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町に潜む獣

19 共に歩む(完結)

定信はそれから、今まで以上に仕事に没頭するようになった。
今まで以上に医術の腕を上げたいというのもあったし、「寂しい」と思う暇をなくしたかったのかもしれない。
怪我人病人相手に朝から晩まで時間を割いて、己の時間というものはほとんど持たないようにしていた。
定信がそうして駆けまわる間に、長年不安定になっていたこの国の「頭」が変わるという大事件も起きたのだが、定信の生活にはさほど影響を及ぼさなかった。
医学以外に目を向ける事もなく、ひたすら働き続けていた。


それから何年かして、定信はひっそりと町を出た。

前々から悩んではいたのだが、あの山のふもとの村へ、生活拠点を移す事に決めた。
問題は住むところだ。縁もゆかりもない場所でこれから暮らそうというのに、あてはない。
その頃たまたま、自分たちを訪ねて来ていた太助にそうこぼすと、「じゃあ俺んち使う?」とあっさりと住処は決まってしまった。
「……居候ばっかりしてますね俺」
そう、村への道で定信がため息をつけば、太助は笑った。
「まぁいいよ。医者が来るってならみんな喜ぶし。家は好きに使えよ」
あの廃村になりかけていた小さな村は、余所から新しい暮らしを求めてきた人々がほとんどだ。もといた村の人口よりも多いかもしれない。余所者ばっかりだから、かえって馴染みやすいかもよ、と太助は笑った。
荒れていた田畑は時間をかけて農地として甦り、新しい家もできた。
それは全て、この村の山向こうにそれなりの鉱脈が発見されたという恩恵だった。
鉱脈が出たのは随分山深いところらしいのだが、そこから町へ下りるには、こちら側の山を下ってくる方が安全で、何より近い。問題の山は回避するかたちで、山越えの道は整えられたが、定信たちが危惧していた、山に潜む「アレ」らの被害と言うのは、今のところ聞かなかった。

「神様が頑張ってるのかねぇ」

その家の庭先で、太助が煙草をくもらせながら言う。 太助は未だに農業と猟師を兼ねていて、時折山に入り何日も戻らない事がある。
彼は近くの山をうろつくうちに、「山の雰囲気が以前と異なる」と感じているらしい。
「獣が増えたし、暗さも消えたな。あと、ここらの土地、痩せててどうしようもなかったんだが、米も野菜もごろごろ採れるし……なんか変わったな、と。神様が戻った影響か、力も取り戻しつつあるのか」
以前定信たちが訪れたときは、随分と陰気な雰囲気を持つ土地だった。
その頃の様子を知るのは太助のみとなってしまったが、彼は時折、新しくやってきた村の住民たちを眺めながら、物思いにふけっている。
「何事もないってのが、奇跡みたいだな」
その言葉に、定信も頷く。
何事もなさ過ぎて、自分達は不気味な夢を見ていたのかと思うほどだった。
ここでは人々が賑やかに暮らしていて、物の怪だとかなんだとか、そういったものとはまったく関係のない世界に見える。
だがあれが夢だとしたら、景伊の存在も夢だったという事になる。
「……そういえば先生」
煙を吐き出しながら、太助がにんまり笑ってこちらを見た。
「あんた、この村の連中になんて言われてっか知ってるか?」
「……なんです?」
定信は首を傾げた。
「あんたが嫁も貰わず、こんなくそ田舎まで来て医者やってんのは、山で行方不明になった恋人を探してるからだってさ」
「はぁ」
反応に困り、定信は後頭部をかく。
「なんですかそれ。噂になってるんですか?」
定信の言葉に、太助は笑う。
「暇つぶしと興味本位ってやつ?腕のいい先生がわざわざこんなとこ来たんだ。何かあるって皆思ってんじゃないの?ちなみに俺は何も言ってねぇから」
あー、と定信はなんとも言えない声を出した。
恋人。
決して間違っているわけではないのだが、そう言われると妙に恥ずかしいのは何故だろう。
「じゃあ、その恋人ってのはどっから来たんですかね?」
「先生が毎日山見上げてぼーっとしてっからだろ?連中の妄想だが、当たらずとも遠からず、か?」
「……」
周囲に気づかれるほど見てるのかよ、と定信は己にため息をついた。
「でも、ひとつ訂正はしたいですね。そんな綺麗な話じゃないですよ。……俺が待ってるのは、クソガキです」
定信がそう言うと、太助が声を出して笑った。
「そうかね?聞き分けの良いガキだったじゃないか?」
定信も笑いながら、自分の煙管を取り出した。
……最近、煙草を吸う回数が増えた気がする。
「そう言えば、あんた俺が山行ってる間に町帰ってたんだって?皆元気してた?」
「元気すぎるほどでしたよ」
皆、それぞれに変わってはしまっているけれど。
定信は立ち上る煙を眺めながら、自分達が賑やかに暮らした、あの町に帰った日の事を思い出した。


帰ること自体、数年ぶりだった気がする。
帰らないと決めたわけではないが、自分はできる限り景伊の傍にいたかった。
しかし部屋を掃除しているときに、ふと利秋から貰った手紙を見て懐かしい思いにかられた。
以前居候させてもらっていた遠縁の男とは、時折手紙でやりとりしている。
あの家を去ると告げた時、利秋は別に反対もしなかったし、「やりたいようにやれ」と言っただけだった。
確かに、やりたいようにしてきた。
我儘な生き方をしているとは思う。
ここ数年は後ろを振り返らないような生き方をしてきた。その日久しぶりに立ち止まって、あの町での暮らしを思い出した。
その日は用事もなかったし、そうそう戻れぬ遠い場所にいるわけでもない。懐かしい人々の顔を見るくらい、たまにはいいだろうと何故かそう思い、定信は身支度を始めたのだった。


定信はまず、利秋の屋敷を訪れた。
突然の帰還を利秋は驚きつつも歓迎してくれたが、掃除する人間がいなくなったせいか、部屋の中にはあちこち紙屑が転がっている。
「……掃除くらいしましょうよ」
定信は紙屑を拾いながら言う。
「あー……寝る前には片付けるよ」
着流し姿の利秋は、ぼりぼり頭をかきながら笑った。部屋には本や紙くずがあちこちに積まれている。定信がため息をつくと、それがはずみになったのか、本が雪崩を起こした。

あれからこの男も大変だったのだ。
幕府の体制が本当に末期に差し掛かった頃、この男はやっと評価されはじめていた。
旺盛な知識欲を満たす為自己流で身に着けた外国語の能力を買われ、それほど身分は高くはないにも関わらず、利秋はそれなりの役職に抜擢された。
上昇志向の強い男だったからさぞ満足だろうと思っていたが、そう聞くと利秋は渋い顔をして「まぁ、長くはないだろうね」とだけ言った。
何が長くないのか、そのときは定信はよくわからなかった。
この男は遠慮がなさ過ぎて周囲を立てたりといった事が苦手だったから、その職でいられるのが長くない、という事なのかと思っていたのだが、それよりなにより、倒幕というかたちで一つの体制が終わる方が早かった。
ようやく能力を評価されたにも関わらず、それを生かすこともできずに終わってしまったことをこの男は残念に思っているだろうと定信は思ったのだが、本人はこの体制がもう持たないとわかっていたのだろう。ひょうひょうとしたものだった。
それからは元々向いてもいなかった侍に拘る事もなく、今は持ち込まれる英書や蘭書の訳をして生計をたてている。

「お前が医学書とか置いてただろ?あれで助かったわ。悪かったな、勝手に読んで」
「いや、それはいいんですけどね……」
利秋はけらけら笑っているが、定信としては辞書片手に眉をしかめながら読まねばならない本だった。
こちらとしてはいつの間に覚えたのだ、という気持ちだ。
自分とこの男とでは、ものを覚える速度というのが違いすぎる。
「で、学者にでもなるつもりなんですか?」
「俺が学者に見えるかよ」
「学者ってのは、もうちょっと恰幅いいかなとは思いますけど……」
定信は言葉を濁した。利秋はどちらかと言えば貧相な、ひょろ長い男である。
「まぁそれはいいんだけどな。ま、時代が変わって世間が右往左往してるけど、俺は幸いにして家もあるし、手に職もある。で、こうなったら本でも出そうかと」
「辞書ですか?」
定信の問いに、利秋は首を横に振った。
「いや。……小説」
利秋の言葉に定信は思わず……噴いた。
「笑う事はねぇだろうが。俺はわりと本気だぞ。まぁ売れるとは思わねぇから、半ば趣味だけど」
これでもあれこれ考えるのは好きなんだ、と利秋は語った。
確かに頭の回転は速いし、あれこれ思いつく男なので、この男の書く物語というのは案外面白いものかもしれない。
「どういうもの、書く予定なんですか?」
「あー、まだ漠然としか決めていないけどさ。どうせなら、こんなご時世だし、明るくて面白いものがいい。暗いのはいらん」
「まぁ、確かに」
「景伊に読ませてさ、あいつが面白いって言うなら売れるかもな。あいつ、いろいろ読んでるし。やたら片っ端から読んでたから、読んでる冊数でいけば俺より多かっただろう」
本好きだったからなぁ、と利秋は懐かしむように言った。
「……あいつの部屋は?」
定信の問いに、利秋は頷いた。
「そのまんま。いつ帰ってもいいように、たまに掃除したり布団干してるぞ。この俺が」
「……それはすごい進歩だと思います」
「だろ?」
利秋の笑顔につられて、定信も笑った。
この男は要領よく、時代が変わっても自分を崩すことなく生きぬいていくのだろう。そう言う男だ。
そして社会の中で人に使われて生きるよりも、こういった職業の方が利秋も生きやすそうではある。
そんな事を思っていると、利秋がこちらを上から下へと眺めていた。
「……お前は少し痩せたな。飯食ってんのかよ」
「食べてますよ。ただ一人だと、作るのが面倒で」
「それはわかるけどさ。俺だって米炊いてるんだからさ」
「……俺がいなくても生きていけてるじゃないですか」
定信はため息をついた。 確かに近頃、あまり食べれないし体調は良くない。忙しくしていた疲れがたまりつつあるのだろうとは思う。
しかしそれはいいとしても、当初この男に一人暮らしをさせても大丈夫なのかという定信の心配が吹き飛ぶほど、利秋は特に問題なく生きている。部屋が散らかり気味なのは仕方ないとしても、だ。
昔は米を炊くなんて事は考えられなかった。こちらが居候だったからそれくらいするのが当たり前だったとしても、ちょっとくらいやってくれたって良かったじゃないか、という思いは若干ある。
定信の小言に、利秋は笑うだけだった。
「ところでお前さ、あっちに移り住んで、景伊の姿見た?」
「いいえ」
会えるものならどれだけ嬉しかっただろうと思う。だが今あの地域では化物の姿も見なければ、そこにいるはずの山の神の姿もない。
人が食われるような被害がないのだから、またあの神が負けたという事はないのだろう。
もといた山深いところへ追い返しているのか、その身を削ってあの神が無限とも思える数の化物を屠っているのか。
太助もマチを連れて山へ何度となく入るが、それらしき気配もなく、マチも反応しないのだと言っていた。

「たまにはさ、山に向けて『早く帰れよ馬鹿野郎!』とか叫んでみろよ。顔くらい見せるかもよ?」
「……んな事できませんよ」
祟られそうで、と定信は笑う。
利秋と話していると、当時の暮らしの事がありありと思いだされた。
こうして三人で、くだらない事をよく話していた気がする。
景伊はあまり話に入ってくる方ではなかった。どちらかと言えばこちらの話を、面白そうに聞いていた印象が強い。
利秋も同じことを思うようだった。
「……元気にしてりゃいいんだが」
定信の顔を見て、少し寂しげに言った。


その日は泊まらせてもらう事にして、定信はもう一軒、懐かしい家を訪れる事にした。
利秋の屋敷からしばらく歩いて着いたその屋敷は、遠目にも存在感を持つ。
相変わらず無駄に大きいと思う。白壁の塀をぐるっと回って、定信はその屋敷の門を叩いた。
この屋敷の当主の近状を、定信はなんとなくではあるが、利秋の手紙で知っていた。
しばらく待っていると、門が開いた。だが出迎えたのがその家の「妻」であった為、定信は驚く。

「お久しぶりです先生。お元気そうで」

定信が口を開くより前に、その女性は笑顔で告げ、深々と頭を下げた。色白で童顔な女性だった。
「……こちらこそお久しぶりです」
定信も頭を下げて言う。そのあと、何か言った方がいいだろうとは思ったのだが、気の利いた言葉が出て来てくれなかった。
少し無言できまずい顔をしているこちらを、佐知子は微笑んで見上げている。
「中へどうぞ。主人もちょうど、いますので」
こちらの気まずさをよそに、佐知子は家の中へと定信を案内する。
「……あの」
先を行く佐知子の背に、定信は声をかける。
「ご結婚、おめでとうございます。今更かもしれませんが」
そう言うと、佐知子は少し、頬を赤らめた。
「……そう言えば先生にはいろいろ、恥ずかしいところ見られてましたね」
あの過去は消したいところです!と手で顔を覆いながら早口に言って、佐知子は小走りで義成を呼びに行った。
その姿を見て、定信は少しだけ笑った。
あの日、この家の堀を賊さながらに乗り越えて、義成に会いに来た、箱入り娘。
景伊もあの人なら、と言っていた女性は、今は立派なこの家の主人の妻となっていた。


「驚いた。お前が来たと言うから」

目の前には、この家の主である義成がいる。彼の自室に通され、こうしてこの男と向かい合って座るのは何年ぶりになるのだろうか。
「お前んちに来たのは、5年ぶりくらいかもしれねぇな。悪かったな、祝言あげたって知らせ貰ったのに、祝いもせず」
「祝いは一度貰ってるからいい」
「あれ、俺ら持って帰らされたぞ」
「……そうだったか?」
もうだいぶ前の事だから忘れたよ、と義成は茶を一口飲んだ。
景伊がいなくなってからしばらくして、この男は佐知子と夫婦となった。
決まっていた縁談が一度立ち消え、延びに延びたものだったから、身内のみで小さく祝った、と聞いている。
「帰ってきたのは、なにかあったからか?」
「別に用はない。たまに知り合いの顔見に来ちゃ悪いかよ」
「悪くはないが……手紙くらいよこしたらいい。何かあったのかと思って、心配になるじゃないか」
「まぁ、いきなり来たのは悪かったけどさ。お前んとこは何か変わった事は?」
「……家族が一人増えた事くらいかな」
「……あぁ」
義成の言葉に、定信は縁側の障子戸に目をやった。先ほどから気づいてはいたのだが、そこには隙間からこちらを覗いている小さな影が見える。
ばれていないと思っているのだろうが、こちらからはその姿が丸見えだった。
「こら、覗くんじゃない。入っておいで」
義成の言葉にびくりと体を跳ねさせたその小さな影は、叱られるとでも思っているのか、おずおずと室内に入ってきた。
年の頃は二つか三つ。
白いもちもちした肌に、見覚えのある丸い目をした男児だ。
義成はその子供を抱き上げると、こちらを向いて座らせた。大人しい子供だ。
「会うのは初めてかな。……うちの息子」
「あー。佐知子さん似かな。良かったな、お前に似なくて」
「俺もそう思うよ」
定信の冗談に真顔で答えた男は、その息子の頭を撫でると、外で遊んでおいでと外へ送り出した。
小さな子供は、にっこり笑うと、はいと返事をして庭に下りていく。
この男の子供を見る目といい、子供の父を見上げる目といい、この男は案外良い父をやっているようだった。
少し安心していると、義成はこちらを見て真顔に戻る。
「……一つ、不思議な事が」
「なに?」
突然の言葉に定信がそう目を丸くすると、義成は自室の机の上を指差した。
綺麗に整頓された台の上に、一つ青い湯飲みが置かれていた。そこには緋色の風車が一つさしてある。
義成はそれを手に取ると、定信に差し出した。差し出されるまま定信はそれを手に取ったが、どこかでこれを見た覚えがあるような気がする。
決してそれは新しいものではない。元は鮮やかな緋色だったはずの羽は、長い年月が経過したように少しくすんでいた。
指で回してみると、それは軽く、くるりと回る。
これはどうしたのだ、という目で義成を見れば、彼はゆっくり頷いた。
「ある日、うちの息子がこれを持って俺のところに来た。回らないから直してくれって言ってな。でも買ってやった覚えもないし、家の誰もが渡していないと言う。誰に貰ったんだって聞いたんだ。そしたら」

──父上に似た人がくれた。

定信は、目を見開いた。景伊の声が、記憶の奥深くから甦る。

(──あの人が買ってくれたもの。こっそり、近所のお祭りに連れて行ってくれたときに)

この屋敷の縁側で、土蔵から持ち出した私物。大切そうに風呂敷に包まれていた、回らない風車だ。
「……お前が昔、あいつに買ってやったやつ?」
定信がそう言えば、義成は意外そうな顔をした。
「……なんでお前が知ってる」
「景伊が見せてくれた事がある。宝物だって言ってた。利秋さんのところの自分の部屋に置いてるんだと思ってた……」
景伊がいた部屋は、そのままにしてある。利秋はたまに掃除していると言っていたが、物までいじってはいないはず。
定信もあの部屋から何がなくなっていたかなんて、気にかけていなかった。
当の義成も、こんな小さな玩具の事など、すっかり忘れていたらしい。
「……確かに随分昔、あいつが小さかった頃に祭りで買ってやったことがある。……忘れてたけどな。思い出したのは、最近だ」
「これ、いつ?」
「半年は前になる」
回らない、といっていたそれは、指で触れるとひっかりもなく回った。
この男が直したのだろう。
「……お前器用だからなぁ」
定信は、手の中の緋色の風車をじっと見つめた。

──来ていたのか?あいつは。

そう思うと、それを持つ手が震えた。
「なんで、俺のところまで会いに来ないのか」
定信の震える手を見ながら、義成はぽつりと呟く。定信も同じ思いだった。

──お前のところにまず行って、一緒に兄上に会いに行けばいい。
景伊はそう言っていた。

「……最近夢を見るんだ。あいつの夢」
義成の言葉に、定信は顔を上げた。目の前の男と、目が合う。
「俺が夜中に寝ていたら、庭にあいつが立っているのがわかるんだ。起き出して縁側の戸を開けて、俺は声をかける。上がってこいよ、そんなところでどうしたんだ──そう、声をかける。でもあいつは首を振るんだ、横に。そのまま消えてしまう。目が覚めてからも気になって、俺は戸を開けてしまう。当たり前のように、そこには誰もいないんだが」
「……」
そう、自嘲するように笑う義成の顔を、定信は黙って見つめた。
「夢で逢えるならまだいいじゃねぇか」
定信は鼻で笑った。
「俺は夢さえ見ねぇよ」
なぜか不思議と、そうだった。景伊がいなくなってから、定信はほとんど夢を見ない。
夢ですら、会う事ができていない。
「お前はまだ近くにいる事ができるじゃないか」
義成の言う事は、もっともだと思う。
定信は手の中の風車の羽を指でくるりと回すと、それを義成に返した。
「……佐知子さんは、景伊の事知ってるのか」
「知ってる。全部話した」
この男は、妻となる人間にすべてを話したらしい。景伊が去った理由も。自分が過去、何をしたのかも。
「それでもと、あの人は言ってくれた。だから俺も、決心がついた」
そう静かに語る義成を、定信は静かに見つめた。
自分が町を駆けずり回り、そしてあの山のふもとに生活を移していた間に、この男は少しずつ己と向き合い、伴侶となる人間とも真正面から向き合い──己の家族を作り上げていた。
それは定信にはとても遠く、でも羨ましい事のようにも思えた。
「……この家の雰囲気、変わったもんな。息苦しい雰囲気はなくなったかも。まぁ、子供がいりゃだいぶ違うよな」
定信は庭に目をやる。
景伊と別れたあの日に見た、大きく不細工な白猫が庭にいて、子供に撫で繰り回されているのが見えた。
「……お前も、少しは自分の事をかえりみた方がいいかもしれないぞ」
「なんで」
「少し、痩せただろ。きちんと田舎で生きていけてるならいいが、医者が不摂生してたら周りに示しがつかん」
「……きちんと食ってる気ではいるけどね」
利秋にも言われた言葉に、定信は頭をかいた。
確かに、疲れは取れていない。でも考えたくないから働き続ける。気は殺気立ち、熟睡もできない。寝れないから無理矢理寝る為の酒も増えているし、煙草の量も増えた。
随分不摂生にはなってしまったとは思う。己の体調が良くないのはそのせいだ。
待つ身というのは辛いのだと言いかけたが、口にするべきでもないと思った。
何が辛いのだ。自分は好きで待っている。好きで、一人でいる。
「……そろそろ帰るわ。悪かったな長居して。次は手紙でも出すから」
立ち上がりかけて、定信は庭にいる義成の息子を見た。
景伊とは似ていないが、小さな子供がああして庭で猫を撫でていると、景伊の姿と少し重ねてしまうものがあった。
「……あの子、名前なんていうんだ?」
「義景」
「よし……?」
「……俺とあいつから一文字ずつでそう名づけた。佐知子がそうしたいと」
定信は、色白の朗らかな彼の妻を思い浮かべた。
「お前、いい嫁さん貰ったよ」
「……俺もそう思う」
「惚気んなよ馬鹿」
定信がそう言うと、義成は珍しく、素直に笑った。
「……そう言えば、お前宛てに潮津から手紙を預かってた」
「潮津さんから?」
定信は懐かしい名を聞いて、振り向いた。
「お前に会う事があれば渡してくれと言われていた。あいつはもう、この町にはいないから」
「……」
定信は黙り込む。その事は、利秋からなんとなく知らされていた。
あんな流血沙汰の事件を起こし、一時は相手を意識不明の重体にまで追い込んだ。それを、本人も認めていた。
景伊は去りたくて去ったわけでもないが、この町から消え、潮津は残された。
道場の塾頭を辞め、傷の療養をしているとは聞いていたが、遠縁を頼って町を離れたと聞いたのは、定信があの山のふもとへ移ってからしばらくの事だった。
噂もあったし、居辛かったのだろう。あれからなんとなく疎遠になり、ほとんど会話らしいものもしないままであったが、自分に手紙が残されているとは思わなった。
定信は手紙を広げる。
書かれた日は、約二年前になるらしい。
そこには事件の謝罪と、町を離れるという事が書かれていた。
──本来であれば、先生にも景伊にも直接会って謝罪しなければならないのに、手紙と言う形になってしまって申し訳ない、とある。
大きな男の割に、字は小さく几帳面な文面だった。
潮津は年老いた両親が亡くなったのをきっかけに、この町を出る事にしたらしい。
あの金は本来であれば持ち主に返すべきなのだろうが、川に沈めた。やはり自分は剣が好きでそれしかできないので、指に若干曲げにくさは残ったが、田舎で子供たちに剣を教える生活がしたいと書かれている。
ひたすらに謝罪の言葉が書かれていた。
定信はあれから会う事を拒んだわけではないが、会えば相手を一方的に責めそうで、避けていたのは確かだった。
定信のそんな態度は、あの男にどう映っていたのだろうか。
「……この人今、どこにいるんだ?」
定信の問いに、義成は首を横に振った。
「その手紙を俺に託して、それっきりだ。どこに行ったのかはわからない」
「……そうか」
ということは、二年近く行方知れずなのだろう。この町に戻る気もないのかもしれない。
どこか後味の悪いものを感じながら、定信はその手紙を懐にしまった。

義成の屋敷を出ると、時刻はもう夕暮れ時になっていた。
もう利秋のところに戻ろうかと歩いていると、後ろから「先生」と呼ぶ女の声がする。
身に覚えがない声だと思いながら振り向くと、そこには少女が立ってこちらに手を振っていた。
その姿はなんとなく見覚えがある。
定信は眉を寄せた。

「アレ」だ、と思った。
人の体を食い尽くして、人に成り代わる事に成功した、「アレ」。

最後に見た時よりその少女は背が伸び、女性らしく成長している。
「ちゃんと姿変えるんだな。……マメなことで」
定信がそう毒づけば、少女は「当たり前」と言いながらこちらへ寄ってきた。
「あの子は、山に帰ったのね」
「よく知ってるな」
「山で彼と会ってるやつらの記憶が流れてくるからね」
そう言って、少女は自らの頭を指差した。そういえばこの種族というのは、それぞれが体験した記憶と言うのを共有しているのだと思い出した。
「以前の神様とは違うね。きちんと私たちと話をしてくれる。でも、容赦もないかな。人を襲おうとした奴らは速攻殺しにかかってる」
「……そうかい」
アレとまで対話をしようとしている景伊。
それを聞いて思わず彼らしい、などと思ってしまう。
少女を無視するように、定信は帰路を行く。少女はゆっくり、後をついてきていた。
「……俺を食うか?」
振り向いて言えば、少女は「冗談」と笑った。
「あなたに手を出せば、あの神様は速攻私を殺しに来る。そういう匂いが染みついてる。せっかく、見逃してもらったのに」
そう言えば、この少女以外にも数名いるらしい「人として生きてみたくなった組」は景伊に見逃されているらしい。
もう人は食わない、と誓ったからだろう。
誓いを破れば容赦はしないという事だろうが。
「貴方にちょっかい出してきた連中、いたでしょう?」
「ちょっかい?」
「結構前だけど、貴方を閉じ込めたり、あの子を刺した跳ねっかえり連中」
「あぁ」
「あいつら、死んだから」
「……」
物騒な言葉を聞きながらも、定信は足を進める。
「貴方と別れたあの日、彼は皆殺して山に行った。私も居合わせてしまったけど、私には手を出さなかった。去り際に釘刺されたけどね」

──俺の家族に手を出したら、そのときは殺す。

「あんな事言われちゃ、こっちも怖いし。私たちは共存を望む。山にいる連中も、ちょっとずつそういう思考のが増えてる」
少女は肩をすくめるのが見えた。
──家族。
それには自分も、含まれているらしい。
「……あいつはどうして、帰ってこないんだろう。何故俺に姿も見せてくれないんだろう?」
定信は立ち止まり、少女を振り返った。
化物相手に何を聞いているのだろう俺は、という思いはあった。
しかしこの少女は、山に残る同族を通じて、今の景伊の状況に関しては自分よりはるかに詳しい。
無駄だと思っていたが、すがるような思いで聞いてしまった。
少女は定信の問いを、無表情に受け止める。
「……前と同じように帰る、なんて無理でしょう?あなただって、わかっているくせに」
少女はじっと、真顔でこちらを見ている。
「もう人ではないんだから、こちらへ帰ってこれるわけない。あの神様は山の神。時折山を下りて逃げた獲物を狩ったとしても、戻るところはまた山よ。生きるところが違う。里と山とは別世界」
「違う、ね」
ふいに、笑いがこみ上げてきた。
「今ここで、俺があんたに齧られれば、景伊はすっ飛んできてくれるんだろう?一口齧ってくれないか?そしたら俺は、あいつに会える」
不気味な事を言い出す定信を、少女はじっと無言で見つめていた。
「まぁそれだとお前殺されるわけだから、やりたかないよな」
定信は少女に背を向けた。少女は立ち止まったままこちらを見つめていたが、無視して帰る事に決める。
「……確かにそれもあるけど」
しばらく歩いたところで、背中に小さな声が投げかけられた。

「今の先生は、誰も食べたがらないと思う」

最後の少女の言葉の意味は、よくわからなかった。



その日は利秋のところに一泊し、定信は再びふもとの村へと戻った。
留守の間に急病人がいなかった事に安堵しつつも、今もこうして山を眺めつつ生きている。
空に、自分の手に持つ煙管から立ち上る煙が上っていく。
久しぶりに、懐かしい顔を見たら安堵した。
皆、それぞれの生き方を始めている。
良い方向に進んでいる者、迷走している者様々だが、自分はどちらになるのだろうかと思うと、重い気持ちになってきた。
迷走はしている、かもしれない。
でも自分が必死に打ち込める仕事があって、使命感があって、ただ景伊を待つ生活。
それはある意味幸せなのだろう。やりたくない事をしているわけではないのだから。

しかし、町から戻った頃から、ずいぶんと体がだるい。
昨日など背中が痛んでなかなか寝れなかった。
もう若者とも言えぬ年ごろには足を突っ込み始めた。ガタがきているのだろうと思いながら煙草を消して立ち上がろうとした瞬間、定信は急に胃のあたりに不快感を感じた。不快感は唐突に、息苦しさに変わる。
激しく咳き込むと、隣にいた太助が驚いた表情で背をさすってきた。
「おい、先生大丈夫──」
太助が言い終わる前に、定信は口元を抑えていた自分の手のひらが、血に染まるのを見た。
「……」

定信は呆然と、どす黒い血に染まった手のひらを眺める。身体を支えていられず、ぐらりと視界が傾くのがわかった。

「先生!」
それを見て慌てたのは太助だった。
太助がこちらの体を揺すっているのが見えたが、それに反応する力も残っていない。
不思議と頭は冷静で、納得している部分があった。
周囲にはやたらと痩せたと言われた。
あの少女には「誰も食べたがらない」と言われた。
それはつまり。
(……俺の体が悪かったって事かよ)
ぶっ倒れるまで気づかなかった自分は医者の癖に阿呆だ、と思った。
視界が暗くなる瞬間、景伊の姿を探している自分に気づく。
今この瞬間まで自分は会いたいと思っているのに、彼は山から下りても来ない。
夢にさえ出て来てくれない。
一目でいいんだ、と思った。

俺がもう、限界だ。



定信は、自分はそこで死んだと思っていた。
だが目覚めた。
重いまぶたを開ければ、そこは見慣れた天井がある。自分が数年前から厄介になっていた、太助の家だ。
「先生。おい、先生わかるかよ」
顔の前でひらひらと手のひらが舞う。太助の手のひらだった。
「あんた、丸二日寝てたんだぞ。大丈夫か?」
太助の言葉に体を起こそうとしたが、うまく力が入ってくれなかった。
「医者がぶっ倒れると困るんだよ。一応あれだ、あんたの師匠呼びに行ってるし、利秋の旦那も来るってさ」
この猟師はなんだかんだで自分が倒れている間、看病してくれていたらしい。
人が良い、と定信は笑った。
ふと視線をめぐらせば、室内の隅に見慣れない米や野菜が積まれているのが見えた。
「あれは……?」
「ああ。先生がぶっ倒れたって聞いて、村の連中が持ってきた。あんた結構慕われてるんだからさ、こんなところで死んでもらっちゃ困るよ」
「景伊は?」
「あ?」
「景伊は、来ませんでしたか?」
「先生……」

太助は、何とも言えない残念なものを見るかのような目でこちらを見た。
これは同情の目だった。
──可愛そうに。この男は、去った者に囚われすぎているのだ。そういう瞳だった。

「……先生。俺もあのガキ見てたから、こんなことは言いたくねぇけどさ」
薄暗い室内の中で、太助が言葉を濁しつつ言う。
「想うのやめろとまでは言わないよ。でも、あんたはもう少し自分の事考えるべきなんだよ。がむしゃらに毎日生きて、自分の体の事なんてかえりみないで、あげく身体悪くして。あんたのそういう一途なところは好きだけど、それじゃあんたおかしくなっちまうよ」
「……もうおかしくなってるのかもしれません」
定信は目を閉じ、深く息を吐いた。
「正直言います。……俺は寂しい。忙しくしてないと、気が狂いそうだった。俺はいつまでこうして待ってればいいんだろう。でも景伊の事を忘れたいわけじゃない。早く時間が経てばいい、もし会えるなら、その瞬間まで、一気に」
話そうとすると、胸が苦しくなる。
自分は丈夫なだけが取り柄だったはずなのだが、いつの間にかこんなになってしまっていたのだなと思った。
「……とにかく、医者にきちんと見てもらって、あんたは体休めるべきだ。おかしな事、考えるなよ」
そう言うと、太助は苦々しく部屋を出て行った。
おかしなこととはなんだろうと考えて、それは自分が命を絶つ可能性があると思われているのでは、という考えに至った。
定信は笑った。
喉がひゅう、と音をたてる。
胸は苦しいのに、笑いが止まらなかった。
自分はついに、おかしくなったらしい。
寂しくてさびしくて、気が狂ったのだと思った。
景伊は独りあの山で生きていると言うのに。
あいつには自分がついていなくては、なんて思っていたくせに、早々に壊れたのは自分の方だった。
最後に会ってから、10年も経っていないというのに。


翌日には利秋と楠がやってきた。
彼らは動けるうちに町へ帰る事を進めたが、定信は首を縦には振らなかった。
自分は誓ったからだ。できる限り、景伊のそばにいてやりたいのだと。
病を自覚すると、体は急激に衰えていった。
数日のうちに、身を起こす頃さえできなくなった。
定信の状態を見て、太助は一言「呪いだ」と言った。
どういう事かと問えば、「あんたらのそれは、愛とかなんとかじゃなくてただの呪いだ」と太助は言った。
肉体と精神を苦しめる、終わらない呪いだと。
「……景伊は、俺を呪いはしてないでしょう」
そう言うやつじゃないと言えば、太助はそれには頷いた。
「景伊じゃなくて、あんただよ。あんたが自分で自分を呪ってる。あんたは心のどっかで、もうあいつと会えないって絶望してんだよ。そう思いたくなくて、あんたは自分で自分を忙しくてしてた。……見当違いならすまん」
「あー……」
太助はそう言うが、彼の言葉は、自然と定信の中にしみ込んだ。
そうかもしれない。だからこんなに苦しいのかもしれない。悔しいが、納得してしまう。
「呪いか……」
定信は息を吐き出した。自分で自分を追いつめていてはどうしようもない。
景伊にまた会えると心の底から信じることができない今の自分も、どうしようもない。
「今日、ちょっとさ、山に入ってきた」
壁にもたれて座りながら、太助が呟く。
定信が視線だけ向けると、小さく男は笑った。
「もちろん、あの山には入ってなくて、入り口くらいのところでこう言ってみた。お前早く帰ってこいよ。顔くらい見せろ、先生死んじまうぞって」
「……」
「聞こえてれば、帰ってくるかもしれん。顔くらい見せるかも」
「はは……大胆な事しますね」
定信は笑うしかない。
「あのガキは優しいから、あんたの事が心配になれば下りてくるかなと思って」
太助の気持ちは素直に嬉しかった。
自分が倒れたと聞いて、駆けつけてくれた利秋や楠の存在も嬉しかった。
でも、景伊は来ないかもしれないと思った。

そのときふと、ぼうっと宙を彷徨わせていた視線の先で、緋色の何かがよぎった。良く見ようと目をしっかり開けようとすると、男の手が、緋色の風車を差し出している。
景伊に良く似た男だ。
一瞬息を止めたが、少しずつ冷静になり始めた頭で、定信はため息をついた。
「……なんでお前まで」
そこにいたのは、長棟義成だった。
「……お前が派手にぶっ倒れたと聞いて、見舞いに来たんだが」
そう嫌な顔するなといいながら、義成は布団のそばに座る。
この男がわざわざ町から離れたこんな村まで来るとは、定信にとっては意外だった。
「お前はこれでも握ってろ」
義成は、緋色の風車を差し出す。
「これ、お前んとこのガキに景伊がやった奴だろうがよ……」
勝手に持って来ていいのかと問えば、「息子には借りると行って来た」と義成は答えた。
定信はぼんやりと、その風車を見つめる。
これが義成の息子のもとへ渡ったのは、景伊が渡したから、としか考えられない。少なくとも、自分はそう思う。
あの回らない風車は彼の大事なものだった。
わざわざあの土蔵の中から、持って帰るのだと照れくさそうに定信に見せたものだった。
その表情に定信はどうしようもない嫉妬を抱いたのだが、それに景伊は気づいていたのだろうか。
だがそれを義成の息子に差し出した、という景伊の心理はなんなのだろう。
それはもういらない、という事なのか。
それともそれを貰って本当にうれしかったという記憶が残る景伊が、甥っ子を喜ばせたくて授けたのか。
真意はわからないが、これはここ何年も姿を見せない彼の、唯一の痕跡だった。

「お前が弱ってる姿っていうのは、不気味だな」

力ない定信の姿を見て、無表情に告げる義成に、定信は呆れた。
「お前、それ病人に言う事かよ……」
「……らしくない、という意味で言ってる」
「俺だって普通の人間なんだからさ、体調崩すし普通に死ぬわな……」
この男の顔を見て悪態をつくぐらいの力は、まだあった。
「まぁ情けないし、女々しいとも思うが」
定信は、目を閉じて、深い息を吐き出した。
病は気からと言うが、まさにそれなのかと思うと情けなかった。
強く、変わらず待つという事ができない。
この「呪い」に、景伊は関係ない。
自らの弱さが呪いとなって体を蝕んだ。
「……お前には、ほかの人間というものが見えていないのか」
「ほかの人間?」
義成の言葉に、定信は眉を寄せた。
「あれから、あいつ以外目に入らないというような目で生きてる。俺は、あいつだけを見ていてやる事はできなかったけど、お前はそういう道を選んだ。一番しんどいはずなのに」
「選ぼうにもそれしか考えてなかったよ」
今も。
なぜこうなってしまったのか、未だによくわからない。
「……お前はめちゃくちゃだし、腹立つ事も多いんだが」
義成は定信をじっと見下ろしている。
「景伊はお前のひどい嫉妬も独占欲も、嫌じゃなかったんだとは思う。むしろ嬉しかったんだろうな。そこまでしてくる人間はお前だけ。面倒くさい事に」
「……何が言いたいのかわかんねーよ」
「つまり……そうだな。あいつはお前に出会えてよかったと思う。それで、俺がした事を正当化するつもりもないけど。あいつも決して去りたくて去ったわけでもないんだろうけど……穏やかな気持ちで去れたなら、俺はお前に礼が言いたい。あいつを愛してくれて……感謝している」
なんでこんなときにこんなことを言うのだこの男は、と定信は思う。
「……お前が俺にそんな事言うなんて、世も末だわ」
「礼は言わねばとは思っていたんだよ。ただ、お前が突っかかってくるばかりだから」
「……それは申し訳なかったと思ってる」
「だから、そんな恩人に死なれると、俺としても悲しいんだ。俺の友人は、去っていくばかりだから」
「……」
定信は、言葉に困った。 己の醜い嫉妬が根本にあったからとは言え、気の合わない男だと思っていた。
景伊がいなくなれば、この男と顔を突き合わせて話すことなどないのだと思っていた。
でも自分から、懐かしい顔を見たくて家を訪れたりしたし、何だかんだでこの男を自分は友と思っていたのだろうか?
誰が友人か、と普段なら言ったかもしれない。
だがその言葉が出てこなかったのは、自分がそれだけ弱っているという事なのだろうか。
「……お前が俺に礼を言う事はねぇよ。お互い様だ」
定信がそう言えば、義成からは小さく笑った気配がした。


自分の状況は、自分が一番よくわかっている。 これは人にうつるものではないのが幸いだと思ったが、自分の内臓が進行性の病魔にやられている事くらい、症状でわかる。
自分が患者に言うとすれば「できるだけ栄養あるもの食べて、安静にしてください」だ。
他に言う事はない。できる事もない。
だがそんな常套句を述べたところで、実際にこういう状態になってみれば、ものは食べられないし栄養なんてつけようがない。
患者の気持ちというものが、初めてわかった気がする。
蝕まれた内臓は痛みを発し、体は日に日に弱っていく。

楠と義成には「大丈夫だから帰ってくれ」と言った。
来てくれた事はありがたいと思っているのだ。
だが自分の状態の事はわかっているし、対処しようもない事もわかっている。楠だって地元の長屋で医者を続けているし、自分だけに手をとらせるわけにもいかない。義成にも、来てくれたのには感謝するが、もう家族を大事にしてくれと言って帰らせた。
あまり知り合いに、自分が弱っていく姿と言うのを見せたくなかったのだ。
だが利秋だけは、こちらに残った。
帰っていいですよ、とは言ったのだが、「阿呆しばらくこっちにいるわ」と呆れたように言われた。
翻訳の仕事はあらかた終わらせてきていたようで、今は太助と共に、なんやかんやと世話をやいてくれる。
「……まさか親父たちに俺の状態知らせてないでしょうね」
定信の言葉に、利秋はうーん、と悩むような声を出した。
「知らせてほしい?」
「いや、結構ですけど」
「一応知らせるのが筋かとは思うんだけど、お前も嫌って言いそうだし余計に体調悪くするかもしれんから、と思って言ってないんだが」
「……それでいいです」

定信は、遠くに暮らす自分の両親の事を思い浮かべた。
こちらから縁を切ったのか切られたのか、未だによくわからないのだが、自分は自分なりに信じた「医者」になれたのだろうか。
自分が死んだと知れたら、彼らはどういった反応を示すのだろう?
悲しむだろうか?ひどく泣かれるのはやめてほしい、と思う。いや、こちらは親不孝の馬鹿息子だから、そんな反応はしないかもしれない。「そう」で終わるかもしれない。
でもそちらの方がいいな、と思えた。
当時子供でろくな腕もなかったくせに、親に文句をつけた事は申し訳ない、と今なら言える。
理想主義のただのガキだった。
でもそう認めることができるのは、自分の終わりが見えているからだろうか。

「……俺が死んだら、どっかあの山がよく見えるところに埋めてください」

定信のそんな言葉に、利秋はあからさまに嫌な顔をしてみせる。
「……俺より若い奴の、そんな言葉聞きたくないんだが」
「利秋さん、らしくないな。そう遠くない、現実的な問題ですよ」
そう言い切ったとき、また呼吸が苦しくなってきた。
心配そうな表情で、利秋が枕元に座る。
その顔に、定信は笑いそうになったのだが、笑う力がなかった。
「……そういえば、太助さんの姿が、見えませんが」
「あいつは山に入ってる」
「……猟?」
「違う。景伊を探しに」
意外な言葉に、定信は目を丸くした。
「あの山には入れない、入る気はないって言ってたから、周囲を巡りながら声かけてる。いるなら出てこいって」
「……いろんな人に迷惑かけてますね、俺は」
息を吐きながら、定信は天井を見上げた。梁むき出しの、古びた天井が目に入る。

これが現実なのだろう。
会えるかどうかなんて約束はできないと、景伊自身も言っていたじゃないか。

帰るならお前のもとへ一番に帰る。そして、義成のもとへ一緒に会いに行けばいいなんて。
そんなものは慰めだったのかもしれない。

夕方になった頃、太助が帰ってきたが、その表情はあまりいいものではなかった。
聞く前に、それらしい接触など何も持てなかったのだと思った。
現実はこうだ、と定信は思う。
景伊はあの山の神に溶け込んでしまったのか。
始めからそこにいなかったように自分の手から消えてしまったあの若者は、あの瞬間、彼の心さえ消えてしまったのか。
自分がひたすらに待とうと思ったのは、それを認めたくないからか。
終わらない呪いが、待ち続ける事に疲れ始めた体を蝕んだ。
そう納得してしまおうとする定信の視界に、あの緋色の風車が目に入る。
それは定信の枕元に置かれていた。

彼がその心さえ消えてしまったのだとしたら、これはなんなのだ。

景伊しか知りえない、彼の宝物を甥っ子に託した心理。

それを知ってしまったから、余計に自分はあきらめる事ができなくなってしまった。


夜も深くなり、周囲の家々が眠りについた頃。
利秋も太助も定信と同じ室内にいたのだが、壁にもたれたまま眠っているようだった。
定信も眠っていたのだが、息苦しさに目が覚めた。
──苦しい。
思わず咳き込みそうになった瞬間、定信は周囲に漂う異様な気配を肌で感じた。
その気配には、覚えがある。何度か肌で感じた事があるものだ。
それは、ずいぶんと遠くから来る。少しずつ、この家に向かって近づいてくる。
台所の土間にいたマチが、警戒を込めた様な声で吠えた。その瞬間、壁にもたれて眠っていた太助ががばりと跳ね起きて、傍にあった猟銃を握る。
「……何か来る」
気配に聡いこの猟師も、異変に気付いたようだった。
マチの吠え声で目を覚ました利秋も、異様な雰囲気は感じているらしい。
なんだ、と外の様子を気にする。
マチの吠え声が止んだ。怯えているのかと思ったが、警戒した鳴き声から一転、何かに気づいて甘えた様な鳴き声に変わる。
「……あ?」
警戒し身構えていた太助が、気の抜けたような声を出す。
ひたひた、と何かが裸足で歩いているような音が、外に響く。
その気配が近づくたびに、周囲には湿った木のような匂いが香り始めていた。
山の匂いだ、と定信は思った。
町育ちではあるが、ここ数年暮らしたこの地で、定信はそれを覚えた。
朝の霧が立ち込めた潤いのある山の、木々や土の匂い。

「……あいつが来る」

定信の発した言葉に、その場にいた利秋と太助が「まさか」と一斉にこちらを見た。
そう思う事に、迷いはなかった。
何故かそう確信できた。
「……すみません、戸を開けて下さい」
彼は一人でも入ってこれるだろうが、少しでも早く会うために。
太助が頷き、手には猟銃を持ったまま土間へ下り戸に近づいていく。
彼も緊張しているのだろうか。その動作には緊張感があった。
戸に手をかけ、太助は一気に扉を開いた。
開いた瞬間、太助は驚いたように一歩後ずさる。

太助は無言だった。
彼の背の向こうに、風に揺れる、闇に溶け込むような黒い着物の裾が見えた。
入り口の正面に立っていた太助は、それに道を譲った。
わきによけると、それはゆっくりとした足取りで、室内に入ってきた。

細身の体は、別れた時とほぼ変わっていない。
大地をしっかりと踏みしめる、その足は素足だった。月の光を柔らかく反射する上質の生地の着物を羽織り、結われていない黒髪は肩のところで風に揺れている。
その姿は少々野性味が増していたものの、最後に見たときの姿とほぼ変わっていない。
あれから数年経つと言うのに、歳を重ねたという様子もなかった。
利秋も太助も、景伊の姿を見て、何も言葉を発する事ができないでいた。
あれからほぼ変わりない景伊の姿にも関わらず、放つ雰囲気は人間のそれではなかったからだろうか。
景伊が一歩こちらへ歩むたびに、汗が吹き出しそうな感覚に陥る。
人ではない。途方もない力をもった何かだと、定信は思う。

やがてそれは、定信のもとまでやってきた。
懐かしい顔が定信以外にもあるというのに、景伊はそれには見向きもせず、まっすぐこちらへ歩み寄ってくる。
髪で表情が隠れ、その顔をよく見ることができなかった。

「……二人にしてくれませんか」

定信は、利秋と太助に向かって呼びかける。
「大丈夫ですから。こいつと、二人にしてくれませんか」
利秋がこちらを見る。大丈夫だと、定信はうなずいた。利秋も少し考え、頷いて見せる。
「景伊」
利秋は立ち上がり、景伊のわきに立った。
「……おかえり」
恐れることなく話しかけた利秋に、景伊は顔を向けると、少し照れくさそうに微笑んで見せた。
そのまま太助を伴い、利秋は家を出る。
室内には、定信と景伊の二人のみが残された。

「……座れよ」

静かな室内で、定信は立ったままの景伊に声をかける。
大人しく、景伊は定信の枕元に座った。
景伊の羽織る黒い着物に、定信は見覚えがあった。あの日、義成が渡したものだ。
羽織の下の着物はずいぶんと傷んでいるようで、袴の裾などは擦り切れている。
約束通り、人前に出てくるときに着て来たのだなと思うと、少し微笑ましく感じてしまった。嫉妬は抱かなかった。
景伊が動く。
何をするのかと思えば、こちらの心音を確かめるように、布団の上から胸の上に耳を寄せてきた。

「……痩せた?」

久しぶりに聞いた景伊の声がそんな言葉だったので、定信は思わず吹き出しそうになってしまった。
……相変わらず、息は苦しいが。
あぁそうだな痩せちまったな、と定信は言う。景伊の体に手を伸ばしてみた。
景伊の髪は、あの頃触れていたときと変わらず、艶のある綺麗な黒髪をしていた。
「……忙しかったか?」
問えば、景伊はそのままの姿勢で頷く。
なら仕方ないなぁ、と定信は呟いた。

語りたい事は山ほどあったはずだった。
だが今こうして、あの日突然消えた若者が目の前にいることに、定信はなんとも言えない幸福を感じていた。
「お前、もう帰ってこれるのか?」
景伊は首を横に振る。
「……おつとめ、ってのは終わらんのか」
「……終わらない。まだ帰れない」
「そうか」
定信は景伊の頭を撫でた。
景伊も必死で頑張っていたのだろう。この周囲に人が戻り、襲われることなく生活できているのは、彼があの山で終わらない戦いを続けているからに違いない。
それなのに、今姿を見せたのは。
「太助さんの声が聞こえた。お前が死ぬって言われた。そのとき気づいた。もう、何年も経ってたのに」
定信には長い年月だったと思うが、景伊には何か月単位の感覚でしかなかったのかもしれない。
定信は笑みを浮かべる。
自分の体の状態は、もう長くはない。
景伊に会えたからと言って治るようなものでもないとはわかっていた。
「……景伊、俺も一緒に連れていけ」
唐突な言葉に、景伊が顔を上げた。
目を丸くするその顔に、定信はできる限り必死に、笑って見せる。
「お前、一人嫌いだろ?俺も嫌なんだよ。俺はお前と一緒が良い」
無駄に生き延びたいわけではなかった。しかし、この若者一人を置いていくというのも、できない気がした。

「……俺はお前に最後まで付き合うって決めたんだ」

景伊は、じっとこちらを見ていた。
その目は見覚えのある、優しげな黒い瞳だった。




病にふせっていた医者が消えたと、騒ぎになったのは翌朝の事だった。
深夜、利秋と太助が様子を見に戻ったとき、布団の中に定信の姿は既にになかった。
それから手当たり次第に探したのだが、見つからない。
争った痕跡もない為、病を苦に命を絶ったのだとか、覚悟を決めて一人で山に入って姿を消したのだとか、様々なうわさが流れた。実際住民の手を借りて山狩りも行われたが、ついになんの手がかりも見つけることができなかった。


利秋はそれから数日後、義成のもとを訪れ、事の顛末を話した。
義成は黙って話を聞いていたが、聞き終わると最後にぽつりと「……帰らなければよかった」と告げた。
「……景伊が連れてったのかもしれない。まぁ、定信にとってもそちらの方がよかったんだろうが」
そう言う利秋も、複雑な心境だった。
仲の良かった遠縁の若者と、親しくし可愛がっていた若者。
そのどちらもが、手を取るように消えたのだから。
少しぬるくなった茶を飲みながら、広い屋敷の庭を眺める。
そこには、春の訪れと共に、色鮮やかな若葉が芽吹き始めていた。

「……そう言えば、夢を見たんです」

しばらくの沈黙の後、義成が呟く。
「その日の夜、俺も夢を見ました。景伊と……定信が共に、楽しそうにうちを訪ねてくるんです」
「あの日に?」
利秋が問うと、義成はうなずいた。苦笑いしている。
「曖昧なんですが、どこかへ行くと言っていて……やけに楽しそうなんで、俺も連れて行けと言ったんですよ。そしたら、お前は駄目だと。最後の最後で、除け者にされました」
「……まぁ、家族持ちを連れてくわけにはいかんから」
利秋も苦笑いを浮かべた。庭には、猫と遊ぶ子供の姿がある。

「……楽しそうならよかったんだけどさ」

あのとき二人きりにしたのを、後悔するような、それで良かったのだと思うような。
利秋は湯飲みに残る茶を、一気に飲み干した。



それからあの山付近で、おかしな事件が起こるという話はぷっつりと途絶えた。
人々もそんな話は徐々に忘れ、次第に村の人口も増えていき、村から町へと呼ばれる程度には栄えた。
一人の医者の失踪という事件を知る者も次第にいなくなったが、その辺りを縄張りとする腕利きの猟師が、それから数年後に山で彼らの話声を聞いたと語った。
姿は見えなかったという事だが、その話声は穏やかな、優しげなものだったという。

(完)