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檻の中のカラスと孔雀

50:猛禽の反撃


 テオドールは、木材の陰で息を殺していた。
 背中を冷や汗が滑り落ちる。キールとハンスの話している内容が、瞬時に理解できなかった。
(……あの人が?)
 しかしハンスは、冷静に、それを認めるようなことを言っている。
(……なぜ?)
 恨みよりも怒りよりも、でてきたのは「それ」だった。
 なぜ自分を背後から襲った? 
 なぜ殺さなかった?
 どうしてこんな場所に放り込んだ?
 そんなことをして、どうするつもりだったのか?
 正直ハンスとは、話はするがそこまで深い話をしたわけではない。親しいという思いもなかったし、恨みを買うほど踏み込んだ話をしたつもりも、意見した覚えもない。
 イラリオンの事がなければ、この男があの森にわざわざやって来ることもなく、一切関りのない人間だったはずだ。自分たちと会話をし、行動を共にしたのも成り行きだった。
 自身が苦労人だからか、立場が下の人間に向けて、わかりやすく横暴な態度を取るような、そんな安っぽい男ではないと思っている。どちらかと言えばキールとも似た──愚直とも言えるほど、正直な面も持っていたように思う。
 しかしそんな男が、今は大真面目にキールに向けて剣先を向ける。冗談でもなんでもない。この瞬間、ハンスという男にとって、キールは都合の悪い存在となったらしい。できればこのまま、物言わぬ死体となって、誰にも知られぬままどぶ川に沈んでくれ──そんな口ぶりだった。
(なぜ)
 そう問いつめたい気持ちはあった。言葉は喉を飛び出しそうになる。
 しかし今ハンスは、すぐそばに隠れているこちらには、まだ気づいていないようだ。今見つかれば、必ず人質にされる。そうなってしまえば、キールに不利になる。
 ──地下室は薄暗い。
 床に置かれた二つのランプしか明かりはなく、薄暗く湿っぽい空間の中で、その静寂と不気味さをつんざくように、それぞれ白と黒の衣装をまとった二人の騎士が、激しく剣を打ち合わせていた。
 キールも、まだハンスの胸の内は知らない。自分と同じように、なぜ、という思いもあるだろう。
 しかしそれを立ち回りながらぶつける余裕は、今のキールにもないようだった。涼し気な見た目に寄らず勇猛なこの男は、目上の騎士の、殺意が乗った一撃に対して憶する様子は見せなかったが、分が悪そうだ、というのはテオドールにもわかった。
 ハンスの一撃は重く、速い。キールは間合いに踏み込ませてもらえず、繰り出される剣を受け流しながら、徐々に防戦一方になりつつある。
 皇帝陛下の血、なんて箔があろうがなかろうが、それを周囲が気にしようが気にしまいが、この男が才と体格に恵まれた優秀な騎士であるという事に、変わりはないのだ。
 ハンスが、キールの胸めがけて素早い突きを繰り出す。キールはすんでのところで急所をさけたが、完全には払いきることができず、その剣の先はキールの左の二の腕をかすめる。
「っ……!」
 一瞬、キールが痛みに顔をゆがめた。その隙をハンスは逃さず、よろめいたキールに向けて強力な蹴りを放った。キールは後ろに吹っ飛びながらも、剣を離さない。膝をつきながらも耐えて、すぐさま立ち上がろうとした瞬間、その喉元にハンスが剣先を当てた。
「……」
「……貴殿に対する恨みというのは、ないのだが」
 下から睨み上げるキールの視線を淡々と受け止めて、ハンスはつぶやく。
「私も戻れぬところにいる。悪いが、ここで死んでくれ」
 ハンスがその切っ先を、キールの喉の突き刺そうとした瞬間──テオドールの体は、自然に動いていた。
 こちらは丸腰だとか、ろくに動けやしないとか、そんなことはまるで考えられなかった。木材の陰から突然、獣のような素早さで飛び出してきたテオドールに、ハンスは完全に虚を突かれたらしく、目を見開く。そのまま勢いに任せて、横から体当たりしたテオドールの体は、ハンスと一緒に地面に転がった。
「テオドール!」
 キールが悲鳴にも似た声を上げたが、構わずテオドールは、転げたハンスの体に馬乗りになり、まだ手首をはめたままの手枷で、思い切り上からハンスの額を殴りつけた。
「……あんたの目的が、なんだか、知らないが」
 何度も、何度もその額を殴りつける。叫んだ拍子に、つばが飛んだ。枷ごと打ち付ける手首が痛い。頭もぐらぐらする。だが疑問を飛び越えた怒りが、テオドールを動かす。
「勝手に、何でもかんでも好きにされてたまるか!」
 これ以上蹂躙されてたまるか。
 奪われてたまるか。何をしても当然と思われてたまるか。
 都合よく、扱われてたまるか。
 それは、ハンスに対してだけの恨みではなかったのかもしれない。今までの、積み重なったうっぷんと怒りだった。
 この地に来るしかなかった怒り。身内を無残な目に合わされた怒り。
 そして、自分がようやく心許した人間さえ、また手前勝手な理由で葬り去られようとするなら、例え死んでもそれに抵抗してやると思った。
 この男には世話になったとか、そんなこと知るか──テオドールは目を血走らせながら、ハンスを殴る。だが殴られる男も大人しくはしていない。テオドールの背の服を掴み、膝で蹴り上げた。みぞおちを蹴り上げられた衝撃でよろめいた体は、簡単にハンスにそのまま跳ねのけられる。
「ちょっと、無茶しないでください!」
 呻きながら地面の上に転がったこちらをかばうように、キールが剣を構えながらテオドールの前に立つ。
「……」
 身を起こしたハンスは、肩で息をしている。硬い枷で殴られ続けた額は出血し、たらりと血を流していた。ハンスは複雑な表情で、テオドールを睨んでいた。まさか、死にかけでズタボロな犬に、ここまで酷く噛まれるとは思わなかった、というような目だった。
「……あなたの目的は、なんですか」
 その前に立ち、改めてハンスに剣を向けたキールは、眉を寄せながら問う。
 ハンスは地面に足を投げ出し、こちらを見つめたまま、何も言わない。先ほどとは、真逆の構図だ。
「あなたのような方が──なぜ、こんなことをしたんです」
 キールの動揺も交じった問いに、ハンスはやはり何も言わない。
 そのとき──天井のガタゴトとした物音が、妙に近いところで聞こえた。人の声も、はっきりと聞こえ始める。
「僕が先に行く!」
 小さな子供の声だ。
「おいちょっと待て待て、先に行くな、うしろのおっさん達を先に……うわっ!」
 それを必死に止めるような、聞き覚えのある男の声と共に、空間の奥にある梯子の上からぺきりという何かが折れる音がして、人が二人降ってきた。
 一人は見覚えのある、小さな子供。その子供かばうように抱えて、長い金髪の若い男が地下室に、べしゃりと転がる。
「……いってぇ、尻めちゃくちゃ打った……おいアルノリト、大丈夫か。突っ走ったら駄目って言われてるだろう」
「ごめんなさい……」
 アルノリトは大人しく謝る。どうやら、アルノリトが先走って降りようとして、止めたイラリオンが梯子に足をかけた瞬間、朽ちた梯子が途中で折れたらしい。二人して結構な高さから落ちたらしく呻いていたが、大きなけがはないようだった。その二人の後ろで、梯子の残骸がぱらぱらと崩れる。
「あー、こりゃ駄目だ。戻れんな……」
 イラリオンが舌打ちをしながら視線を上げたとき──彼は地下の光景に、表情を固まらせた。
 探していたはずの男と──親しいはずの人間たちが、剣を向け合う光景。
「お前ら……何やってんだ?」
 呆然とつぶやく。
 その光景が、イラリオンには理解できないようだった。
「……テオドール! キール!」
 アルノリトはこちらの姿を見つけると、立ち尽くしたままのイラリオンを放置して、すぐに走ってやってきた。まだ地面から完全に身を起こせないでいるテオドールのそばに駆け寄ってくると、胸にぎゅうぎゅうとしがみついてくる。
「テオドール、テオドールぅ……」
 名を呼びながらテオドールの胸に顔をうずめるアルノリトの声は、半分泣いている。
「……大丈夫だ」
 テオドールは、そのふわふわした金色の小さな頭に顎を乗せる。今は、この手で抱きしめてやれないことが悔しい。真っ先にすがりついてきた、この小さな生き物が愛おしい。
「探してくれたのか。心配、かけたな」
 そう声をかけると、アルノリトは鼻をすすりながらぐりぐりと額を押し付けて来た。しばらく離れそうにない。
 上で人の気配は大勢あるのだが、梯子が折れてしまった関係で、しばらくここには誰も降りて来られないだろう。
「……おい、死んだか」
 梯子があった上の方から声がする。あまりも愛想がない、ミヒャエルの声だ。
「……残念ながら生きてます」
 イラリオンが落ちてきた方向を見上げながら、そっけなく返答する。
「梯子ぶち抜いた。代わりの用意するよう手配して」
「手間がかかるな……」
 うんざりしたような舌打ちが聞こえた。
「仕方ないじゃん、年代物だったんだから……。あと、テオドール見つけたけど──できるだけ早く人寄こして」
 返答のかわりに、上からは再度舌打ちが聞こえた。
 息をつき、緩慢な動作でイラリオンは立ち上がると、ゆっくりこちらにやってきた。
 テオドールの姿と、それにしがみついて離れないアルノリトの姿と、腕から血を流しながらもその二人を守るように立つキールの姿、そして未だ地面に腰を落としたまま、額から血を流すハンスの姿を、順に見た。
「……どういうことなんだ、これは」
 イラリオンの視線は、互いに剣を抜いた状態のキールとハンスを、交互に見た。
 しかし二人は、何も言わない。
「何か言えって言ってんだよ!」
 苛立ったイラリオンの声に、キールはちらりと、ハンスに視線を向けた。
「……事情ならハンス様に聞いてくださいよ」
 キールの声にもいら立ちがある。
「私が教えてほしいくらいなんです。どうしてこんなことになったのか」
「……」
 しかしハンスは、まだ何も言わない。
 アルノリトもテオドールにくっついたまま、そこにいる人間たちの顔を、困惑したように眺めていた。
「……おじさんが、テオドールに酷いことしたの?」
 子供の声で問われて、ハンスはそちらに視線向ける。しばらくの無言のあと、彼は頷いた。
 アルノリトが、ぎゅっと力を込めて抱きついてくる。半分泣きそうな声で唸りながら、じっとハンスを睨みつけた。だがそれだけだった。何も起こらない。
「その声で……私を殺してはくれないのか。うまくはいかないな」
 ハンスはそう、残念そうにぽつりとつぶやく。
「抗えば抗うだけ、何も上手くいかない。考えれば考えるほど、沼にはまる。とりつくろえば、つくろうだけ悪化する。……そういうものか」
「何言ってんだお前、わけのわからんことを……」
「……すべては、あなたのためでしたよ、殿下」
 ハンスの呟きに、イラリオンは眉を寄せた。背後では新しく用意された梯子が、するすると上から降りて来た。これから人が、大勢ここに来る。
「……俺のためって、なんだ」
 刺すような冷たい視線で、イラリオンは告げる。
「俺は、お前になんかしてほしいなんて、望んだことは一度もないんだけど」
 その言葉に、ハンスはなぜか微笑んで、小さく頷いた。そしてすばやく剣を手に取ると、それを己の首に当てようとする。
「おい、待っ……!」
 イラリオンが慌てた様子で止めようとしたが、首をかき切るより先にそれを止めたのは、キールだった。剣の鞘で、思い切りその指先を打ち据えられ、ハンスは呻きながら剣を落とす。
「語らず逝くなんて、そんなことは許しません。あなたにはきちんと、理由もすべて喋ってもらいます」
「……勝ち誇ったような顔で言う」
「……」
「おい、キール」
 人の横やりで買った癖に──そう言いたげな一言に、一瞬むっとしたような気配をキールはその背に浮かべた。テオドールは、その背に声をかける。
「俺が言うのも悪いが、この話は後でやってくれ。ここで、こいつに聞かせる話じゃないだろ」
 キールは、テオドールにぴったりと、不安そうに張り付いているアルノリトに視線を向けて──頷いた。

   
(続く)