「殿川、お前家政夫って興味ない?」
「……はい?」
まだ肌寒い、秋の夜。突然、家にやって来た学生時代の先輩の言葉に、殿川良介は口を開けて、まぬけな顔をするしかなかった。
今こちらを見て、にこにこ笑いながら自分で買ってきた缶ビールを飲む、胡散臭い風貌の金髪スーツの男。
この男は三河といって、殿川が美術大学に通っていたときの先輩である。
歳は6つも離れているのだが、三河は浪人・休学を何度かしていたので、学年は一つしか違わなかった。
彼は写真、自分は油絵。
専門は違ったのだが、学校近くの、この築四十年以上のぼろアパートに住む者同士という事で、いつの間にか親交を持つようになった。良いように使われていた、という見方もあるのだが。
美大卒業後、三河はすぐにこのアパートを出た。
後になって、海外に行ったという話を人から聞いたが、その後の事は殿川もわからずじまいで、こちらから連絡も取れないまま、付き合いはそれっきり途絶えていた。
だが、今日その男が数年ぶりに、突然自分のもとを訪ねてきた。
そして、「家政夫やらない?」なんて言っている。
全く意味がわからない。
「……先輩は、今何の仕事してるんですか?」
「俺? 今うちの学校で写真の講師やってるよ?」
「……」
どう反応していいのか、殿川はわからなかった。
かつて三河は「心霊写真撮りたい」とか不謹慎な事を言い出して、富士の樹海に何か月もこもり、結果留年したような男だ。
撮りたがるモチーフというのも、一般人の常識から若干ずれていて、変わり者ぞろいの美大という環境の中でさえ「変人」と言われていた。
そんな男が母校で後輩相手に教えているというのだから、世も末だと、殿川は思う。
今の生徒たちに内心同情しつつも、「何故に家政夫?」という思いは消えない。
「家政夫なら、ハローワークとかに求人出せばよくないですか?出てますよ、意外に」
日に焼けた畳の上で、あぐらをかいた殿川が言うと「うん、そうなんだけどねー」と三河はため息をついた。
「それはやったんだよ。家政婦の協会にもお願いはしたらしい。でも、ちょっと相手が難しい相手でね。プロの家政婦でも長続きしないらしい。別に、いじめるわけじゃないんだけど」
「で、何で俺なんですか」
「お前、仕事先潰れたんだろ?このアパートも取り壊し決まったって聞いたし。暇してるんじゃないかなーと思って」
「……どこから聞いたんですかそれは」
「え? 風のうわさ」
三河は、全く悪気のないような顔で笑った。
……確かに、殿川は先日、めでたく無職となった。
アルバイトとして長年勤めていた居酒屋が、経営不振で閉店したからだ。追い打ちをかけるように、この築四十年の古アパートも区画整理の為、一年後に取り壊しが決定したと言う。出ていくにはまだ時間があるのだが、長年アルバイトで食いつないでいた身だ。
動くにしても、金がない。
職もなければ金もないで、ついにこれは路頭に迷うときがきたのかと内心、頭を抱えてはいたのだ。
この男はそんな話を聞いて、親切心で職を持ってきたのかもしれない。気持ちは有難いのだが、そんな経験もないのに家政夫とは唐突過ぎやしないだろうかと、殿川は思う。
確かに職を選べる身分ではないのだが、いきなりそんな事を言われても戸惑う。
「相手、絵描きなんだよ。お前も名前知ってるだろ?山田。山田聖」
殿川の疑問に答えるように、三河がにやりと笑いながら言った。
「……」
その名に、殿川は言葉が出なくなってしまう。
山田聖。
その名は、殿川も痛いほどに知っている。他人の口から聞くのは、久々だったが。
徐々に、胸のあたりがざわざわし始めた。不安にも似た感情に打ちのめされそうになるのを、膝の上で拳を強く握り、こらえる。
山田とは数年前、日本の芸術界の話題を独り占めにした、「若き天才」というやつである。美大生だった殿川も、何度もその名を耳にしていた。
会ったことはない。当時からすでに、雲の上のような存在だった。だが……。
「お前、ファンなんだろ?」
「……ファンと言えばファン、ですけどね。俺くらいの年代の絵描きは、みんな知ってると思いますけど」
三河の問いかけにそう言えば、彼も頷いた。
「だろうね。俺も絵はやらないけど、名前はよく聞いてたし。俺はその『山田様』の家政夫を探してるんだよ。いや、難しい事は何もなくてね。給料も良いし、あいつんちの掃除して、きちんと料理作って食わせられればOK。必要経費は全部出る。それ以外の時間は全て自由に使える」
どうよ? と三河は目を輝かせて顔を近づけた。
「住むところも別に用意するって話だし、天才様の作業風景も見れるかもしれない。お前にもいい勉強になると思うんだけどなぁ」
三河の言葉に、殿川は少々むっとした。
「……勉強って。俺、もう絵を描くの辞めてますし。画家でもないのに」
そう言えば、三河は少し意外そうな顔をした。
「……なんだ。お前ほんとに絵、辞めてるの?」
「そうですよ」
「もったいない。才能あったのに」
「……本当に才能あったら、今こんな生活してないですよ」
そう呟いて、殿川は肩を落とした。
三河が持ってきてくれた、土産の缶ビールを思いきり握る。べこり、とアルミの缶は簡単に凹んだ。
──己に絵の才能がある、と思っていた事は、確かにある。
もう随分前の話。まだ美大生をやってきた頃の話だ。
今思えば、どうしてそんな自信がもてたのかわからない。
本当の「天才」に比べれば、己の才能などないに等しいものだったというのに。
殿川はふと、己の学生時代の事を思い出していた。
子供の頃から絵を描くことが好きだった。
周囲と比べてもうまい方だ、という自覚はあったように思う。小学生の頃から、絵画のコンクールでは何度も入賞していたし、美術系の高校に進学してからも、周囲からはそれなりに評価されていたような気がする。
殿川も、その気になっていた。
自分に才能はある。そう信じていた。
絵で食べていきたいという希望と決意を抱いて、堅実な道を勧める両親をなんとか説得し、国立の美大に入った。
大学二年生の頃に学生コンクールで賞を取り、その後一般のコンクールでも入賞。同じ学年の生徒と比べても道のりは順調で、学生画家として少しだけ脚光を浴びた時期、というのもあったように思う。
だが、殿川が画家への道を歩み始めたのと、ほぼ同時期。
一人の男の名前が、ちらほらと聞こえてくるようになったのだ。
その男は、殿川の三つ年上。
それまで全くの無名であった若者が、海外の権威あるコンクールで賞を取ったのだという。それも最年少での受賞という、箔付きで。
殿川がそのニュースを聞いたのは、授業中だった。
油絵を教えていた教授は、「これはすごい事だよ」と若干興奮気味にその賞の凄さと歴史を語ったが、そのときは殿川も素直に「へぇ」程度にしか思わなかった。
それがとても遠い世界の話のような気がして、同世代の男の活躍に、ライバル心も嫉妬も何も抱けなかったのだと、今は思う。
しかし、数か月後。
異国から、その賞をとった絵が日本へ帰ってきた。
どういったやり取りがあったのかは知らないが、大学構内にその絵が期間限定で飾られることになったという。
殿川も友人たちと「どんな絵がそんな賞をとったのか、観てやろうじゃないか」という軽い気持ちで、それを観に行った。
普段は鍵がかかっている展示室の、一番奥に飾られた一枚の絵。
そこまで大きな絵でなかったことが意外だった。
水の中にいるような、青く澄んだ静かな配色。その中に人が一人、背を向けて座っているような、凛とした雰囲気を持つ絵だった。
「……思ったより、地味な絵だよな」
一緒にいた友人の一人はそう言った。
「あんまり大したことないよな」と言う者もいた。
だが殿川は、その絵を前にして、言葉も発することができず、それから目を逸らせなくなっていた。
静かで寂しげで、だが美しい絵。
(……地味? 大したことない?)
そんな感想を漏らした友人たちに、苛立ちも感じていた。
色遣いやデッサン力、空間。筆の運びまで全て、どこにも隙がない。これを描いた男には、確かな技術がある。
そしてただ「綺麗」で終わらない、絵を観た人間に何かを思わせる力。それは、技術を磨いたところで、全ての人間が持てるものではない「表現力」というものだ。
「……俺、こんな絵描いてみたいよ」
そう思わず殿川は呟いていたが、周りの友人たちは笑った。
「お前が? 全然タイプ違うけど」
笑いながら、友人たちは展示室を引き上げていく。
その絵に、大した興味も持てないようだった。
しかし殿川は、部屋に誰もいなくなっても、その絵をじっと見つめ続けていた。
――美しい絵。
何かを語りかける様な、一枚の中に世界を持った絵。
それが殿川と、画家・山田聖との出会いだった。
山田の絵は、殿川に理想を見せた。
こういった絵を描きたい、描けるようになりたいと、憧れにも似たような感情を抱かせた。歴史に残るような名画にも抱いた事のない感情だ。
しかしその「初恋」が殿川に与えた影響は、良いものばかりではなかった。
きっと、衝撃が大き過ぎたのだろう。
その男のような絵が描けるようになりたいと思うあまり、殿川は自分の絵を見失ってしまったのだ。
描いても描いても、山田の絵の真似をしているような気がする。周囲にも、そしてついに学校の教授にも「山田みたいな絵だねぇ」と言われるようになった。
そう言われるのが怖くなり、殿川は絵を描くのを止めた。
美大は一応卒業したのだが、卒業と同時に画材も全て捨ててしまった。
しかし今更一般企業に就職する気も起きず、絵以外にのめり込めるものがあったわけでもない。日々無気力に、飲食店のアルバイトで食いつなぐ日々を続けていた。
殿川の人生が行き詰るようになったのとほぼ同時に、山田の作品は、次々と世に出て国内外で高い評価を得るようになった。
たった数年の間に、彼は若いながらも実力派の人気画家として、確かな地位を築き上げていたのだ。
ある日殿川は電車の中で、彼の個展の開催を告げる吊り広告を見つけた。そこには彼の名と、「若き天才」という少々恥ずかしいコピー文章が添えられていた。
(……確かに、本当の天才ってのは、ああいう奴の事を言うんだろうな)
殿川はそれを眺めながら、しみじみとそう思った。
山田の描く絵は好きだった。
他人の絵を観て、生まれて初めて感じた衝撃だった。
自分が描きたいとする理想、そのものだった。
だがその理想は、自分の指先からは生まれてくれず、一人の同年代の男の手により、自分の想像をはるかに超えて生み出される。己はそれに、感激するしかできないのだ。
その事に、悔しさがないわけではなかった。
今でも、山田の絵を見ると心が締め付けられる。
でもやはり彼の作品には「恋をしていた」ようで、オタクのように作品の動向を追いかけた時期もあったのだが、知れば知るほど描けない自分が、惨めになるだけだった。
だから最近は、追いかける事も辞めていた。
(俺は、夢を叶えられる人間なのだと思っていたけど)
そう思っていたのは、きっと己だけだったのだろう。
実際はそんな才能などなかったのだ、と殿川は結論づけていた。
(本文に続く)