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檻の中のカラスと孔雀

46:小鳥の脱走


 闇の中で、ひらりひらりとマントの裾が翻る。
 走る子供は、捕まったら怒られるとわかっているので、必死である。小さな足でちょこまかと林の中を逃げ惑うが、そこは大人を舐めてもらっては困るのだ。湿った草が足にからむのも構わず、キールは意地で追いかけていた。
 しばらく走るうちに徐々に距離はつまり、手を伸ばせばアルノリトに届く距離まで来たところで──キールは後ろから、アルノリトの襟首をがっしりとひっ掴んだ。アルノリトは前につんのめるように転びそうになったが、キールが引っ張っていたので転びはしない。そのまま、二人して立ち止まる。
 ──どんな顔をしてこちらを見るのか。
 いつもの、「怒られる」というような顔か、こちらの顔色を伺うような顔か。
 しかし、振り向いたアルノリトの顔は、そのどちらでもなかった。不機嫌と言うよりも、明らかに怒っていて反抗的な「それ」だった。自分に向けて、初めてこちらに向けられたそんな表情に、キールは一瞬、気圧された。
「……勝手に外に出たらだめです」
 だから、そうたしなめる言葉も、思ったよりも強くは出てこない。アルノリトは下から、大きな目で、キールをじっと睨んでいる。
「……だって、キールが僕を仲間外れにする」
「そういうつもりじゃないですよ。もう時間も遅いから……」
「そうやって、子ども扱いするもん。いつも」
 だって、子供じゃないか──という言葉が苛立ちと共に喉まで上がってきたが、呼吸を整えながら飲み込んだ。
(感情的には叱りたくないな)
 今叱る言葉に感情を乗せたら、多分余計なことまで言ってしまいそうな気がした。
 それはしない。
 自分は、父とは違う道を行くのだと決めた。恨み言はひとまず押しやって、この子供の成長を見守ろうと思った。
 判断を先送りしているとも言える。成長して、大人の会話ができるようになったら──そんな先の事は、今はわからない。
 しかし、化け物だから、人と違う者だから──と決めつけて、この子供の寂しさを無視するのは、ひとまずやめようと思った。
 キールは睨むアルノリトの視線を受け止めながら、その両肩に手を添えて、膝を曲げ、目線を合わせた。なんとなく、自分が子供の頃のことを思い出す。
 大人に対する不満や、納得できない思いというのは、子供の自分にも確かにあったなと思う。大人が嘘をついていることがわかっているのに、うまい具合に言いくるめられて、違うなと思いつつも反論できなくて──そういったことがあったなというのは、今も確かに覚えている。この子供も、そういうものを感じていて。
 いつの間にか自分はあのときの、だます大人側に回っているのだ。
「のけ者にしているとか──そう思わせてしまったなら、ごめんなさい」
「……」
 静かな謝罪の言葉に、アルノリトは唇を尖らせて、視線を俯かせた。
「でも、いじわるじゃないんですよ。ご当主が、テオドールの事をすごく心配しているのはわかっています。でも今は、我々がいたあの森とは違う。いろんな人がいるし、ここでは何があるかわからないし──あなたに何かあったら、あの人は心配すると思うから。だから、状況がわかるまで待っていてほしかった」
「……僕もお手伝いできるもん」
「わかっています。お気持ちもありがたいんですよ。でも、もうこんな時間ですからね」
 夜更かしは悪いことだと、いつも言っている。きちんと寝ないと大きくなれない、とも。そう言えば、アルノリトは普段口酸っぱく言われていることを思い出したのか、しゅんとした。
「……キールは?」
「私はこのまま対応しますよ」
「何があるかわからないのに、寝ないで一人で行くの?」
「こういうときに動くのが仕事ですから」
 イラリオンやハンスも協力してくれるというが、それを口に出したら「自分も」と話が最初に戻りそうだったので、言わなかった。
「……でもさっきも言いましたが、別に邪魔だとか、意地悪でご当主を止めるんじゃないんです。私もあなたのことを心配しているし、見えないところで傷ついてほしくないから。だから追いかけるんですよ」
 アルノリトは口を尖らせたまま、難しいことを考えるような表情で、キールを見上げた。
「……本当?」
「こんなときに嘘は言いません」
「僕の事、好き?」
「今は、愛しい」
 キールは苦笑しながら答えた。
 そこも嘘はない。今なら、そう思える。
 最初は、戸惑いの方が大きかった。この子供の優しさに触れても、そんな愛らしい姿で自分を惑わすなとも思っていた。
 アルノリトは、キールの口からそんな言葉を聞くのが、初めてだったからかもしれない。ちょっと言葉に困ったように、恥ずかしそうにもじもじしていた。
「……僕も、キールのことも好きだよ。だから、ちゃんとお手伝いしたいのに。みんな大変なのに、僕だけ待っててなんてずるいよ」
 視線を逸らしながら、むすりとした口調で言われて、キールは笑っていいのか泣きたいのか、よくわからなくなってしまった。
 この子供を脱走までさせた原動力は、役に立ちたい、ただそれだけだ。周りが一人だけ子ども扱いして、輪の中に入れようとしなかったことに腹を立てて、自分だって探せる、人に聞いて回ってみせる──そう思ったのかもしれない。
 ちゃんと叱ろうとしたのに、館に連れ戻して、外から鍵でも閉めてしまおうかと思っていたのに──その気がだんだんと失せていく。
「……勝手にどこかに行ってしまうくらいなら、一緒にいますか?」
「いいの?」
 そう言った途端、アルノリトが目を輝かせる。
「でも私から離れないのが条件です。眠くなっても、抱いてあげられる余裕はないかもしれないですよ。いろんな人に冷たく言われることも、あるかもしれません」
「大丈夫! 我慢するもん。頑張るもん」
 アルノリトは、こちらに近寄って、キールの手を握ってきた。小さな手は、体温が高い。
「 キールは、テオドールのこと好き?」
「えぇ。好きですよ」
 そう答えれば、なんだか満足げに笑われた。
「テオドールもそう言ってた!」
「……そうですか」
 無邪気な返答に、多分深い意味なんてないのだ。だが、こんなときだというのに、感慨深い気持ちがわいてきた。
(……あの人、そういう話もしてたのか)
 一緒にいることが多かったあの大人とこの子供は、自分の知らないところで、そんな話もしていたらしい。多分あれこれ聞きだしたのは、アルノリトなのだろうが。
 ただ、自分の思う「好き」とはまた別なのだろう、とキールは思う。親愛の情というやつだ。自分の感情は、そんな清々しいものでもなくて、ちょっとあの男を引かせてしまうような、粘度の高いものだ。そこがなんだか情けない。
 だがまた会えたら、きちんとそのあたり、話してみたい。
「また、三人そろって、あの家に帰りたいですね」
「うん!」
「ですから──」
 頷くアルノリトの手をしっかりと握って、キールは周囲の暗い林に視線を向けた。
「我々は冷静に、着実に進んでいきましょう──どうぞ、いらしてください。潜んでおられる方々」
 キールは目を細めながら、闇の中に向けて声を発した。
 自分たちがいたあの屋敷から、随分走った。アルノリトを捕まえて諭している間に、周囲に人の気配が増えつつあることに、キールは気付いていた。
 自分たちが走ってきた方向から、イラリオンとハンスもやってくるのが見える。しかしその両脇は、多くの騎士に囲まれていた。
「夜中に、一体何の騒ぎか」
 林の中から、ぞろぞろと複数の騎士が出てくる。その中でとりわけ大柄な男が、代表するようにキールの前までやってきた。いかつく、剣など使わなくても、こちらを掴み上げて放り投げてしまいそうな、屈強な男だ。
(見たことあるな、この男)
 キールは男を見上げる。確か、城内の警備を統括していた。
「……お騒がせして、申し訳ありません」
 キールがそう頭を下げると、その男はちらりと、キールの手を握っているマントを羽織った子供に視線を落とした。何か重ねて苦言を呟こうとしたようだが、怖がることもなく、じっと見上げるアルノリトの姿に、その言葉を飲み込んだらしい。
「何のためにここまで来た。こんな夜に出歩けば、余計な詮索を受けるぞ」
 その声には、警戒が強く含まれている。そりゃそうだ、とキールも思う。
 この林を抜ければ、ミヒャエル殿下の私邸が近い。そのほか多くの要人も館を構えている区域だ。こんな夜だからこそ、警備は厳重に、敷地内に張り巡らされている。
(でも、だからこそ奇妙なのだ)
 キールは、真正面から男を見据えながら思う。
 誰も騒ぎを見ておらず、怪我をしているはずの男の姿も見ていない、ということが。
「事情なら、俺から話そう」
 キールの後ろから、イラリオンが近づいてきた。ハンスと共に後ろからこちらの後を追っていた彼らは、先に警備の騎士に引き留められていたらしい。
「……イラリオン殿下」
 キールの前に立つ大柄な騎士は、困ったような顔をした。この男は、どちらかと言えばミヒャエルに属する男のようだった。父である皇帝陛下が死んだ日に、明らかに敵対する弟殿下がやってくれば、緊張するのは仕方ない。
「その事情とやらは今は聞けません。どうかお引き取り下さい。ミヒャエル殿下は、誰も通すなとおっしゃっている」
「……状況だけでも話し通してくれないかねぇ。俺としても余計な喧嘩したいわけじゃない。キール、ハンス。お前らも、剣捨てろ」
 イラリオンはため息をついて、両手を上げながら、こちらを振り返った。一瞬迷ったが、ハンスは躊躇することなく剣を鞘ごとベルトから外して、わきにいた男に押し付けた。キールもそれに習う。
「この通り敵意はないし、夜にいきなり押しかけた、俺たちが礼儀を欠いているのも詫びる。ただ、あの人にとっても、はっきりさせておいた方がいいんじゃないのかな、と思って。……ミヒャエルお兄様の即位に俺はこれっぽっちも異論はないし、これからってときなんだから、怪鳥との関係は良好であるべきだ」
 男は、イラリオンの含みのある言葉に、眉間を寄せた。
「……それで、殿下のおっしゃるその事情、とは?」
「俺の連れが一人、いなくなった」
 イラリオンは、両手を上げたまま、硬質な声で告げる。
「屋敷で、一人で待たせている間にいなくなった。絨毯に血痕もあったし、隠すように家具動かした形跡もある。何らかのもめ事があったと考える。……おかげでアルノリトの機嫌が悪い。俺にはここで何の権限もない。対応の相談がしたい」
「……殿下は、すでにお休みです」
 対面する騎士も、事務的な声で告げた。
「今はそれどころではありません。明朝に──」
「それでどころって、なに」
 アルノリトが、むすりとした声で告げた。
「テオドール、怪我してるかもしれないもん。あの仮面のおじさんが一番偉いんでしょ? だからお話聞いて、探すの手伝ってほしいの。そんな言い方しないでよ」
「ご当主、落ち着いてください」
 周囲にざわりとした空気が伝わるのを感じて、キールはアルノリトの肩を抱き、引き寄せた。
「最初から感情的になっても、いいことはありません。まずは言葉で、きちんとお願いすべきです」
「……」
 アルノリトの頬が、ぷくりと膨れる。だがキールとしては、それが切実な願いだ。
 真っ先に攻撃して、相手を威圧するようではいけない。もちろん知的な話が通る人間ばかりではない。剣を抜くのは、自分の身を守るときと、交渉がどうしようもなく決裂してからだ。簡単に誰かを引き裂ける力を持つなら、なおさらだ。
「私からも、お願い申し上げます」
 キールも頭を下げた。
「もちろん、非常時だということは承知しています。殿下にご迷惑をおかけするつもりはありません。探索と、聞き込みの許可だけでも」
「殿下は誰も通すなとおっしゃっている。明朝を待てというのがわからんか」
 男の言葉や表情には、揺らぎがない。主君の言葉であり、それを実行するのがこの男の仕事なのだから、仕方ないとキールも思う。
 だがこちらも、今更引けない──どうしようかと考えていたとき、森の奥からやってきた一人の騎士が、男に耳打ちをした。男は一瞬意外そうな顔をして、こちらを何とも言えない表情で見た。
「……ミヒャエル殿下の許可が下りた。ついてこい」
 そう苦々しい口調で言うと、男は屋敷に向けて、足早に歩き始める。

   
(続く)