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番外編

(カレーが)死ぬほど好きなわけじゃない


「今日はカレー鍋にしてみました」
 夕方、仕事を終えて作業着姿で家に帰ってみると、ダイニングテーブルの上には見慣れぬカセットコンロと土鍋、そしてぐつぐつ煮えているスープの色が濃い鍋があった。
「……うち、カセットコンロあった?」
「なかったよ。だから買った」
「土鍋も?」
「うん。可愛いでしょ」
 白いYシャツの上からエプロンをつけていたグラハムが機嫌よく指さす土鍋には、ペンギンとひよこがたわむれるファンシーな絵が描かれていた。
 ──確かに可愛い。だが、趣味じゃないなと長畑は思う。
「君の家、何もないからさぁ。鍋とコンロはそのままあげるから、誰か呼ぶときとか使いなよ」
「どうも……」
 しょうがないなぁ、というように言われたが、そこまで人が集まる家ではない。
 一人用には大きな、このファンシーな土鍋は、きっと台所の戸棚の、手に取りにくい奥底に眠るだろうな──と長畑は思う。
 だが、あえてごちゃごちゃいうまい、とも思った。
 たまに、ふらりと日本にやってくるこの男。この家に来ると、この男は料理をよく作ってくれる。
 八束などは当初「あの人料理するんですね」と意外そうな目で見ていたのだが、この男は案外こういうことが好きなのだ。
 なんでもやってみたいタイプのこの男は、地味な家庭料理から凝ったものまで、ごそごそと作る。手先が不器用だとは言われるが、多分、ただ雑なだけなのだ。
 だから正確さが要求される菓子などを作らせるのは、いけない。シュー生地など、膨らんでいるところを見たことがない。
「でも、なんでいきなりカレー鍋」
「食品売り場で試食してたんだよ。スープの素」
「したんだ、試食……」
「うん。いいんじゃないと思ったのでお買い上げ」
 自分は試食コーナーは避けて通る方なのだが、この男は性格上、寄っていくのだろうなと思う。
「まぁ、突っ立っていないで座りなよ。君カレー好きだったよね? 私の記憶に間違いがなければ」
「そうだっけ……?」
 そんなこと言ったかな、と椅子の背を引きつつ考える。
 鍋の中は普通のカレーを想像していたが、意外に白菜だのキノコだのが入っており、具は普通の鍋っぽい。
 スープもさらさらしていそうだ。
「別にすごい好きとかじゃないよ。食べるけど」
「え、そうなの? 珍しく好物みたいな話聞いたんだけど」
「いつ?」
「だいぶ昔」
 イギリスでもカレー料理は食べる。そのときに言ったのだろうか?
「君、すごく食に対して興味薄い男じゃない」
 エプロンを外しつつ、グラハムが言う。
「だから珍しくて、なんとなく覚えてたんだけど」
「えぇ……人をそう無気力人間みたいに言わんでも」
 だが考えてみたが、子供の時からそういうものが特にない気がする。
 そこまでして食べたいものがない。現状、嫌いなものはマヨネーズだが、体が受け付けないわけでもなく、乗ってたら普通に食べる。
 誰かに「好物を作ってあげる」と言われても、逆に自分の好物というものが浮かばないのだ。
 でも、言わないと悪いような気がしたから──。
「……あぁ。母さんには一度、カレーが好きって言ったね」
 ふと思い出して告げてみた。
 あれは自分がまだ本当に子供のころで、日本にいたころのことだ。
 誕生日か何かで、好きなものを作ってあげると言われたのだ。
 本当に思い浮かばなかったのだが、母の言葉と気持ちをないがしろにしてはいけないと子供ながらに思い「カレー」と答えた。
 考えてみると、その日から、カレーが作られる日が若干増えた気がする。
 多分父との仕事で家をあけがちだった母は、そうすることで息子との距離を縮めたかったのだと思う。
 でも自分は、逆に罪悪感を持っていたのだ。
 特別好きだったわけじゃないのだが、自分がそう言ったから、自分が喜ぶと思って、母はこうしてカレーを作るのだ。
 食卓に並ぶカレーだったり、作り置きされたカレーを見るたびに、なんだか悪いなぁ、と感じていた。
 だが、今更特別好きじゃないとは、とてもじゃないが言えなかったので、母の中で「カレー好きな息子」となってしまった自分を受け入れていたし、そう演じていた気がする。
(なんというか……僕はこういうことばっかりじゃないか)
 思い出してみると、懐かしくもあり情けなくもあり、自分のしょうもなさは子供のころから変わらないのだな──と自覚させてくれるような記憶だった。
 しかも肝心の母のカレーの味というものを、正直全く覚えていない。
 覚えておくべきは、自分のそんな反省ばかりの行いではなくて、味の方だったと思うのだが。
「……まぁ、嫌いじゃないんだよ。三食食べたいほどではないけど。グラハムは好きな食べ物って、なんなの」
「私? ……あえて言うならパスタかなぁ? 人生で最後に食べるパスタ選べって言われたら、絶対ボンゴレ」
 にぱりとした笑顔で言われて、即答できるほどこだわりを持ったこの男を、なんだか羨ましく思った。
「……でもこの、カレー鍋って初めて食べたけど、スープが結構甘いよね。子供も食べられるようにしているんだろうけど」
「うん。子供向けを予定して買ったからね」
「……僕らは三十越えですが?」
「違う違う。本当はさー、八束君もご飯誘いたかったんだよね」
 器用に箸を使いながら、グラハムがこちらを見た。
「今日買い物にも付き合ってもらったんだよ。近所のスーパー案内してもらって。でも今日はこの後来れないって。大事な予定があるんだってさ。珍しい」
「あー……そりゃそうだよ。今日、あそこのお母さん誕生日だ」
「あぁ、そうだったの? じゃああの後、プレゼントでも買いに行ったのかね?」
「いや、そういうの恥ずかしいから、お母さんと妹さんを外食に連れてってあげるんだって。貯めたバイト代で」
「へぇ……めちゃめちゃいい子」
「でしょう?」
「なんで君がそんなにどや顔するかな」
 グラハムはそう言うが、なんだか彼も嬉しそうにニヤニヤしていた。
「食べるとき、気を付けなよ。カレーの染みは取れにくいから。特にそこの、お高いブランドのオーダーメイドのYシャツとか着ている人」
「だって、市販のは袖がちょっと短いんだもーん。胸元もぱっつぱつになるし。格好悪いじゃない」
 言いながら、グラハムはカレーの飛び散り避けに、一度脱いだエプロンを再び着ていた。この男、ファッションにもこだわる。
 昔からスーツはイタリアの、特定の老舗ブランドばかり着ているし、シャツも自分の体に合うように、毎シーズン作ってもらっている。
「総額考えたら、多分スーツよりシャツの方がお金かかってるよね……」
「大人は外側より、見えにくいところにこだわった方が格好いいと思うのよ。……というか、私がすぐ汚して駄目にするんですけど」
「うん。だからカレー怖いなって」
「でもさ、安物着ててもパンツが綺麗で立派だったら、勝ってる気がするじゃない?」
「勝ち負けなのかな、そこは……」
 ちょっぴり甘いカレー鍋をすすりながら、考える。夕食を食べながら、話題がパンツなのはどうかと思ったが。
(もっと、好きとか嫌いとか嫌だとか、言ってよかったのかな)
 最近、ちょっとだけ迷う。
 昔の自分は、どこまでが主張でどこからがわがままなのか、よく理解していなかったのだと思う。
 よかれと思って、周囲に気を遣って生きてきたつもりではあったが、何十年と続く自分の人生を考えてみると、人というのはやはり己に素直であったほうが、無理がない。今のように、一生取れない、しかも時々疼いてくれるしこりを抱えて生きるよりは、絶対にそちらの方がいいのだ。
(もっと話をすればよかったね)
 誰に向けて言うでもなく、そう心の中でつぶやいた。
「……ところで僕は今日から、好きな食べ物はって聞かれたら、改めてカレーっていう事にしようと思うんだけど。どうでしょう」
「へぇ。いいんじゃない?」
 なんだかにやりと笑われた。
 多分、自分がいろいろと思うところがあるというのを、この男はよく知っている。
 おかしな話だとは思うだろう。しかし深く突っ込まず、さらりと流していただける具合が、今の自分にはちょうどいいなと思うのだった。

(終)