにはなんだか罪悪感があって、動けなかった。
 腿もふくらはぎも野山を歩き、自然と固くなった足だ。枕にしても心地よいとは思えない。
 動けないので、テオドールは身動きを諦めて、窓から差し込む穏やかな午後の日差しと、その外に広がる濃い緑と、小鳥たちのにぎやかな声を聴いていた。
 がらんとした天井の高い部屋。そう人が訪れることのない部屋。人によっては、寂しい空間だと思うだろう。
 だがテオドールは、こういった、静かな時というのは嫌いじゃない。元々自分は、そう人の輪の中にはいない男だった。
 別に格好をつけてそうしていたわけでもなく、自然とそうなった。
 世の中の人の会話を眺めていて思うのは、彼らはとてもうまく、阿吽の呼吸で、求める言葉と求められる言葉をうまく言い合っているのだな、ということだ。
 自分はそれができない。気の利いた言葉が出ない。面白いことなんて言えやしないし、見当違いのことを言って場の空気を凍らすくらいなら、黙っていた方がいい。無駄口叩いている暇があるなら、少しでも働いていた方がいい──会話の「正解」がわからない自分は、いつもそうやっていた。
 本当に幼いころは、それなりに歳の近い子供たちの輪の中にいた気がするのだが、いつの間にか、そうやって難しく考え込むようになってしまっている。
 周りで、テオドールの目には楽しそうに生きているように見える人たちは、会話の中に「正解」を考えないのだろうか。考え込まずともそれができるのか。甘えたり、誰かを頼ったり、触れたり。それも、悩まずともできるのか。
(俺が変なんだろうけど)
 ため息は出ないが、そんな自虐的な思いが浮かぶ。
 それなりに気は強いつもりでいるのだが、どうしても自分は、自然にそれができない。凄まじく、勇気がいる。
 相手からの「許す」という一言があれば違うのかもしれない。しかしわざわざ相手にそれを確認するのは、人との付き合いの中では滑稽だ。馬鹿みたいではないか。
(甘えは悪いこと。わがままを言うのも悪いこと。誰かを頼るのも、情けないこと)
 それが当然だと思っていたし、それができない同世代の人間を、内心馬鹿にしていた。
 しかしふと気づいてみれば、甘えや誰かを頼ることを知る人たちの方が、幸せそうに見えた。
 自分が不幸だなんて思いたくはないテオドールは、それを必死に気づかないようにしていたが、こんなに天気が良くて静かで、自分の硬い足を枕にして幸せそうに寝ている柔らかな子供なんて見ていたら、そんなことをつらつらと考えてしまった。
(俺の幸せって、なんだろうな)
 子供の、小さく上下する肩を見下ろしながら、思う。しかし考えても答えは出ない。
 ただ一つわかるのは、兄や義姉に褒められる時だけは、無性に嬉しかったということだけだ。そこに、自分の求める幸せがあった。
 自分という極端に世界の狭い男は、あの二人に褒められることを喜びとしていた。いつしか、それが己の存在意義だと思い始めたのだろう。
 だが褒められても、喜び方がわからないというしょうもない自分は、喜んでいいのかもわからなくて、素っ気なく笑って、さっさとその話を打ち切りにかかったけれども。
(目の前であの人たちの身代わりになれと言われたら、俺は迷いなく死んだだろうな)
 そして、それで満足なのだろう。役に立てたと思って。
 自分という存在が、救われたように思えて。
「……」
 そこまで考えて、だんだんと気が重くなってきた。頭を軽く振る。やめよう。考え方がおかしい。
 まさかこの地に来て、ここまで自分に主体性がないのだと思い知ることになるとは、思わなかった。
 悶々としている自分とは対照的に、昼寝中の子供は幸せそうだ。少々よだれが垂れているのが気になるが、ズボンを汚されようが別に自分は着飾る身分でもないので、いいか、と思う。
 この子供も時々大人の反応を気にしているが、さすがに自分ほど、ややこしいことは考えていないだろう。
 このまま育てばいい。
 自分のように、どれが本当の自分の気持ちなのかわからないほど、己を塗りつぶして、気付いたときにはすべて遅かったなんて、そんなことしなくていい。疑問も思わず、素直に誰かに手が伸ばせるなら、そっちの方がよいに決まっているのだ。
 自分も隣人も同時に愛せるなら、それに越したことはない。
 そんなことを一人でむなしく考えていたとき、部屋の扉が開いた。
 キールだった。おそらくアルノリトを探しているのだろう。扉を振り返ったテオドールと、目が合った。
 キールが何か言おうとしたので、テオドールは黙って人差し指を己の口の前に立てた。そして、その指で下をさす。
 そのしぐさに、キールは「あぁ」という顔をして理解したようだった。足音をたてずにこちらにやってきたキールは、テオドールの足を枕にしながら、一向に起きる様子のないアルノリトを見て苦笑した。
 そしてそのまま、彼はアルノリトとは反対側の、テオドールの隣に腰を下ろす。
 てっきりそのままどこかに行くものと思っていたテオドールは、わざわざ狭い場所に腰かけてきた男を、不審な目で見る。
「……仲間外れみたいで嫌ですから」
 自分より若いその男は、そんなことをにやりと笑いながら、小声で言った。最初は、こちらに好んで近寄りもしなかった癖に、人というのは変わるものだと思う。
「何考えていたんですか? 一人で」
 静かな問いだ。この男、聡いのかポンコツなのか、よくわからない。
「……別に」
 そしてやはり、こんな返ししかできない。もはや癖になった返し方。とっさに言葉が出ない、自分の方がよっぽどポンコツなのだ、ということを思い知る。
 少し反省しながら、この男に返す言葉を練った。
 この男は、気落ちしている自分を気遣おうとしているのだろう。することもなく一人でいると、悶々と悪い方に考えるであろうという事くらい、もはや知っているだろうから。
「……自戒と反省」
 そう呟けば、キールはちょっと、噴き出しそうな顔をしていた。
「そういうのは、ある程度落ち込んだら、収拾つかなくなる前に、さっさと止めるべきですよ。結局開き直るしかない。己というのは、そうそう変わらないわけで」
 テオドールも、苦笑しつつも頷いた。
 自分でもくだらない、とは思うのだ。しかし今は、こうしてわざわざ自分の隣にやってくる者たちの存在が、有難いと感じていた。
 ──自分も、変わったのだろうか?
 それがいいことなのか悪いことなのか、テオドールにはまだわからない。
   
(続く)