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幸運は、扉を開けて

10:失恋の結末と、僕らの非日常


 ──その晩、総司は奇妙な夢を見た。
 林の中の茂みに隠れて、長い間、あの松葉の屋敷を眺めている夢だ。
 くすみのない白と、柔らかい松葉色に彩られた、真新しい洋館。そこに不気味さはまるでなく、木々の木漏れ日を浴びて輝く姿は、どこか生き生きとしていて、興味深かった。
 そこには見慣れぬ外国人たちが、頻繁にやってきた。やや古風ないでたちだが、そろって身なりは良い。何か仕事を持っているようで、彼らに教えを乞う者、先生と慕う者、沢山の者が山を登ってやってきていた。
 しかし、数年ごとに住む者は変わった。彼らは決まった任期でこの町にやってきていたようだった。
 茂みのなかに隠れて、『それ』は淡々と屋敷の住人が移り変わるのを眺めていた。『それ』は松葉の屋敷にやってくる人々の営みを、見るのが楽しみだったのだ。
 こちらは隠れて見ているつもりだったのだが、中にはこちらの存在に気付く者がいた。
(あ)
 総司は一瞬、身構えた。こちらに気付きやってくるのは、例の屋敷にいた、巻き毛の美青年だ。
 だが彼は、珍しいものを見つけたかのように笑顔で、にこにこと愛想よく近づいてきた。手には、古めかしいデザインの、黒く大きなカメラを持っている。
 ──なんだろう、この動物。ビーバー? アライグマかなぁ?
(は?)
 ビーバーなんか日本にいるか──そう総司は思ったのだが、青年は興味津々といった様子で、カメラを構えた。
 シャッター音が合図だったかのように、その森の光景は突然途切れた。

「……」
 カーテンの間から差し込む眩しい光で、総司は目を覚ます。頭上にあるのは、見覚えのある木目の天井──ここは、実家の自室だ。
 高校を卒業と同時に実家を出て、就職してからはほとんど帰省しなかった。働いていたときはこちらに帰る気もなかったし、両親も自分が戻るとは思っていなかった。
 総司が「いらない」と言ったのもあって、子供のころからの学習机などは処分され、六畳ほどの部屋は随分と殺風景だった。
 ベッドもないので、フローリングの上に直接布団を敷いて寝ていた。枕元にはスマホやコンビニで買った雑誌などが散らばっている。
(なに、今の夢……)
 総司は布団の中で、うなりながら目を擦った。なんだか、妙な夢を見た。自分の視点だったような、そうじゃなかったような。
(昨日、あれからどうしたんだっけ……)
 まだ半分夢の中の状態で、総司は昨日の事を思い出す。
 ──あの後、結局例の青年も一緒に、車で山を下りた。よくわからない存在を連れてどこかの店に行く勇気もなく、寒いし疲れたし早く家に帰りたかったので、隆弘と共に総司の実家に着いたのだ。
 自分にくっついてきた青年の姿は、出迎えた父や母にもばっちり見えていた。
「この子誰?」と問う母親に仕方なく「合流した共通の友人……」と話を合せて、両親に紹介した。青年は名を「フランスから来たイヴァン」と名乗った。
 隆弘が「たぬきの癖におフランスかよ……」とか、そっぽを向いてぶつくさ言っていた気がする。
 瓜生家の夕食は終わっていたので、結局総司の部屋で、冷蔵庫にあった材料を使って適当に鍋をすることにした。具は白菜と卵と鶏肉しかない、寂しい鍋だった。
 準備をしている間、イヴァンと名乗った青年は仏壇の前で、祖母の遺影を前にして、正座しながらまたぐすぐすと泣いていた。祖母が死んだときも、葬式であそこまで泣いていた人間はいなかったように思う。
(今度、墓参りくらいには連れてってやろうか)
 白菜をざくざくと切りながら、そんなことを思った。
 ともにやって来た隆弘は、疲れからかあまり食欲もなかったらしい。なんだかげっそりしていた。明日も昼から仕事だからと、鍋料理もそこそこに、缶ビールを一本開けて、徒歩数分の実家へと帰って行った。
(隆弘、親父にどう説明するのかなぁ……)
 昨日の出来事は、まだ父には説明していない。昨日一応話そうかと思ったのだが、のんきな父は「お前より隆弘君のほうが説明上手だろうから、そっちに聞くよ」と、さらりと答えられて終わった。
 昔から好き勝手に生きている息子より、甥の隆弘のほうを父は信用している。
(でもあいつも困るだろうなぁ……親父に対して妙な嘘もつき辛いだろうし……)
 今頃隆弘は、周りにどん引かれない程度に現実感があって、うまく相手を納得させることのできる報告の仕方というのを、真っ白なパソコンを前にして、頭を抱えながら考えているに違いない。
 総司も、あの屋敷での体験は今でも信じられなかった。
 昨日の出来事は夢だったのか──と思いながら身を起こした時、掛布団の上に黒っぽい毛玉が丸まって寝ているのが見えた。朝日を浴びて、気持ちよさそうにすぴすぴと鼻を鳴らしている。
(……やっぱり夢じゃなかった)
 総司は寝起き早々、両手で顔を覆った。
 今自分の部屋の布団の上で、丸々とした、タヌキが寝ている。

 おっかなびっくり、その毛玉をつついて起こしてみれば、そのタヌキはこちらを半目で見た瞬間、一瞬にしてどろんと、例の青年へと姿を変えた。
 まだ眠たげにごろごろとしているそれを、とりあえず朝ごはん、と引っ張って台所に行く。目が覚めたのは午前十時。父も母も仕事に出かけていていなかった。
 ダイニングテーブルに腰かけると、イヴァンはちびちびとグラスに入れられた牛乳をなめていた。昨日の鍋も普通に食べていたし、人間の食べ物は平気らしい。ますます意味が分からない。
「……お前さぁ、なんなの?」
 目の前に座った総司は、目の前の珍妙な存在を睨む。
「なんなの、と言われても」
 イヴァンは首を傾げる。
「……正体はタヌキだろ」
「ばれた?」
 イヴァンは「あら」と言う顔をして、対面に座る総司を意外そうに見た。
「さっきぐーすか寝てた時、もろに毛玉だったぞ」
「ふぅん……それは失敗。気を抜きすぎたなぁ」
 失敗とは言うが特に困った様子もなく、イヴァンは欠伸をして、牛乳を飲み干す。
「確かに俺はタヌキだよ。でもそのへんのタヌキと一緒にしてもらっちゃ困る。人の言葉もわかるし、化けるのも誰よりも上手だ。すごいだろう?」
「あー…すごいすごい」
 イヴァンが胸を張ったので、総司は投げやりにほめた。
「なに、タヌキって全部そういうのできるの。超絶生物なの?」
「……さぁ。ただ俺は長生きだから。ほかのタヌキより力もあるよ。あの家が建ったころから生きているから」
「へ、へぇ」
 どうやら、これは幽霊より「妖怪」に近いのかもしれない。長生きし過ぎた獣が、何かしらの力を持った、というか──。
(昔話じゃあるまいし……って言っても目の前にいるんだもんなー)
 そんなの非科学的だ! なんて騒いでみたところで、どうにもならない。総司は半分、考える事を諦めた。
「あの辺りは、昔から外国人がよくやってきた。だから珍しくて、よく眺めていたんだ」
「その格好もそれか? 昔いた人?」
「そう。こいつはイヴァン」
「イヴァン?」
「写真家だ」
 イヴァンは己の胸を指さした。
「俺と初めて仲良くしてくれた、松葉のお屋敷の住人。知っているか、総司。たぬきは外国じゃ珍しいんだそうだ! 珍獣なんだぞ。パンダと同列にされることもあるんだ!」
 イヴァンは何故か、自慢げだった。どうやらこの姿は、あの洋館に過去に住んでいた人間のものを借りているらしい。
「で、なんでその人の恰好なの」
「それは、さゆりちゃんが」
 祖母の名を呟いた途端、イヴァンはしょんぼりとする。
「この恰好が一番格好いいからって……」
(婆ちゃん、面食いか……)
 総司が脱力しているなか、イヴァンは祖母との関係を語り始めた。
 イヴァンと祖母が出会ったのは、祖父が死んだ直後──十五年ほど前のことだという。
 イヴァンはその屋敷に住む人の暮らしを眺めるのが昔からの趣味だったので、祖母のこともずっと前から知っていたそうだが、最愛の夫を亡くして悲しみにくれる祖母の姿を見て、なんだかいたたまれなくなったらしい。
「だって、ずっと一人で泣いてたんだ。お前らは知らないだろうけど。さゆりちゃんは誰か来てたときは強がって笑っていたけど、一人になったら、ずっと泣いてた」
「……」
 また会いたいと泣くので、イヴァンは悩みながらも、祖父の姿に化けて出てみた。怖がらせるかもしれないが、ちょっとくらい元気を出してくれたら、という気持ちだったらしい。
 祖母は、勿論驚いた。だが、影やちょっとしたことから、相手がこの辺りを住処にしている「タヌキ」という事に気付いたらしい。
 だが祖母はそのタヌキを追い出すことなく、化かされた事に怒るでもなく、自然に受け入れてくれたようだ。
 ──すごいのねぇ。タヌキちゃんはなんにでもなれるのねぇ。
 イヴァンはそれが嬉しかったようで、こんな事もできる、あんなこともできる、と昔屋敷に住んでいた人に化けてみたりした。
 その変身ショーのなかで、祖母が「あら、この人格好いいわねぇ」と好反応だったのが、このフランス人写真家、イヴァンだということだ。なので祖母の側にいるときは、大抵この姿だったという。
「イヴァンも良い奴だったんだぞ。俺のことをずっとアライグマだと思ってたけど。途中で国に帰っちゃったけど」
「ふ、ふーん……」
 もうどう反応していいのかよくわからない。総司は複雑な思いで、食パンを齧った。うっかりしていて、トーストするのも忘れた。
(どうしようかなぁ、これから……)
 イヴァンはここに居座る気満々のようだ。総司にくっ付いているので仕方ないが、もしここで「出て行け」なんて言った日には、なんだか祟られそうな気もする。
(一緒に来いって言ったの俺だし……悪意があるわけじゃないみたいだし……)
「で、総司はなんでこんなに悠長に朝ごはん食べているんだ。若いのに働いていないのか?」
「うん……」
 いろいろ悩んでいたところに仕事のことを突っ込まれて、総司は肩を落とす。
「爽やかに朝っぱらから無職いじめるのはよしてくれ。そろそろまじめに探そうと思ってるんだから……」
「また、料理人するのか?」
 イヴァンは、小首をかしげるようにして問う。
「まぁ……そうだろうねぇ。今更デスクワークとか無理だし」
「昨日の鍋美味しかったぞ。店でも開いたらいいのに」
「……まだ俺にはちと早いかなぁ。まぁ、将来的には、考えていないこともない」
 総司は苦笑した。目の前にいるのはよくわからない生物だが、素直に邪気なく「美味しかった」と言われては、悪い気はしない。
(まぁ、うだうだ考えても仕方ねーか。なるようにしかならんわな)
 この存在のことも、先の事も、自分の元を去った男の事も──ぐちぐちと考えているだけでは駄目だ。
 実家に帰って来たときには、そんな元気はなかった。あの男だけがいなくなった生活の中にいたくなくて、情けなく実家に逃げ戻った。
 だが今は、そろそろ思い切って違う環境に飛び込んでみようか、という思いも出てきている。
(これがショック療法ってやつかなぁ)
 考えながら、総司もグラスに牛乳を注いで飲み干す。
 あの男に振られたとき、これ以上ショックな事なんてない、と思った。やさぐれかけた。
 だが、それ以上の驚きだの衝撃だのは、簡単にやってきた。鬱屈なんて忘れて、必死に生き残ろうとしている自分がいた。結果を知ったら馬鹿みたいだし、今その謎の存在と一緒に朝ご飯を食べている自分も、なんだか馬鹿みたいだ。
 そしてやっぱり、一周回っても未練たらたらな自分も、馬鹿だ。
(もし就職うまくいったら──あの人に連絡してみようかな)
 そして謝ろうと思った。今、白濱がどこにいるのかは知らない。だが共通の知人や前に勤めていたホテルの人間に連絡を取れば、居場所はわかるだろう。今まで自分が、それすらしていなかっただけだ。
「……総司は、案外不愛想な男が好きなんだな」
 気が付けば、食パンをもぐもぐと食べながら、イヴァンがこちらを見ながらほくそ笑んでいた。
「……化けてくれるなよ? 俺は今あの人の姿見ても、嬉しくないからな。会うなら自力で会うんだから」
 こっぱずかしさ半分で、睨みながらそう言えば、イヴァンはへらりと笑って頷いた。何だかいろいろと察せられたようで、総司は少しだけ、居心地が悪い。
「まぁそう落ち込むな総司。恋の悩みなんて、昔からよくある話なんだ。このイヴァンだって、恋人に振られたショックで国に帰ったんだから」
「あ、そうなの……? そんなイケメン振る女なんて、いるの?」
「いや、女じゃなくて……。惚れ込んだ男に、こっぴどく振られたらしくて」
「あ、そう……」
 なんだか急にこの、目の前の美男子に親近感がわいてきた。イヴァンもどこか、神妙な面持ちだ。
「国に帰ったイヴァンがどうなったのか、俺もずっとそこだけは気になってる。お前みたいに、また頑張るってなってればいいんだけどね」
「……そうだねぇ」
 自分が生まれるよりもずっと前に生きて、似たような失恋をしたであろう男を思い──総司も素直に頷いた。


 屋敷での騒動から約一か月後、総司は市内の和食料理店に就職した。小さな店だが繁盛していて忙しく、人間関係にも恵まれ、再起としてはうまくいったほうだと思う。
 仕事にも慣れてきたころ、共通の友人に何気なく連絡を取ってみれば、白濱は今、東京の有名ホテルのバーで働いているという。
 連絡先のメールアドレスは、意外にも総司が知るものから変わっていなかった。
 いざメールを送ろうと思ったが、ささいな文面を作成するのに一時間もかかってしまった。
(あんなこと言って、今更どの面さげて)
(うざいとか思われないかな)
(忘れられてたらどうしよう)
(もう別の相手くらいいたりして)
(これで返信こなかったら、くっそ落ち込むよな)
 手の平に生汗をかきながら、スマホを握りしめて唸っていると、後ろから覗き込んできたイヴァンが「お前、生娘じゃあるまいし」とか馬鹿にしてきたので蹴り飛ばして、総司は息を大きく吸って、送信ボタンを押す。
 
 ──お久しぶりです。
 栄転おめでとうございます。あのときは本当に、大人げなくてすみませんでした。東京に行く機会があれば、友人と一緒に飲みに行ってもいいですか?

 そんなかっちかちな文章を送信して、床に座り込み息を吐いていると、後ろに吹っ飛んでいたイヴァンが興味津々、といった様子でこちらを覗き込む。
「このともだちって、誰と行くんだ? あの愛想のない眼鏡か?」
「……隆弘? あいつがこんな面倒なことに首突っ込むわけないじゃん。とりあえず、巻き添え的にお前は確実」
「えー。お酒飲めるのうれしいけど、まだ相手が総司にその気があったらどうするの? こんなイケメン一緒にいたら、引くんじゃない?」
(イケメンなのはお前じゃねーだろ)
 本体はまるまるとしたデブタヌキのくせに──とは言わず、総司は苦笑した。
「大丈夫、白濱さんはな、塩系男子が好きだから」
「塩?」
「顔があっさり風味ってこと。……って返信来なかったら、行くどころじゃないけどな。もう顔も見たくないんだろうし」
「そう? お店があって、客として酒飲みに行くのに許可なんていらないでしょー? 来るなって言わないほうが悪い。そしらぬ顔で行けばいいじゃん。会いたいんでしょう?」
「……」
 このタヌキ、妙に素直だ。こちらが大人のしょうもない言い訳を並べたところで、もっと本能の赴くままに生きろと言ってくる。
「……そうだね」
 総司は肩の力を抜いて、へらりと笑った。このタヌキはわけのわからない存在だが、こういうところは、あまり嫌いではない。だから祖母も、かわいがったのだと思う。
「有給取れるようになったら、東京行くかぁ。お前、ばれないようにしろよ」
「うん。いざとなったら総司の襟巻のふりしている」
「乗っかられると重いんだよお前……最近食いすぎだ」
「だって、ご飯がおいしい」
 そう笑っていたところで、床に置いたスマホが急に音を立てて振動しはじめた。不意打ちを食らって、二人してびくりと肩を揺らす。
「きた?」
 どこかわくわくとした表情で、イヴァンは尋ねる。
「う、うん……」
 スマホの画面に視線を落したまま──総司は真顔で、ゆっくりと頷いた。
 

 山の上の洋館「松葉のお屋敷」は無事に市の所有となり、一般向けに郷土資料館として公開されることになった。
 心霊スポット騒ぎも、同時に沈静化した。特にあれから、何もおかしなことは起きていないという。
何が原因だったのか、訪れた人に何が起きていたのか──それを知るものは、ほとんどいない。

「──で、東京行ってどうだったんだ。例の男と会ったんだろう」
「んー。まぁ、ちょっと飲みに行っただけだけどねぇ」
 その日、総司の運転する車の助手席で、相変わらず隆弘がかっちりとしたスーツを着て、腕組みをしながらこちらを横目で見てきた。
「気になってたなら、一緒にくりゃよかったのに」
「さんざん愚痴聞かされた身にもなってみろ。絶対に嫌だ」
 むすりとした言い方に、総司は苦笑した。
 一泊二日の、ふらりとした東京旅行に一応誘いをかけたのだが、この愛想のない従弟は「めんどい」とばっさり切って捨てた。
 なので結局、男一人と一匹で東京に行き、高級ホテルの最上階にあったバーで、場違いを感じながらも酒を飲んできた。
「何か話したのか?」
「別に。バーって、あまりうるさく喋るところじゃないでしょう? どーも、久々、元気? みたいな」
「で?」
「……それだけ。でも、また来たらって言ってもらったから、いいんじゃないの?」
 そういって、総司は小さく笑った。
 ──毎週水曜は、休みでいないから。
 白濱から反ってきたメールは、簡潔にそう記されていた。事務的だったし、来るなとも、謝ったことに関して何も触れられていなかったが、逆に白濱らしいとも思った。
 肩身の狭い思いをしながら、ホテルの最上階にあったバーに行くと、カウンターの向こうには見慣れた、やたらと体格のいいバーテンダーがいた。
 向こうの仕事を邪魔したくもなかったし、湿っぽい個人的な話はしたくなかった。
 だから酒を飲みつつ、一言二言交わしただけだ。イヴァンには甘めの酒とつまみを渡して、とにかく黙ってもらっていた。
 緊張していたし、ここにいたいような、逃げ出したいような、そんな気分で酒の味もよくわからない。二杯飲んで帰ることにしたのだが、帰りがけに意外にも、白濱から声をかけられた。
 ──いま、どこに住んでるの。 
 この男も、別れたあと相手がどうしたか気になっていたのだろうか。総司はとっさに固まってしまった。
 ──じ、実家です。
 ──仕事は?
 ──和食の料理人。また、始めました。
 ──そう。遠いけど、また、機会があったら、来たらいい。
 こくこくと、何度も頷いて、総司は若干酔っぱらってふにゃふにゃしていたイヴァンを連れて、店の外に出た。
「結局ねー、あの人が大人で俺がガキだったってことなんですよ」
「ふぅん」
 しみじみと言ってみたが、隆弘はやはり、あまり興味がなさそうだった。その返事はそっけない。
「で、復縁目指すの?」
「うーん……たぶん、今すぐは無理だろうけど」
 いつか、そうできたらいいな、とは思う。だがあの男が、もう自分と付き合うなんて無理、と内心思っているかもしれないし、まだ再会が許された段階なので、何とも言えない。
 調子に乗ってしつこくしたら、また同じことになりそうな気もする。だからもう少し自分も大人になったら──そう思っている。
「大人って、俺らもうすぐ三十路なんだが」
「……それは言うなよ。それよりイヴァン起きろ、もうすぐ着くんだから」
 総司は、後部座席でよだれを垂らしながら寝ていたイヴァンに声をかける。イヴァンは目をこすりながら、薄目を開けた。朝っぱらから寝ているところたたき起こされたので、若干機嫌が悪いらしい。
「正直、こういうのお前が頼りなんだからな。危なかったら速攻逃げるんだから教えろよ」
「えー……なんでよその縄張りで頑張らなきゃいけないの」
「グダグダ言うな」
 隆弘も腕を組んだまま、ルームミラー越しにイヴァンに声をかけた。
「総司のお父さんの依頼なんだから仕方ないだろう。何かしら解決できたら、うまい飯を食わせてやる。総司が」
「まぁ、作るの俺ですよねぇ……」
 知ってる、と総司はハンドルを握りながら、ため息をついた。
 自分のぐだぐだした失恋が若干片付いたころ、総司と隆弘は父親から、妙な依頼をされるようになっていた。父もあまり幽霊だなんだは信じないが、ゲンは担ぐ。
 父は松葉のお屋敷の一件で、自分たちが屋敷を訪ねてからは何も怪奇現象が起きなくなったことに注目したらしい。
 瓜生グループが経営する会社は、曰くつき物件をいくつか所持しているらしく、ちょこちょこと「行ってみてこい」という依頼が入るようになってきた。百パーセントの期待なんてしていないが、身内が行って改善するならもうけもの、という程度の気持ちだ。
 総司と隆弘、二人には全くその手の能力などない。なんとなくその手の気配がわかるのは、この後部座席にいる妖怪っぽいもの、だ。
 イヴァンが「あ、やばい。怖い」と言い出したらよっぽどのことなので自分たちも入らず速攻帰るし、何もなければ噂はただの気のせい、ということもある。
 今向かっているのは、一家が夜逃げしたという空き家だ。売りたいが、いろいろと問題が多いらしい。
「たまの休みだってのに……なんでこんなことしてるんだろうなぁ、俺。しかも運転手」
「ぼやきたいのは俺も一緒だが、仕事なんでな」
「親父の無茶ぶりは断ってくれ隆弘、お願いだから」
「無理」
「ねむいー」 
 二人と一匹は、ぼやきながらも海岸沿いの道を車で駆け抜ける。
 日常と非日常が混ざり合った奇妙な日々は、まだしばらく続きそうだ。

(終)