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夏の光、俺の血筋

07  主人公補正


 長い登り坂を上って、ようやく体育科の校舎に着く。
 園田と別れた健一郎は、ただ突っ立っているだけなのも嫌だったので、どこかに座って時間をつぶす事にした。周囲を見渡して、白い校舎の傍にあった木陰に移動する。
 校舎の中は夏休み中らしく、人の気配がない。しかしがらんとした校舎とは対照的に、体育館やグラウンドからは賑やかな運動部の声が聞こえてくる。夏休み中だが、帰省している生徒は少ないのだろう。
 ただ、野球部の姿は見当たらない。
 園田の話では、校内の部活動停止処分が解けるのは二学期に入ってからで、他校との試合に関しては年内難しいだろうとの事だった。秋まで試合できず、その上不祥事明けなので、春の選抜大会への参加はほぼ絶望的となる。残された部員にとっては、とても険しい再生への道だ。
 兄が密かに教えてくれた話によると、野球のOB達は今回の不祥事に対して怒っている者もいるが、ついに出ちゃったか、と言う様な呆れた気持ちで見ている者も少なくないらしい。
 ──いろんな人間が大勢集まって、先輩が絶対って言う縦社会だからな。誰しも理不尽で、胸糞悪い思いした事は、一つ二つあるだろうよ。
 兄はそう苦笑しながら言っていた。昔から、いじめとまではいかないまでも、過剰な後輩しごきなどは表沙汰にならないだけで存在していたらしい。
 ──あんなの、当たり前の空気であっていいわけがないからね。膿を出すというか、園田君の時代からは変えてくれたら、それでいいんじゃないの? 
 そう言う兄に、「兄貴もそういう経験あるの?」と健一郎は聞いたのだが、彼は笑って誤魔化すだけで、何も言わなかった。
 兄の彗は入学当初から実力的にも目立っていたようなので、何かしらその「理不尽で胸糞悪い思いを一つは二つ」経験した事もあるのかもしれない。彼が未だに当時の仲間や後輩たちに慕われているのは、そういったものが当たり前とされていた環境の中で、その空気に賛同しなかったからではないか、と今になって思った。
(でも俺だったら多分、兄貴みたいな立ち回りはできなかっただろうなぁ)
 自分としても、そんな環境は間違っていると思うし、それが当たり前だとまかり通るのも嫌だ。
 だが自分がその環境にいても、そんな荒っぽい先輩たちに賛同しない、逆らってでも間違っていると主張する──そんな勇気は出ないだろうと思う。関わりたくないと、見なかったふりをするかもしれない。
 本来であれば、高校のスポーツなんて爽やかであるべきなのだろう。
 ただこういった特殊な科に来る生徒たちは、小さい頃からスポーツ漬けで、それまでその世界では優秀だった者たちだ。将来もその道で大成したいと思っている者も多いはずだ。
 だがこういったある種の強豪校に来てみれば、似たような実力を持つ者は山ほどいる。下級生に追い越される事もあるだろう。それは悔しいだろうし、嫉妬や焦りに追いつめられることだってあるだろう。
 健一郎だって、身に覚えがある。自分がまったく上手くなれない事、怪我をして、何故自分だけが、と周囲に逆恨みのような感情を持った事──それは、覚えている。
 でもだからと言って、周囲を攻撃して憂さを晴らしていいわけがない。
 健一郎は、周囲に当たりはしなかったが、それを誰にも言えずに抱えたまま辞めた。悔しさも不条理さも、誰にも言わないまま辞めた。それが良かった事なのかは、今もわからない。きちんと自分の中でけりをつけず衝動的に辞めたから、未だこうして鬱々しているのだ。
 きっと、そんな挫折感や屈折も飲み込んで人間的にも技術的にも成長できる者が、真のスポーツマンなのだろう。
(……我ながら、すっげぇ哲学してんな)
 健一郎は一人、コンクリートの上に座ったまま、そんな事を考えた自分に思わず苦笑した。
 らしくないない、とも思う。
 園田が来てから、自分は考え込む事が多くなった。当時の悩みや、諦めてしまったモヤモヤを、昨日の事のように思い出すようになった。
「……しっかし、あいつ遅ぇ」
 そのモヤモヤを吹き飛ばすように、健一郎は頭をかきつつ独り言をつぶやく。
 思わず携帯を取り出して、時刻を見た。園田が寮に入ってから、既に十五分は経っただろうか。友達に置き忘れた冬服を用意してもらうとは言っていたから、すぐ戻るだろうと思っていたのだが、久々の再会に話しこんでいるのだろうか?
 大きな寮だ、と健一郎は建物を見上げた。鉄筋コンクリート製の、五階建ての建物。もとは真っ白な壁だったのだろうが、今は灰色にくすんでしまっている。相当年数の経過した建物のようだ。古びた市営住宅のような雰囲気を持つこの建物で、多くの生徒が暮らしている。
 体育科の校内は、健一郎の通う普通科とは全く異なっている。校内には、生活雑貨やジャージなどの衣服を売っている売店まであった。食事は寮内で提供されるのだろうし、ある程度は外に出なくても生活できてしまいそうである。普通科にはここまでの設備はないし、寮もないので、環境の違いが面白い。
 そのとき、寮の入り口から園田が出てくるのが見えた。遅い、と文句を言おうとして、園田の背後に二、三人の男子生徒がくっついているのが見えた。
(友達か?)
 一瞬そう思い、何故か遠慮して隠れる様に身を屈めてしまったのだが、どうやら友達なんてものではないらしい、という事は園田の表情からわかった。
「……まだ言いますか。寮は出たじゃないですか、御望み通り」
 園田は、後ろを振り向きもせず言った。その表情はうんざりしているような、不機嫌そうな、苛立つ心を必死に押さえているような表情だった。園田の後ろにいるのは、日に焼けた少々ごつめの男子生徒だ。ジャージと半袖のTシャツを着ているが、刈り込んだ短髪は野球部のように見えた。
「……あいつらが学校辞めたの、知ってるだろうが。お前はろくな処分受けてない癖に、不公平だとか思わないのかよ」
「別に、あの人たちに退学処分までは出てなかったでしょう? 先輩たちが自分でお辞めになったのなら、俺は知りませんよ」
(あの話、か?)
 身を屈めた健一郎の姿は、樹が邪魔をして園田達からは見えないはずだ。健一郎は内心どきりとしながら、園田と男子生徒二人との会話を見守っていた。
 どうやらあの二人は、園田の一学年上、三年の生徒らしい。園田をいびっていたという連中なの仲間かもしれない。
「そもそも、確かに俺は先輩を殴りましたが、最初から散々やってくれたのは先輩方ですよ。俺の靴は捨てるわユニフォームは捨てるわ、今時の小学生でもやらないような幼稚な事してくれたわけで。そんな事をするなら、もっと別の方面で頑張れば良かったのに。それだけでも、明るみになったら問題でしたよ? 俺が言わなかっただけで」
 園田は鼻で笑いながら告げた。彼は健一郎が見た事もないような、冷徹な顔をしていた。
「俺は辞めませんよ。先輩方が、今更何を言おうが」
「……ふぅん。やっぱり犯罪者の息子ってのは、図々しいんだね。育ちが出てるわ」
 園田の言葉に顔をしかめていた三年は、嘲るようにそう笑った。
(……犯罪者?)
 その言葉に健一郎は疑問を浮かべたが、園田は眉一つ動かさなかった。三年の生徒一人が園田の襟元を掴み、顔を近付ける。
「言っとくけどな。皆知っているんだよ。お前の親父がどうしようもない奴で、堀の中に何度も入った事があるような奴だって事。そんな奴、まともなわけがない。お前は確かに凄いのかもしれないがな、絶対後々まで、親父の話がついてまわるぞ。それでお前はまた、暴力沙汰を起こすんだ。続けたって、絶対そうだ。ろくな人間になれっこないね」
 園田は、それを言い返さずに聞いていた。胸ぐらを掴まれながらも、冷めた顔で相手を見下すように見ていた。だが下げた左手は、僅かに震えながら拳を握っているのが見える。
(園田の親父──)
 どうしようもない奴で、とは聞いている。もう故人だと言うが、園田自身も父の事は嫌悪している。
 だが捕まった事もある、とは健一郎も聞いていなかった。
(でも待て、園田)
 健一郎は園田の震える拳に目を向けた。
(そいつら、またお前に騒ぎを起こさせる事が目的だろ。殴ったら駄目だ)
 一度目は、まだ周囲の証言により『被害者』とされた事で、彼自身はさしたる処分は受けていない。だが二度目は違う。煽っているのはあちらだが、二度も騒動を起こせばどうなるか、わからない。
 面倒は嫌いだ。あんな連中と関わりたくなんてない。体も大きいし、二人もいる。何をされるかわからない。
 だが、ここで園田は潰れるべきじゃない──なぜかそんな衝動に突き動かされた。考えるより先に、健一郎は物陰から飛び出していた。
「……園田!」
 健一郎は声を上げながら、三人に歩み寄った。園田は潜んでいたこちらに気付いていなかったらしく、驚いたような顔をした。それは後ろの二人も一緒で、突然現れた男に目を丸くしていた。
「……話が長い。待たせすぎ。もう帰るぞ」
「あ、あぁ。でも」
 腕を掴んで引っ張ると、園田は戸惑ったような声を出す。
「おい、お前何──」
 三年の生徒が何か言いかけたが、健一郎は思いきり睨みつけた。
「うるせぇ。二人して後輩イジメとか、やる事ガキかよ。だから今の野球部は谷間世代とか言われるんだよ!」
 いらいらして、思わず吐き捨てる様に言ってやった。相手の顔が怒りと羞恥でみるみる真っ赤になるのを見て、瞬間「やっべ」と思ったが、出た言葉を引っ込めることなど、今更できない。
「おい、逃げるぞ」
 同時に園田に耳打ちすると、園田も小さく頷いた。
 園田の手を引いてダッシュでその場を駆けだしたのだが──園田の方が、明らかに足が速かった。逆に引きずられるかたちとなりながら、健一郎は体育科の校舎を後にする。後ろで三年が何か言いながら追いかけてきたが、知った事ではない。
 徐々に小さくなる校舎を振り返りながら、二人は全速力で、山に囲まれた下り坂を走り抜けた。

「あんなに走ったの、すげぇ久々……」
 坂を下って、市街地を抜けて河川沿い。以前、兄と来た事のある川沿いの運動場までやってきて、ようやく一息ついた。さすがに、ここまでは彼らも追いかけて来ないらしい。
 体力不足を自覚している健一郎は完全にスタミナ切れして、川沿いに項垂れながらぐったりと座り込んでしまった。走り過ぎて気分が悪い。吐きそうだ。
「ごめんな、園田。なんか腹立って、余計な事言ったかも……」
 普段やらない様な事なんてやるものじゃない、と今更ながらに後悔した。園田を今以上に、学校で居辛くさせてしまうかもしれない。と言うか、もう二度と体育科の校舎に近寄りたくない。
「いや、いいよ」
 園田も汗だくで、隣に座り込んだ。さすがに息が切れている。
「あいつら、ずっとあんなだから。殴るほどの度胸なんてないよ。つるんで口で言うだけ。今更だよ。でも」
 呼吸を整えながら、園田がこちらを見る。
「お前がそこにいたとは知らなかったけど、出てくるとも思わなくて、ちょっと驚いた……急になんか言い出すんだから、ちょっと待てとか思って」
「いや、ほんとすみません。俺一人だと捕まってたかもね……」
 健一郎は深く息を吐きだした。言うだけ言って逃げたのだから、格好悪いとしか言いようがない。あのまま捕まっていたら、何か殴られるなりしたかもしれない。園田の足の速さに助けられたかたちだ。
「……で、聞いてた? 全部」
 園田が、こめかみから汗を垂らしながら言った。何が、とまでは聞かれなかったが、健一郎は察した。園田の父の事だろう。
「……まぁね」
「──あれね、昔の事だよ。あのクソ親父、若い頃にヤクザの手下みたいな事をしていたらしくて。金の事とか、恐喝まがいの事をして捕まったらしい。そんなに長くは入ってなかったみたいだけど……俺こっち来てから誰にも言ってなかったのに、ああいうのって、どこからか絶対ばれるんだな」
「まぁ、そういう事話すの大好きな人って、絶対いますし。でもあいつら、多分それでしかお前の事攻撃できないんだろうな。そりゃ二流で終わるわって感じ。くっだらねー」
 健一郎の呆れた声に、園田は苦笑した。
「でも、あいつらの言うことも間違っちゃいない。何度か言われたけど、同級生の顔も引きつってたしね。普通、引くよ。この先も、親父の事で俺言われ続けるのかな」
「それは、わからないけど……だからって、殴ったらあいつらの思うつぼだぞ。お前は反面教師にして、まともに生きるんだろうが」
「……うん、まぁね。そのつもりですけど」
 園田はため息をつきながら、河川敷に寝っころがった。さわさわとした風が、心地よい。
「……お前、メンタル強いよね」
 その姿を見ながら、感心した声で、健一郎は思わず呟いた。学校で常に先輩や周囲の人間にからまれるような生活だとしたら、自分だったらすぐに学校に行きたくなくなってしまうだろう。
「強いって言うか、慣れただけだね」
 その言葉に吹き出すように、園田は答えた。
「一番腹立ったのは、スパイクだのユニフォームだの汚されて捨てられた事だね。買い直すの、高いっつーの。うち、あまり金ないからさぁ。そんな事親には言えないし」
 彼の家庭は金銭的にあまり余裕のある家庭ではなかった、と聞いている。母親思いのところもあるし、言わないだけで、相当悔しい思いをしてきたのだろう。
 健一郎も園田の隣でごろりと後ろに寝っころがった。空はひたすら、天気が良かった。白い雲はゆっくりと流れていく。はるか向こうに、夏らしく大きな入道雲が見えた。
 凄まじく馬鹿な時間を過ごした気がするが、空は爽やかなブルーだ。
「……ありがとうな」
 隣で、園田が呟いた。
「庇ってくれて」
「……いーえ。言うだけ言って逃げただけなんで、しょうもないですよ」
 健一郎は情けなく笑った。きっと兄だったら、もっと格好よく解決しただろうに。
「しょうもない事はないよ。なかなか、ああやって間に入ってくれる奴っていないもんだ」
「俺部外者だし、体育科の連中とそうそう顔を合わせる事なんてないし……あとまぁ、一応同居人だし? 見捨てては帰れないかなーって。そんな事したら、親父に怒られるし……そう言えばお前、冬服持って帰れたの?」
「一応ね」
 彼はビニールがかかった学生服を持ち上げて見せた。
「あいつらと顔合わせる前に、これ持ってきてくれた同級生たちと話しててね。それでちょっと遅くなった」
「何を?」
 また嫌な事だったら嫌だな、という思いは、素直に声に出てしまったらしい。園田が笑った。
「胸糞悪い話じゃない。ただ、来年は頑張ろうなって。部を立てなおして、新しい気持ちで、夏の試合に向けて頑張ろうなって。皆、二年とか一年は今も辞めずに自主練してるんだ。もっと前に止められなくて悪かったって、また謝られた。俺のせいでとばっちり食ったのにね。あいつらの方が、責任感じているのかも」
「……ふぅん」
 健一郎は、ゆっくりと流れていく雲を見上げながら、唸るような声を出した。
 ──彼の周りが、あんなどうしようもない連中ばかりでなくて良かった、とも思った。
「そうやって、苦難を乗り越えて主人公は仲間と強くなるって話だよね。スポーツ漫画の王道パターンだ」
「……お前、漫画の読み過ぎだと思うよ」
「それは否定しない」
「まぁ漫画のように、綺麗にうまく行けばいいけどね。試合勘取り戻すのは結構きついし、不祥事起こした部っていうイメージは、なかなか消えないだろうし」
「そうだね。──現実ってのは、なかなかうまくいかないわけで」
 努力が報われるとも限らない。
(でも、愚痴っても、やっぱり最終的にはそういうのを信じたいんだよね)
 腐るばかりでは駄目になる。
 自分は諦めてしまったけど、苦難を乗り越えて成功できるというストーリーを、この男には見せてもらいたいのかもしれない。
「お前は漫画で言えば主人公みたいなやつだからね。主人公は絶対、強運もちなんだよ。他の人にはない運があるんだ。だからいけると思う」
「……何がいけるのかよくわからないけど、励ましてくれているんだと受け取っておくな、一応」
 園田は、あまり漫画を読まない。彼の困惑した声を聞いて、健一郎はけらけらと笑った。
 沢山汗をかいて、走って、久しぶりにすっきりとした気分になっていた。