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檻の中のカラスと孔雀

49:猛禽と、声


 思考がぼんやりしている
 気が付けば、何か周囲でごそごそと物音がする。
 そういえば、近くで名前を呼ばれた気もするが、それが現実なのかあの世からのお迎えなのか、テオドールにはよくわからなかった。
 そのとき、妙にはっきりとした声が耳に届く。
「……あぁくそ、なんだこの鎖!」
 目の前で、黒い影が何やら悪態をつきながら、しゃがんでもぞもぞ動いている。はっきりとしない意識の中で、あぁ人がいるな、くらいにしか思えなかったが、徐々に頭が動き始めた。
 この声に、聞き覚えがある。
「……キール?」
 かすれた声で呟けば、その黒い影はぴたりと動きを止めてこちらを見た。
「……テオドール!」
 足に繋がる、柱に巻き付けられた鎖と格闘していたこの男は、慌ててこちらに寄ってきた。喜んでいるのか緊張しているのか、よくわからない声音だった。
「だ、大丈夫ですか! 怪我は! あぁ、あまり動かないでください、今とにかくこの鎖どうにかしますから……くっそ、腹が立つ! 誰がこんな」
「いや、お前が、落ち着け……」
 キールがわめきながらこちらに近寄りたいのか、それよりまず鎖をどうにかしたいのか、文句を言いたいのか、かなり怒りつつも混乱しているようだったので、思わずそんな声が出た。
「それにお前……なんかどぶ臭いけど……」
 そう言えば、こちらの手を取らんばかりでにじり寄っていたキールが、眉を寄せつつ泥まみれになったブーツに視線を落とした。
「仕方ないでしょう、得体のしれないどぶ川歩いてきたんですから……戻ったらこんな臭いブーツ、捨ててやりますよ……まぁ、そういう事言える元気が少しでもあるなら、安心しましたけど……」
 キールは忌々しげなため息をつきながらこちらに背を向けて、一旦鎖をまず外すべきと判断したのか、柱に巻き付けてある鎖を再度外しにかかる。先ほどは焦りと怒りで手が震えていたが、くだらない話をしたせいか、若干冷静さを取り戻したらしい。
「ここは……どこなんだ」
 一瞬気まずい沈黙が流れた後、テオドールは、改めて周囲に視線を向ける。暗くて湿っぽくて汚くて、妙に辛気臭い場所だ。
「地下です。おそらく、我々がいた別邸の真下辺りだとは思われますが。ここまで連れ込まれた記憶は?」
 テオドールは考えてみたが、そのあたりのことはさっぱり記憶にない。
「ない……でもどうして、俺がここにいるってわかった? お前ひとりか?」
「話は長くなるんですが、いろいろありまして。……こういった空間があるという話を聞いて、怪しいのはここだろうと。他の方の協力も頂いて、結構大々的に探していました。私一人なのは、入れそうなところから無理やり入ってきたからです。ご当主も心配していますが元気ですので、安心してください」
 キールは、手を止めずに答える。
「あいつ……何も、していない?」
「今のところは。ただ、あなたと再会した瞬間にこらえていた部分、全部あふれると思うので、そこは覚悟してください。しばらく離れないと思いますよ」
「それくらいいいよ……」
 テオドールは思わず、苦笑した。あの子供がまだ誰も傷つけていないのなら、それでいい。泣き声も癇癪も、今は甘んじて受ける。早く安心させてやりたいという気持ちが、少しだけ自分の心を穏やかにした。
「ところで、襲われたときの状況──覚えていますか」
「相手の顔、とか……?」
 ぼんやりと問えば、キールがこちらを見て頷いた。
「こちらも、まだ誰がこんなことをしたのかまでは、わからないんです。犯人が誰かよりも、あなたを先に見つけましたから。ある程度、この城に詳しい人だとは思うんですけどね」
「客間で、いきなり後ろから殴られたから覚えていない……男の足、は見えたけど」
「足? 複数?」
「いや……」
 テオドールは、霞がかった記憶を絞り出す。一瞬振り向いたときに見えた、ブーツのつま先。見えたのは、それだけ。この国の人間がよく履いているもので、特にこれといって特徴もないものだった。
「すぐ意識飛んだから、はっきりとは……。でも俺が見たのは、一人。大勢いたら、もう少し気付いたとは思うんだけど」
「そうですか……ところでちょっと、動かないでもらえます? 鎖外せそうにないので、そっち切ります」
 キールは特に残念とも思わない様子で剣を引き抜くと、テオドールの前にしゃがみ、足に巻かれた革製の輪を、ぶつぶつと切り離し始めた。
 なんとなく、前もこう言う事があったと思い出した。
 自分が市場に並んであの屋敷について──それからすぐのことだったと記憶している。荷馬車に繋がれたまま動けなかった自分は、荷台を半ば斧で壊す形で、自由の身となったのだ。
 あのときのこの男といったら、それはもう、感じが悪くて──と思ったが、感じの悪さで言えば、自分も大して差がなかった、と思い直した。
(あ……そうだ、礼)
 だらだらと、いつもの調子で話している場合ではない。自分はすぐ、大事なことを言い忘れる。
 ともかく、助けに来てくれた礼を言わねば──そう思って視線を上げたテオドールは、ふと気づいた。
 キールの頬が妙に濡れている。
 本人は構う様子もなく、黙々と作業に没頭しているが──。
「……泣いてるのか?」
 意外なものを見た気分で、思わずぽつりと、言葉が出た。無神経にそんなことを言わなきゃよかったと思ったのは、キールにその涙目で、思い切り睨まれてからだ。
「余計な事言ってると、手元狂いますからやめてください。……こっちは視界が悪い」
「……暗いしな」
「そうですよ」
 涙で前がかすむから、とは言わなかった。この男も、泣きたくて泣いているのではないのだ、ということは、苛立った口調から伝わる。しかし、頬を伝った涙は、ポタリとテオドールの足の上に、雫となって落ちる。
「……冷静に、落ち着かねばと思ったんですよ、これでも。ご当主の手前、私が取り乱すわけにもいかない。私は、大人ですから」
 ぶちぶちと、革を切る音が響く。
「でもね、血の跡なんか見て、こっちはぞっとしたんです。最悪の事なんて常に考えるじゃないですか。きっと無事だって、前向きに振舞っていましたけど、あんなのただの逃避ですよ。怖いからいいように考えていただけですよ。……こっちだって、こんなときに格好悪く泣きたくなんてないですよ。おかしければ笑えばいいじゃないですか。どうせ格好悪いんですよ!」
 非常に言い訳がましいし、なんだか勝手に怒っている。だが、泣いていると認めてしまえば余計に止まらないらしく、ぶつりと足輪の革を切断した瞬間、ぽたぽたと数粒、一気に涙が落ちてきた。
 おそらく、彼はここにきて、何度も自分に声をかけたのだろう。しかし自分は目覚めなかった。最悪なことも考えたのかもしれない。
 そして、ふいに目覚めたこちらの声を聞いて、いつものように話ができることに、きっとほっとしたのだ。張り詰めていた部分が一気にゆるんだのだのかもしれない。
(そんな、子供みたいに泣くなよ)
 口にはしなかったが──思わずそんな感想が出た。
 アルノリトがぎゃんぎゃん泣いているところはよく見るが──成人男性がこんな風に泣く姿なんて、正直初めて目の当たりにしたので、テオドールはどう反応していいのかわからなくなってしまった。
 しかし嫌だ、とは思わない。この男を泣かせてしまったのは、自分でもある。
 生きていて良かった、無事でよかった──必死に「もしも」の恐怖と闘いながら探してくれて、生きていたことに心底ほっとして、そんな涙を流してくれる他人。
 身内以外の誰かに、自分のような男が心から好かれるようなことなんて、きっとないのだろう──以前からそう思っていたが、気が付けば、そういう人間ができていた。
「……格好悪いなんて思うか」
 逆に、テオドールは羨ましかった。ここまで人に、素直な反応ができることが羨ましい。きっと自分だったら、凄く嬉しいのにそれを表現できなくて、逆にそっけない態度をとってしまって、冷たい男と思われるのが関の山だ。
 泣いているこの男は、いつもより幼く見えた。
 その情けない顔に手を差し伸べてやりたかったけど、自分の両手は枷でまとめられて、自由に動かすことができない。
 仕方ないのだ──そう自分に言い聞かせながら、テオドールは自分の顔を、キールの肩口に埋める。
 成長して、誰かにこうやって触れたのは初めてな気がする。いろいろ考えることはある。すぐに自分を否定したくなる。
 でも今は、普段よりも自分の正直な声に従いたいし、目の前の男を慰めてやりたかった。
「……お前に、言いたいことが山ほどあった」
「なんです」
 キールも特に嫌がるそぶりを見せず、こちらの背中に手を添える。
「いろいろ、あるけど……一人で逃げたって思われるのは、嫌というか、怖かった」
 テオドールも、キールの肩に顔を埋めたまま、情けない笑いを浮かべる。
「勝手に逃げたなんて思われたくなかった。……お前にそう思われるのは怖かった」
「……逃げたなんて、最初から思っていませんよ」
 キールは鼻をすすりながら、呆れたような声でそう答える。
「そんなこと、これっぽっちも考えずに探してたんです。あんまり見くびられると、怒りますよ」
 すでに怒ったような声で言われて、テオドールは苦笑した。あれほどそれが怖かったというのに、あっさり否定されて、こんなものかと思う。
 一人でぐるぐる悩んで──答えも出ないというのに、愚かな時間だったのだと思うと、情けなくなってくる。
「他には?」
 頭上から、キールの言葉が降ってくる。
「私に言いたいこと、山ほどあったんでしょう? 今なら不満だって、寛大な心で聞けますよ」
 キールの、ちょっとだけ調子に乗ったような声に笑いながら、テオドールはつぶやいた。
「……別に不満はない。見捨てずに来てくれて、探してくれて……嬉しい。ブーツ駄目にしちまって、悪い」
「いいですよ、そろそろ替えようと思っていたし。あなたの変わりには、なりませんから」
「……相変わらず、馬鹿正直にそういうことよく言えるよな、お前」
「私は、隠す方が苦手ですからね」
 ため息が聞こえた。テオドールも苦笑する。
「でも、私の場合は、自分の気持ちをわかってって、そればっかりで……あなたはそれどころじゃないのに。負担かけたことは、本当に申し訳なく思っています」
「……別に。俺が今まで脳みそ使わずに生きていたのが悪い」
「なんなんですか、それ」
 キールの呆れる声に、テオドールもなんとなく笑ってしまった。
「……お前の事、嫌じゃないって言ったろ。俺も、お前の事は好いてる」
 居心地の良さも感じている。当初抱いていた、敵意のようなものも、とっくにない。一人の若者として、好ましいと思っている。
「ただ、俺の扱いなんて、この国じゃ、こんなもんだろうから」
 足首を繋いでいた、太い鎖をつま先で蹴り上げる。
「……この先お前にいいことなんてないだろうなと思ったら、お前の要求に気安く『はい』なんて、言えやしないところはわかれよ」
「うーん……」
 キールは頭が痛そうな声で唸った。
「私、都合のいい耳しか持っていませんので、前半部分しか聞かなかったことにしますね。そこは有難く頂戴しますけど」
「お前……真面目な話を茶化すんじゃない」
 テオドールは苦い声を出しながら、キールを見上げた。キールは涼しい顔で、こちらを見つめている。テオドールの苦虫を噛みつぶしたような顔を見て、キールはようやく、うっすらと笑った。
「……そのあたりの真面目な話は、あなたが元気になってから、もう嫌って言いたくなるほど話しましょうよ。いろいろ話したなって思い返す場所がこんな場所とか、嫌だし。私ももっと話したいのは山々ですが、貴方の傷も早く医者にみせたい。またの機会に真面目に話させてください」
「……またの機会ねぇ」
 今の気分じゃ、約束なんてできない──そう言いかけたテオドールの唇に、キールは人差し指を当てた。
「機会は作るものですよ。今は、先の事だけ考えたいし、あなたもそうであってほしいし。だからあなたには、しっかり生きてもらわねば」
「……あぁ」
 そう返事をしながらも、少しだけ、テオドールはどきりとした。兄と義姉の結末を聞いてから、己の脳内にも「死」がちらついていることを、見抜かれているのではないかと思った。それを指摘されるのも怖いのだ。歳下に弱い男と思われたくない程度には、まだ自分には自尊心が残っているから。
(ただ、次があるなら)
 そういう弱さも、ぽつりと吐いてみても許されるのかもしれない。この男は、面倒がらずに聞いてくれそうな気もする。
「とにかく、早く出ましょう……こちらの手枷は、道具がないと外せないと思います。申し訳ないんですが、このまま。立てます?」
「……あぁ」
 キールに支えられながら、何とか身を起こす。二人して、よたよたと木箱の陰から出た。座っているときは良かったが、一歩歩くたびに、世界がぐるぐると回る。気分が悪くて、胃液がこみ上げそうになる。
 顔をしかめて呻くこちらを、キールは心配そうにのぞき込み、歩かせるのは無理そうだと判断したのか、一旦座らせた。
「私が入ってきた縦穴は、意識のない人を押し込めるなど無理そうでしたから、おそらく別に出入りできる場所があります。奥にはしごがあったので、様子を見てきます。背負っていけるかもしれませんので」
「待て、キール」
 場を離れかけたキールの手を、テオドールは掴んだ。
「……誰か来る」
 声を潜めて言えば、キールも人の気配を察したらしい。険しい顔をしながら、テオドールの体を積まれた古い木材の陰に隠し、地面に置いていた剣を持つ。
 テオドールにそのまま動かぬよう目配せをして、キール自身はそれまでテオドールがいた、木箱のそばに身を隠した。
 この空間の奥にあった朽ちそうな梯子が、きしんだ音をたてている。
 上から誰かが下りてくる。
 いなくなったこちらを、大々的に探していた──とキールは言った。奴隷という立場の自分のためにそこまで人が動くとは思えないが、アルノリトが騒いだろうか。
(あいつの癇癪の巻き添えを恐れたのなら、ある程度人が動く可能性はあるんだろうが)
 その者たちが、地下への入り口を探し当てたのか。
 それとも、自分を背後から襲った人間が戻ってきたのか──キールは、そのどちらの可能性も考え、警戒しているようだった。
 暗闇の中、一人の男が地下に降り立つ。
 相手もランプを持っているが、ここからでは遠く、はっきりとは見えない。がっしりとした体躯で、コートのシルエットから、この国の騎士のように見える。
 男は、この地下に細々と灯るランプの明かりに気付いたのか、こちらに向かって歩いてくる。その男の顔を確かめて、キールは一瞬怪訝そうに眉を寄せると、剣を持ったまま、木箱の陰から出た。
「──ハンス様」
 そう声をかけると、ハンスは物陰から突然出て来たキールの姿に、一瞬驚いたのか剣に手をかけたが、それが見知った男の姿だと認めると、すぐに手を下ろした。
「……先に来ていたのか。すまない、驚いた」
 意外そうな声の謝罪に、キールも首を横に振る。
「一人か? 私と同じ場所から入ったのか」
「いえ、私はここではなくて……そこの林側に、入れそうな穴があったのでそこから。時間がもったいなかったので、試しに潜り込みました」
「……貴殿も無茶をする」
 ハンスは感心したような、呆れたような顔をした。
「殿下はどうされた」
「まだ地上だと思います。ご当主と一緒です。おそらく別邸付近にいらっしゃると──お会いされませんでした? ハンス様もお一人ですか」
「あぁ、手分けして探していたので、今のところは。殿下も見ていない」
 ハンスは淡々と答える。
「それらしき入り口を見つけたので、私も試しに降りて来たところだ。テオドールは無事か?」
「……えぇ、この奥に」
 キールは水路の奥を指さす。
「ただ怪我をしていて、一人で歩くことが難しそうなので、手を貸していただけるとありがたいのですが」
「勿論だ」
 言いながら、ハンスはこちらに歩み寄ってくる。
 ハンスが、積まれた木箱の前で足を止め、その物陰をランプで照らした時──。
「……ハンス様」
 キールは硬質な声で、その男を呼び止めた。
「ここに入ったのは、本当に初めてですか?」
「そうだが?」
 ハンスは、怪訝な顔で振り返る。
「ではなぜ──テオドールがそこにいる、と知っていたんですか?」
 木箱の物陰には、テオドールの足を繋いでいた鎖と、燃え尽きたランプしかない。それ以外はもぬけの殻だ。
(キール……?)
 テオドールは、少し離れた木材の物陰からその様子を、眉を寄せながら見つめている。
 この二人の相性が、あまり良くないのは知っているが──まるで疑うような言い方だ。
「君がそこにいたからだろう」
 ハンスも、眉を寄せながら反論のように、キールを見た。キールもその視線を、目を細めて受け止める。
「私は奥、としか言っていません。それに私がこの場所から姿を現した時、私が何か言う前に、あなたは『テオドールは無事か』と聞いた。……テオドールがいるのはここだと、すでに知っていたからではないですか?」
「……随分と疑い深いな」
 ハンスは、面倒そうに眼を細める。
「この状況、誰も信じられず疑心暗鬼になるのも無理はないが」
「申し訳ないんですが──元々、少し引っかかる部分はあったんですよ」
 徐々に空気が緊張を持ち始めるこの空間の中で、キールの声は落ち着いたままだ。
「ハンス様は、この地下空間のことをご存じだった。あのときは、警備のために特別知らされていたのかと思いましたが──常にこの地にいるはずのミヒャエル殿下の重臣の方々も、ほとんどが知らない様子だった。それに、こんな怪しげな空間の入り口を今初めて見つけたのなら、あなたが勇敢にも、率先して一人で降りてくる必要はないのです」
 どんな危険があるのかわからない場所だ。
 病持ちのネズミがまたいるかもしれないし、崩落の危険性があると言ったのもこの男だ。彼は一族の中では地位が低いというが、皇帝陛下の子息であるということは認められていて、多くの部下を動かす立場だ。あれだけ部下とも連携していたのに、入り口を見つけたからと言って一人で入るだろうか。部下が止めるのではないか。
「それに、陛下が亡くなられた後──ハンス様はわざわざ正装に着替えておられましたね。……騎士団の白い制服は確かに汚れが目立ちますし。こんな場所に入れば、ドブを渡らずとも多少は臭いもつくでしょうから」
 キールの声は、どんどん低くなる。
「……陛下が亡くなられた際、あの場は混乱していたし、大勢の方がいましたが、ハンス様の姿は見えなかった。遠慮して外におられるのかとは思っていましたが──貴方であれば、警備と称して場を離れても誰も何も言わないでしょうし、我々と付き合いもあったので、別邸に近づいても不審に思われることは少なかったはず。……それまで、どこにいらっしゃったんです?」
「……」
 ハンスは答えない。
 しばらく黙って、じっとキールを見つめていたハンスは、ため息をつくと、薄く笑った。
「ただの堅物かと思えば、よく見ている……私はやはり駄犬か。ミヒャエル殿下のように、こざかしい真似ができる賢さはないな」
「それは……肯定のつもりですか?」
「……だとしたら?」
「何故こんなことをしたのです。……いや、事情は後々お聞きしましょう。大人しく私と来ていただけるのなら」
「手荒な真似はしない、とでも?」
 ハンスが、腰のベルトにぶら下げられた剣の柄に、そっと手をかける。
「……舐められたものだな」
 静かにそう呟いた瞬間──すばやく抜剣したハンスが、キールに向けて一気に踏み込みこんだ。上段から一気に振り下ろされた剣を、とっさにキールも剣で打ち払う。薄暗い闇の中で、鋼同士がぶつかる激しい金属音と、飛び散る小さな火花が見えた。
「……舐めた覚えは一度もありませんよ。……ただ」
 キールも硬質な声でそう告げながら、剣を構える。その顔に、焦りも恐れもない。
「今は失望しています。……事情はどうあれ、あなたはもう少し、誠実な方だと思っていたので」
 その声には、明らかな侮蔑が混ざっていた。
「イラリオン殿下も、きっと悲しむ」
「……あぁ。殿下に知られるわけには、いかんな」
 ハンスも頷きながら、剣を握り直す。
 上では、何か家具を動かすようなごとごととした音も聞こえている。ハンスはちらりと、湿った石の天井を見上げた。
「いずれここにも人が来るな。……あまり時間がない。ところで、テオドールはどこに隠した?」
「……」
 キールは何も言わない。無言のキールを見て、ハンスは目を細めた。
「所詮、そう遠くには動かせていないだろう。それはいい、ここに来た人間と共に探す。悪いが……貴殿はここで、行方不明という扱いになってもらう」
 そう囁くハンスの顔には笑みもなく──その真剣な表情は、これは悪い冗談でも何もないのだと、そう告げているものだった。

   
(続く)