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二人の兄貴

09  飛散

日も落ちて薄暗い中、燃える火を頼りに、定信はウサギを解体する。
刃物は持って来ていなかったので、太助に借りた。
成仏してくれ、と手を合わせた後、死んだウサギの皮を剥ぎ、内臓を傷つけないよう腹を開き、内臓ひとつひとつをばらしていく。
人体の精密な解剖書と言うのは数年前に読んだが、実際腑分けに参加した事はまだなく、獣を解剖した事もはない。
血の臭いと獣臭さに気分が悪くなりそうだった。


「捕ったぞ。またウサギだけど」
茂みの中から、太助が足を一つに縛ったウサギを手に出て来た。
山に入ってまだそれほど時間は経っていない。どんな腕してるんだよ、と定信は驚くしかない。
「……さすが。早いな」
「うちのお犬様が優秀なんでね」
そう答える太助の足下には、先ほど小屋の中で定信を無視して寝ていた犬が、「当然」というような顔をして座っている。
 太助が今捕えて来たウサギは、定信が解体しているものと比べ、反応が鈍い。
だから楽に捕まえられたのだと言う。

「このウサギ、相当弱ってるぞ。多分そのうち死ぬけどいいのか?何なら別のを」
「それでいい。活きがいいのはいらないよ。結果が知りたいから」

足を縛ったまま、見える位置に置いた箱にウサギを入れ、定信はその様子を観察することにした。

あの寄生虫によって弱ったと思われるウサギ。
もしあの虫が原因だとすれば、虫の食害による末期の状態だと考える事ができる。
太助も、あの虫が獣を体内から食らいつくした後どうなるのか、と言う事はまでは知らないのだと言っていた。

もし。

自分が看た患者達。
それとこの山の獣が発症している症状が同じ、という自分の予想が当たりだとすれば、この弱ったウサギはどうなるのか。
その最期の日が今日になるのかまだ先なのか、それもわからない状態だが。
「ごめんな…」
詫びながら、反応の薄いウサギを見た。
ウサギは外傷もないのに、ひくりとも動かない。
腹が僅かに動いており、まだ呼吸している事はわかる。

「で、どうよ?腑分けして、何かわかったのか?」

太助が定信の手元を覗きこむ。
手元は血に染まっていて、周囲にずらりと内臓を並べた図はなかなか不気味だ。
「まぁ…これとか」
定信が取り出したのは、ウサギの肺。
片肺の一部が白くなり、中を切開してみるとぼろぼろとした白い物が出てくる。
その周辺には通常の肺の組織とはあきらかに異なる、腫瘍のような物ができていた。

「あの虫はこの辺を寝床にしてたんじゃないかな、と」

まっ先に風邪に似た症状だと思ったのも、肺から侵されていたからではないだろうか。
「で、体内を移動しながら内部を食い荒らす……」
白くぽろぽろとした部分は、恐らく虫の被害を受けた部分。
内臓や筋肉部分にいくつか見られた。
皮を剥いでから気付いたが、ウサギの足の末端の組織が不自然に黒い。

間違いないな、と思った。
このウサギと自分の周囲の患者達の症状は、よく似ている。

ただし、虫に刺されたような様子だけが確認できない。人間と違ってウサギは毛皮を着ているので、 皮膚の表面に何か刺し傷が残っているのかどうかは、見たところでは確認できなかった。
症状の原因は寄生虫。
だとすれば、感染源は何だ。
何に刺された?

血塗れの指をそのままに、定信は悩む。

これは、この土地で始まったものなのか。
やはりアレと関係があるのか。
「アレ…は、まだあの山にいるんだろうか」
人に化けて人を襲う、不思議な生き物。
定信の呟きを、太助が拾う。
「どうだか。俺もあの山に入ってないし、他の山では見てないから知らないが。まぁ見てたら、俺はもうここにはいないだろうし」
「……だよなぁ」

あの村のほとんどの人間が、土地を捨てて逃げてしまったというのだから、太助は今あの山から一番近い場所にいる人間のはず。
この辺りの山を知りつくした男だし、腕の良い猟師だ。
異変には真っ先に気が付くのではないだろうか。

この村の住人の枕元に立ったと言う、例の山神。
住民たちに「逃げよ」と伝えたそれは、恐れられつつもやはりこの地域を守るものだったのではないだろうか。
太助の言う通り「負けた」のだとしたら。あの白い髪の山神は、もうこの土地を守っていないのか。
死んだのだろうか。


「死んでないよ」


「……!」
突然、どこからか、定信のものでも太助のものでもない声がした。
定信の思考を読んだかのような、抑揚のない声。
太助の足元のいた犬が、突然鼻に皺を寄せて唸り始める。
犬が唸りながら見ているのは、手足を縛られ箱に入れられた……ウサギ。
箱の中に横たわった状態で、声だけが聞こえる。
声帯のないはずのウサギから、聞きとれる人の声が発せられている。

二人は何も言わず、視線を箱の中にやる。
ウサギの口は何かもごもごと動いていた。
非常に聞き取り難い声だった。

「あれは逃げた」
(……逃げた?)

その言葉に動揺する定信に対し、太助が言葉も発さず銃に点火する。
目の前のこれが、定信の思考を読んで話しかけているのか。
自分達と出会った、あの山神はまだいる、というのか。

「どこにいるのか、お前たちは知ってるだろう」

ウサギの鼻や口、落ち窪んだ目から、ぽろぽろと白い粉が溢れ始めた。
毛皮の表面が波打ち、体内で何かが激しく動いているようだった。
ばらばらと周囲に粉が散る。
毛皮が縮み始めた。
(……これだったのか)
定信は舌打ちをする。
姿を消した人々が、着物と共にその場に残した白い粉。

それは、中にいた虫が、体内を食い尽くして出てくるときのもの。
「おいおい、先生ぼさっとすんなよ!」
隣で太助が猟銃を構えた。
もう確かめる必要もないのは、お互い理解している。
破裂音と共に放たれた銃弾が着弾するのと、縮んで急に膨らんだウサギの体が爆ぜるのは同時だった。

ウサギが爆ぜたその瞬間、きらきらとした金粉のような粉が大量に暗闇の空中へ舞散る。

その光景に、定信も太助も言葉を失う。
……美しい光景だと、こんな状況でなければ言える気がした。
暗い山の中でも、蛍のように光る粉。
それは蚊柱のように一か所へ集まると、一人の人の姿を形成する。

ざんばらの白い髪に、灰色の猫のような瞳。
裾の擦り切れた袴。
それは自分達が過去に遭遇した、「山神」の姿だった。
自分の胸に手を当てるようにしながら、「これだ」と定信達に問う。

「こいつは今、どこにいる?」

(最悪だ……)
その「山神」の姿を模したアレに、定信は足から崩れ落ちそうになるのを必死にこらえた。
自分が看た、帰って来た人達。
このウサギの最期が彼らの消えた瞬間だとするならば。
辿った道が同じだ、とするならば。

あの人達はすでに死んでいるという事になる。

戻ってきたのは、本人ではない。
「アレ」なのだ。アレが、人のふりをしているだけ。
こうであってほしくないと思いながら、どこかで「アレ」を見たときと同じ違和感を感じていた。
頭では否定しながら、そんな気はしていた。
しかしこうしてまざまざと現実を見せつけられると、沸き上がってくるのはどうしようもない無力感だけだった。
自分では救えない。
助けることなどできない。

太助は無表情で銃を構えたままだ。
目の前の「アレ」を見て、恐れているようには見えない。
「……恥も知らずに山から出て来やがって、くそが」
ため息交じりの口調だった。
しかしその目は、まっすぐに「アレ」を見ている。
「お前らのせいで、こっちは皆、生活滅茶苦茶になってんだよ」
あまり故郷に愛着のあるような人間ではないと思っていたが、それなりに憤りは感じているのだと、その言葉で思った。

銃口を目の前のそれに向けながら、太助がちらりと定信を見る。

「……ちなみに先生ってさ。腕に覚えありだったりするわけ?」
「何で医者が喧嘩強くなきゃいけないんだよ……」
「マジかー…。そのでかい体は飾りかよ」
「悪かったよ」

人を見かけで判断するのは、良くないと思うのだ。
いつもいつも、自分は見てくれで誤解を受ける。
目つきが悪いのも、特別鍛えてもないくせに筋肉質なのも、無駄に背が高いのも赤毛なのも、全て家系の問題だ。
性格が荒っぽいのは認める。
しかし「何かできそう」と思われても、本当に何も武道の心得があるわけでもないのだ。
でもどちらかと言えば体力もあるし、力もある。
多分医者よりもそちらの道にいた方が、周りも納得しただろう。
医者らしくない、なんて言葉は聞き飽きている。
自分のやりたい事と向き不向きと言うのは、なかなか一致してくれないものだ。
景伊に剣でも習った方がいいのか畜生、と本気で思えてきた。

「……先生も災難だよねぇ。こんなとこ、もう来なけりゃ良かったのに」
自分に向けられた太助の言葉に、定信はため息をつく。
「向こうにいても同じ状況になってるなら、どこ居たって変わらねぇだろ……」
「あー…運が悪い、って奴かな。こういうのってやっぱ、一度見ちまうと駄目なんかな。呪われちまったか俺」
アレの問いかけを無視して、二人はその場にそぐわぬ軽口を交わす。
無言で太助が押しつけて来た鉈を受け取り、握った。
今自分達がそんな会話をする事ができるのは、この状況を半ば諦めているからだろう。

もし運よく生きて帰れたとしても、どうすればあの男を助ける事ができると言うのだろう。
内臓の奥深くに潜伏する虫状態のアレを取り出す技術は、まだない。

「あの人を助けてくれ」と景伊は言った。
そのときの景伊の不安と懇願を浮かべた顔が、脳裏に浮かぶ。
自分だって、助けたくないわけではないのだ。
あの男に頂く少々の嫉妬も関係ない。
自分は、助けたかった。

(……すまねぇ)

定信は心の中で謝罪する。
すぐ帰ると約束したのに、帰れないかもしれない。謝罪もできないかもしれない。

ざわざわと、周囲の木々の向こうに複数の気配を感じる。
あの山の雰囲気と同じだ。
何かに見られている。
これだけ周囲を囲まれていれば、逃げ場はない。
定信が覚悟を決め、鉈を強く握った瞬間だった。


『逃げはしない。馬鹿にするな』


全く別の声が、周囲にこだまする。
(え……)
その声に聞き覚えがある、と思った。
定信の脳裏に、三年前の記憶が蘇る。

山まで連れてく。

あのとき、利秋の屋敷の庭にいた男。
血塗れで自分を振り返り、そう告げた山神の声。

周囲の気配が動揺したように、ざわりとした。目の前の「アレ」が、一瞬その気配に気をとられる。
それを合図にしたかの様に、太助の足元にいた犬が突然、猛然と唸りを上げて「アレ」に飛び掛かかった。

太助もその隙を逃さなかった。
「逃げるぞ先生!」
言葉と同時に銃声が響く。

上から下から四方から、何かが追いかけてくる気配。
後ろから何発か聞こえた銃声。
行く手を阻もうとする「何か」に、歯を食いしばり思い切り叫びながら鉈を振るう。
嫌な手ごたえが腕を伝わった。

今自分は、何かを斬りおとした。
確認する事もせず、定信と太助は必死に山を下った。

(死にたくない)
ここでまだ死にたくない。
帰ると言ったのだ、自分は。

嵐の中でもみくちゃにされたような、激しい記憶だけが残った。


どれだけ時間が経ったのだろうか。

気がつけば、定信は呆然と村の入り口の雑木林を抜けた辺りで、荒れた街道に膝をついて座り込んでいた。
何かの液体が付いた鉈は、震える手に持ったまま。
山の中をどう駆け下りてきたのか、足元も着物も顔も、枯葉や泥だらけだった。
我に返り周囲を見渡すが、暗闇の中、何かがいる気配はない。
後ろを見れば三歩ほ離れた所に、太助が同じく泥だらけで、呆然とした様子で座り込んでいた。
暗闇の中でもわかる程、顔面蒼白だった。
猟銃は掴んでいるが、腰にあった短刀も鞘のみになり、手元にない。
自分達がどれだけがむしゃらに山を降りて来たのかが、ありありとわかった。
何かを言わなければならない気もするが、力が抜けて言葉が出て来ない。
心臓がばくばく言っている。
犬は、いなかった。

「あの、声」

何度かぱくぱくと口を動かした後、声が出た。情けないくらい震えていた。
……あの、山に響いた声。

「あれ、あの白い男の声だった」

定信が以前聞いた男の声と同じ。間違いない。
「助けられた……?」
太助も呆然としながら呟く。
あの声が無ければ、自分達はあそこから抜け出す事もできなかっただろう。

「アレ」が、あの山以外で出た。
山神の声もした。

太助の枕元で「ここから逃げよ」と言った山神。
自分達の町でも見られた、あの虫による症状。
山神は死んでいない。
でも間違いなく、アレも山の外へ出て来ている。
自分達を取り囲んでいた気配は、たくさん。
三年前のときのように、一個体ではない。

「景伊……」
声を漏らしながら、定信は地面の土に爪を立てた。
連れて来なかった事は、良かった。
だが今、彼の兄は「アレ」を体内に飼っている、と言う事になる。
側にいろ、と言った。
自分はそう言った。

どうしたらいい。
時間はどれだけ残っているのだ。
早く伝えに、帰らなければ。いや、伝えろと言うのか、こんな事を?
ぐるぐると思考は回る。
それでも帰らなければと思った。
なのに体は動いてくれない。力が抜けたように、立ち上がる事ができなかった。

がさり、と側の茂みが動く。
「……!」
条件反射で鉈を掴み構えると、茂みの中から出てきたのは太助の犬だった。
思わず安堵して息を漏らす。怪我もないようだった。
犬は茂みから出てくると、一度大きくあくびをして座った。

『……言ったはずだが。この土地から逃げよ、と』

犬がいる辺りから突然聞き覚えのある声がした。
定信と太助は二人して顔を合わせ、周囲を見回して…また目の前の犬に視線を戻す。
犬が喋った…のだろうか。

「……はぁ?」

太助が自分の犬が言った言葉に、素っ頓狂な声を上げながら近づく。
もう何でもありか、と定信は頭を抱えたくなった。
「山神様…か?俺の犬の中にいるのか?」
信じられない、と言った顔で太助が言う。
彼もあの白い男の声を覚えていたらしい。
「何でだ、何で犬に?こいつの体、取っちまったのか?」
『一時的に借りている。前の体は壊れて使えなくなってしまったから、山中に捨てた』
落ち着いた声だった。
特に肉体に執着している様子もない。この山神にとっては、あの自分達も見覚えのある若い男の姿も、所詮一時の借り物に過ぎないのだろうか。
「……何なんだよ」
定信は苛立ちにも似た声を出す。
「何でこんな事になった。何であんなものが出た!何であれで終わりにならなかったんだ!」
ふつふつと沸いた行き所のない怒りが、次々に口から出てくる。
しかし目の前の犬に宿った山神は、言葉を荒げる事もなく、淡々と言葉を語るのみだった。
『……私が負けたから』
「……」
犬の口から出る言葉に、定信は力なく座り込んだ。


確かに三年前の出来事の際、既に山神の体はボロボロに傷んでいた。
近くに大人の男たちが数人いたにも関わらず、替わりの体を奪う事ができないくらい、この山神は弱っていた。
アレと争って手傷を負っていたというのもあるし、アレを追って山の外へ出た事自体が負担だったのだろう。 それでもこの神は山の外に出た「アレ」を再び山へ誘い込み、それを殺した。

自分達は出来事を忘れる様に日々忙しなく生活していたし、あれがもう山から出る事はないのだと思っていた。
しかしあの山では、生存競争が果てしなく続いていたと言うのか。

『あれは知恵を得過ぎた』

それまであの山から外に出る事はなかった「アレ」は、抜け出した事で新しい環境と人の文明を知り、知恵を得て進化を続けた。
元々肉食の生き物であった「アレ」は、今まで人に擬態して、山に入った人を騙し襲っていた。
しかしもっと効率のいいやり方を。敵対する山神を出し抜く方法を、と生き抜く為にアレも考えたのだろう。

それが動物の体内に寄生する、というやり方だった。
元々人に化ける事しかしなかったが、アレの特徴はその変幻自在さにある。
小さく「虫」となり、獣の体内に寄生。
補食動物として栄養源も補えるし、寄生している間は天敵の山神の目もある程度ごまかせる。

『何より、獣の体内に潜む事で、あの山のみだった移動可能範囲を超える事に成功した』

「アレ」のみでは、山を出る事は不可能だった。
しかし別の生き物を生かしたまま、その体内に潜伏する事で、それは可能になった。

獣で腹を満たしても、やはりアレの目的は「人」。
外に出る事で自由に人間を食うのか、と思いきや、アレは三年前の事件で学んでいたらしい。
山に迷い込んで来た人間を食うのとは違い、人社会の中で人を食せば大きな事件となる。極力自分達の存在を気付かれないように、補食をする方法として考えたのは、人の体内に寄生し食いつくした後、その人としてしばらく過ごす事。
人間を食しても、その後も捕食した「人」になり同じように振る舞えば、周囲の人間は中々気が付かない。
頃合いを見て、その人間として「死ぬ」。そしてまた、別の人間に寄生する。
そうして数を増やしていく。
一度姿を消し帰ってくる事に時間がかかったのは、アレにとってもそれはまだ慣れぬ作業だから。
その形態に慣れれば、一度消える事もなく人の姿を保てるであろう、と山神は語った。

犬の口から語られる「アレ」の新たな形に、定信は吐き気がした。
「あんたでも、どうにもならないのか」
『アレの進化に私が追いつけていない』
強い生き物というのは、力や大きさだけではない。
何より、環境に適応する能力だ。それは今までの歴史が証明している。

「……じゃあもう、俺達は駄目って事なのか』
『あれとて、無敵ではないよ。体内に虫として寄生している間は貧弱だ。引き摺りだせば簡単に殺せる』
「んな事したら、寄生された奴まで殺す事になるだろうが!」
『外にアレを増やしたくないなら、それくらいすべきでは?』
「……あんた」
駄目だ、と定信は思った。
この山神は、アレを駆逐する事しか考えていない。
地元の人間に「逃げよ」と告げたのは、恐らくそれが自分を信仰していた人々で、昔から縁ある人間たちだったからだ。
外の無関係の人間がどうなろうが、この山神には関係がない事なのだ。
思考回路が自分達とは違う。
決して味方ではないという意味が、やっとわかった気がした。

犬はじっと定信を見ていた。黒いはずのその目が、あの猫のような灰色の目に見えてきて、定信は思わず目を逸らす。
アレは外に出ていて、少しずつ周囲の町に広がりつつある。
その上、天敵の山神は死んではいないが「どうにもならない」なんて言っている。
それでは、諦めろというのか。
その症状が出た人間は、さっさと殺してしまえと言うのか。
できるわけがないじゃないか。

犬が、定信の目の前に近寄ってくる。すぴ、と犬の鼻が鳴った。
『あの子供はどうした』
「…子供?」
定信は眉を寄せる。
『私が山に連れて来た、あの子供。お前達の知り合いだろう』
「……景伊の事か」
『名までは覚えていないが。あれはどうした』
「こっちにはいない。……置いて来たから」
何故景伊の事を聞くのか。
定信はふと、嫌な予感に襲われる。
犬は首を傾げるようにして言う。
『何か変わりはないか?』
「……何でそんな事聞くんだよ」

何かを知ったような口ぶり。
この山神は三年前、景伊を餌に逃げたアレを山まで誘い込んだ。
まさか、あのとき。

「まさかあんた、あいつに何かしたのか!?」

定信の動揺した問いに対し、犬は無表情にこちらを見上げていた。
『変わりがないならいい。喜べ。いい薬ができたかもしれない』
「薬だと…?」

何を言っているのだ。
薬?喜べだと?それが景伊とどう関係があると言うのだ。
『私がどうやってアレを殺していたか、お前達は知っているだろうか』
その問いに、定信は太助を振り向く。太助は黙って首を横に振った。
「……知らねぇよ」
アレと敵対する山神。
自分達はこの山神の事も、それくらいしか知らないのだ。
人の体を奪ったり、突如消えたり、神と呼ばれるだけあって奇妙な力を持っているというのは知っている。

『毒だよ。私は体内に作りだした毒を、アレに打ち込んで殺す』

毒、という言葉に、定信は顔をしかめる。
アレは首を飛ばそうが鉛玉で撃たれようが、殺せるものだという感覚がまるでなかった。
しかしこの山神は、それに対応する能力を天敵として持っているというのか。

『人も毒を持てばいいんだよ。毒ある餌など、誰も食わないだろう?』

餌がなければ獣も滅ぶ、と犬は言った。
犬の口が笑ったように見えたのは気のせいだろうか。

「……はっきり言えよ」
定信は目の前の犬を不気味に思いながらも、苛立ちに言葉をのせて言う。
「あんたはあいつに何をしたんだ!」
犬は怯まない。ただ、淡々としていた。
『私と同じ毒を持たせただけだよ。人の身でそれを持って、その後どうなるのかわからないがね』
人々を助ける薬となるのか、人類の毒となるのか。

『見てみたいな。……お前たちは生き延びるかもしれないよ?』

その声には悪意も善意もない。
ただ可能性を試したのだ。この山神は。

今犬の姿でなければ殴っていたであろう拳を震えさせながら、定信は歯を噛みしめて、大地に爪をたてた。