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檻の中のカラスと孔雀

44:猛禽と、カラスの嘆き②


 いない。どこにもいない。
 キールは、屋敷の中をかたっぱしから探した。自分たちが全く使用していなかった二階の部屋も、カーテンの裏まで全てを見たのだが、テオドールの姿はなかった。
 あの男は、いい歳をした大人だ。隠れて、帰ってきたこちらを驚かせようなんて茶目っ気など、元々ない。
(屋敷の中にいないとすると)
 外だろうか──と、玄関を出て、キールは周囲を取り囲む真っ黒な林に視線を向けた。
 もう深夜だ。今日の夜空はぶ厚く曇っていて、月も雲に押しつぶされている。この暗闇の中、広大な敷地の中で男一人を探す、というのは難しい。
「……ここだけの話、逃げちゃった、ってことは?」
 背後からやってきたイラリオンが、声を潜めてそう呟いた。一応、この男も付き合いで、ハンスと共に屋敷の中を見てくれていたのだが、その声は妙に冷めていた。
 キールが視線だけそちらに向けると、「そんなに睨むなよ」とイラリオンは気が重そうに息を吐く。
「……睨んだつもりなんてないです」
「充分睨んどるがな……悪く言いたいわけじゃない。可能性として考えられないか、ってことだよ」
 キールはイラリオンをもう一度ちらりと見て、目を逸らした。
 確かにここの何もかもが、あの男には居心地が悪かったことだろう。確かに普通の人間なら、監視の目が薄くなった今が逃げる機会だ、と思うかもしれない。
 しかしどうも──あの男がここから逃げる、という姿が想像できない。
「……そういう機会なら、別に今日じゃなくても、今までだってありましたよ。留守番してもらっていたことも多かったし」
 キールは再度、暗い森に視線を向けながら言う。
「確かに市街に出てしまえば、人に紛れることは可能でしょうけど……この城から外に出る、というのが一番大変だと思う。そこがわからない人じゃない」
 今夜は、警備の者も落ち着かない夜ではあったと思うのだが、容易に不審な男の出入りを許すとは思えない。あの男も野山の歩きは慣れていて、気配を消してひっそり動くことは可能なのだろうが、つても金もないというのに、ここで外に出たところでどうするというのか。
(でも──そんなことすら、どうでもよくなっているのだとしたら)
 押し付けようとした金に、手を付けた様子もない。
 体一つで外に出たところで、何もできはしない。字も読めず、異国の人間と一目見てわかるような人相であることくらいわかっているはず。
 だがあまりにもいろいろとありすぎて、自分の身も含めて、何もかもを投げ出したくなっているのだとしたら──。
「テオドールは、逃げたりしないもん」
 そのとき、自分たちの会話を聞いていたのか──アルノリトが、マキーラと共に二階から降りて来た。その顔は、不安と不機嫌で今にも泣きだしそうな顔をしている。
「ご当主は、もう寝てください。あとは私が」
「やだ! テオドールが見つかるまで待つ!」
「おいアルノリト、夜中なんだからお前は寝とけよ。もう眠いんだろうが」
「いーやー!」
 抱き上げて、寝室に連れて行こうとするイラリオンの手からちょこまかと逃げ回り、アルノリトはキールの腰にしがみついた。
「……キール。テオドールがいなくなるなんて、おかしいよ。マキーラが見てないって言ってるもん。テオドールがマキーラ置いて行くはずないもん。それに、ここにいるって約束したもん」
 その目は涙目である。そばについてきているマキーラも、体が一回り大きく見えるほど身を膨らませ、冠羽もしっかりと立てて、キールを睨んでいた。気が立っているのだ、というのは、見ただけでわかる。
 キールは、いつもこちらを敵視しているその大きな鷹と、視線を合わせた。床に降りたその鷹は、けたたましく鳴くこともなく、無言でこちらを睨んでいる。
 ──自分が気付かないはずがないのだ。
 その金色の目からは、そんな意思を感じた。
 キールには、アルノリトのように鳥の言葉はわからないのだが、今はなんとなく、この賢い鷹の言いたいことはわかる。
 猛禽類というのは基本目が良い。マキーラもそうで、遠いブーチャから、テオドールを見失うことなくここまで追って来たその能力は、疑う必要のないものだ。
 そして彼らは、何よりも固い絆で結ばれている。特にマキーラはテオドールを「伴侶」と思っているようなので、彼が自分を置いていくなんて微塵も思っていないし、人のように疑う事すらしないのだ。
 マキーラが今怒りに身を膨らませているのは、複数の人間を前にしているからではなく──伴侶の身に、何かあった、と感じているからだ。
 ──お前はそれを疑うのか。
 マキーラの視線は、こちらを責めているようでもあった。
 自分の事も。あの男の事も。この子供の、切実な訴えも。
「……えぇ。わかっていますよ。何も言わず去るような人じゃない」
 キールは、その訴えかけるような視線に、答えるように頷く。
 あの男は情に厚い。自身の事より、なんだかんだで人の心配ばかりしている。もっと自分中心に、己の幸せや利益だけを追求して生きられるなら、あの男はあそこまで思い悩まなくても良かった。
「……この屋敷には、入り口というのは玄関しかない。窓はすべて、内側から鍵がかかっていた」
 マキーラと見つめ合っていると、わきから声をかけられた。屋敷周辺を見回っていたハンスが、裏から戻ってきていた。
「城の敷地は広く、外壁も高い。ほとんど出歩いていない彼に、初見であっさり抜けられるとは思えない。それに悪いが──彼が一人で敷地内をさまよっていれば、何かしらの目撃情報くらい上がるだろう。それも今のところ、ないようだ」
 キールも無言で頷く。自分たちに同行した奴隷の話は、ある程度噂になっているはずだ。きちんとした格好をしていたわけでもなく、有り合わせの、着の身着のままでここにやってきていたので、城の中を歩くには、粗末と言えば粗末な格好だった。
(でも、そんな誰にも見られず、痕跡も残さず部屋の中から消えるようなことは)
 何があったのだ──とキールは悩みながら、無言で客間まで戻った。
 もう、嫌な予感しかしない。彼が自分で外に出ていないとしたら、なんだ? 
 連れ去られたとでもいうのか?
 いったい何のために?
 テオドールが使用していたのは、大体この客間と、寝室くらいだ。彼を最後に見かけたのも、この部屋だった。
(何か、自分たちが出かけるときと、少しでも違うところは)
 キールは目を細めて、一つの痕跡でも見逃すまいと、部屋の中を見渡す。
 暖炉と、菓子が盛られたテーブル、ソファ。壁際には丸いサイドテーブルと、木製の椅子が二つ。壁には美しい森の風景画。床には、一面赤い絨毯。テーブルの下だけ、アラベスク模様の絨毯が敷かれている。
 そして窓からは、別世界の様に真っ黒な、周囲の林。
 何も、自分たちが出かける前と変わっていない気がする。アルノリトもこちらに引っ付くようについて来て、キールの顔を不安そうに見上げていた。
 サイドテーブルの上には、例の報告書が入った封筒が、置かれたままとなっていた。キールはそれを、忌々しいものを見るような目で見つめる。封筒はすでにしわだらけになっていた。中の書類も同じだ。
(これがなければ)
 まだ穏やかでいられたんだろうな、と思う。それを恨むのも筋違いなのだ、とはわかっている。管理できていなかった自分が悪いし、本が読めるよう、アルノリトに読み書きを教えたのも自分だった。
 アルノリトに字を教えることに関しては、元々少し悩んだことだ。読めて、意味も分かるようになれば、いずれ鳥かご屋敷に残された書物も読むようになるかもしれない。
 まだキールが私室として使っている書斎には、この子供を入れていないが、あそこには関連書籍が山のようにある。前任者の、気がふれそうな文章も読むかもしれない。その中で、いずれ、自分との因縁も知るかもしれない。
(でも私は……それを望んでいたのかもしれないな)
 手を伸ばして、不安そうにこちらにしがみついている子供の頭を撫でる。
 親しく優しい大人を演じながら、将来的には己でそれを知るように。そう仕向けようとしたのかもしれない。
 そのとき自分がどこにいるのかなんて、知らない。任務が解かれているのか、いないのか。生きているのかいないのか。知ったこっちゃないが──自分はきっと、この子供を人間的な教養を与えるという事以外に、罰のようなものを与えたかったのだ。
 ──のちに、知って苦しめばいい。自分の口からは言わない。書物を読むことで、何をしたのか、察して苦しめばいい。
 それは計画的な、時間のかかる、精神的な復讐だ。
 あどけないが、この子供は化け物だ。人間じゃない。可愛らしい「ふり」をしている。美声や容姿でだます系統の生き物だから、罪の意識なんて、考えなくていい。
 恨みとともに同居する罪悪感は、そうやって飲み込んだ。すべて、テオドールと出会う前の話だ。
(……そんなことを考えたから、ほら。大事な時に罰が当たる)
 気まずさは、予期せぬ反射をして、自分に返ってきた。
 あの書類のことは落ち着いてから、徐々に段階を踏んで言うつもりでいたのに。己の計算高さに、吐き気がする。
 誠実でありたいなんて思いながら、そう振舞いながら、なんて自分はずるい男なのだろう。
 もうこんなものは、見返すこともないだろう。暖炉にくべてしまおうか──そう思い、手に取ったときだ。
 キールは、封筒の表面の汚れに気付いた。点々と、小さな赤黒い汚れがついている。菓子の汚れかと思ったが違う。もっと水っぽくて、飛び散ったような──。
(これは……血痕か?)
 指で触れ、そうだと認識したとき、ぞわりと、腰から首にかけて寒気が上がってきた。しかし一瞬の寒気のあとは、徐々にふつふつとした怒りに変わった。
 だが感情はのみ込んで、封筒をテーブルの上に置く。少しの痕跡でも見つけてやろうと、部屋を睨んだとき──ちょっとした違和感を持った。
 窓際から部屋を見渡すと、わずかだが圧迫感を持った。なぜだろうと考えて、部屋の中心に置かれていたテーブルとその下の絨毯が、以前より窓際に寄っているからだと気付いた。
 あとはもう、勘だった。虫の知らせとも言うような嫌な予感がして、テーブルを押しのけ、下のアラベスク模様の絨毯をはぐる。
 そこには、黒っぽい染みがあった。大人の手のひらほどの染みだ。もう乾き始めていたが、指で触れると、指先がかすかに、茶色く汚れる。
 臭いをかぐと──鉄臭い。
(……やはり)
 キールは眉間にしわを寄せた。誰かが意図的に、絨毯にしみ込んで取れなくなったこれを、隠そうとしたとしか考えられない。
 周囲にわずかにだが血が飛び散り、床に手のひら大の染みを作るほどの出血。
 あの男はこの場で何か、良からぬことに巻き込まれ、負傷している可能性が高い。そしてそのまま──どこかへ連れ去られたのだろうか。目撃者もなく?
 心臓が、妙にどくどくと動く。焦りのような後悔のような、そんな不安と行き場のない怒りで、冷えた指先が震える。
「……それ、血?」
 アルノリトが、床の汚れを見つめながら、不安そうに問いかけた。キールは何も言えなかった。だがキールの無言を答えと受け取ったのか、アルノリトの不安は最高潮に達したらしい。その瞬間、火が付いたように泣き出した。
「ご当主……!」
 その激しい鳴き声に刺すような耳の痛みを感じて、キールは片耳を押さえた。普通の泣き方ではない。この屋敷で、敵を「攻撃」したときと同じ痛みだった。
「ちょ、痛っ……」
 客間を覗きに来ていたイラリオンも、同じように耳を押さえて眉をしかめている。ハンスはなんとか彼を掴み、外に引き出そうとしているが、同じように痛みを感じているのは、表情でわかった。
 キールは、天上に向けて声を放って泣いているアルノリトを、痛みをこらえながらしっかりと抱きしめた。
「ご当主、今はお願いですから泣かないで……! テオドールを探せなくなる」
「……」
 キールの懇願する様な声に、アルノリトは泣き声を止めた。一生懸命、歯を噛みしめて我慢しているだけなので、肩は震え、嗚咽もときどき飛び出してくる。涙で濡れた綺麗な黄緑色の瞳が、ちらりとこちらを見た。
「彼は、私たちを置いていったわけじゃない。よくない何かがあったのは確かです。今は、怪我しているかもしれない。だから……絶対、見つけて助け出すんです」
 震える小さな肩に手を添えて、キールはアルノリトに告げた。自分に言い聞かせる言葉でもあった。
 絶対に探す。探し出す。
 あの男が何をしたというのだ。何のためにこんなことをした。理不尽に痛めつけられているなら、手を下した奴もそれ以上の目に合わせてやる。
 キールは無意識に、唇を噛んでいた。薄皮を噛み切ったのか、舌に血の味を感じる。だがそうでもしなければ、この小さな子供の前で、自分が冷静さを失いそうだった。

   
(続く)