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二人の兄貴

13 兄弟

屋敷から帰る際、もう一度景伊は以前居た離れに立ち寄った。
土蔵のような、よくわからない不思議な造りの建物。ここで自分は七年近くを過ごした。
兄は自分がここからいなくなった後も、この中を片付ける事はしなかったという。
別に戻ってくるかもしれないとか、そんな事を考えていたわけではないのだろう。
ただ単に、触れたくなかっただけだ。
だから数年ぶりにこの中に入って、自分の数少ない私物は埃にまみれていたけれど、持って借りたい物は回収出来た。
あの後鍵を閉めてしまったからもう中には入れないが、あの室内の様子は手に取る様に思い出せる。

暗くて、寒くて。

あまり好ましい思い出ではない。だが入口の錠前に触れると、冷たくて重い感触と共に、昔の記憶がよみがえってきた。



―ねぇ、どうするのかしらね。

そんな声をひそめた囁きが、遠くから聞こえる。
目の前には布団に寝かせられ、顔に白い布をかけられた母の姿。昨日の夜までは生きていた。息をしていた。
この頃体調を崩していたのは確かで、よく咳もしていたし痩せてきていた。
しかし今日母は眠ったまま、起きて来なかった。

眠ったまま逝った事は、良かったのかもしれない。
苦しまずに逝けて良かったね、と周囲の人は言った。それは確かに本人にとっては良かった事かもしれない。
自分もそう思う。
だが、区切りのつかない別れとなってしまった。心の準備もできないまま、今はどうしたらいいのかわからない。
ただ母の側に座って、立ち上がれないでいる。
自分達には葬式を出す金もない。

―あの子、どうなるの?

様々な人が暮らす貧しい長屋街。人が一人死んだ事はすぐ伝わり、母一人子一人で暮らしていたこの部屋へは、心配に訪れる人々がいくらかいた。
身元もよくわからない身重の女が突然やってきて、ここで子供を産んだのだという。
煙たがられてもおかしくない状況ではあったが、幸いここの人達はよくしてくれたのだと、生前母は言っていた。
気を落としちゃだめよとか、慰めの言葉をくれる人達もいる。気にかけてもらっている。
でもそれらの言葉はうまく、頭の中に入ってこなかった。

―でもほら、あの人どこかのお妾さんだったって言うじゃない。囲われてたんじゃないの?
―そんなの、どこまでが本当だか。

囁かれる噂は、いろいろあった。
言うのは自由だ。
母はそれなりに美しい女性だった。
どこかわけありのような雰囲気を持っており、近所の人間たちの噂話の種になっていたようだったが、控えめで気配りのできる性格だったからだろうか。あまり面と向かって悪く言われた事はない。

 母も何も語らなかった。だから自分に真相を聞かれても、答えようがなかった。

一度だけ、聞いた事がある。「父親はどうしたの?」と。

自分が想像していたのは、死んだとか逃げたとか、そんな答えだった。
しかし母親は笑って「もう少し大人になったら教えてあげるから」とだけ言った。
随分曖昧な事を言うと思ったが、子供心に今聞いてはいけないのかもしれない、とも思った。
しかし自分だって、知りたくないわけではなかった。
今にして思えば、しつこく聞いておけば良かったとも思う。それを知る機会は、永遠に失われてしまったのだから。


これからどうすれば、と途方にくれていたとき、外が一瞬ざわめいた。
誰か来たのかと思い振り向くと、玄関に見慣れぬ男が立っているのに気付く。
若い男だ。
30代くらいの色白の男。良い見なりからして、この辺りの人間ではない。
にこにこと愛想のいい笑みを浮かべた、細い目の男だった。 景伊はこの男を見た事がない。
母の知り合いかとも思ったが、違うような気もした。
「……どなたですか」
怪訝な声で問えば、男の細い目が更に細くなった。

「私はある方の使いで参った者です」

男は名を名乗らない。あくまで己は使いなのだ、と強調する。
張り付けたような変わらない笑顔で、男は告げた。

 「貴方様をずっと探していました」



連れて来られた家は大きかった。
道に続く白壁の全てがその家の物なのだと知った時、景伊は驚いた。
城だ、と思った。
もちろん実際の城ほど大きくもなければ特別な場所にあるわけでもない。天守閣があるわけでもない。
武家屋敷の連なる一角に存在する、周囲よりも少々大きく目立つ屋敷なだけだ。


自分達の元を訪れた「笑顔を張り付けた男」は、その場で自分がとある家の主の息子なのだ、と語った。
母親は父の子を身ごもり、それが男の立場を悪くするのを恐れて姿を消していた事。
父親は、ずっと探していたという事。
母親の死に目には間に合わなかったが、自分だけでも連れ帰りたいのだと言う事。
それらを淡々と説明し、今すぐに自分に付いて来るよう言った。
景伊としては、それをすぐに信じる事はできなかった。

探していたなんて言ったって、こんな母が死んだ直後に来る事はないだろう。 しかも、来るなら何故本人が迎えに来ないのだ。

そんな苛立ちがあった。 そう言えば男は不快感を表すでもなく言う。
 「……御父上はお忙しい方なのですよ。貴方様が想像する以上に」
男の声は優しげであったが、変わらぬ笑顔が気味悪くもあった。
さぁ、今すぐ、と男は景伊を急かす。
荷物があるわけでもない。自分には何もない。この男に付いて行くというのは、すぐにできない事ではなかった。
だが…。
「……母を置いてなんて行けません」
「ご心配なく。こちらで埋葬までのお手配はさせて頂きますから」
「……」
「まだ何か不安ですか?ここに残っていても、貴方は野垂れ死ぬだけですよ?」

 確かにそうだ、とわかってはいるのだ。
母の他に親しくしている人もいない。近所の住人は自分を気遣ってはくれているが、頼れるのかと言えばそれは違う。
自分のような子供の働き口があるわけでもないし、取り柄もない。 行かないと言えば、自分はこの長屋を出て男の言う通り野垂れ死ぬか、堕ちるところまで堕ちた生活を送るんだろう。

しかし突然の事に正直、戸惑っていた。

自分に父親はいないものとして今まで生きて来た。
それがいきなりこんな事を言われても、迷うばかりだ。
 「別に貴方様が何かしなければならない、というわけではありませんよ。求めてもいません」
景伊の不安を読みとったのか、男が言う。
「後継ぎを求められているわけでもありませんからね。既に奥様との間に、一男一女をお持ちですから。貴方はただ居ればいいだけですよ」
「……居ればいい?」
男の言う意味がわかりかねて問うと、「そうです」と男は変わらぬ笑顔で答える。

「正直なところ申し上げますと、貴方様にちょろちょろされるとこちらの家の者としてはかなり困る。秘密というのは必ずどこからかばれるものですからね。既に御近所で噂になっているでしょう?」

噂とは、おそらくあの妾がどうのこうのという事だろう。
案外あの噂は外れていなかったという事か。 それなら納得がいく、と景伊は思った。

自分の父親というのは、よくは知らないが世の中ではそこそこ地位のある者らしい。
それが何故か、庶民でしかない自分の母親に手を出した。きっかけは知らない。
その事実が向こうの家に知られていたのかはよくわからないが、母は自分を身籠った後姿を消した。 向こうの家にしてみれば、それはあまり知られたくない事実なのだろう。

それなりの立場を持った男なら、自分の母親を側室にでもすればよかったと思うが、それは許されない何かがあったのだろうか。
母親の身分の問題かなにか。
ともかく彼らは、自分を連れていく事で下手な噂が立たないようにしたいのだ。
そこには感動の再会だとか親子の情だとか、そんなものは関係ない。
そういったものへの期待がないわけではなかった。 突然出て来た「父親」という言葉に対して、わずかに心の内にあったそれが、しわしわと萎んでいくのがわかった。
甘い話などではない。
正直に話す男に苛立ちはしたが、少し感謝もしていた。
向こうの本音はよくわかった。
事情も知らずについて行って裏切られるよりはいい。

「……生かして連れて行くなんて、無駄じゃないんですか」
「おや、貴方はご自分が死んだ方がいいと思っていらっしゃる?」
「……お金がかかるでしょう?」
「そこはまぁ、お金持ちの考えですよ。まだ子供の貴方様を殺してしまえと言う話もないわけではなかった。しかしやはり良心の痛む事ですからね。これは御父上の善意ですよ。命は保障します。未来は保障できませんが」
「……行きたくないと言ったら、どうなるんでしょうか」
「連れて帰るのが私の役目ですからね。多少乱暴になるかもしれませんが、言う事は聞いてもらいますよ」

言いたい放題言ってくれるこの笑顔の能面男は、景伊が言う事を聞かないとは思っていない。
行くと言わなければ、どんな目にあわされるのかわからなかった。 しかし今の話を聞いた上でその家に行ったところで、自分が得る事ができるものなど何もない。ただ命が保証されている。しかしそれも、いつころりと考えが変わるかわからない。金持ちの気まぐれ、というやつかもしれない。


邪魔になったら、きっと自分は消される。

「逃げても無駄ですよ。来ているのは私だけではありませんからね」
「……逃げるつもりはありません。すぐたてます。母の事だけは、お願い致します」
「貴方は、利発な方ですね」
能面男は少し感心するように言う。
「そうやって素直に言う事を聞いていれば、命まで取られる事はありませんよ。御父上は悪人ではありませんからね」

悪人ではないのかもしれないが、ろくな男でもないだろう、と景伊は思った。
それがまだ見ぬ父に感じた、初めての感情だった。



城だ、と感じたその家の敷地は、外から見た通り広大なものだった。
その中で居場所として案内されたのは、庭の隅にある土蔵のような建物。
中は暗い。随分上に格子の入った窓がある。そこから光が入り込み、宙を舞う埃がきらきらと輝いて見えた。
わずかな土間と、黒い木の床。
物置にしては物がない、と思った。

「貴方の居場所ですよ」

見上げる景伊に対し、能面男は笑顔で答える。
「布団は上にありますし、奥には厠もあります。食事は決まった時間に運びますし、ある程度必要な物があれば伝えてくださればご用意できます。ただ一つお約束が」
能面男は、景伊の背をとん、と手のひらで突いた。
つんのめった体は、木の床に膝をつく。
何を、と背後を振り向くと、男が扉を閉めながら、最後まで変わらぬ調子の笑顔で笑っていた。

「ここから出ない事が条件です」

言い終わると同時に、重い土蔵の扉は閉まり、辺は暗くなる。
がしゃん、と何か金属音がした。扉を動かそうとしてみるが、戸は開かない。
外から鍵を閉められたのだとわかった。
男は、ただ居ればいいのだ、と言っていた。
(……こういう事か)
景伊は開かない扉から離れ、壁にもたれるように座り込んだ。
命は保証する、と言っていた。未来は保証できないと言われた。
自分はこのままなのだろうか。いつまで?
死ぬまでここにいろと言う事か?まだ、父の顔も見ていない。
座り込むと、猛烈な脱力感が襲って来た。

母も死んで、自分は独りだ。

守ってくれる人はいない。ここの家の人間は、皆自分を邪魔だと思っているだろう。
出して、と叫びださなかったのは、そんな気力もなくなっていたからだ。
自分で思うよりも神経はすり減ってしまっているようだった。
膝を抱えて壁にもたれながら、景伊は顔を膝に埋める。
どうしようもなく疲れていた。
本当は泣きたかったのに、疲労で涙も出なかった。


そのまま眠っていたのだと気付いたのは、辺が夜の闇に包まれた頃だった。
頭上の格子窓から、月の明かりが僅かに室内の様子を照らしている。
夜の空気は少し肌寒い。
ぶる、と体を震わせて、景伊は立ち上がろうとした。確か、布団があると言っていた。 この土蔵は二階建てになっているようで、奥にはしごに近い角度の階段がある。その上だろうか、と腰を浮かせたときだ。

自分の衣擦れの音と呼吸音くらいしかしない静けさの中で、外で何か砂利を踏むような音が聞こえた。

自分がどれだけ眠っていたのかわからないが、深夜には違いない。
気のせいかと耳を澄ますと、確かに誰かの足音らしきものが聞こえる。しかもそれは、こちらに近づいて来ているようだった。
慣れぬ室内に、今まで住んでいた場所と全く異なる空気。
暗闇。
ぞくり、と背筋が震える。
こんな時間に目を覚まさなければ良かったと思った。しかし目は完全に冴えてしまっていて、これは夢だとも思えない。
足音はさらに近くなる。
通り過ぎればいいと思った。しかしその足音は、この土蔵の目の前で止まったようだった。
静かに、身動きをしないように耳を澄ます。

こん、と扉を叩くような音がした。

誰かがこの扉を隔てた向こう側にいる。
景伊は這うようにしながら、土蔵の戸へと近づく。

「……何か御用ですか?」

躊躇ったが、声をかけた。足音から、迷う事なくこの土蔵へ近づいて来た事は間違いないだろうと思った。
しかしこんな真夜中に家人が庭を出歩いているとも思えない。
決まった時間に食事を運ぶから、と能面男は言っていたが、まさかこんな夜中にそんな事はしないだろう。
自分がここにいる、とどれだけの人が知っているのか。
この夜の闇に紛れて、まさか殺されてしまうのでは、という思いも浮かんだ。
命は保証すると言われている。しかしそんな事、口からでまかせだと言えない事もない。
怖い。
心臓がばくばくと鳴る。

「……起きているのか?」

しかししばらくの間の後返って来た声は、そんな景伊の不安を煽るものではなかった。
若い男の声。
そこには単純に、こちらの様子をうかがっている気配があった。
かたん、と扉が動く。

「開かないのかここ。……あぁ、鍵かかってるのか」

男は一人で喋って、一人で納得している。
あの能面男の声とも違う。誰だこれは。
景伊は恐る恐る、扉へ近づいた。その扉に耳をあてるようにすると、扉を隔てた向こう側に確かに誰かがいる気配がする。

「……どなたですか?」

震える声を抑えて、景伊は扉に向かって呟いた。

「そこにいるのか?」

言葉が重なった。
驚いて、思わず扉から身を離す。
誰だろうこれは。あの能面男のような苛立ちを覚える話し方ではない。
声も違う。全く知らない声だった。

「……寝れてない?」
「さっきまでは、寝てましたけど」
そう答えると、扉の向こうで少し笑う声がした。
「起こしてしまったなら、悪かった」
「いえ、そういうわけじゃ」
「別に俺は、お前に何かしにきたわけじゃないから、安心してほしい。お前の話を聞いて、話してみたくなっただけだから」
「……この家の方ですか?」
「そうだよ」

こちらが子供と知っているような、優しい声だった。

「ここから出たいとは思わないのか?」
「……」
景伊は少し考えた。
ここは嫌だ。こんな暗くて寒い、外の様子もわからないような空間。
しかしこの中にいれば、自分は傷つけられる事はないだろう。相手が鍵を持って、この扉を開けて乗り込んで来ない限り。
はなから自分を煙たがっているこの家の人間と、うまくやれるとも思えなかった。

「……わかりません」

しかし考えたところで、ここしか行く場所がなかったのも事実だ。

「……そうか」

扉の向こうの男は少しの間の後、そう呟いた。
「今日はもうゆっくり休めよ。こんな時間に悪かった」
「あの」
去ろうとする気配の男に、景伊は呼び止めるような声を出してしまった。
「……」
「どうした?」

男が怪訝な声で問いかけてくる。
景伊は迷ったが、それを口にする事にした。

「また、話してくれたら嬉しいです。時々でいいから」

正体のわからない男。
それにすがりたくなるくらい、自分は人恋しかったのだと思い知る。
扉の向こうの男は、自分のそんな情けない言葉を受けて、小さく笑った。

「いいよ。また来るから、それまで元気で」

そう言うと男は扉から遠ざかったのか、砂利を踏む足音が少しずつ遠くなった。
相手が誰なのかは知らないが、この家の住人。

また来てくれると言った。

それだけで景伊の心に安心感が生まれていた。
誰でもいい。
誰でもいいから、自分をなかった事になんてしないでほしい。
まだ息をしている。まだいろいろ考えている。


次の日から、少しだけ期待が生まれた。
この土蔵に来てから持った事のない感情だった。
布団に包まって、朝昼は意外に明るく差し込む頭上の窓からの光で目を覚まし、する事もなく足を投げ出して、壁にもたれて座る。
確かに決まった時間に食事は届けられた。
人は通り抜けできない、猫の出入り口のような開き戸があって、そこから食器の出入りはされた。

飼われているんだな、という感覚は消えない。
毎日えさを貰う、鳥かごに押し込められた鳥と同じだ。
人が構わずとも、鳥はそれで生きて行けるんだろう。

じゃあ、自分は?

人は人から構われずに世話だけされていたら、どうなるんだろう。
ここに来て一晩しか経っていないのに、人恋しさで死にそうだった。
誰でもいいから人の声を聞きたい。話をしたい。
だから、昨日の夜のあの男が来るのが待ち遠しかった。
何でもいい。自分と、話してくれるならそれで。


その日の夜。
昨日と同じ、夜の闇も深まった頃だった。
こつん、と扉が鳴る。
扉の近くでうとうとしていた景伊は一瞬で跳ね起きた。
あの男だと思った。
今日も来てくれるとは思わなくて、慌てて扉へ駆け寄る。
「あの」
こういうとき、なんと声をかければいいのか、景伊にはわからない。
「慌ててるけど大丈夫か?」
外から笑みを含んだ声が聞こえる。

間違いない。昨日の男だ。

その男は何か外でしているらしく、がちゃがちゃという金属音が聞こえる。
「……何をしてるんですか?」
「ん?鍵。この土蔵の鍵、どれだろうと思って鍵束持って来たんだが…これじゃないな。どれだよ」
じゃらり、という音が聞こえる。
この男は、扉を開けようとしているらしい。

ちょっと待て、と景伊は思った。

「だ…駄目ですよ、叱られます」
「知るかそんな事。閉じ込められてるのはお前だ、自覚しろ。……はまらんな、どれも」
男の舌打ちが聞こえる。

この家の人間は自分をここから出す気はないのだ。わかりやすい鍵束に、この土蔵の鍵が付けてあるとも思えない。
鍵自体捨ててしまっている可能性だってある。
それか、あの能面男が管理したままなのか。

「開かないと思います、それ」
「いや、開くよ。ちょっと待ってろ」
男は錠前に何かしているようだった。
ガリガリと何か引っ掻き回しているような気配がする。暗闇の中、小さく奇妙な音が鳴り続ける。
しばらくその音が続いた後、がちん、と弾けるような音がした。
「…開いた」
男の呟きとともに、重い土蔵の扉が開いた。


砂利が挟まっているのか、がたがたとした動きで扉が開く。
景伊は固まっていた。
話しに来てくれたと思った男は何を思ったのか、いきなりこの土蔵の扉を開けてみせた。
重い扉を開けて現れたのは、若い男。
暗闇ではっきりとした顔立ちまでは見えないが、背が高い男のようだった。

闇に溶け込みそうな、黒い紋付に袴姿。
男はこちらを一瞥すると、外に置いていたらしい、蝋燭立てに刺さった火のついた蝋燭を土間に置き、扉を閉める。
周囲はぼんやりと暖かな色調の光に包まれた。

「……お前、いくつだ?」
「……え」

その若い男の言葉の意味を、景伊はわかりかねていた。
こちらを見る、よく見るとかなり精悍な顔をした若者は、少し小首を傾げているように見えた。
「……七つ、です」
「そうか」
そう言うとその若い男は、景伊と目線を合わせるように床へ座り込んだ。
「話す言葉がしっかりしているから、もう少し大きいのかと思っていた。七つか。小さいな」
「貴方は……?」
「俺の名は長棟義成という。お前と兄弟……になるのかな」
「きょう……」
兄弟、という言葉に、景伊は青くなって跳ね上がりそうだった。
この家に、父の息子と娘が一人ずついるというのは既に聞いている。
と言う事は、この目の前の若者は、この家の長男だ。

自分の異母兄、という事だ。

「あの……ごめんなさい……!」
そう思えば、自分はかなり失礼な口を訊いたのではないかと思い、震え上がった。
そうだと知っていれば、「話しに来てくれ」なんて言わなかったのに。

「……何で謝るんだよ。そんなに怯えないでくれるか。俺は別に、お前を威圧しに来たわけではないぞ」

義成の方は特に何かを思っている様子でもなく、後ずさる景伊に対して呆れを含んだ口調で言った。
「俺が入り込んだのも俺が勝手にやった事だ。お前が気にする事じゃない」
「鍵……」
「ん?」
「ここに居る間に、外から鍵閉められたら。貴方も出られなくなってしまう」
「それは困るな」
義成は言葉に反して、困っている様子もない。
逆に笑みさえ浮かべている。

「どうやってここ、開けたんですか?」
どれもはまらなかったらしい鍵束は、蝋燭の側に投げ出してある。
「あぁ…これで」
そう言って兄が見せたのは、一本の針金だ。
「これで、錠前の中をちょっといじくって」
「何で……」
何でこの家の言わば「若様」がそんな芸当を持っているのか。
「子供の頃に近所の子供達でつるんで、蔵の鍵とか開けて遊んでいた。よく怒られたけどな」
しれっと語るこの兄は、年齢の割に落ち着いた風貌とは逆に、かなりやんちゃな一面も持っていたらしい。
「まぁ、よろしく頼むよ。……あぁ、名前。聞いてなかったな」
「景伊、と言います」
「随分変わった名だな」
かげい、と口の中で義成は景伊の名を呟く。
自分でさえ思う。何でこんな名前なのだろう。もっと普通の名前が良かったと思うのだ。
しかしその名くらいしか、今の自分が持っている物はない。

「よろしくな、景伊」

兄の差し出した手を、景伊は恐る恐る握り返した。



「まだ父上の顔を見てない?」

景伊の言葉に、義成は眉を寄せた。
自分は父親を知らない。どんな男であろうが、顔を見てみたかった。
しかしそれを伝えると、義成の表情に不機嫌なものが見え始める。
自分は言ってはならない事に何か触れたのだろうか。

「……あの人は、会わんよ。職務で忙しいだの言うが、ほとんどこの家には戻ってない。どうせまた、余所の家で女囲ってる」

俺も最近顔を見てない、と義成は言う。
「俺は嫌いなんだ、あの人の事は」
そう吐き捨てた義成は、横で気まずそうな顔をしている景伊に気付いて「……すまんな」と言う。
「一応有能な男ではあるよ。それは認める。だがあの人の女癖の悪さは病気だから。だから余所に子供がいるって聞いたときも、驚かなかった」
兄の言葉に、景伊はうつむいた。
何不自由ない生活をしているだろうこの若者も、それなりに同じ父親に対して、複雑な思いを抱いている。
それを考えれば、彼が自分に敵意を抱いてもおかしくはないのだ。

「でも、お前に罪があるわけではないよ。逃げるなら今逃げろ。お前、このままでは良くない」
「俺が逃げたら……貴方が逃がしたって、ばれたら」
「俺の事は別にいい。叱られ慣れてる」
「え……」
「あの人達に言わせれば、俺はどうしようもない不良息子なんだそうだ。言う事聞かないし、夜中に出歩いたりな。やる事はこれでもきちんとしているつもりなんだけど」

景伊は、義成の言葉にあっけにとられる。
目の前の男は誠実そうで、遊び人だとは全く思えない。
確かに謎の鍵開けの技術を持っていたり、普通の型にはまった御曹司ではなさそうなのだが。

「だから、逃げるなら協力する」
「何で、そんなにしてくれるんですか」
「俺とお前は母親が違う。でも、同じ親父の事で苦労するのを見たくはない。特にお前みたいに小さな子供が。この家の人間は皆頭おかしいぞ。家の名家の名って、それしか言わないんだ。だからどんなに中がぐちゃぐちゃになっていても、外面が良ければそれでいいと思ってる。お前はそのくだらん外面の為に犠牲になる気か?」
「……でも」

景伊は兄の言葉に押し黙った。
兄の言葉は魅力的だった。ここから逃げて、この暗闇から逃げて。

でも、そうしたら?
ここに来る前に現実を考えた事を思い出す。
他に頼れる人などいない。どこへ逃げるというのだ。
この家で自分の扱いがどうなるか、全く聞かされていなかったわけではない。
きっとろくな事にはならないだろうと思っていた。
それでも、ここにいるしかない、と思ったのだ。自分は。


景伊は黙って、首を横に振った。

目の前のこの人のように大人だったら、違う行動もできるかもしれない。
ここに来る事への拒否ができたのかもしれない。
今は無理だ。
暗闇と孤独から逃げる事は、野たれ死ぬ事だ。
漠然とまだ、死にたくないと思っていた。

「……そうか」

義成は失望しただろうか。景伊は顔を上げて、兄の顔を見る事が怖かった。
「気が変わったら、いつでも言え。……お前にはまだちょっと、難しかったかな」
うつむく景伊の頭を、義成が撫でる。

「……逃げれるものなら、俺が逃げてしまいたいよ」

兄の小さな呟きに、景伊は恐る恐る視線を上げた。
彼の言った言葉の意味が、よくわからなかった。
兄はただ、申し訳なさそうに笑うだけだった。



あのとき、逃げていれば良かったのか。
そうすれば、あんな事は起きなかったのか。
兄も、変わらなかったのか。

今更考えてもどうにもできないが、その思いだけは景伊の心にずっしりと重くのしかかっていた。
今になって、兄の言いたかったこともわかってきた。
自分の歳が、もう少し兄と近ければ良かった。
そうしたらあのときの兄の気持ちも、もっとわかったかもしれないのに。

錆びついた錠前から手を離す。かたん、と扉に当たって、軽い音を立てた。
今でも兄は、この鍵を外せるだろうか。

俺はお前の味方でいる、と言ってくれた義成。
その言葉は嬉しかった。死ぬほど嬉しかった。
(あのとき、光をくれたのは貴方だ)
ここにいた間、兄の存在がどれだけ自分の助けだったか。
あの後も彼は、自分の様子をこまめに見に来てくれた。合間を見て字も教えてくれたし、風邪をこじらせて死にかけたときは医者も呼んでくれた。その後自分達の交流が家人にばれて「もう会うな」と言われても、兄は変わらず自分を構った。

それがどれだけ自分にとって特別だったか、きっと本人は知らないんだろう。

確かに、自分は歪んだ育ち方をしたかもしれない。
あの家は好きではないし、この土蔵も戻りたいとは思えない場所だ。
それでも、この家で兄と会えた事は自分にとってかけがえのないものだった。
あんな結果にはなった。あの人が自分を斬った時、何故信じてもらえないのかという憤りは確かにあった。
……それでも嫌いにはなれなかった。
定信は自分をお人好しだと言う。そうなのか、よくわからない。
でもきっと自分の身に起こった事よりも、受けた恩の方が遥かに大きいと感じているからだと思う。

周囲の人間がどれだけあの人を煙たがろうが、自分も最後まで、あの人の味方であろうと思った。
恩の返し方はよくわからない。だから自分も弟を名乗る限りは、あの人の力になり続けようと思った。

景伊は深い息を吐いて、目の前の土蔵を見上げる。ここから出る事はないかもしれない、と思っていた離れ。

外には出れた。
まだ、野垂れ死にはしていない。だが相変わらず誰かに頼ってばかりの自分は、一人で立ててはいないな、と思った。