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つとめて 明るく

つとめて 明るく(サンブル)


 武藤秋には、長年親しくしている友人がいた。
 彼は、中学校の同級生。容姿は女子受けする華やかな奴だったが、少々不真面目な部分のある男だった。
 授業は平気でさぼるし、宿題はしてこないし、注意する教師にも、小生意気な屁理屈で口答えする。
 大人から見ればただの生意気な男だったのだが、秋には不思議と、その男が魅力的に見えていた。
 秋自身は、自分で言うのもなんだが、幼いころから「無難な優等生」に分類される生き方をしていたように思う。中学校でも高校でも、気が付けば生徒会役員をやっていた。大人からひどく怒られた経験もない。羽目も外さない。
 なぜ、そんな全く違うタイプの男が、妙に気になる存在だったのか──。
(俺が絶対、そんなことできないからなんだよなぁ)
 秋はそう、理解していた。
 彼は、やりたいように生きている。頼まれても、人に誘われても、やりたくないことはやらないと、はっきり言える。
 対して自分は、気が付けば大人や周囲の目を気にしていて、頼まれても「嫌」を言えないことも多く、目の前に山積みになった仕事を前に、もやもやを抱えることもあった。
 だから、ひそかに息苦しかったのかもしれない。周囲の視線に振り回されず、奔放なふるまいのできる彼のことが、それなりに羨ましかった。
 それに、彼は大人からの受けは悪かったが、根っからの悪い男ではないと思っていた。
 その男は中学生のとき、秋の家から逃げた子犬を、雨の中探してくれたことがあった。捜索中にばったり会っただけだったのに「任せろ」と、暗くなるまで一緒に探してくれたのである。犬はちゃんと見つかった。
 一緒になって喜んでくれた姿に、秋は思った。
 ──言うほど悪い奴じゃない。
 陽気でイケメンで、ちょっとやんちゃなので、人に誤解されやすいのだ、と。
 なので、その友人とは、ずっと親しくしていた。
 ──社会人三年目に、三十万ほど持ち逃げされる事態になるまでは。

「金の切れ目は縁の切れ目だよ」
 運転席で、日に焼けたガテン系にしか見えない男が、穏やかに言う。秋はそれを、助手席の窓ガラスに頭を押し付けながら、重たい表情で聞いていた。
 運転手の男は、牧田浩二という。高校時代からの同級生で、どちらかと言えばラグビーでもしていそうな体格だが、過去にはサッカーをやっていた。
 特待生として、遠方の高校に進学するほどな優秀な選手だったが、けがのために大学途中でサッカーは辞めて、今はこの、田園ばかり広がる地元に戻っている。現在は実家の酒屋で働いているらしい。サッカーをしているより、前掛けをかけたその姿の方が似合うと、秋はひそかに思っている。
「なんか……なんかねぇ」
 秋は窓ガラスと通じて頭に伝わる、びりびりとした車の振動に声を揺らしながら、だるそうに語った。
「あいつのことは、それなりに友達だと思ってて……。まぁちゃらんぽらんだけど、あんまり嫌いじゃなくて。付き合いも長かったし、助けてもらったこともあったし……警察に届けたってのは、やり過ぎだったんじゃないかとか思って……」
「まだそんなこと言ってんの?」
 牧田はハンドルを握りながら、呆れた様子で言う。
「そんな甘いこと言ってるから、いいカモにされるんだよ」
「カモかぁ……」
 秋は、乾いたつぶやきを漏らした。
 その男は秋だけではなく、複数の人間に金を無心していたらしい。
 その日、久しぶりに会った秋に、男は金を貸してほしいと相談してきた。
 聞けば、父が珍しい病気にかかり、まだ国で承認されていないような薬を何度か使わねばならないらしく、治療費がかなりかかるという。彼も働いてはいるが、なにぶん急なことなので困っている。今、少しだけでも貸してくれたら、収入が入ったら必ず返すから──ということだった。
 秋は大卒後、無難に就職して、医療器具メーカーの営業をしていた。あまり頻繁に金を使う方でもなく、貯金は三百万円ほどある。  正直、急すぎる相談にちょっと迷ったのだが──秋はこの男の、ここまで沈痛な顔をみたのも初めてだったし、ここで助けなければ、友達ではないような気がしたのだ。迷う自分が、ケチのような気もした。
 結局三十万ほど、男に渡した。何度も礼を言って男は立ち去ったが──そのまま、連絡が取れなくなった。
 そしてある日同級生から、その男が詐欺の容疑で、警察に追われているということを知る。
 なんでも同じ手口で、知り合いから金を巻き上げていたらしい。被害額は数百万。大学在学中からギャンブルにはまって、莫大な借金を作り、ヤクザまがいの怪しいところから金を借りて、トラブルになっていた、と後から聞いた。ちなみに、彼の父親はぴんぴんしていた。
 秋も、友人に引きずられるように警察に行って、事情を説明したが──警察はあきれたため息をついていた。
 ──あいつ、とんでもないクズだよ。
 中には彼と結婚できると信じて、借金してまで百万近くの金を渡した女もいるというのだから、たちが悪い。聞けば聞くほど、真っ黒な話しか出てこなかった。
 沈痛な顔も感謝の言葉も全部演技で、心配して三十万円をポンと出した秋の姿を、内心舌を出して笑っていたのだと思うと、心の中に真っ黒な泥をぶちまけられた気分になってくる。
「そんな怪しい話を信じるなんて」とか「いきなりお金渡したりするから」なんて親にも馬鹿呼ばわりされて、余計に落ち込んだ。
 秋は、親しい人にこうやって裏切られるなんて、初めてだった。考えれば考えるほど、自分の人間関係、というものに自信がなくなってきた。
 考えてみれば、ずっとそれなりに優等生でやってきた自分は、人に頼られるばかりだった気がする。学生のときも社会人になってからも、周りが「できない、やりたくない」と言えば、その仕事が自分に回ってくることも多かった。自分も、わからないなりに、なんとかやろうとしていたというのに。
 ──自分が本当に困ったとき、辛いとき、助けてくれる人はいるのだろうか?
 言い方は悪いが、自分は周囲にとって、ただの便利屋だったのではないだろうか──なんて思うようにもなってしまった。自分の「友達」という価値観も、よくわからなくなってしまっていた。
 だが、そんな事件の話を聞いたのだろうか。
 高校時代親しかった牧田が「週末、ちょっと俺の田舎に羽を伸ばしに来ないか。会おうよ」と誘ってくれた。
 正直、人間不信にもなりかけていたので、その「会おうよ」という誘いにまた何かあるんじゃないかと躊躇したのだが──仕事帰り、迎えに来てくれた牧田は、別に自分に何かを求めていたわけではないらしい。
 牧田は「とりあえず乗れよ」と車を指さす。
 車の後ろの方には、近くのスーパーで買ったと思われる、肉だのなんだのが大量に積んであった。
「こういうときはさ、人とぱーっと酒飲んで、肉食うのがいいと思うんだ」
 別に、肉に惹かれたわけではないのだが──その能天気な一言に、肩の力が抜けた。下手に疑って悪かった、とも思った。
 金曜日の夕方。
 秋は彼の車に飛び乗って、今に至る。


「俺もちょっと、鬱々してたからさ」
 牧田は、ちょっといかつい見た目に似合わず、穏やかな喋り方をする。
「のんびりしながら愚痴ってぱーっと飲んで、厄落とししたかったんだよね。お前、日本酒いけたよな?」
「あぁ。……今はもう、吐くまで飲みたい気分」
「吐くのは勘弁してくれませんかねぇ……。まぁ、飲んで駄目になっても気兼ねなく過ごしていただけるよう、家借りる話をしておいたから。うちの家族いないし、ゆっくり過ごしてもらっていいよ。泊まれるし」
「家?」
 秋は横目で、牧田を見つめる。
「なに、別荘でも持ってるの?」
 確かこの男の実家は、その地方でも老舗の酒蔵なのだと聞いている。
「いやいや、そんな洒落たものではなく……親戚の家。とは言っても、めちゃくちゃ古いんだけどな。築二百年くらいとか、そんなの」
「へぇ……それって、古民家ってやつ? 今流行ってる」
「まぁそれに近い」
 牧田はハンドルを握りながら笑う。
「うちの大元の、本家の家なんだ。昔は人が住んでたけど、今は誰もいないから、ちょっと使わせてもらおうと思って。……まぁそこがらみで、事件もあったんだけどな」
「何?」
 秋が尋ねると、牧田は言いにくそうに唸った。
「……そこの本家、大きな蔵がありまして。昔のお宝みたいなのが結構眠っていたらしいんだけど、ちょっと前にいくつか盗まれて──それに、あいつが絡んでいるかもしれなくって」
「……は?」
 あいつ、という言葉に、秋は思い切り、眉を寄せた。
「なにそれ。そんなの初めて聞いたぞ」
「お前が落ち込み過ぎてて、言い出せなかったんだけどさ。秋があいつに金貸すちょっと前くらいに、あいつ、うちにも来たんだよ。俺はちょうどいなかったから、会わなかったけど……」
 牧田の声には、ため息が混じっている。
「そのとき、そこの本家──うちのすぐ裏なんだけどな。蔵の外壁直していて、鍵が開いていたらしいんだけど……職人さんが休んでいる間に、中の物が一部、なくなっていたらしい。誰でも入れる時間があったみたいで」
「……それ、あいつがやったかも、って?」
 恐る恐る問うと、牧田は「多分、クロ」とうなずく。
「あまり疑いたくもないが、タイミング良すぎるし、見慣れない若いのがうろついてたって話はあるからな。結構、中には金になりそうな骨董品があったらしいんだ。あいつ、ヤバいところから金借りて、困ってたんだろ?」
「……」
 秋は渋い顔をしたまま、言葉も出ない。
「……そんな感じで、俺の周りも、あいつがらみでゴタゴタして、愚痴りたい気分だったわけ。秋は仲良かったから、あんまり信じたくない気分わかるけどな」
「いや、そうだけど……」
 大人や、決まりを恐れないところ、自分が躊躇する部分を平気で飛び越えていく部分が──少々自分にとって、清々しく感じていただけだ。
 だが今は、裏話を聞くたびに、そんな親しみがどんどん消えていく。決まりに縛られなかった正直さと自由さを持っていた男は、行ってはいけない悪い一線を飛び越えてしまった。
 そこに躊躇というのは、あったのだろうか?
「まぁ、俺も一緒に遊んだりした時期あったから、信じたくない気持ちってのは、わかるけどさ。やったことはやったことだから。きちんと捕まった方が、あいつのためだと思うよ。もう下手に庇うな」
「……庇ってなんかないよ。俺も、捕まってほしくないわけじゃないし」
 金返せ、とは思っていない。なんだかもう、返ってこなくても仕方ないと思っている。ただ──悔しいだけだ。
(人って、怖いよな)
 世の中には、人の善意も長年の付き合いも、簡単に利用する者がいるのだ。自分だったらきっと、罪悪感で押しつぶされてしまいそうだが、そういうものが全く気にならない人、というのもいるのだろう。
(あいつにとって、俺は切っても問題ない人間だったのか、それとも)
 考えれば考えるほど、気が重たくなる。
 だが今は──自分は彼のようにはなるまい、とだけ思う。

 それから車で十分ほど走って、集落のはずれにたどり着いた。
 目の前にどんと現れたのは、大きな、古めかしい日本家屋だった。平屋で、立派な門と生垣に囲まれている。敷地の端には家紋入りの蔵が、三棟も並んでいた。
(古民家ってレベルじゃねぇよ……)
 てっきり、かやぶき屋根の昔話に出てきそうな古民家、というのを想像していた秋は、固まってしまった。
 どちらかと言えば「豪商の家」というような単語が浮かぶ。屋根は黒い瓦で、奥行きもかなりある。一体何部屋あるのだろう?
「いや、立派すぎでしょ……。二百年前に、これか」
「本家は、いわゆる庄屋様ってやつでさ」
 瓦屋根のついた門をくぐりながら、牧田は秋に説明する。
「昭和の終わりくらいまでは、この土地で結構力があったんだって。毎年、土地の議員とかも、挨拶に来ていたらしい。今は没落しちゃって、全然だけど」
「へぇ……なんか全然世界が違う」
 庄屋様──なんて、時代劇くらいでしか聞いたことがないなと、秋は興味深く辺りを見渡した。
 その大きな日本家屋も松の木が生えた庭も、今は人が住んでいないというが、荒れている様子はない。まめに手入れされているのだろう。補修が終わったばかりという蔵も、白い漆喰がまぶしい。
「なかなか、こういう建物入る機会ってもうないから、貴重かも。でもいいの? こんなところに泊まって」
「いいよ、別に文化財とかになってるわけでもないし。でも……もしかしたら、これ、出るかもだが」
「これ?」
 秋が尋ねると、牧田は「これ」と言いながら、胸の前で両手をだらんと垂らした。
「幽霊、ってこと?」
 秋は眉を寄せる。どちらかと言えば、心霊は否定派、というか信じたくない派だ。怖いから。
   秋が浮かべた表情を見て、牧田は苦笑する。
「まぁ……歴史が古くてでかい家って、いろいろと、きな臭い話もあるのよね。ここもそう。ちなみに、うちの本家の直系は、もう絶えてます。残っているのは、分家の家系だけ。実は、本家は祟られて絶えた、なんて噂もあってね」
「あのさぁ……今から泊まるって時に言うなよ、そういうの……」
 立派な家が、なんだか急に恐ろしく思えてきた。
「大丈夫だって。家なんて継ぐ人がいなきゃ、祟りがなくとも絶えるんだからさ。そのへんの家見てみろよ、田舎なんて空き家ばっかりだよ。珍しくともなんともない」
 牧田は呑気に笑っていた。そういえば──この男はこういうのを全く気にしない男だった。
 高校時代、サッカー部の合宿で泊まった民宿が、過去にはとんでもない殺人事件があったという物件で、部員全員怯えていたのに、こいつだけ豪快に寝ていやがった、というのは当時のサッカー部で伝説になった、というのを昔聞いたことがある。
(こういう話が身近にあると、やっぱ慣れるんだろうなぁ……)
 そんなことを思い出していると、ふわりと煙草の匂いが漂ってきた。
 秋も牧田も、煙草は吸わない。ふと周囲を見渡すと、一人の男が、艶のないくすんだ色の縁側に腰かけて、煙草を吸っているのが見えた。
 歳は自分達より少し年上に見えたので、三十代後半くらいだろうか。白いシャツにグレーのスラックス、よく磨かれた茶の革靴という、落ち着いた格好をしている。男はこちらに気付くと、煙草を縁側に置かれた灰皿に押し付け、こちらに近寄ってきた。
 だが秋は──その男が立ちあがった瞬間、それまで座っていた場所に、白っぽい着物を着た人物が、うつむいて座っているのが見えた。
(……ん?)
 ちょうど重なるようにして座っていた人物。だが、もう一度そちらを見ると、そこには誰もいない。
「直之さん!」
 気のせいか──? と思っている秋の横で、牧田が見知った顔を見つけたような顔をして、寄ってくる男に声をかける。
 直之、と呼ばれたその男は、にこりと笑顔を浮かべた。どこか都会的な香りを感じる、整った容貌の男だった。
「ご要望通り、掃除はしといたからな」
 そう言うと、直之は秋の方をちらりと見る。
「君が、浩二の友達?」
「あ……はい。学生時代の同級生です。武藤秋、といいます」
 秋は慌てて頭を下げる。直之も丁寧に頭を下げた。
「浩二がお世話になったみたいで。俺は牧田直之。こいつとは、親戚やね。お前、結構格好いい子と友達だったんだな」
 直之がそういうと、牧田はへへ、と照れくさそうな笑みを浮かべて、秋を見る。
「この人、本家の人なんだ。この家の持ち主。今はここに住んでないけど」
「こんな辛気臭い家にいられるか。立ち話もなんだから、まぁ、上がりなよ。玄関はこっちね」
 言いながら、直之はひらひらと手を振って、玄関の方へ回り込む。
「……なんか、お前と感じが全然違う人だな。洒落てるって言うか」
 直之の後姿を見つめながら、秋はつぶやく。格好いい、なんて言われたのは初めてだったので、ちょっと照れてしまった。
「でもさっき、本家絶えてるって言ってなかった?」
「うん、直系はね。あの人、養子だから」
 牧田は、さらりとそう答える。
「昔、いよいよ跡取りいないってなったとき、本家だから潰しちゃまずいって、本家の婆さんの養子に入ったんだと。あの人が中学生くらいのときかな?」
「なんか、いろいろ大変なんだなぁ、旧家って……俺は庶民で良かったよ……」
 秋は、げっそりした声を出す。きっと、根っからの庶民である武藤家は、絶えたって誰も問題にしない。
「でも、俺は昔から仲がいいよ。歳の近い親戚って、あの人くらいしかいなかったからね。そういうわけで、この家持ち主は一応あの人だから、そこんとこよろしくな。家主様に失礼のないように。飲み過ぎて吐くなよ」
「わかった……けど」
 秋は、敷地の隅にある蔵の方を、ちらりと見る。蔵というものを見たことがないわけではないのだが、その蔵が複数並んでいる家、というのは初めてだ。
「物が盗まれたのって、あの蔵だよね。一応……あの直之さん? あの人が被害者ってわけ?」
「……そういうことだね。警察には一応、届けてるってよ」
 牧田も、その話題には複雑そうに答える。
「ただ直之さんは、あんまり蔵の中の物とか興味ないみたいだから、怒っているのは周りって言うか……」
「ふぅん……」
 確かに気さくだが、ちょっとあっさりざっくりした雰囲気だ。先祖代々とかそのあたりのものに、あまり思い入れはないのかもしれない。
「俺もそれくらいに開き直りたいな……」
「ほんとだよ」
 牧田がうんざりしたような顔で言うので、秋は自虐的に笑うしかなかった。

 築二百年という家屋の中は薄暗く、どことなく重苦しい感じがした。
(綺麗、なんだけどな。祟りだのなんだの、聞いたせいかな)
 秋は案内された家の中を見渡す。室内の空気は、ひんやりとしている。
夕暮れの中、しんと静まり返った室内。枯れた色の畳や、黒光りしている太い梁や柱。生活感を覚える物が全くなくて、秋は落ち着かない。
(城の中みたい……)
 感覚としては昔、小学生の社会見学で入った、地元の城の天守閣内部──あれだ。
ここで暮らせと言われても、庶民の血が騒いで──秋には無理だ。
「布団はあるし、一応干しておいたし……ガスも電気も来ているし」
 囲炉裏端まで二人を案内した直之は、そうこちらを振り返って説明した。 「面倒なのが、トイレが外ってことだな。飲むのは結構だが、酔っぱらって、靴はいて行く最中にこけるなよ。この家、段差だらけだからな。二百年前にバリアフリーなんかないから」
 直之は、そう笑っている。
「じゃあ、俺はそろそろ席外すな。家を燃やしてくれなきゃ、何してもいいから。友達同士でゆっくり──」
「……あの」
 出て行こうとした直之に、秋は控えめな声をかける。
「蔵の窃盗事件のこと……ご存知ですよね」
 秋の言葉に、直之は一瞬、目を細めたように見えた。
「……おい」
 牧田が秋に、小声で叱る様な声をかけるが、秋は構わず聞いた。
「すみません。いきなりこんなこと聞くのは、凄く失礼だとは思うんですけど……その、疑わしき男……直之さんも見ましたか?」
「……俺は、見てない。普段この家にいないし」
 直之は、言葉に困ったような顔をする。
「職人さんたちが、物が減ってるって気付いただけ。例の男、浩二も直接会ってはないだろ」
「うん。俺が、留守の時だったからね」
 牧田は頷く。
「ただ親父が昔から、人にたかられ慣れててだな」
「……いやな慣れだなー」
 思わず秋は突っ込む。だが商売で成功していて、旧家の関係ということで、金を無心にくる者、というのは珍しくなかったのかもしれない。
「そう。だから親父のそういうセンサーに反応して怪しいと思われたらしく、適当にあしらって、帰ってもらったって言ってた。蔵に寄ったのはその後だと思う。うちからここ、目と鼻の先だからな」
「ま、こっちも不用心だったがね。……で? そういえば、その男って、君らの同級生だったっけ? 責任感じることないよ? 悪いのは盗人だから」
「いや、責任っていうか……俺もそいつに騙された側なので、どんな顔して来ていたのか、ちょっと聞いてみたいな、と思っただけなんで……」
「へぇ?」
 直之が疑問の声を上げると、牧田が補足するようにそばに寄り、ぽそりと「三十万」とつぶやいた。
「こいつ、親父さんの治療費貸してくれって言われて、そいつに三十万渡しちゃったんですよ……」
「あぁ……」
 直之はなんとも言えない顔をした。「気の毒」と「こいつアホやな」という感情が入り混じっているように見えた。
「……わかった、わかった。浩二が連れてきた理由もわかった。今日はとことん飲んでだらだら過ごそうな、秋君。俺も君の憂さ晴らしに付き合うよ」
 直之は、秋の背をばしばしと叩く。
「つまみくらい作ろう。浩二、店に電話して、酒たくさん届けてもらえ。金はあとで俺が払いに行くから」
「わーい、気前良いなぁ」
 牧田はにやりとそんなことを言いながら、実家の酒屋にいそいそと配達依頼の電話をかけていた。
 友人たちの中でもしっかりとした部類の男だったが、この牧田にとって、直之という男は兄貴分なのかもしれない。見たことがないくらい、よく甘えている。
「……でもさ」
 そんな牧田を眺めていた秋に、直之は小声でささやいた。
「その逃げてる男……今、どうしているんだろうね」
「え?」
 眉を寄せながら問うと、直之はにっこりと笑っていた。だがどこか、ほの暗そうなものも感じる笑みだった。気まずい空気の中、牧田だけが、能天気に大きな声で電話をかけている。
「それだけ、知っている顔相手に、悪いことしていたわけでしょう? 逃げて、隠れて……平然と寝られるのかなぁ、と思って。悪い夢に、うなされていなきゃいいねぇ」
「……?」
 秋が首を傾げたとき、電話を終えた牧田が、笑いながらこちらにやってきた。
「酒、すぐにここまで持ってきてくれるらしいよ。ちゃんと直之さん用に、ビール頼んでおきましたから」
「よしよし、さすが、浩二はできる子だ。そんなわけだから、いろいろあっただろうけど、気晴らしにぱーっと飲もうよ、秋君。浩二もそのつもりで連れて来たんだろうしね。被害者の会ってことでね」
「はい……」
 頷きながら、秋はじっと、笑う直之を見つめていた。
(なんだろ、この人)
 先ほど、なんだか妙なことを言っていた気がする。祟りの話なんて聞いた直後だったので、またそっち系の話かと一瞬思ってしまったのだが。
 さっきも家燃やさなきゃ何してもいいよ──なんて言っていたあたり、この男は反応に困る冗談をぶちかますタイプなのかもしれない。
 そういう面倒くさいおっさんというのは、たまにいる。

 秋は、囲炉裏なんて汁物か、魚を刺して焼くぐらいだと思っていた。
(まさか、網敷いたら焼肉ができるとは)
 焼肉というか、炭火焼き、なのだろうが。直之が焼く串の準備をしていたので、秋が炭をおこしていると、直之に「君上手いねぇ」と手際を褒められた。ちょっと照れる。
「子供のころ、ボーイスカウトに行って、キャンプとかよくやってたんで……」
「あぁ、そういうの好きな人? 俺はちょっと、苦手な分野だ。キャンプがっていうか、ああいう前向きな集まりが」
「前向きな集まり」
 言い方に、秋は噴き出す。
「まぁ、言いたいことはわかります。いろいろ経験もさせてもらいましたけどね。俺の場合は、父親がそういうのが好きだっただけですよ。その影響」
 言いながら、秋は苦笑した。
 秋の父は根っからの仕切りやで、体育会系のリーダータイプの兄貴肌で──男子はアウトドア能力がないとダメだろ、いろんな人と交流しないとダメだろ、という活動的で明るい男だったから、お前も、と言われて、断れなかっただけだ。
「……でも、囲炉裏を使ったのは初めてです。焼肉していいとは思わなかった」
「焼肉しちゃいけないなんて決まりはない。今更汚して、困る様な家でもないからね」
 直之は、並べた鳥の串焼きをひっくり返しながら言う。この男も、結構手際がいい。
 そんな男の左手の薬指には、シンプルなプラチナの指輪が光っていた。既婚者なんだろうな、となんとなく思う。
「……奥さん、連絡しなくて大丈夫ですか?」
「え?」
「あ、いや。指輪されているから。急に飲み参加になっちゃって。怒られたりしないかと」
 問うと、男も笑った。
「いや、大丈夫。それより秋君、もっとしっかり食いなよ。浩二はもうそんなに食べられないから」
「おーい秋、飲んでるー?」
 直之の言葉が終わるより前に、牧田が日本酒の入ったグラスを片手に、秋の肩を激しく揺さぶってくる。首ががくがくする。
(こいつはもう、完全に酔っぱらいか……)
 そういえば、牧田は大学でサッカーを辞めてから、卒業することなく故郷に戻ってしまったので、社会人になってからこうして飲みかわしたことなんて、あまりない。見た目がっしりしているので、勝手に酒豪タイプだと思っていた。
「お前、見かけによらず、酒弱かったか……」
「酒屋の息子のくせにって、よく言われるんだけどね」
 直之も、仕方ないなという様子で笑う。
「飲むのは本当に好きみたいなんだけど、すぐ酔う。まぁ、楽しく酔っぱらうほうだから、まだいいが」
「そう言う直之さんも、ビール派なんですね。日本酒飲まないんですか?」
 直之の手には、銀色の缶ビールが握られている。
「……俺、実は日本酒苦手。酒蔵の親戚がいる手前、やり辛いんだが」
「まぁでも、そのへんは好みだから……親戚同士で集まったときとかは、飲むんです?」
「そりゃあ一応。造っている人たちに、直接嫌いとか言えないじゃない……。こいつとかはまだ、歳が近いからいいけど」
 そう言って、直之は牧田を指さす。なんとなくわかる感情で、秋は苦笑してしまった。
「なぁー秋、元気出せよー? 飲んでるー?」
「飲んでる飲んでる。元気は今出そうと頑張ってる」
「ならいいよー。ゆっくりしてけよー?」
 牧田はろれつが回らなくなってきている。ニコニコ笑って、ご機嫌そうだ。適当にいなしている秋の姿を見て、直之は笑っていた。
「……多分こいつ、このままここで寝ちゃいますよ」
「寝たら転がしておいて。あとで布団まで引きずっていくし」
「引きずったら、絶対段差で頭打つでしょ」
「いやだって、俺じゃ持ち上がらないもん、こいつ。サッカー辞めてどんどんでかくなるし。秋君連れてく?」
「いや、無理かな……多分俺とも体重、今は二十キロくらい違う気がするし……」
 そう言いながら、二人して笑ってしまった。しかし、直之にとっても、牧田は気を許せる親類であるらしい。
(こういう兄弟じゃないけど、年の離れたお兄さんがいる環境とか、いいなぁ)
 秋はなんとなく、羨ましくなってしまった。こういう男がそばにいたら、自分が三十万ぽんと出す前に止めてくれただろうか──と笑う。
(いや、無理だな)
 自分は何を言われてもきっと、払ってしまっていた。役に立ちたい、より好かれたい、なんて考えて。
(貢ぐタイプだったかぁ、俺……)
 トラブルに遭遇した時、自分の本質というのがわかる。自分の場合、駄目な男に引っかかるタイプの女と同じだったようだ。他人のそういう話を聞いたときは「こいつ馬鹿だな」と思うのに、今はとても、そんな人を笑えない。
 そんな自嘲をしていたとき──天井がみしりと鳴った。
 
(本文に続く)