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檻の中のカラスと孔雀

番外編① 大人だけの

 この国は、一年の半分が雨季。大気の状態は不安定で、嵐も来れば雷も鳴る。
 そんな時期のこの森の中は暗くて不気味だが、生まれたときからここに暮らしているアルノリトは慣れ切っているらしく、雷におびえることは不思議とない。
 窓から紫に輝く稲光をぼーっと見上げては「きれい」なんて呟いたりしている。案外、妙なところで胆の据わった子供だった。
 今日は特に、そのお空の機嫌が悪い。
 稲妻を蓄えた分厚い雲が灰色の空を覆っており、雲の上の方は時折、不吉に光る。
 雨も淡々と降り続け、止む様子はない。
(慣れんな、この長雨は)
 日も暮れて、家事もやり終えて──やることがなくなってしまったが、眠気というのが一向にやって来る気配がなくて、暖炉の明かりの中、テオドールは客間でぼんやりとしていた。
 アルノリトはいつものように、食事を終えて着替えてしまうともう眠くなってしまったようで、今日は珍しく、自主的によろよろと二階に上がっていった。
 マキーラも、一瞬こちらに目配せをして、共に二階について行く。アルノリトが眠るまでついていてやるつもりなのだろう。何だかんだで、兄弟のように仲の良い二人だった。
(俺は、どうしようか)
 テオドールは客間のソファに座りつつ、考える。
 なんとなく眠気の来ない日だ。いつもなら気にならない雨音や、稲光が妙に神経に触る。
 そんなとき、ふいに外の廊下に人の気配がした。
「……おや。ご当主は?」
 開けていた客間の扉から、キールが顔をのぞかせている。
「もう寝た」
 そう答えれば、キールは小さく何度か頷いた後、再びこちらを見る。
「あなたは? まだ何かやることでも」
「いや、そういうのはないけど」
 テオドールは息を吐きながら、すわったまま背伸びをする。肩がぱきりと音をたてた。
「なんとなく、寝る気が起きないだけ」
「まぁ、そういう日はありますけどね……そうだ」
 何かを思い出したような顔で、キールは薄く微笑んだ。
「まだ寝る気がないなら、少し付き合いませんか」
「どこに」
「こんな天気の夜に、外になんて出ませんよ。せっかく大人だけ残ったわけなので、晩酌でもどうかなと思ったんですが」
「晩酌」
「嫌ですか?」
「嫌、とかじゃないんだが……」
 テオドールは言葉に詰まる。この男から、そんな言葉が出るとは思わなかった。
 そもそも、飲んでいる姿なんて見たことがないわけで──しかしそこに若干、興味もあった。
 だから、子供が寝た静かな屋敷の中、キールの後ろについていくことにした。別に、酒に惹かれたわけではないのだ。

 やってきたのは、彼が私室として使っている書斎だ。
 キールは書斎の棚の奥から、琥珀色の液体が入った瓶を取り出した。葡萄酒、なんて可愛いものじゃなくて、もっと度数が高くて、高級そうな酒に見える。
「お前、寝酒の趣味でもあったか」
 そのあたりにあった椅子を適当に引き寄せて腰かけると、瓶を持ってこちらを振り向いたキールは、首を横に振る。
「ないです。だから減らすの付き合ってもらおうと思って」
「じゃあ、何でそんなの持ってる? この屋敷にあったものか?」
「いや、さすがにそんな放置してあったようなものは手出さないですよ、怖いし。一応自分で持ち込んだものではあるんですが、正直私、あまり強くないので」
「ふぅん」
 まぁ正直、屈強とも言い難い見た目をしており──そんなに酒が強いとは思わない。
「誘っといてなんですけど、あなた飲めます?」
「人並みには」
「ならよかった」
 そう言いながら、キールは取り出した小さなグラスに琥珀色の液体を注ぎ、テオドールの前に置いた。
「どうぞ……って何ですか、その警戒心に満ちた顔」
「お前の真意がわからんので」
「真意とか、そこ疑います? 私とあなたの仲、なのに?」
 強調して、そう言われると少々イライラする。
「……別に、変なもの飲まされるんだろうなとか、そうは思わない。何考えてるんだろうな、と思って見てる。こういう行動のお前は初めて見る」
「そう深く考えて言ったわけじゃないんですけどねぇ……」
 キールも、寝床として使っているソファに、グラスを持ったまま腰かけた。
「持ち込んだ酒が全然減らなくて邪魔なのと、あなたとこういうことしてみたかったのと──全部前向きな理由ですけど」
「ふぅん」
「そこまで反応薄いと、ちょっと傷つくんですが」
 苦笑しつつ、キールはグラスを口に運ぶ。あまり美味そうに飲んでいるようには見えない。
 テオドールも、ちびりと口に運んでみた。久々の酒だが──やはり、かなり度数が高い。辛い酒で、喉が焼ける。
「これ、父親の好きだった酒なんですけど、未だに美味しいと思ったことがないんですよね」
 キールはグラスを眺めつつ、そう呟く。
「……こういうの、飲めるようになりたい?」
「昔はね。格好つけたい時期もありましたから。でも、今は諦めました」
 キールはけらけらと、明るく笑う。
 持ち込んでいた理由は、なんとなくわかった。
 この男は、この場所で命を落とした父を敬愛している。供養の意味もあっただろうし、敬愛するあまり、父の軌跡や生活習慣までなぞろうとすることがある。
 意外にあっさりしているところもある男なので、偉大な父の重圧に潰されそうか言えばそうでもなく、やってみて「無理」「合わない」と思えばそこで止める男でもあるのだが。
「……言いましたっけ。この場所に来て、最初は眠れない時期もあったんですよ、私」
 グラスを置いて、キールはぽつりとつぶやく。聞いていない、と言えば、キールは笑った。
「怖い場所ですから、当たり前と言えば当たり前です。呑気に眠れるほど私は豪胆じゃないし。でも眠れないと体を壊すし、職務にも支障が出ます。外に出た帰りに、酒屋でこの酒を見つけました。父親の事も思い出しました。……気が付いたら買っていた。飲んだら眠れるんじゃないか、とか、そういう事も期待しつつ」
 末期の思考ですよね、とキールは苦笑する。
「でも、飲んで寝入ってその後──それを考えたら飲めませんでした。この場所で無防備をさらすことが怖かったんだと思います」
「今は?」
「普通に寝てますよ。人間ずぶとくなるものです。あなたは?」
「……眠れてる」
 テオドールは静かにつぶやいた。
 明日食べるものの心配も、誰かに脅かされる心配も、命の心配もせずにひとまず眠れるというのは、大事なことだと思う。
 酒に逃げたいと思ったこともないし、足元が崩れそうなときもあったが、変に気を張らず、今は生きている。
「なら、良かったです」
 キールはこちらを見ながら、そう薄く微笑んだ。
 安堵したような物言いに、自分の心も少しほぐれる。
 この酒は、お守りのようなものだったのかもしれない。
 父の強さと面影にすがりたかったのかもしれないし、そばに置くことで、心細さを補うものでもあったのかもしれない。そして、眠れないときの最終手段でもあった。
 今、減らないのでさっさと片づけたい──と言うのなら、この「お守り」はもう、必要のないものなのだ。
「──にしても、あなた、飲んでもあまり変わらないですよね」
「悪いか」
 ちびりちびりと飲んでいるテオドールを、苦笑いしながらキールは見ている。
「いえ。もうちょっと、酔っぱらったら変わるかなとか、凄く笑い上戸だったらどうしようとか、そのあたりを見てみたかったんですけど」
「そんな可愛げはない」
「えぇ。でも、それがあなたなんでしょうね」
 何気ない一言ではあった。
 だがそう言われて、テオドールも悪い気はしなかった。
 雨の降り続く、何もかもが湿っぽいこの空気。
 陽気な語らいではないけれど、たまには大人同士、こんな夜も悪くない。

   
(終)