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番外編

年末番外編:御食事券をめぐる攻防


八束がその日、いつものように長畑の元へアルバイトに来たときだ。
玄関を抜け、台所を通り抜けようとしたところで、テーブルの上に一枚の白い封筒が置かれているのに気付いた。
さらさらとした、高級そうな紙を使った封筒。宛名は書いていない。表面には宛名の代わりに、しゃれた刻印が印刷されている。
刻印の下には、英文が書かれていた。
「……?」
八束は首を傾げた。見覚えのあるホテルの名前が印字されている。
そのホテルは、市内中心部に建つ三十四階建ての大きなホテルだ。外資系の系列ホテルで、お値段は少々高め、中に入っているレストランも高級店がそろっていると聞いた事がある。そのホテルの前はよく通るのだが、高校生の八束には縁遠い場所で、中に入った事はない。
以前グラハムがこちらに来たときに、そこに泊まった事があると聞いた。しかし彼は長畑のところに入り浸っていたので、ほとんどホテルでは過ごさなかったらしい。
(で、なんでこの人がそんなとこの封筒持ってるんだ?)
八束は、手に取り中身を確認したかった。しかし無造作に置かれているとは言え、人の物を勝手に見るのは気が引ける。
(ただ、このパターンにあまり良い思い出がないんだよなぁ……)
八束はテーブルの側で唸る。中身不明の手紙というものに、過去に何度か振り回された記憶がよみがえった。
「あれ、君来てたの。おはよう」
そのとき丁度、長畑が奥の部屋から顔を出した。
「……長畑さん、これ」
八束は挨拶もそこそこに、テーブルの上に向かって指を指す。
「あぁ。それね、貰い物なの。良かったらあげるよ」
「え?」
あげる、とはどういうことだと思いながら、八束は恐る恐る封筒に手を伸ばした。中にはチケットのようなものが一枚入っている。何かの招待状のようにも見えた。
「ホテル内レストラン共通、ペアディナー御食事券五千円分……?」
「ゼロが一個足りない」
「え、だってこれ」
八束は再び、御食事券に視線を落とした。よく見ずに五千円だと思っていたのだが、長畑の言葉に再度、桁を数える。
「……え?」
思わず、八束の手が震えた。
ペアで五万円分の、御食事券。
「なんでこんなの持ってるんですか?」
「仕事に行ったら、お客さんから貰った。地元番組の懸賞で当たったけど、行けないからって。彼女でも誘って行きなさいよって言われたけど、僕彼女いないしねぇ」
「……他にいたら、俺が多分発狂してますよ」
「発狂されても困る。僕は君だけで手一杯だし、十分です」
長畑はこちらの反応を面白そうに眺めている。八束はそっと御食事券を封筒に戻し、長畑に返した。
「でもこんな高い物、さすがに貰えませんよ。他に行くような人いないし」
「そっか。君が行きたいって言うなら、一緒に行っても良いんだけどね。あまり、こういうのは好きそうじゃないかな、と思って」
「……あんまり」
八束は小さく頷いた。
長畑から誘ってもらえるのは嬉しいが、あまり気乗りしない。
「だって、こんな高そうなところ行ったことがないんですよ。テーブルマナーとかもわからないですし、緊張しそうだし」
「経験の為に行ってみるってのも、手だけどねぇ。ただ、僕もかしこまった席はあまり好きじゃない。なので、こういう物を有意義に使ってくれそうな人に相談してみようか」
長畑はそう言いながら、携帯電話を取り出し、どこかに電話を架けはじめた。
「有意義気に使ってくれそうな人?」
「うん。多分、僕らよりこういう場に慣れていそうで、顔も広そうな人」
言いながら、長畑は携帯電話を耳に当てる。
「……あぁ、お久しぶりです。お忙しいところすみません。ちょっとご相談がありまして……え? いや、別に来て頂くほどでは……あぁ、はい。わかりました。じゃあ夕方に」
会話は一瞬だった。
「……誰ですか?」
誰に電話をしたのか何となくわかったが、八束はあえて尋ねる。
「霧島のお兄さんだよ」
「あぁ……」
やっぱり、と八束は思った。議員秘書をしている彼であれば、確かにそういった場には慣れていそうだし、顔も広そうではある。
「本題を切り出す前に来ますって言われちゃったけど……そんなに見ないでよ。目が怖い」
「すみません」
怖い、と言われた八束は一応謝った。別に睨んだつもりはなかったのだが、心の中に存在する苦々しい気持ちが、顔に出ていたらしい。
「別にあの人に相談するのは全然いいんですけど。でもあの人と二人で、これに行くって言う選択肢だけは絶対に反対」
八束は長畑の肩を掴み、語調を強めて言った。
「……最近よく飲みに行くけど、それはいいの?」
「居酒屋くらいはいいですよ。でも、こんなちょっといい恰好しないといけないようなホテルで二人きりで、一人あたま二万五千円のご飯とか、そういうのはなんかちょっと嫌」
「わかってるよ。そんなつもりはないけど、紙屑にしてしまうのはさすがに勿体ないからね。あの人なら、他に行きたい人を知っているかもしれないし」
「まぁ、それは確かに」
「じゃあ、僕らはお仕事してようかね。霧島さんは夕方に、仕事が終わってから来るそうだから」
長畑にそう背を押されて、八束は渋々頷いた。

その日の夕方。既に外が暗くなってきた頃、霧島兄はやってきた。
仕事帰りらしくスーツ姿の彼は、何故か慌ててやって来たようだった。玄関で長畑と顔を合わせた瞬間、霧島兄は勢いよく頭を下げる。
「すみません遅くなりまして。……あぁ、八束君もいたんですね。お久しぶりです」
「……こんにちは。もう今晩はかもしれませんけど」
長畑の隣で、八束は頭を下げた。
八束が霧島兄と会うのは、数週間ぶりだった。アルバイトの時間は終わっていたので八束は帰っても良かったのだが、霧島兄が来るというので何となく残っていた。
「それで、ご相談というのは?」
「すみません。実は相談というほど、深刻なものでもなかったんですが」
相談という言葉に、霧島兄は深刻さを感じ駆けつけたらしい。長畑は「なんだか悪い事をしてしまったなぁ」というような表情をしていた。
ソファに腰かけた霧島兄に、長畑は先ほどの封筒を差し出す。
「貰い物なんですけど、良ければ使っていただきたいなと思って。ホテルの食事券なんですけど、僕らはあまり、こういうのに向いてなくて」
霧島兄は、長畑が差し出した封筒を見て目を丸くした。
「……奇遇だ」
「え?」
「実は、僕も同じホテルの御食事券を持て余している状況でして」
「……御食事券五万円分?」
八束の問いに、霧島兄は頷いた。スーツの内ポケットから一枚の封筒を取り出し、テーブルの上に置く。同じホテルの封筒だった。中から取り出された御食事券も、全く同じもののように見える。
「これもペアでご招待、というものです。以前父親から『好きな女がいるならクリスマスに決めてこい』と笑顔で手渡されたものなんですが、どうにも使い道に困って、そのままになっていまして。長畑さんを誘おうかと思っていたんですが、年末でお忙しかったようだし……八束君、そんな顔して見ないで下さい。抜け駆けはしませんから。一応、君の意見も伺おうと思っていたから、誘うのが遅れたのであって」
「そんなになんでもかんでも反対しませんよ」
「その割には、眉間のしわが凄いよ」
長畑が笑いながら、八束の顔を見ている。
「元々こんな顔です」
「いや、顔がすごく渋くなってるから」
「……」
八束は黙々と、一人眉間をほぐした。
長畑と霧島兄。彼らは一応、お友達と呼べる関係である。
年齢の近い男同士だし、年下の八束にはできないような話もあるだろう。長畑はこちらで歳の近い友人というのが少ないようだし、霧島兄も「長畑の事が好き」という事を覗けば非常に良い男なので、彼ら二人でつるんで頂いても、全くなんの不満もない。
(……って言い切れたら文句なしの男前だろうけどさ)
俺には無理だ、と八束は奥歯を噛みしめた。
しかし内心ぎりぎりとしているこちらを、霧島兄も微笑ましい小動物を見るかのような瞳で見てくるものだから、八束としては非常に自分が小さく感じられるのだ。
(まぁ、ある意味すげぇ根性のある人だよな)
好きな相手は恋人持ち。
普通であればこんな長期戦、くじけるんじゃないのか? と八束は思う。
だがそこにくじけることなく突撃し続け好意を囁き続ける男、と言えばある意味賛辞も送りたくなるのだが、当事者としてはあまり居心地のよいものではない。八束を立ててくれる男ではあるが、隙あらばという感じがありありなので、全く気が抜けない。唯一の救いは、当の長畑に全くその気がない事だろう。
「という事で一応、この際正々堂々お誘いしてみようと思うんですが、僕と二人で行ってくれる気など毛頭ないですよね、長畑さん」
「申し訳ないですが、ないです」
「……ですよねぇ」
長畑の真顔の返答に、霧島兄は苦笑しながらだが、肩を落とした。
「霧島さんなら、たくさんお付き合いもあるだろうし、渡せばもっと喜んでくれる方がいるんじゃないですか? ほら、よく女性にお花を贈ってるし」
長畑の言葉に、霧島は少々恨みがましいような視線を送った。
「あれ全部、父親関係の飲み屋繋がりですよ。ちなみに、僕個人で花を贈ろうと思った人はあなただけです、残念ながら」
「それは……まぁ残念と言うべきなのか。僕が言っていいのかわからないですけど」
「えぇまぁ、あなたのその強固な部分は好きですけどね。でもそろそろ、この話題は止めましょう。八束君が奥歯を噛み砕きそうな顔をしています」
「……いや、全っ然大丈夫ですけど?」
八束は頬を引きつらせながら言った。しかしこの程度で怒っていては話にならない、と八束はお茶を飲みながら己を静めた。
今年は心も体も大きな男になるのだ。些細な事で動揺していては、話にならない。
「で、ここで僕から提案なのですが」
霧島兄が小さく咳払いをして、テーブルの上の二枚の御食事券の上に指を置いた。
「せっかくの機会です。ペアのチケットが二枚で、合計四名がこの御食事券で食事が楽しめるわけですから、堅苦しい雰囲気抜きに何かおいしい物を食べに行きませんか? あなた方二人と僕、そして僕の弟で」
「霧島を?」
八束は同じクラスの、友人の顔を思い出した。春に同じクラスとなってから親しくなり、最近は一緒に行動することも多い。何度か霧島兄と長畑、八束で食事をした事はあるが、彼は非常に人見知りなので、あまり楽しんでいるようには見えなかった。
「でもあいつ、俺以上にこういうの苦手なんじゃないですか?」
八束の言葉に、霧島兄は小さく頷き、苦笑した。
「苦手でしょうね。もともとあまり外に出たがりませんから。ただ、僕としてはせっかく体も丈夫になってきて、友達もできてきたこの時期に、いろいろ経験させてやりたいなと思っているんです。確かにこういったお店の敷居は少し高いですけど、誰だって初めてというのはあるんですから、経験したって損ではないはずですよ。それに弟も八束君の事は好きみたいで、君が来るよって言って誘ったら、結構家では楽しみにしているんですよ。内弁慶なものですから」
「え、いや……好きって言うか……どうなんでしょう」
八束は内心、冷や汗をかいた。
確かに、霧島とは良い友人である。だが以前「好きかも」と言われたモヤモヤ感は、互いの間に微妙な空気を醸し出す事があった。 互いにそれを「なかった事」にしてしまったので、今更掘り返す事もできず、すっきりしない。しかし今更それをほじくり出すのも、霧島に悪い。
「霧島さん、結構弟思いですよね」
長畑は感心したような目で、霧島兄を見た。
「僕は一人っ子なものですから、優しい兄弟がいるっていうのは憧れます」
「そうですか? いや、でも結構邪見にされたりしてますよ。歳が離れているから心配なだけで」
霧島兄は、苦笑いを浮かべ八束を見た。
「そう言えば八束君は、ご兄弟っていらっしゃるんですか?」
「妹がいますよ。まだ小学生ですけど」
「そっか、しっかりしていますものね。もし、妹さんが彼氏とか連れて来たらどうするんです?」
「まだ早いです」
八束は眉間に皺を寄せながら言った。
「いやでも、最近の女の子ってそういうところが大人びてるって言うでしょう? 兄としてはやっぱり、そういうのは嫌なものですか?」
「そんなのわかんないですよ。好きにすればいいって思いますけど、ただ相手が変な奴だったら、口出すかもしれないです。そんなのと付き合われても困るし、家に入れたくないし」
「へぇ」
霧島兄は、感心したように笑った。その顔がいかにも「意外にシスコンなんですね」と言わんばかりだったので、少々腹が立った。
「別にそんなにめちゃめちゃ可愛がってるとか、そんなのないですよ。菓子買ってやったり迎えに行ってやったり勉強教えてやったりとか、その程度です。妹だって必要なとき以外寄って来ませんし。便利屋扱いですから俺。別にいいけど!」
「あ、でもそれでもOKなあたり、やっぱり可愛いんですね」
「……」
喋れば喋るほど墓穴を掘りそうだったので、八束は黙り込んだ。そんな八束を、長畑がちらりと横目で見てくる。
「そういえば、僕、この間君の家でご飯食べさせてもらったとき、奈々子ちゃんに『将来結婚して』って真顔で言われたんだけど。どうすればいいかなお兄さん」
「……それは困る」
いろんな意味で、と八束は長畑と複雑な表情で見つめ合ってしまった。
「……えぇと、じゃあレストランの予約は僕がしますので、四名で行くって事にさせて頂いてもいいですか? どのレストランにするかはまた、追々決めるという事で」
微妙な空気の中でいたたまれなくなったのか、霧島兄が控え目に言う。
異論はなかった。
また日を改めてという話になり、霧島兄は帰って行った。


「あんまり行きたく無さそうだったけど、いいの?」
霧島兄が帰った後、気持ちを落ち着かせようと水を飲んでいた八束は、テーブルに座る長畑から声をかけられた。
「……いや、敷居高いってのは確かにありますけど。霧島さんの言う事も一理あるかなと思って」

──誰にだって初めてというのはあるのだから。

その言葉は、八束の中にすとんと落ちた。いろいろな初めての事にうまく立ち回れない自分がいて悔しい中で、なんとなく気が楽になった気がした。
「五万円分、無駄にするのもやっぱり勿体ないですし」
「まぁ、そこだよね」
長畑は笑いながらこちらを見ている。
穏やかな彼の表情を見ていると、八束はふと、尋ねたくなった。
「長畑さん」
「なに?」
「もし俺が、誰かに好きって言われてるところに遭遇したら、どうします?」
「……は?」
長畑の顔が、一瞬で真顔になった。部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
「……なに? そう言うことあったの?」
「い、いや仮定の話ですから……!」
「あ、そう」
(やばいやばい、今目が超怖かった……!)
八束は慌てて笑いながら、水を飲み干しコップを洗った。
やはり世の中、触れない方が良い事もあるらしい。自分自身もかなり嫉妬深いという自覚があるが、この男のそれは、本能的に身の危険を感じてしまうようなそれ、だ。
何でも正直に言う事が必ずしも良い事ではないと、以前グラハムは言っていた。
友達に好きだと言われてしまったと告白したところ、彼は「悪い事を言わないから長畑には黙っておけ」とも言っていた。
そのときは納得しつつも後ろめたいものを感じていたのだが、やはりそれも一理あるらしい。
誰かに何を言われても、他に気を取られるような事はしない、という自信はあるのだが。
(やっぱり、あの人のアドバイスはきちんと聞くべきだ……)
八束は洗い終えたコップを拭きながら、密かに頷いた。