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檻の中のカラスと孔雀

53:猛禽、帰還する


 思っていたよりも長期間滞在することになったその城を出たのは、まだ辺りが暗い早朝のことだった。
 こじんまりとした質素な馬車に乗せられ、ごとごと揺られることしばらく。
 もはや懐かしいとさえ思う、黒々とした深い森が見えて来たころには、朝日はすっかり上がりきり、木々の切れ目からは真っ青な青空が広がっている。
「しかし、行きは物々しい行列でしたけど」
 森に入り口に着いて、馬車の御者席から降りたキールは、ここまで連れてきてくれた馬の鼻を、ねぎらうように撫でる。
「帰りは自力で戻れとは、随分ぞんざいに放り出された感じですねぇ」
 先ほどまで御者席にて、馬車を操っていたのはこの男だ。
「……まぁ、あっさり帰してもらえただけでもいいんじゃないか」
 テオドールは、隣で熟睡していたアルノリトを抱え、馬車を降りる。
 まだ暗いうちから起こされて、朝食も食べずに馬車に乗り込み城を出た。寝ぼけ眼だったアルノリトは、馬車に揺られてまた寝てしまい、まだうとうとしている。抱きかかえて馬車から降りても、自分の足で歩いてくれそうにない。ぐんにゃりとしながら、テオドールの首にしがみついて寝ている。
「で、この馬車。どうするんだ」
「入り口の木に繋いでおけば、後でちゃんと回収に来てくれるそうです」
「ふぅん……そんな手間かけるなら、御者の一人くらい寄こせばいいのにな」
「我々と同行したい、なんて人そういないでしょう。ミヒャエル殿下……じゃない、陛下も」
 まだその名を呼びなれないキールは、一瞬言葉を切って、言い直した。
「あの御方は、『余計な人間付けないほうが、気が楽だろう』とか言っておられましたから」
「それは気遣いと取るべきか、ただ面倒だからさっさと自力で帰ってほしかったのか……」
「どっちも、じゃないですか? まぁもう、我々があそこにいる意味もないですしねぇ。あの方、ご当主に興味はあっても媚びる気皆無ですから。どっちにしろ、今は忙しくて我々の相手している暇ないでしょうから」
「……なんか、いろんな人の都合に振り回されただけだったな……」
 乾いた声が漏れる。そう呟くと、急に体が疲れを自覚した。
「えぇまあ……もうあんまり、考えたくないですけどね……」
 キールもそうなのだろう。げっそりとした声で返事をする。
 やっとこの、人気のない森の中に来て、疲れというか愚痴というか、そういうものが出せた。
 ──ただ、アルノリトにとっては、様々な出会いのある時間だったと思う。
 父と、一応兄弟、と言える人々と沢山出会えたわけだ。
 しかし、夢見ていたような団欒があったわけでもなく、自分と同じ姿の者がいるわけでもなく、下心なしに接してくれる者がいたわけでもなく──アルノリトにとっては期待外れというか──孤独を強めただけだったように思う。
 一番親しかったイラリオンは、アルノリトが眠っている間に姿を消したし、幽閉状態にあると言われていたハンスも、今はどうしているのか知らない。キール自身も知らされていないようだった。
 その二人について、アルノリトは何度かこちらに尋ねたが、遠くに行ってしまった、というこちらの説明に、微妙な顔で頷いただけだった。
 おそらく、それに納得したというよりは、歯切れの悪いこちらの表情を読み取って、この子供なりに「聞かないほうがいい」という判断をしたのだろう。この子供は、こういうとき、妙に大人の顔色を見て、空気を読む。その顔を見て、テオドールはなんだか、大人の事情でその純粋な気持ちを翻弄してしまったことが、申し訳なくなってしまった。
 親しくしていた二人の男がいなくなって、アルノリトが一対一で話をする「おじさん」はミヒャエルだけになった。
「死ぬほど反りが合わない」イラリオンが世俗を捨てて信仰の世界に入ってしまったので、さすがに縁は切れたというか、皇族としての「死」に納得したのか、容赦ないと言われるあの男もそれ以上手は出さず、周囲が恐れていた身内同士のつぶし合いというも今のところは起こらず、年長で力もあったあの男が、すんなりとこの国の後釜に収まっている。
 数いる兄弟の中でも「父親に一番似た男」とも言われるあの仮面の男は、同じく気難しかった父のもとで政治を学んでいる。今のところ、代替わりしたことで大きく何かが変わる、という事はなさそうだ。
「……似てるってことは、あの人も女好きだったりするのか」
「やめてくださいよ、こんな外で……誰かに聞かれたら首飛びますよ……」
 キールは渋い顔をしながらつぶやく。
「でも実際のところ、そういう話、聞いたことないなぁ……。ハンス様が言っていたように、あの人はあんまり人を信用していなくて、善意も疑ってかかるわけで、女性の愛情に対してもそうなんじゃないのかな。先帝とも、上手くはやっていましたけど、心の奥底では慕っていたわけじゃないでしょうからね。最期のときの、事務的な対応を見るに」
「……難儀な親族だな」
 思わず、そんな本音が漏れる。
「まぁ、元々関係よくない上に権力絡むとややこしくなるんでしょう。実際悪い噂も多い方ですから、よく思っていない方も多いわけで……今後、大変だとは思いますけどね」
「それなんだけど」
 キールのぼやきに、テオドールは口をはさむ。
「あの、母親殺したって噂……こいつは直々に、あの人に聞いたらしいんだが」
「えぇ……」
 キールが眉をしかめて、テオドールに抱きかかえられて眠っているアルノリトに視線を向ける。
「怖いもの知らずな……それ初耳ですよ。いつ?」
「多分、呼ばれて二人で話していたときかな? ……俺が怪我で横になっていたとき、こいつも暇だったらしくて、そのときのこと、あれこれ話してくれたんだけどな」
 ──あれ、本当は嘘なんだって。
 アルノリトは、耳打ちするようにテオドールに囁いた。
「酔っぱらった母親が階段で足を滑らせて、子供だったあの人はその手を掴もうとしたけど、母親はそれを振り払って、そのまま落ちたと」
「……子供を巻き添えにしないために、手を掴まなかった?」
「……違う」
 すぐにそういう発想になる辺り、やはりこの若者は、根がまっすぐ育っているのだと思う。
「振り払うときにその人を見た目が──なんというか、ものすごく嫌悪感に満ちた目だった、と。多分とっさに、病気だったあの人に触れたくないって気持ちが勝ったんだろうって」
「……」
 キールは無言で、苦い表情を浮かべる。
「……子供の口から聞いただけだから、実際は知らんぞ。まぁでも、それを本当の話だとして……母親にそんな場面でも拒絶されて、周りには自分が突き落としたんだって言われたら、そりゃまぁ、歪むだろうなとは思った」
 ミヒャエルは、まだ幼いアルノリトに対して、こんなことも言ったらしい。

 ──異形というのは、勝手に物語を作られるものなのだ。泣きたくなかったら、君も中途半端な存在にはならぬことだよ。上手くやろうと下手に出ても食いつぶされるだけ。周囲を増長させないために、多少の威圧はいるものだ。

 しかしアルノリトは、まだ小さい。彼の言葉を、すべて理解するには至らなかったらしい。テオドールが横になっていたベッドのわきで、難しそうな顔をしていた。
 ──ちょっとお話し難しくてわかんなかったけど、おじさん疑われたんだったら、可哀想だよね。
 そう、息をついていた。
「なんとなく、境遇重なる部分もあったんだろうね」
 そのときのアルノリトの表情を思い出しながら、テオドールはつぶやく。
 テオドール自身は、あの仮面の男とあまり接点がない。
 身分が違い過ぎるので当たり前だが、アルノリトは、あまり悪い男だとは思っていないらしい。懐いているとは言い難いが、別に逃げ回ったりはしない。イラリオンやハンスと接するのとも違う目で、興味深そうに見ている。
「成程……まぁ、今となっては恐ろしくて、そんなことあの方に確認できる者もいませんからね。今後の配給予定にいろいろと加わったのは、そういうお心もあるのかもしれないですね。気に入ってくださったというか」
「配給……?」
 そういえば、いつも保存食として、毎週森の入り口に芋だの乾物だのが届けられていた。
 キールは、小脇に抱えた封筒から書類を取り出した。
「今度届けてもらう荷物の資料頂いたんですが……食料品はいつも通りとして、子供向けの教材ですとか、そういうものが追加されています」
「教材って……こいつ用?」
 テオドールは、腕の中の熟睡している子供を指さした。キールは頷きながら、書類に視線を落とす。
「そのようですよ。語学から歴史まで。ちゃんと学はつけさせよということだと思います。あと衣類。ご当主のものと……大人用。靴も。これは……あなたのものかな?」
「……俺?」
 テオドールは思わず、怪訝な声を出した。
「あなたを管理枠に入れてくださったんでしょう。今まで私が何言っても、予算通らなかったんですけど。あなたがいなくて右往左往するご当主の姿、見てますしね」
 キールは、書類を指ではじいて、皮肉気な視線をこちらに向けた。
「というわけで、陛下公認です。あなたは何ら後ろめたい存在ではなくなっているようですので、頑張ってママしてあげてくださいね」
 テオドールは、眉間を寄せる。
「どっちかって言うと、今隣にいる、でかい奴の方が案外手間かかるんだがな……」
「えぇ……」
 キールが捨てられた犬のような顔をしていたが、そのままにしておいた。
 この男は、結構面倒くさい。相手をしてやらねば拗ねるのも、子供と一緒で面倒くさい。
 それでも、自分はこの男を気に入っているので、だからどうというのはないのだけれど。

「僕、まだ眠たい……」
 久方ぶりに鳥かご屋敷に入って、客間のソファの上にアルノリトを下ろしたが、まだ開いていない目でそう呟かれた。
 妙な時間にたたき起こされたので、眠くてしょうがないらしい。
「部屋で寝ててもいいが、シーツ干してないぞ。多分埃っぽいし、どうする」
「だいじょうぶ……お部屋で寝る……」
 久しぶりに家に戻った感動もないくらい、眠いらしい。アルノリトはふらふらと二階に上がっていく。その様子を見たマキーラは、一瞬ちらりとテオドールの顔を見た後、後ろについていった。すっかりアルノリトの兄貴分である。
(まめなやつなんだよなぁ、お前も……)
 おそらくまだ、精神年齢はマキーラの方が上だ。
 とりあえず、思ったよりも長期間不在にしてしまったので、空気を入れ替えようと窓を開ける。客間の窓を開けると、森の中の澄んだ空気が室内にすっと入ってきた。薄い布地のカーテンも、風を受けてゆったりと揺れる。時間の感覚まで、緩やかになったような気がした。
 ──戻ってきた、と思う自分が不思議だった。
 もはやどうなっているのかわからない故郷よりも、不自由なかった城の別邸よりも、今の自分にはこの空間が落ち着く。
 そばにあった椅子を引き寄せて腰かけ、穏やかな風を感じる。
 ふさぎ込みたくなるような思いも、まだある。たまにそれが勝って、ずんと胸を突き破りそうになる。だが平然とした顔をしながら、それを飲み込む。
 自分はこの地に残って、兄や義姉が愛を持って自分を育ててくれたように、あの子供と接していくと決めたのだ。
 先の事なんて、まるで見えはしないが。
 この選択が正しいのかも、わからないが。
「……ご当主は?」
 物思いにふけっていると、キールがティーポットを片手にやってきた。茶を淹れていたらしい。
「まだ眠いから部屋で寝るらしい。マキーラも一緒」
「子供は寝るのが仕事って言いますけどねぇ……寝すぎじゃないですか?」
「昼には腹減って起きるだろ」
 テオドールの言葉に苦笑いで答えながら、キールはカップに茶を注ぐ。
「どうぞ」
 差し出されたそれを、そっと受け取る。カップは温かい。中身の琥珀色の液体も、ほんのりと湯気を漂わせている。
 ゆっくりと口に運んでいると、窓際に立ったままだったキールが、じっとこちらを見ているのに気付いた。
「……なんだ」
「いえ。あなたもこちらにいるときの方が、穏やかそうなので良かったな、と思って」
「呪いの森の方が落ち着くって言うのも、変な話だけどな。お前は?」
 そばのテーブルにカップを置いて、テオドールはキールに視線を向ける。
「来たくて来た場所じゃ、なかったんじゃないのか」
「それ、もう結構前の話でしょう?」
 キールは苦笑する。
「他人の足引っ張ることしか考えていない人の輪にいるより、ここで茶飲んでる方がまだ有益ですから」
「皮肉を覚えたな、お前も」
 喉を鳴らして笑っていると、キールもしばらく静かに笑って、窓辺にカップを置くと、テオドールの横にしゃがみ込む。
「……あのう」
「なんだよ」
「これでも私も、気を遣ってるんですよね」
「だから何が」
「ご当主の前で、教育的に悪そうな触れ方や、言い方はしないように」
「……」
 キールはぼそりと、視線を横に漂わせたままつぶやいた。
「あとあなたの鷹に、完全に間男認定されたら、死ぬまで突き回されそうなのでそこも配慮しつつ」
 はぁ、とため息をつきつつ、言いにくそうに告げるその顔は、若干赤面している。
「……つまり」
 テオドールも表情を固まらせつつ、座ったまま、キールのつむじを見下ろす。
「子供が寝たこの隙に、子供の教育的に悪そうな、下心のあることを俺にしたい、と」
「……そう言われると、なんか余計に言い辛いんですけど……でも、あるでしょう? あなただって、好きな人とせっかく二人っきりになったら、こう」
「いや……」
 経験ないわ──とつぶやけば、この男が信じられない、というような顔をするのがわかりきっていたので、それ以上言う気を無くす。
「それにお前、もう俺の唇舐めてるだろ。今更か」
「あれは何て言うか勢いでしたし、あれこれ話した後の今の方がなんか恥ずかしいです」
 わけもわからず勢いで舐められた方の気持ちにもなってみろ──とは思ったが、あまりにも隣で落ち込んでいるので、またしても言うのはやめた。
(ただ、まぁ)
 この男の気持ちなんて、とっくに知っている。自分はもったいつけるような価値もないし、駆け引きなんて知りもしない。
「……したきゃ、すれば」
「そういう、投げやりなのは良くないと思うんですが……」
「お前じゃなきゃ、言わんし」
「……」
 不愛想に言い切ると、息をのんだような気配が伝わってきた。
 下から伸びて来たキールの指が、こちらの顎と頬を、遠慮気味に撫でる。緊張の混じった顔が、こちらを睨んでいる。
 今から口づけするような顔には見えなくて、思わず笑いが出そうになったが、それを封じるように、噛みつくような口づけがやってきた。なかなか乱暴なそれを受け入れつつ、唇の隙間から中に入りたがる舌も、黙って受け入れてやる。
 人生で、ここまで誰かに求められたこともないだろう。
 自分も、同じ熱さで誰かを求めることができるのだろうか──そんな、場違いなことを思いながら、テオドールは静かなその場所で、その似つかわしくない興奮を受け止めていた。

   
(続く)