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二人の兄貴

08  山とウサギ

山の中は静かだった。

日も暮れ始めた山の中を、目の前の猟師は迷いもなく進んで行く。
定信の目には、人の歩く道なのか獣道なのかわからないような場所まで、彼にとっては通り慣れたもののようだった。

 「随分慣れてるんだな」

 太助の歩みは早い。離されないように藪をかきわけ、必死に追う。
「子供の頃から山が遊び場だったからねぇ。この辺りは庭みたいなもんさ」
笑いながら言う太助の言葉は嘘ではないのだろう。

 「先生、もうちょい頑張ってな。すぐそこだからさ」
太助は軽くそう言ったが、目指す炭焼き小屋が見えてきたのは、それからかなり歩いた後の事だった。



 外に薪が積まれた、粗末な小さい小屋。

山の木々に囲まれたそこは、暗く不気味な気配が漂っていた。
多分定信一人では、入るのを躊躇する様な、そんな雰囲気。
入んなよ、と言われて中に足を踏み入れると、突然足下で何かがむくりと動く。
驚いて下を見ると、ふかふかとした密度の濃い茶色の毛皮の動物がいた。
……犬だ。猟犬だろうか。
ピンと立った耳に、長い鼻。野性味あふれた狐のような風貌をしている。
その犬は定信をちらりと見上げるが、そのまま無視するかのように丸まって目を閉じた。

 「何、犬苦手なのか?」
避けるように歩いたのがばれたらしい。
「…少しな」
ばつが悪そうに、定信は答えた。 犬は子供の頃に噛まれて以来、苦手だ。
「人は噛まないと思うから大丈夫だよ。まぁ、適当に座ってくれ」
太助はそう言うと、火をつけ明かりを灯す。
暗い小屋の中が、ぼんやりと浮かび上がった。

干し肉や米、酒などの保存食や布団など、ここで寝泊まりしているような様子がある。聞けば今はここを拠点に炭を焼いたり、猟をしたりして暮らしているらしい。

 「……聞いてもいいかな」

定信の声に、太助がこちらを見る。

「村の事か?それとも山の?」
「どちらもだけど。……この三年で、何があったんだ。あの村、すっかり廃村じゃないか」
「まぁ、もともと七世帯くらいしか住んでなかったがね。年寄りばっかりだったし」

太助は火を枝でいじっている。 火の付きがあまりよくないらしい。

「俺も、夢か本当にあったのか、はっきりとはわからないんだが」
火を突きながら、太助がこちらを向く。
 「去年の暮れくらいかな。俺の枕元に、あの山神様が立ったんだわ」
「山神…」
 「覚えてっかな?何て言うか…髪も真っ白、目も灰色の若い男姿の。先生も見たろ」

 言われなくても覚えている。 利秋の屋敷であれと遭遇したときの驚きは、未だに忘れていない。
血塗れだったというのにも驚いたが、それを抜きにしてもすぐに「普通じゃない」とわかった。
「アレ」とは全く別の恐怖。 あの山神は目の前で、景伊を連れて消えた。
それを追って、自分達はこの地へ来たのだ。

「俺がこの小屋で一杯やって寝てたときだから、もしかしたら夢なのかもしれねぇ。でも、夜中に気配がして急に目が覚めた。そしたら、ちょうどあんたが座ってるあたり。そこに、あの山神様が立ってた」

い、と定信は腰を浮かしかける。

 「その反応だよ。俺もびびってさ。入る山、間違えてたかと思った。ここは「アレ」が出るところじゃないのにさ。俺もついに神様に体取られちまうのか、酒もうちょっと飲んどきゃ良かった、と思って覚悟した」

あの山神は「アレ」と山で争っていた。
その山神も人に対して決して善いものというわけではなく、山に入ると体を取られてしまう、と言い伝えがあるもの。
この土地の人間は信仰と同時に恐れも向けていた。

 「お前らと見た時と、顔は変わってなかったな。若い男。怪我もなくて、ただ青白い顔してた」

しかしそれは、ただ部屋のすみに静かに立っているだけだったので、そのとき太助は酒が入っていた勢いもあり、話しかけたらしい。

「何をしているのか」「あんたの山じゃない」「何か俺に用なのか」と。

酔ったノリってのは怖いよなぁ、と頭をかきながら太助は言う。

 「そしたら、山神様は言った」

山は終わる。
 毒は置いたが、アレらが食らうかわからない。
  土地から逃げよ。

「そう言って、いきなり消えた。俺もおったまげて、夜が明けてから逃げるように山を降りたよ。そしたらさ、村の人間のほとんどが同じものを見てたんだ」

お告げだ、と騒ぎになったらしい。
数世帯しかない小さな村でのみ信仰されていた、山神のお告げ。
周囲の村と付き合いはほとんどなく、保守的に生きてきた住民たちはそれを信じて、慌てて土地を捨てて逃げた。
その結果があの村の有様、という事なのだろう。

「何であんたは逃げなかったんだ。村の近くにいたって事は、時々帰ってるんだろ?」
定信の問いに、太助はそうだねぇ、と煮え切らない呟きを洩らした。
「……俺は山での生き方しか知らんし。逃げろと言われてもあてがあるわけでもなし。もちろんあの山にはもう、入る気も起きないんだが」
ただ、と太助は付け加える。
「住民全員にそんな事を告げに、山から降りて来たんだ。山神様は多分、負けたんだろ。アレに」

……負けた。 あの山神が。

 だとすれば、彼があの山で生存競争をしていた生き物はどうなったのか。
そして、山を管理するように存在していた村も、今はない。
山も荒れ、村も荒れ。そこにいたものはどうなったのだろう。
前回自分達が遭遇したアレは一個体だとしても、あの山には沢山の不気味な気配があった。
それらが皆、自由になっていたとしたら?

「この辺で何か妙な事って、それから起きているのか?」
「……変な事、ねぇ」
太助は立ち上がると、「ちょっと待ってな」と言い、小屋の外に出た。
しばらくした後、戻って来た彼の手には、麻袋がある。それは中に何か入っているのか、もぞもぞと動いていた。
「何それ……」
不気味に思い、定信は顔をしかめる。
「獲物だよ。今日、罠にかかった」
太助は麻袋の中に手を突っ込む。引っ張りだされたのは、足を紐でしばられた、大きな野ウサギ。
町中で育った定信は、生きた野ウサギを初めて見る。
ウサギはぎいぎいと、気味の悪い声を上げて暴れ、抵抗している。

「……どうするんだよ、それ」
「見てればわかる」

太助はウサギを手に持ったまま、鉈を手に取る。
おいちょっと待てよ、と定信が言う間もなかった。
太助はためらいもなく、ウサギの首に向けて鉈を振るった。
うわ、と定信は目を反らそうとしたが、目に入って来た光景に、逆に釘付けとなった。

ウサギの首は落ちたが、血が出ない。
いや、わずかに血は滴っているが、首を斬られたにしては出てくる血の量が少なかった。
逆にぱらぱらと白い粉が断面から崩れるように落ちて来る。
「先生、これ」
太助は切断面を定信に見せた。
通常の肉の部分とは違い、一部が白くぽろぽろとしたものになっている。
病変だろうか。それにしては……。
ためらいながら触れようとすると、白い部分がひく、と動いた。
「何だこれ…」
定信は顔を歪め、呆然と呟いた。
ぼろり、と粉と共に、白い紐のようなものが肉の中から這い出してくる。
それは目のまでウサギの体から這い出すと、ぼとり、と地面に落ちた。
太助は地面で身をくねらせるそれを躊躇なく踏みつけると、鉈で叩き切った。
しばらく動いていたそれは、少しずつ弱り、動かなくなると…溶けるように消えてしまう。

「…な。最近、山の生き物に妙な虫がいるんだ。気味が悪いだろ」
仕事にならねぇ、と太助は悪態をつくと、虫の消えた辺に酒をかけて清めはじめた。
「……寄生虫?」
「多分。ガキの頃からこの土地で猟師やってるが、こんな虫は見た事なかった。山の獣に虫がいるのは、珍しい事じゃねぇんだが」
「いつから気付いた」
「今年かな…。山神様の夢見てから、こっちはおかしい事ばっかりだ。猟師廃業かもしれんね」

定信は、ウサギの首の切断面に再び目をやる。
不自然に白くなった部位。
ぽろぽろとした、乾燥した粉のようなもの。

あの戻って来た人々が、消える前に残したという粉と、話で聞く限りは似ている気がする。
そして、ウサギの体から這い出した寄生虫。
このウサギについてはわからないが、患者に共通した虫刺されがあった。
何かに刺された事をきっかけに、この虫に寄生されていたとしたら?。

「……太助さん。あんた、これが山のアレと関係あると思うか?」
「そう考えるのが妥当なんじゃねーの?元々アレは肉好きだろ?獣の体内食い荒らしてるんだぜ、こいつら」
「……食い終わったら、あの虫はどうなる…?」
定信の呟きに、太助が嫌な顔をしてこちらを見る。

「ばーんって出てくるのかもしんねぇよ?いるじゃねぇか。そういう、青虫につく虫」
「青虫?」

悪い冗談のように言う太助に、定信は真顔で問う。
「んな事も知らねぇのか医者先生は。春先にさ、畑の野菜を食いまくる青虫。それに卵産みつける蜂がいるんだよ」
「……それ、どうなるんだ」
「青虫は死なない。普通に成長を続ける。でも体内で蜂の卵も孵って、青虫が死なない程度に中を食いながらでかくなっていくんだよ。で、青虫がさなぎになる前。体破って、蜂の繭が出てくる」
「……なんか嫌な話だな」
「まあね。そうだったら嫌だな、って話だけど。青虫の大きさならともかく、獣でやられちゃ怖いよなぁ」
「……」
定信はウサギの死体を見ながら、考え込む。
これは新種の寄生虫なのか。
しかし太助が鉈で斬りつけた後、溶けるように消えた。
その消え方は、景伊と出会った日、利秋に化けたアレが消えたときと良く似ている気がした。

景伊にはすぐ戻るからと伝えているが、中途半端に新たな手がかりを掴んだ以上、このまま戻るわけにはいかない。
義成の状態も心配だ。しかし患者を置いて来た以上、確かな何かを掴まねば帰れない。
元はと言えば、この土地のアレと関係ない、という事を確かめたくて来たと言うのに。
体の中から粉をこぼす獣を見ては、可能性を捨てるどころの話ではなくなってしまった。
僅かな前進なのかもしれない。
だがこれは、一番関係しないでほしい事だった。

(あいつら、大丈夫かな)

景伊には義成の側に付いておけと言ったが、おかしな事にはなっていないだろうか。急に不安になってくる。
義成の事を信用していないわけではないのだが、大丈夫だろうか、という思いは尽きない。
(景伊に何かしてやがったら殴る)
でも勝手に死んでても、殴る。
そんな自分勝手な焦りだけが生まれた。

あの男は罪を感じていた。
弟の体に消えない傷を残した事を。誤解だったとは言え、手酷く傷つける言葉を吐いた事を。
あの男と話した事で、それがわかってしまった。
今でも、その弟の事を大事に思っている事も。
……知らなければ良かった、と思った。
「あいつは血も涙もない奴」と思っておけば、それに気付きさえしなければ。
景伊がいくら心の内で義成の事を心配していようと、行動に移さない事を叱る事なんてしなかったのに。
会ってちゃんと言いたい事を話せなんて、言わないですんだのに。
本当に和解なんてしたら、景伊は帰ってしまうかもしれないのに。

(……馬鹿じゃないのか、俺は)

どうしようもない嫉妬だと思った。
こんな心の狭い人間が医者だなんて、笑わせる。
人を助けたいだなんて、笑わせる。

景伊が喜ぶのは嬉しい。
笑う所が見れるのは嬉しい。
でも自分の手を離れるのが嫌だなんて、そんな。

「……太助さん。そのウサギ、貰ってもいいか?」
「いいけどどうするんだよ。こんなの食えねぇぞ」
「腑分けする。体の状態調べたい」
「えー…えげつねぇな、医者ってのは」
「あんたらも獲物ばらすじゃねぇか。同じだよ……あともう一つ頼みがあるんだが」
「何よ」
「さっきの虫がいそうな獣、もう一匹生け捕りにして来てくれねぇかな」