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檻の中のカラスと孔雀

43:猛禽と、カラスの嘆き


 顔に何か冷たいものが落ちて来た感触で、目が覚めた。
 テオドールは薄暗く、妙に狭い空間にいた。頭がぼうっとして、何がどうしてどうなったのか、よく思い出せない。
 床は、冷たい石畳。そこに、頬を擦りつけるようにして横に転がっていた。
 首を動かしかけたところで頭がずきりと痛む。頭に何か巻かれている感覚がある。唇を舐めると、鉄臭い味がした。血の味だった。
(確か)
 朦朧と視線を漂わせながら、記憶を辿る。
 自分はあの別邸で一人留守番をしていたはずだ。うたた寝をして目が覚めて、日が暮れているのに気付いてマキーラを中に入れようと立ったところで──。
(誰かに頭を殴られた)
 背後から不意打ちを食らった自分は、あっさりと床に倒れ込み、意識を失ったのだ。
(……それにしても、よく生きているな、俺は)
 状況を理解するよりも先に、乾いた笑いが浮かんできた。出血は思ったより酷く、気色の悪い感覚と共に、だらだらと血が顔面に垂れてきたのを覚えている。
 死ぬだろうかと思ったのだが──それでも、まだ生きている。本当に、丈夫なだけが取り柄だ。自分のしぶとさを、今は笑うしかない。
 傷口を確かめようとしたところで、手が動かないのに気付いた。手首を見ると、両手を木製の枷でまとめられている。足首もそうだ。片足に枷がはまって、その鎖は近くの柱に巻き付けられていた。まるで、鎖につながれた犬だ。
(またか)
 こんなもの、久々に見た。忌々しさに舌打ちが出た。
 だがそうやって腹が立てていると、ぎこちなかった意識がだんだんはっきりとしてきた。「なぜ、誰が」という思いが強くなる。
 倒れた自分からは、相手の使い込まれた、茶色いブーツの足先しか見えなかった。男の足だとは思ったが、そこから顔までを見上げる余力は、あのときの自分にはなかった。
 頭の傷も、どうやら布を巻かれて止血されている。顔面にだらだらと垂れてきた血も、ふき取られている。別に襲った人間にそんなことをしてやる必要はないわけで──どうやら相手は、あの瞬間、こちらを殺したかったわけではないらしい。
 そして、今も。
(ここはまだ、城内か?)
 闇に慣れてきた目で、テオドールは周囲を、ゆっくりと見渡す。
 床は石、壁も石。周りは湿気でじめじめしており、冷える。天井からぽたりぽたりと、結露が雫となって落ちてきていた。
 ここは、それまで自分たちが過ごした、木立の中の別邸ではないようだ。あの屋敷に、こんな不気味な場所はなかった。
 だが独房の様に柵に囲まれているわけでもない。自分の周りは物置の様に何十年も使用されていないような、朽ちた木箱が乱雑に置かれ、物置の様になっている。木箱の向こうに、奥へつながる通路のようなものが見えた。
 周囲は真っ暗なのに、なぜそこまで見えるか──それはすぐそばに、テオドールをここに運び込んだ人間がわざわざ置き去りにしていったと思われる、ランプが置かれているからだ。
 小さなランプは、ぼんやりとテオドールの周りだけを照らす。相手が何をしたいのか、まったくわからない。
 何らかの悪意があって自分を痛めつけ、どこかに拉致したかったなら、別に暗闇の共に、と明かりを置いていく必要はないはずだ。
 しかし今はそのおかげで、なんとなく自分が放置されている場所の状況が分かった。
(……ここは地下通路か、水路?)
 独特の湿っぽさからそんな気配を察したが、身を繋がれているので、ここより奥を覗き込むことができない。水の流れる音がかすかに聞こえるし、風の流れもあるようだ。空気も、長期密閉されたよどんだ空気、という感じでもない。地下室というよりも、もっと広い空間のような気がした。おそらく、水の流れに沿って歩けばどこかに抜けられる可能性があるが──この繋がれた足では無理だ。
 ──どこにも行かないでね。
 ふと別れ間際、アルノリトに不安そうに言われたことを思い出す。
 どれだけの時間、気を失っていたのかわからない。今が朝なのか、昼なのかも。この暗闇ではわからない。
 彼らが戻って、自分があの部屋にいなかったら──アルノリトやキールは、どう反応するのだろう?
 約束を破ってこの隙に、どこかに逃げてしまったと思うだろうか? 
 確かに自分も一瞬、そうしてしまおうか、という考えはちらついた。実際に行動に移す勇気や、気力は微塵もなかったが。
 自分をすっかり信頼しきっているあの子供。置いて行かれることを恐れている子供。テオドールに捨てられたのだと思い込んでしまったら、どんな顔をするだろう?
 あの子供は無邪気で、優しいままでいるべきだ。泣いて混乱して、周囲を攻撃などしなければいいが。
 キールにも、散々迷惑をかけた。
 偽りなく誠実だったあの男に、今は友人と言ってもいいあの男に、何も言わずに一人逃げ去ったのだと──そう思われる光景を想像したら、それは違う、と弁解のようなことを、思わずつぶやきかけた。

 違う。
 自分だって、大事に思っていた。
 己が駄目な男だとは知っている。だが一言もなしに、消えるものか。
 
 テオドールは呻きながら、ゆっくりと身を起こす。頭を打った影響か、動くとくらりと眩暈がして、吐き気が込み上げた。ほとんど何もない胃の中身を、背を丸めて吐きだして、荒く息をつきながら、冷たい壁に背中を預ける。冷えた壁は、じんわりとこちらの体温を奪ってきた。
 もしかしたら、自分はここで死ぬ運命かもしれない。誰にも気づかれず、そのうちに干からびて。
(でも、あの人たちに比べれば、まだ穏やかなものか)
 わけもわからず死んだであろう兄や義姉に比べれば、ここで徐々に死にゆくのだとしても、それはまだましな方だ。覚悟をする時間くらいある。
 あの世で二人に会えるのなら、別に己の死というのは、そこまで抵抗するものではない気もする。兄はあの世では、病から解放されて、体が楽になっていればいい。義姉も、余計なことは何も知らないまま、自分を笑って迎えてほしい。馬鹿なことに気づきはしたが、自分はちゃんと、今まで通り、控えめな弟に徹して見せるから。
 もう考えること、悩むことには疲れてしまった。楽になれるなら、引きずられるがままにそちらに行ってもいい、という誘惑はある。しかし心のどこかで、この期に及んで、それは駄目だと自分に声をかけてくるものもある。
 ──どうしたら、あなたは楽になってくれるのか。
(生きて楽になってくれ、って意味だ。あいつのは)
 自分の思う「楽」とは違う。死んで楽になれ、なんてきっと言わない。考えもしないだろう。同情でもいい人ぶりたいわけでもなく、あの男はそんなことを言うのだ。
 テオドールは、呆れたような笑いを漏らした。こみ上げてくるもので喉は震えたが、どちらかと言えば、泣いていたような気もする。
 ここには鏡がない。他者もいない。自分がどんな顔をしているのか、さっぱりわからない。だがおそらく、それでいいのだ。
 今自分の情けない顔なんて見てしまったら、きっと一生、立ち直れなくなる。

 


 皮肉なものだなと、キールは思う。
 この国で何十年と絶対的な権力を持った男。統治者としての才能に恵まれる反面、異常なほどの好色さを併せ持った男。
 多くの妻や子供たちに囲まれ、見送られ、人としては理想の死に方をするのかと思いきや──涙を流しているのはその女たちだけだ。
 多くの子供たち──もはや子供とも言えない、とっくに成人を迎えた者たちは、涙一つ流さず、父が逝くのを黙って見送っていた。沈痛な表情とも言えない。見ているこちらが、居心地が悪くなるほどの無表情だった。
(異様だ)
 その冷めた視線を、キールはアルノリトに見せていいのか戸惑った。アルノリトは、キールの手をしっかりと握って、不安げに部屋の隅から、刻々と血の気を失っていく皇帝陛下と、キールの顔を交互に見ていた。
 この子供は、どう反応したらいいのかわからないようだった。結局最後まで言葉を交わすことのなかった父親という存在のことも、慕えばいいのかなんなのか、わからないままだった。
(異様だし……皮肉だ)
 キールは端からそれを見て、もう一度そう思った。
 一人の人間としても男としても、欲しいものすべてを手に入れた、と言っていいだろうに、その子息の冷え切った空気はなんだろう。
 もちろん、その理由と言うのはわかっている。男として優れていても、よい父ではなかったというのがすべてだ。子の誰かに特別愛情を注いでいた、という話も聞かない。イラリオンのように憎しみの対象としているか、ミヒャエルのようにそれはそれ、割り切った付き合いをしているか──ほとんどは、そのどちらかなのだろう。
 貧しく何者にもなれない人生だとしても、親族や友人たちに心から悲しまれて送られることと、権力、地位、名声、金と女──男として考えうるすべてを手に入れながら、こうも無感情に送られること、どちらが幸せなのだろうと思う。
 国葬の日取り、行事の段取り、その後については、するすると進んでいく。悲しみで足を止めよう、というものはいなかった。意外なほど、周囲は淡々と行動しているように見える。
 政治的な空白を作るべきではない、という思いもあるのだろう。
「……今日はもう、一旦戻りましょうか」
 皇帝陛下の遺体が安置室に運ばれるのを、廊下の壁際で見送ったキールは、手を繋いだアルノリトにそう声をかけた。この場にいても、もうできることはない。まだ子供のアルノリトにそこまで求める声もないだろう。
「うん……」
 アルノリトは頷く。場の空気に圧倒されたのか、完全にしょげてしまっている。
「もう夜も遅い。テオドールもまだ、待っていると思いますから」
 そう別館に置いてきた男の名を出すと、アルノリトはもう一度頷いた。
(本当は、一人になんてしたくなかった)
 キールはそう、心の中で苦々しく、置いてきた男のことを思う。
 あの男は、あまり人に弱みを見せたがらないし、この小さな子供の前では特に気を張らねばと思うのか、泣き言らしいことも言わなかった。
 しかし出会った時とは違う、別の無口さが彼に生まれていることにキールは気付いていたし、食べはしているが、痩せたのも気付いている。あの男の背中は、今は少しばかり骨が目立つようになってきた。
(一緒に来て、なんて)
 言わねば良かった、とキールは苦々しく思った。この地に来てから、自分たちは互いに余裕をなくしている。結果、それはあの男の心を徐々に削りつつある。
 大体自分が悪いのだとは、自分自身でも思っている。
 がっかりするのは、思っていたよりも、自分は子供じみた男だったということだ。
 感情を抑えることもできず、上手に嘘もつけず。何もかも最悪なタイミングで、無様にすべてを白状せねばならなかった。それをあの男がこちらを責めもせず、粛々と受け入れていく姿が、逆に怖かった。
 いつからあの男を好いていたのか、なんて、考えてもよくわからない。
 当初は話しにくい男だなと思っていたし、最初から好意があったわけじゃない。こちらに向ける視線も言葉も攻撃的で、むしろ、あまりよく思っていなかった。
 しかしあの閉鎖された空間で、大人の会話ができるのはあの男だけで、毎日顔を突き合わせて同じものを食べて生きていると、自然と親しみは生まれた。
 多分それは、テオドールにとっても同じだったのだろう。
 互いに事情はあったし、譲歩せねばならないところはしていたつもりだ。踏み込んでいいところ、駄目なところ、そこも互いに探り合っていた。そんな中で──ただ粗暴で反抗的だと思っていたあの男が、意外に人を気遣うのだと知った。
 あの男は、愛想がないというより不器用で、心のうちに思っていることを、表に表現する方法を知らない男だった。
 なんでそこまで己を封じ込めようとするのかは知らない。育ちのせいもあるのかもしれない。
 だがなんとなく理由がわかったのは、あの男の、重苦しい空気の中で放った、妙に清々しい一言だった。
 ──俺は、義姉さんが好きだった。
 そう呟くテオドールの顔は吹っ切れているように見えて、非常に悪いことをしている、という罪悪感に満ちていた。自嘲も交じっていた。
 その一言に、キールはあの男の本質を見たような気がした。
 粗暴そうな見た目に似合わず、凄まじく遠慮するのだ、あの男は。
 きっと、相手への好意よりも立場や相手への遠慮、そして己への嫌悪があの男を縛っていた。
 しかしキールは──テオドールには悪いが、この話を聞いたとき、一種の嬉しさを感じていた。きっと己の中に深く封印したかった話だろう。そんな話を自分だけに語ってくれたという喜びと同時に、猛烈な悔しさもあった。
 ──自分は、いつの間にかこの男に好感を持っていて。
 友人として想うより、もっと別の親しみと、何とも言い難い粘着質な好意を抱いていて。
 この国でこの男をここまで深く知るのは、自分だけ。
 自分がここまで己の内部を語ったのも、この男だけ──そんな特別感さえ抱いていたというのに、その唇に触れもしたというのに──この男は、これっぽっちもこちらにそんな感情、向けていなかったのだ。自分は全然、特別じゃなかった。
 悔しかったから、告げてやった。お慕いしていると。
 自分もいるのだと、お前にからみついてやると、存在を主張したくなってしまった。
(でも、言うんじゃなかった)
 今はそれを後悔している。
 言う時期も場所も間違えてしまった。そんな思いだ。
 そしてそんな突拍子もない告白をされたあの男はというと──固まっていた。次の日は近寄ろうとすると、若干身構えられた。
 自分の気持ちの盛り上がりなんて、あの男には関係なかったのだ。
 もう開き直るしかなくなってしまったが、キールはテオドールから距離を取ろうとは思っていない。今自分が距離を取れば、あの男は逆に気にしそうな気がする。
(それに今、あの人を一人にしないほうがいい)
 そこまで弱い男だとは思っていない。だが、元々自身に執着していないところがあるので、気持ちが切れてしまったとき、どうするかわからないという怖さがある。感情的に、怒ってくれた方がまだいいのだ。物わかりよく穏やかに、静かに引き下がられると、怖い。
(私はともかく)
 キールは、今は手を繋いで歩いているアルノリトを、ちらりと見た。
 あの男は、この子供を素直に可愛がっている。懐かれているのをわかっていて、わざわざ 悲しませるようなことはしないだろう。自分よりは、よっぽどあの男をこの世に繋ぎとめる楔だ。
 早く戻ろうとしたところで、前方の柱の陰に、妙にぎらぎらと光る長い金の髪を持つ男が腕を組み、こちらを見ながら待っているのが見えた。
「殿下」
 はっとしたように呟けば、その容姿端麗な男は、苦笑にも似た笑みを浮かべた。イラリオンが、伴も連れず立っている。姿を見かけはしていたのだが、ここに来てから互いに慌ただしく、話らしいものができていなかった。
「……このたびは」
「いいよ、そういう挨拶」
 頭を下げかけたキールを制して、イラリオンは再び笑う。
「何というか……呆気ないもんだね」
 小声でささやかれたその言葉に、キールも眉を寄せて応える。イラリオンの顔に、笑顔はなかった。あれだけ父親への憎しみを隠さなかった癖に、さすがにこの空気の中では、毒を吐かない程度の常識はあるようだった。
「アルノリトも疲れたろ」
 イラリオンは腰をかがめて、アルノリトの頭を撫でたが、こちらにも笑顔はない。きっちりとフードまでかぶった頭を、しゅんと下げていた。
「……なぁ、ちょっと頼みにくいんだけど」
 イラリオンは腰をかがめたまま、キールを見上げた。
「今晩、そっちに泊めてくれんか」
「そっちって……我々がいるところですか。それは、私がどうこう言えることじゃないんですけど……なんでまた」
「この空気が、辛気臭くて嫌。あと、お兄様方の無言の威圧がねぇ」
「……貴様の神経はそこまで軟弱だったか」
 ふいに神経質そうな声が聞こえて、キールとイラリオンは振り向く。そこには、数人の取り巻きに囲まれたミヒャエルがいた。
「これでもねぇ、俺は繊細なんですよ」
 イラリオンは、引きつった笑みで告げた。
「特にミヒャエルお兄様みたく、豪胆じゃないのでね。お兄様だって心の中じゃ万々歳でしょ? 親父が死んだら、もう後は好き放題できるじゃない」
 イラリオンの嫌味に、周囲の取り巻きはざわりとして、ミヒャエルも眉間を寄せた。しかしキールが止めるより先に──アルノリトが前に、ちょこちょこと出て来た。
「おじさんたち、喧嘩はだめ」
 この子供に不機嫌そうに言われては、さすがにイラリオンも棘を引っ込めるしかなかった。ミヒャエルも軽く顎を上げて、アルノリトをちらりと見る。
「……子供はもう寝なさい」
「はぁい」
 アルノリトの素直な返事を聞くと、ミヒャエルも取り巻きを放置して、さっさと一人で引き上げていった。周囲の人間たちは、顔を見合わせて、慌てて彼の後を追っていく。
「……お前、あの仮面のおじさん怖くないの? 性格、とんでもねぇいじめっこなのよ?」
 イラリオンは、興味津々という様子でアルノリトを見た。
「怖くない」
 アルノリトは即答したが、やはり笑顔はない。立ちっぱなしですっかり疲れてしまったし、テオドールのところに早く帰って思い切り甘えたいのだろう。再びキールのもとにやってきて、左手を握ってきた。少し眠くなってきているのか、その小さな手は熱い。ぐずりたいのを我慢している様子だけは、伝わる。
「とりあえず、戻りましょう。殿下も……ミヒャエル殿下の反応を見るに、お好きにってことでいいんでしょうけど」
「まぁ言われたところで好きにするけど」
「──では私も、道中殿下の護衛としてお付き合いしましょう」
 突然背後から、再び聞いたことのある声で話しかけられた。そちらを見れば、白いコートできちんと正装したハンスが、廊下の往来の激しい中で立ち止まり、こちらを見ていた。どうやら、ミヒャエルの取り巻きに紛れていたらしい。
「……お前、本当にどこからでもわくよねぇ」
 イラリオンも、呆れたような視線でハンスを見る。
「虫のように言わないでいただきたい。……よろしいか、ヴァレニコフ」
 ハンスは、有無を言わせない視線でこちらを見た。
「別に、貴殿の腕を信用していないわけではないのだ」
(余計な一言だ、それは)
 そう言い返したくなるのを、ぐっとこらえた。
「……お好きに。私もご当主の護衛が最優先ですので、ハンス様がいてくださるなら、助かりますから」
 一応キールは、薄い愛想笑いを浮かべて、そのように述べておいた。少しだけ自分の声が固くなっていたのは、気付かれているだろうな、と思いながら。

 真っ暗な林の中を抜けて別館の前まで来ると、アルノリトは途端に元気になってキールから手を離し、小走りで玄関まで進んでいく。扉を両手で引っ張って開けて、するりとその中に入っていった。
「おうおう、ママ一直線だねぇ」
 イラリオンが感心したような笑みを浮かべる。
「あの子にも悪気はないんだろうけどさ。やっぱり、テオドールの方に懐いちゃって、嫉妬みたいなことを思う? お前。付き合いはお前の方が長いだろ」
 イラリオンに苦笑されて、キールも苦笑する。
「いえ。あの人の方が、子供の面倒見るのは上手いので」
「それが意外だよね。全然そういう男に見えないのに」
「人は見かけによりませんよ」
 そうやって玄関扉を開けると、アルノリトが廊下でぽつんと立って、首を傾げていた。
「どうしました?」
 もうテオドールに飛びつきに行っているだろうな、と思っていたキールは、その姿が意外だった。アルノリトも、不思議そうな顔をしている。
「……キール。テオドールがいないよ」
 その言葉に、キールは一瞬息を止めて、慌ただしく客間を覗いた。ほとんど炭になった暖炉の火は赤くぼんやりと燃えているが、中に人影はない。
「寝室は」
「見たけどいなかった。二階にもいないの。マキーラも」
 アルノリトはそう言って客間に入り、近くにあった椅子を窓際に引きずって、それを踏み台にして窓を開けた。
 窓を開けてきょろきょろしていると、近くの樹々から大きな影が飛び出してきて、アルノリトが身を乗り出している出窓の部分に降りて来た。マキーラだ。
「マキーラ、まだお外にいたの? テオドールどこ?」
 アルノリトの問いに、マキーラは小さく鳴いた。アルノリトは再び、首を傾げてこちらを振り返った。
「ねぇキール、テオドール、外出てないって。マキーラずっとここにいたけど、見てないって。テオドールどこ行ったんだろ?」
 無垢な問いだったが、アルノリトの顔にも若干、不安の色が濃くなり始めている。
(どこに……)
 キールは、胃の辺りから強い寒気が、徐々に体全体に広がるのを感じていた。

   
(続く)