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薔薇色の道

30 道は続く(終)


「……で、遅くまでゲームして、朝飯食って解散しました」
友人である霧島の家に、佐々木と一緒に泊まったのは、もう一週間も前の事になる。
台所の机の上で事務作業をしていた長畑に、お泊りは楽しかったかと聞かれたので、八束はそのときの事を思い出しながら、出来事をいろいろと語って聞かせた。そのなかで、仲の良い友人たちの今後も、八束は長畑に語った。
佐々木が、東京で美容師の専門学校に行けることになったこと。
偏食ばかりして線の細い霧島弟も、いつの間にか出会った頃とは見違えている事。
「君らは全然タイプが違うのに、仲が良いねぇ」
長畑がテーブルの上は台の上で頬杖をつきながら、八束の話を楽しそうに聞いていた。
「タイプが違うから、逆に良かったのかもしれないですね。バランスが取れていると言うか」
八束も向かいの席に腰かけながら、出してもらった冷たい麦茶をすする。今日のアルバイトはもう終了していたが、何となく帰りがたく、長畑のところに居座ってしまっている。長畑も帰れとも言わず、茶を出してくれた。
「でも、君もゲームとかするんだね。あんまりそういう印象がなかったよ」
「しますよ? 一応。あんまり自分じゃやらないですけど」
八束は茶を飲み干して、グラスをテーブルの上に置いた。友人たちと集まってわいわい遊べるものならやるが、個人で黙々とやるタイプのものは苦手だ。なんだか、その時間が不毛に思えてしまう。
「長畑さんはその手のものって、やりますか? それこそイメージわかないですけど」
ただやり出したら、やり込むタイプのものは凄く上手そうな気もする。そんな八束の問いに、長畑は考える様に小首を傾げた。
「僕は……やらないね。子供の頃は教育上ゲーム機とか、買ってもらえない家だったから、やらないまま大人になった感じ。憧れはあったんだけどね。手を出す機会を逃した」
「でも、留守番多かったんでしょう? その時間、何していたんですか?」
「本を読んでいたりしたかな。ゲームは駄目だったけど、本はいくらでも買ってくれたから。漫画は駄目だったけどね」
「……意外に、教育めちゃめちゃ厳しい人たちだったんですね」
玄関に飾られている、彼の両親の姿を思いだす。少しだけ色あせた古い写真に写っている彼らは、とても上品で優しそうな人たちだった。八束のそんな渋い顔を見て、長畑も笑う。
「うん。優しかったけど、勉強に関しては厳しかったよ。多分二人が生きているときに大学辞めていたら、こっぴどく叱られただろうね」
長畑は書類を持ち、角を机の上で整える。
以前は触れ辛かった彼の両親の話も、イギリスから帰ってから、なんとなく話しやすくなった。それは長畑も同じらしく、特にはぐらかす事もなく、普通に返してくれる。元々湿っぽさなど出さない男だったが、何となく感じが違うと思うのは、この男の中でも何かが一区切りついたから、なのかもしれない。
「で、君は止まり木にとまった鳥みたいにずっとそこにいるけど、帰らなくていいの? 夕飯とかあるでしょう」
「……今日は、妹の学校の運動会だったんですよ」
椅子の上で膝を抱え、八束は呟く。
「母親は朝からそっちに行っていますし、ご飯二人で食べてくるからあんたは適当にしてって、さっきメールが来ました」
「あ、それでちょっと拗ねているの?」
「……別に、拗ねてはないですが。なんか疎外感は感じています」
八束の正直なつぶやきに、長畑が笑った。
「なら、こっち休んで一緒に行けばよかったじゃない」
「それもどうかと思いますし……元々、妹から来んなって言われていたんですよ」
別に行きたいとも何も言っていないのだが──生意気盛りの妹は「お兄ちゃんは来なくていいから」と真顔で言い放った。
別に小学校の運動会なんて行きたくもねぇよ、とは言い返してやったが、どんどん生意気に育っている気がして、兄としては複雑な気分だ。昔はもうちょっと可愛げがあった気がするのだが、歳が離れているからと、甘やかし過ぎたのかもしれない。
絶対にあの妹は、兄を便利屋か財布程度にしか思っていない。
「ふぅん。奈々子ちゃんも、反抗期なのかなぁ」
「反抗期って言うか、それが素ですよ」
意外そうに語る長畑の言葉に、八束は苦々しく呟いた。
顔も、そして面食いなところも母親から受け継いでいる妹は、長畑が家に来ると変貌する。長畑の前では、こちらが驚くほど愛想も良く、純真無垢な女の子だ。だから長畑もこの子はそうなのだと思っていて、素直に可愛がってくれるのだが、素の姿を知っている兄としては、ころりと変わる態度に微妙な気持ちになるのだ。
母はそんな妹の事を「女なんて、子供でもそんなもんよ」と言っていた。
何が「そんなもん」なのか、未だによくわからないし、あまり知りたいとも思わない。
「あいつ、絶対長畑さんに惚れているんだと思います」
「うーん……大きくなったら結婚してって、真顔で言われたからねぇ」
「それ、なんて答えたんですか?」
「それは内緒。乙女心を傷つけたくはありませんから」
長畑がにんまりと笑った。多分この男も、適当に流したのだと思うのだが、少し気になる。妹にまで嫉妬をするのは馬鹿馬鹿しいと思うので、八束もそこまで深刻には気にしなかったが。
「でも、君を見ていて思うけど、きちんとお兄さんしているよね。霧島さんを見ても思うけど、兄弟の一番上ってしっかりしているなぁと思う。何だかんだでね」
「……一番上って、結構微妙ですよ」
複雑な気持ちで、八束は長畑を見た。
「その、しっかりしている前提で全部任されますから。下は上を見て育っているから、結構したたかですし」
「ふぅん。僕は一人っ子でわがまま放題に育っているから、そのあたりはあまりわかってあげられないかなぁ。でも僕も兄弟が欲しかった。兄とか、姉とか」
「グラハムさんがいるじゃないですか」
「あれは、なんていうかちょっと違うんだよ」
今はイギリスにいる男の名を出すと、長畑は困ったように苦笑しながら答えた。
夏にイギリスで会って以来だが、また多分、そう遠くないうちにこちらへ来るだろう。あの男はとても自分に正直で、ときどき羨ましくなってしまう事があった。
「あの人も、兄弟いるんですか?」
「いるよ。よく似た顔のお姉さんが一人ね」
「よく似た顔の……」
想像してみたが、そんな女性というのが上手く想像できなかった。強そう、と思わず失礼な事を考えてしまう。
「背が高くて、綺麗な人だよ。僕も会った事があって、僕には凄く優しかったんだけど、グラハムは子供の頃によくいじめられたみたいで、いまだにお姉さんの事は怖いみたい」
「へ、へぇ……なんか、あの人の家、賑やかそうですもんね」
「あそこの家庭には、皆あんな感じだからね。君も、もしまた向こうに行って、機会があるなら会ってみたらいい。こっちが喋る隙間を与えてくれないから」
(よく喋る人達なんだろうなぁ……)
長畑のそんな言葉に、八束はなんとなくそんな納得をした。会ってみたいような、会うのが怖いような──そんな気分だ。
椅子の上で膝を抱えて唸っていると、台所の引き戸が開いた。
「──あぁ、良かった。まだ八束君がいて」
そう言いながら入って来たのは、三崎だった。何かほっとしたような、そんな顔でこちらを見ている。
「あれ、三崎さんさっき帰りませんでしたっけ?」
八束は椅子に座ったまま振り向く。いつも夕方には帰ってしまう三崎を、先ほど見送ったばかりだった。
「帰ろうとしたんだけど、その前に、渡すものを渡しておこうと思って。八束君と最近、なかなか時間が合わないし」
「渡すもの?」
八束が首を傾げると、三崎は後ろ手に持っていた、小箱を差し出した。マットな質感の黒の包装紙に、青いリボンまでついた、長方形の細長い箱だ。
「……これ、なんですか?」
「就職祝い。万年筆」
「──あぁ」
就職祝いと言われて、八束は恐る恐る手を伸ばす。
「その、ありがとうございます……」
「春から環境変わるけど、頑張ってね」
思わず椅子から降りて頭を下げると、三崎は品の良い笑顔をくれた。なんだか申し訳なさと照れくささが、同時に湧き出てくる。

内定をもらったのは、数日前の事だ。
あれこれしつこく考えて悩んでいたくせに、教師に勧められるがまま受けてしまった店舗の面接だが、放課後職員室に呼び出され、受かった事を告げられた。
そのときの心情を思い出すと、随分あっさりしていたな、と今では思う。
嬉しいとか何だとかよりも、まずほっとしたのが先に来た。
先が決まらない重苦しい不安からは解放されたが、いざ決まってみるとできるのかとか、未知の世界にそんな不安が生まれている。だがもうここまで来てしまったので、春からは気合を入れてやるしかないとも思っている。
「今時の子は、万年筆とか使わないんじゃないかなと思ったんだけど、他に思い浮かばなかったし、無難な送り物の方がいいかなぁと思って。この人に聞いても、全然参考にならないし」
三崎はちらりと、椅子に腰かけたままの長畑に視線をやった。長畑はどこか罰が悪そうな顔で、その視線を受け止める。
「……仕方ないじゃないですか。年代とかいろいろ離れているんですし、今時っていうのが僕もよくわからないし」
「仲が良い癖に、こういうときに役に立たないのよね。長畑さんもまだ若いのに、言うことがなんか年寄り臭いし」
「よく言われます」
「……いや、まぁ、あの、お気持ちだけで十分ですから」
放置しておくと、三崎の小言がさらにヒートアップしそうだったので、八束は慌てて割って入った。
三崎も八束には優しいのだが、長畑には案外容赦ない。
だが悪意があるからではなく、遠慮なくものを言える関係なのだ、とは八束もわかっている。
はっきりと聞いた事はないが、三崎には子供がいないらしい。ずっと夫と二人暮らしをしていると、ちらりと聞いた事がある。だからだろうか。長畑の事を、手のかかる息子のような感覚で扱っているところがあった。
長畑自身も三崎の事は裏表なく慕っており、以前「こちらでの母のようなもの」だと言っていた。だから今も、全く怒っていない。むしろ困ったように笑っていた。二人にとってはこの程度、じゃれ合いの範疇なのだろう。
(俺、万年筆なんて使った事ないな)
八束は丁寧に包装された、小箱を見つめる。しかしこうしてわざわざ祝ってくれる、三崎の気持ちはありがたい。そしてこういうものを渡されると、自分のここでの日々がもう少しで終わってしまうのだと、改めて実感した。
「あの、お世話になりました。まだ冬まで辞めませんけど」
八束はもう一度、三崎に頭を下げる。
「凄く良くしてもらったし、お返しも何もできないんですけど」
「いいのよ、そんなの気にしなくて」
三崎は苦笑しながら、八束の肩を叩いた。
「あともうちょっとだけど、よろしくね。卒業しても、また遊びに来ればいいのよ」
「はい」
そう言ってくれる三崎の言葉が嬉しくて、八束は笑顔で頷いた。
ここでは人間関係に恵まれた、優しい時間を過ごしたのだと思った。


「三崎さんに、先を越されてしまった」
再び帰る三崎を見送った後、椅子に座った長畑が腕を組みながら呟いた。
「何が、ですか?」
「君の就職祝いだよ。何にしようかもうちょっと考えようとか思っていたら、出しぬかれた」
長畑がなんだか珍しく悔しそうだったので、台所で使ったグラスを洗いながら、八束は思わず笑ってしまった。
「別にいいですよ、そんなの気持ちだけで」
まだ、決まっただけだ。これからどうなるかもわからないのに、盛大に祝われても、うまく行かなかったときに恥ずかしい。
「でも長畑さんも、何か考えてくれていたんですか?」
「うん。君には何がいいかなって。考えてみたら、僕は君に何かプレゼントって、したことがないかもしれない」
「誕生日ケーキは貰いましたよ。ホールケーキ」
「あれは食べ物だからね。あんまりそういう事をしてあげてなかったなぁ、と思って」
「じゃあ、他の人と付き合っているときは、なんやかんや贈ったりしていたんですか?」
「いや……あんまり。だから甲斐性がないって言われたんだと思う」
(面と向かって言われたのかよ……)
いつどこで、とまでは聞けなかった。詳細を聞いたら、逆に無関係の自分が、相手に腹を立てそうな気がした。
「別に物貰ってないから甲斐性なしとか、俺は思わないですよ。ところで、話は変わるんですが、俺の晩飯に付き合ってもらってもいいですか?」
グラスを戸棚に収めて、八束は言う。
「家族に放置されて出かけられてしまったので、何か虚しいんですよ」
「別に悪気はないでしょう、君の家の場合」
少々自虐気味に言った八束を見て、長畑が苦笑した。
「もう一人前だって、認めてもらっているからでしょう? まぁ、僕で良ければお付き合いしますよ」
「あなたじゃ駄目だって理由が、逆に浮かばないですけどね」
今更二人での食事というのも、珍しくなくなってしまった。最初の頃は、この男の対面で何か食べるだけで、味も感じないほどガチガチに緊張していた。そんな感覚も、今や遠くなってしまって、当時なぜあんなに緊張していたのか、思い出せなくなっていた。
慣れというのは、恐ろしいと思う。
だが当然のようにそれが出来ている事が、今は嬉しいとも思う。
八束は長畑の後ろに回り込み、椅子の背を引いた。長畑は案外重いので、力いっぱい椅子を引いても、椅子は少ししか動かない。
「早く、立ってくださいよ。俺は腹が減りました」
「もう出かけるの? まだ六時過ぎだよ。外明るいし。ちょっと早くない?」
「歩いて行けば、ちょうどいい時間です」
「ここから歩いて行く気なんだ……さすが、十代は体力有り余っているんだねぇ」
長畑が感心したような呆れた様な、そんな顔をして振り向いた。
「そういう事言うから、三崎さんに年寄り臭いとか、あんな事言われるんですよ」
「いや、十代と三十代を比べられても……まぁいいか。希望通り、歩いて行きましょう」
「そうしましょう。食べる物は、長畑さんの好みで良いですから」
「え? 君のお祝いも兼ねればいいじゃない。好きな物食べればいいのに」
「俺は、一緒に歩きたかっただけですから。そこを押し通したので」
メニューの選択権くらいは、この男に譲らなければ──そう、椅子の背に手をかけながら真面目に言うと、長畑が今度こそ呆れた視線で見上げてきた。
「……やっぱり天然たらしだねぇ、君」
「何でですか」
「だって……まぁいいや。着替えてくるよ」
長畑はそう言うと、作業着を指差しながら椅子から立ち上がった。


九月も後半となったが、まだ日が長い。
この辺りは町はずれで山も近い為、いたるところから虫の鳴き声がする。風で木々が揺れるざわざわとした音と、ヒグラシの鳴き声が、まだ夏だと感じさせた。
時折山から吹き降ろしてくる風が、柔らかく頬を撫でる。自然な、心地よい風だった。
ただ市街地からは結構距離があるので、長畑が歩きをしぶったのは、そのせいだろう。一時間近く歩かねば、市街地に出ない。
「我儘言って、すみません」
肩を並べて、歩きながら呟く。
「いいよ。多少歩いた方が、健康にも良いだろうし」
「普段立ち仕事じゃないですか」
「そうなんだけど、歩くとは、また別なんだよね」
長畑はそう言って笑った。相変わらず優しい男だと思う。
夏休みが明けてから学校が少し忙しく、バイトの時間も少し減らしていた。
秋はやたらと行事が多い。体育祭もあったし、文化祭もある。クラス別合唱コンクールなんてものまであって、受験を控えている者などは「勉強させる気があるのか」と憤慨していた。
週に一回しかこの男の顔を見ない、なんて事もあった。
だがこれからは、それが当たり前になっていくのだろうか。
内定を貰った店までは、車で小一時間かかる。自宅から通うつもりだから、学校がほとんど休みとなる三学期には自動車免許を取って、日々通う事になるだろう。今までのように、帰り際に顔を出してみたり、そういった事はできなくなってくるかもしれない。
自分で決めた事とは言え、そう考えると、少しだけ寂しくなった。
「……そういえば、ずっと聞きたかったんですけど」
八束は、隣を歩く男を見上げた。
「長畑さんって、なんでこの町に来たんですか?」
「ん?」
その質問が意外だったのか、何か別の考え事でもしていたのか──長畑は目を丸くして、こちらを見た。
「出身が、ここだったってわけじゃないですよね」
「生まれは東京だよ」
「じゃあ、なんでここに住もうと思ったんですか?」
「あぁ」
ずっと聞こうと思っていた。だがなんとなく聞く機会を逃したまま、ずるずると時間だけが過ぎていた。
この男は、なぜこの町に来たのだろう? 
新幹線の停まる駅もあるし、賑やかな都市も近い。だが、この辺りは決して特別有名な町ではないのだ。似たような地方都市は、いくら日本が狭いとは言え、沢山あるはずだ。
「それはね、父親の実家が、こっちの方面にあったからだよ」
長畑は立ち止まり、自分達が下って来た道のさらに奥──山深い方面を指差す。
「あの辺り。もうほとんど家がないみたいだけど、昔あの辺りに父の実家があったみたい。僕は直接訪ねた事はないんだけどね」
田んぼが広がる町はずれのこの辺りは、過疎化が進みつつある場所だ。昔はもう少し山の奥側まで家があったようだが、今は空き家が目立つ。
「あったみたい……って事は、もう住まれてないんですか?」
過去系な事が気になって、八束は尋ねた。
「うん。家自体ないみたい。家の方が全員亡くなったのか、どこかに移り住まれたのか、それはわからない。僕自身は付き合いが全くなかったから」
この男の両親は半ば駆け落ちのように結婚したと、以前グラハムに聞いた。親族との付き合いは、幼い頃からなかったようだ。
「もしかしたら、他にもこの辺りに親類がいるのかもしれないけど、今更わからないよね。向こうも僕の事なんてわからないだろうし。まぁ、ここに来たのは、それを期待したからでも頼ったからでもなくて、ここが僕にとって思い出深い土地だったからだよ」
長畑は、笑ってこちらを見下ろした。歩きながら、言葉を続ける。
「僕の父は農家の跡取りだったんだけど、優秀な人だったようで、いずれ地元に帰って跡を継ぐって事を条件に、東京の大学に出たんだ。でもそこで、僕の母と出会ってね。惹かれあって結婚を決めたそうなんだけど、親族に大反対されたらしい。母が外国人だから、受け入れがたかったのかもしれない。そういう時代だったのかもね」
「……でも、結婚したんですよね?」
「うん。駆け落ちってやつ? わが父ながら、思い切った事をするよね」
長畑は苦笑していた。口を挟みづらい重たい話だったが、本人はそう、重くも感じていない様だった。もう随分、過去の話だからかもしれない。
「僕がそんな大人の事情を知ったのは、結構大きくなってからだよ。まだそれを知らなかった、幼稚園くらいのときかな。ある日父が突然、僕に旅行に行くぞって言いだした。父と僕、二人だけの旅行」
長畑の父と母はとても仲が良かったようだから、彼は幼いながらに、母親を置いて行く事に何か違和感を持ったらしい。
「でも、仕事人間の父がそんな風にどこかに行こうなんて、言ってくれるのが珍しくて嬉しくて、僕は喜んでついて行った。ちょうど、今ぐらいの季節だったね。まだ残暑厳しかったのに、父は真っ黒なスーツを着ていた。今思えば、喪服だった」
「それって……」
八束の戸惑った視線を、長畑は黙って受け止めて、頷いた。
「当時はよくわかっていなかったけど、よくよく考えてみると、多分実家の誰かが亡くなったんだろう。疎遠にはなっていたけど、誰かから密かに連絡を受けて、父は息子の僕を連れてこの地に帰ったんだ。でも、葬式らしいものには出た記憶はない。この辺りを車でぐるっと回って、終わった気がする」
この地まで来て、何故葬儀に出なかったのか──それは長畑にもわからないという。
彼の父に最後の勇気がなかったのかもしれないし、親族に拒まれたのかもしれない。
「でも子供っていうのは残酷なもので、僕は大人の事情なんて、そのときはさっぱり理解していなかった。父がどんな心境なのか知らないまま、普通にはしゃいで、旅行を楽しんでいたよ。父の心情を考えると、少し申し訳ないね」
「別にそれは、悪くないと思います。わからなくて当たり前じゃないですか。幼稚園児にそんなの察しろって言う方が、無理ですよ」
「まぁね」
八束の少々むきになった言葉を、長畑は柔らかく受け止める。
「でも、そんな事もあって、この地が凄く印象深くなったのは確かだよ。僕はそのとき都会育ちで、この地の風の柔らかさとか、山や田んぼの鮮やかな緑とか、夏の空の青さとか、のどかさとか……そういうものすべてが珍しくて、美しく見えたんだよね」
「幼稚園でそんな事思うとか、相当渋いですね」
八束は思わず、そんな感想をもらす。自分が幼稚園の頃は、そんな事思いもしていなかった。何を考えて生きていたのか、それすら記憶にない。情緒なんて理解していなかった事は、確かだ。
だがこの男は昔から、幼き頃に見た光景というのをよく覚えていて、その頃感動したものを未だに大事に、心の中にとっている。相当感受性が強いのかもしれない。
「渋いよね。自分でもそう思う。嫌な子供だよ」
八束の言いたかった事はそうではないのだが、長畑はそう言って笑っていた。
「だからね、日本に帰ってこういう仕事をしようと思った時、まず浮かんだのが、この町の景色だった。父ではなく僕が帰るっていうのも、何か運命めいているなぁと思ったし。まぁ、結果良かったよ。こうしてなんとかやっていけているし、善い人も多かったし、君にも会えた」
「……」
何と返したらいいのかわからず、八束は黙ってしまった。きっとこの男が、そうして過去の思い出を大事にしていなかったら、こうしてこの男に出会う事もなかったのだ。
「……最初の頃、俺酷い事言いましたよね」
「何が?」
「俺の事も見てって。今考えたら凄く恥ずかしいんですけど、長畑さんが昔の事ばっかりで、俺の事全然見てくれていない気がして、そんな事を言いました」
「あぁ。そんな事もあったね。別に酷くないよ」
懐かしそうに、そう言われた。多分、この男は大して気にしていないのだろうが、八束は未だに後悔している。
今だったら、絶対そんな事言わないのに。
自分の中で生まれ始めた感情に、もうちょっと上手く付き合えたはずなのに。
当時の自分は、それに押し流され押しつぶされ、相手がどう思うかも思いやる余裕もなくぶちまけるだけで、本当に幼かったと八束は思う。
少し落ち込んでいると、頭をぐりぐりと撫でられた。
「あれがあったから、この子面白いなって思ったんだよ。じゃなきゃ、薄っぺらい付き合いで終わっていたかもね」
「……そうなんですか?」
「うん。だから、何も無駄にはなっていないし、僕が腹立たしく思った事もない。若気の至りなんて誰にでもあるんだからね。僕もいろいろやったよ」
(やっぱり若気の至り的なやつなのかよ)
けらけらと楽しそうに笑われて、八束はそんな事を思うが、この男がそうやって笑い話にしてくれるので、まだ救われる。
何度もそうやって、救われてきた。
「長畑さん」
八束は隣を歩く長畑を見上げる。この一年と少し、身長差はあまり縮まらなかった。少々伸びたが百七十にも届いていないので、きっと自分は、この男を一生、見上げ続けるのだろう。
「その、今までありがとうございました。もうちょっとここにはいますけど、春には違う所にいます」
「うん」
長畑も頷く。
この男は、本当に自分の進路に口を出さなかった。
決まったと一番に自分の口から報告したが、良かったねとか、おめでとうとか、頑張ってねとか、そんな普通の言葉をくれただけだった。もうちょっと別の顔を見せてほしいと思ってしまったが、この男は己の中の誓いを、忠実に守っているのだともわかった。
──重荷にならないように。邪魔しないように。
自分のぐだぐだ加減にも、何か言いたかった事はあるだろうが、余計な事は言わなかった。普段は優しいくせに、徹底的に、自分の頭で考えさせた。冷たく感じてしまった事もあったが、今はそれで良かったのだと思うし、有難いとも感じている。この男もきっと、頭が擦り切れるほど考えて、生きて来たのだろう。
あと何年か経ったとき、こうして悩んだことを懐かしいと思える様になるのだろうか。くだらないと思うようになっているのだろうか。
先の自分の姿というのは、未だに想像ができなかった。浮かぶのは、思い出ばかりだ。
「でも俺にも、心に残る景色ってのは、できましたよ」
「どんな?」
「長畑さんのところに初めて来たときに見た、満開のバラの海です。あれは本当に、凄いなと思いました」
八束のそんな言葉は予想外だったのか、一瞬長畑が目を丸くした。
「そうなの? まぁ、一番いい時期に来たからね」
苦笑交じりに言われた。なんだか気恥ずかしそうだった。こちらも大真面目に言うのが恥ずかしくなって、八束も苦笑する。
「俺は、あんな綺麗なものは初めて見たんです」
──そして、その中に立つあなたの姿に、心から惹かれたんです。
さすがにそれは恥ずかしすぎて、口に出せなかった。
だがその綺麗さは、きっかけに過ぎなかった。この男を知れば知るほど好きになっていって、今は一緒にラーメンを食べたり、肩を並べて談笑したりする仲になっている。
「俺は、あなたが待っているところに行けるんでしょうか?」
──対等になりたい。
八束は以前、そう言った。一方的に支えるわけでも、支えられるわけでもない存在になりたいんだと、この男に言った。だが今思うと、それすらも恥ずかしい。
年齢の差も経験の差も埋まるわけがなく、この男もそう簡単に埋まってもらっても困ると思っている事だろう。案外プライドが高いのが、この男だ。
「もう、来ているよ」
だが長畑は歩みを止めずに、呟いた。
「今だって、一緒に歩いている」
「まぁ、そうですけど」
現実としてはそうだけど、と思っていると、長畑が少しだけ笑った気配があった。西日が眩しくて、表情はよく見えなかった。
「それに君は、僕が今までどれだけ君に救われたかなんて、多分知らないんだ」
「……そう、ですか?」
思わず、言葉に詰まる。どう返していいのか、わからなかった。
「だから足りてないなんて思ってない。注文もない。小難しい事もいらない。ただ」
「ただ?」
「これからも、どこに行っても、僕のそばにいてくれればいい。それだけ」
ヒグラシの鳴き声と、木々のざわめきの中呟かれた言葉は、八束の中にかすかな痺れをもって、溶け込んでいく。
様々な思い出が、鮮やかな色と共に、走馬灯のように駆け巡った。
知らず知らずのうちに呼吸を止めていたことに、胸の苦しさから気付いた。
「……当たり前です」
八束は、肺から空気を絞り出すようにして、そう呟いた。笑えばいいのか泣けばいいのか、咄嗟にわからなかった。

山から下る、市街地へと続く一本道。まだ歩きはじめたばかりで、目的地には程遠い。
それでも肩を並べて、歩調を合わせて、歩き続けた。
笑ったり、くだらない事を、ずっと話しながら。

(終)