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檻の中のカラスと孔雀

11:猛禽、己の傷を自覚する


 降り始めた雨が、窓ガラスを濡らす。
 流れる水滴を眺めながら、テオドールは一人息をついていた。
 厨房と食堂の掃除は、大まかにだが終わらせた。単純作業は好きだし凝り性のところがあるので、気が付けば黙々と作業してしまった。磨き足りないところはあるが、一気にやってもどうせ今日中には終わらない。
(こういう、熱中できるものがあるのはいいな)
 テオドールはしみじみ思った。不安も腹が立つことも、ひとまず忘れることができる。
「……テオドール。キール、遅いね」
 アルノリトは窓際に運んだ椅子に乗って、身を乗り出して窓の外を覗いていた。
 先ほどまでこの少年はソファで昼寝をしていたのだが、起きるとぐずることもなく、マキーラと追いかけっこをして遊んでいた。
 マキーラは自分よりも、子供の相手の仕方を知っている。危なくない場所を捕まらない程度に飛び回るマキーラは賢い。目が合うと、妙に悟った顔をされた。「任せろよ……」とでも言われている気分になった。
(お前が一緒でつくづくよかったよ……)
 今晩は膝の上に乗せて、満足するまで撫でていたわってやろうと思う。
 そんなことを思いながら、テオドールも、アルノリトの後ろから窓の外を覗きこむ。降りしきる雨粒は大きく、周囲の草むらにも水たまりができている。
「……あいつ、いつもこれくらい遅いのか?」
 問うと、アルノリトは振り返り、首を横に振る。
「うぅん。朝に出かけても、昼過ぎくらいには帰ってくるよ。何か、あったのかな?」
 アルノリトは不安そうな様子だった。もしかすると、もう帰ってこないのでは、と少し思っているような様子だった。
「戻るとは言っていたから、大丈夫だろ。あいつは真面目だ」
「うん……」
 返事はしつつも、心細くなってしまったのか、アルノリトは椅子を降りて、テオドールの足にしがみついてきた。抱き上げてやると、身を寄せてくる。
(なんだかんだで、あいつを頼りにしているんだな)
 本当にまだ子供なのだな、とテオドールは思った。頼りにしている大人に置き去りにされる、というのは子供にとって強い恐怖だろう。
 アルノリトは、ここにいる大人と上手く親しくなれないと悩んでいる。いつかここに一人残されるのではないかと、漠然と不安に感じているのかもしれない。
 だがそのとき、がちゃりと玄関が開く音がした。自分たちが反応するより先に、マキーラが開け放っていた扉から飛び出して、玄関に飛んでいく。
「……うわっ、ちょっとなんですか! 噛まないで噛まないで!」
 途端に、玄関からキールの驚いたような声が聞こえてきた。どうやらマキーラは、キールに何やらちょっかいを出しているらしい。
「帰ってきた!」
 アルノリトがはしゃいだ声を出したので降ろすと、彼はぱたぱたと玄関に走って向かっていった。
「キール、おかえり!」
 後を追うと、アルノリトはキールに飛びつきそうな勢いで走り寄って行った。
「あぁ……ご当主、来ないでください」
「え」
 キールに苦々しい顔で制止され、アルノリトは一瞬ぴくりと顔を強張らせた。キールもその傷ついたような顔を見て、一瞬どうしようか困惑したような、焦った表情を浮かべる。
「あ……そうじゃないんです。びしょ濡れですから。あなたが濡れますから」
 全身濡れねずみで、ぺたんとした髪を額に張り付かせたキールは、そう苦笑する。
 テオドールは立ち尽くしてしまったアルノリトの頭をすれ違いざまに撫でて、キールにタオルを手渡した。
「いいから早く着替えて来いよ。風邪ひくぞ」
 そう声をかければ、キールはため息交じりに鼻をすすった。
「もう引いている気がします……背筋がぞくぞくする。とりあえず、お言葉に甘えて着替えますね」
 キールはそう言いながら、水滴を廊下に垂らしつつ、私室として使っている書斎に引っ込んだ。
「……俺たちは、温かい茶でも用意してやろうな」
「うん!」
 声をかけるとアルノリトは力強く頷いて、茶器の置いてある厨房へと走り始めた。
 
 全身真っ黒な騎士の正装から、私服である白いシャツに着替えて戻ってきたキールは、客間の中を覗いて少し目を丸くした。
「……ちょっと綺麗になりました?」
「客間はまだ完ぺきじゃないんだよ。はい、キール、温かいお茶」
 厨房から走り寄ってきたアルノリトは、カップに入れた茶をキールに手渡した。
「ご当主が淹れてくださったんですか」
「うん!」
 満面の笑顔でアルノリトが頷くと、キールは目を細めてほほ笑み、カップを受け取った。
「ありがとうございます。テオドールあなた、今日は頑張ってくださったみたいで」
「俺だけじゃない。こいつも手伝ってくれた」
 満足げな笑みを浮かべるアルノリトの頭に手を置くと、キールは若干あきれた顔をしていた。
「ご当主に労働させたのは、あなたが初めてだと思いますよ……」
「楽しかったよ」
「まぁ、ご当主がいいならいいんですけど……今日は遅くなって申し訳ありませんでした。これ、お土産です」
 言いながら、キールは手に持っていた小さなガラスの瓶をアルノリトに差し出した。中には色とりどりの飴玉が入っている。
「……お菓子?」
 途端にアルノリトが、きらきらと輝く笑顔でキールを見上げた。
「今日は夕食前ですから、一つだけですよ」
 瓶から飴玉を一つ取り出すと、アルノリトの手のひらにころんと乗せる。小さくて黄色の、淡い色の飴玉だった。
 そっと口の中に入れたアルノリトは、ぷるぷると震えながら、幸せでとろけそうな顔をしている。
「あまーい……」
「さぁ、もうお勉強の時間ですよ。食べ終わったら二階に行ってください」
「うん。僕、ちゃんとやってくるよ。ありがとうキール!」
 はじけるような笑顔で、アルノリトは階段を上がっていった。その後ろを、ぴょこぴょことマキーラがついて上がっている。
「あなたの鷹、ご当主に随分懐きましたねぇ……」
 キールが感心したような様子で、それを見送る。
「懐いたっていうか、何か使命感に目覚めたらしい」
「使命感?」
「俺が、困ってたから」
「……だから自分が頑張ってご当主の相手をすると? 愛されていますねぇ……ともかく、遅くなってすみませんでした」
 キールは客間の暖炉の前に椅子を引いて腰かけ、アルノリトに淹れてもらった茶を一口飲む。
「……甘っ」
 飲んだ瞬間、甘すぎてむせていた。
「はちみつ、たっぷり入れていたからなぁ……」
「なるほど……」
 キールは困惑していたが、捨てようとは思わなかったらしい。「茶」というかはちみつの味しかしない液体を、ちびりちびりと飲んでいる。あそこまで笑顔で出迎えられると、邪険にもできないのだろう。
「……愛らしさっていうのは、一種の武器ですよね」
 キールは暖炉の火にあたりつつ、ぽつりとこちらを見てつぶやいた。
「は?」
「幼さ、愛らしさ、可愛らしさ、無垢さ……そういうのは、動物の本能に訴えかけるわけです。守らねばと思わされる。あなたもそうじゃないんですか?」
「確かに、邪険にはできないな」
 テオドールは鼻で笑った。
 多分キールは、アルノリトのことを言いたいのだ。心境複雑な相手ではあるが、あの子供は何か凶悪な力を持っているわりに素直で無垢で、優しい子供だった。 だからこの男も、従者の仮面をかぶっているだけではなく、心から「可愛い」と思う面もあるのだと思う。
 だが冷静になってみると、そう癒されている自分が、化け物に惑わされている気分にもなる。だから、迷うのだ。
「どんな奴でも、子供の頃はそんなもんだろうよ。すかした顔したお前も」
「愛想のないあなたも、ということですね」
「マキーラだって、雛のころは真っ白でか弱くて、可愛かった。普段隠れているのに、俺を見ると、喜んで鳴きながら出てきたりしてな」
「それが一番想像できないです……」
 想像したのか、キールはげんなりした顔をしてみせた。
「あの子は、お前と仲良くなりたいらしい。俺に、お前と友達になってくれって言って来た」
「友達……何故?」
「ここにきて、お前が寂しい思いをしているから、だそうだ」
「……。そうですか。そう見せているつもりも、ないんですけどね」
 キールは何か思い当たることでもあるのだろう。苦笑して、こちらを見る。
「あの方は妙に鋭い。そして優しいんです。だから……前の人も、あの人を殺せなかったのだと思います」
「──見極めねばならぬ、ってやつか?」
「えぇ」
 キールは静かに頷いた。それは、この屋敷から届いた、前任者の最初の手紙に書かれていた文章だ。
「怪鳥は殺せないわけではない。人は今まで、大きな鳥も女も殺しています。ただご当主がそれらと違うのは、我々と意思の疎通がとれること。あと、人間を慕っていることです」
「お前も、殺そうと思うのか……? そういう指示が来たら」
「指示は指示ですから。でも、私にはできないと思います」
「心情的に?」
「心情的なものだけではなくて、主に技術的な意味で。父はこの国の誰もが認める騎士でしたが、何もできず殺されている。私は自身の剣技が、当時の父を超えているとは思えない。 やれと言われても、共に暮らせば情はわく……ここにいた前任者の気が狂っていった理由が、なんとなくわかります」
「……お前に、病んでもらっちゃ困るな」
 テオドールは窓際の椅子に座り、足を組んだ。
「俺の頼みを聞いてくれる奴がいなくなる」
 キールは苦笑して、曖昧に頷いて見せた。
「それは、ちゃんと頼んできています。奴隷の行方を知りたいと担当者に言ったら、目を丸くされましたよ」
「……だろうね」
「でも、すぐのことにはならないと思います。それでなくても今、この国には他国からの奴隷があふれていて、どこの誰なんて記録もない。どこを経由したか、一つずつ確認していくしかない状態だそうです。 あと、こんなこと言いたくないのですが」
 キールは少し、困惑した顔でこちらを見つめる。
「奴隷を移送する際は、事故や病気が蔓延することもある。この国にたどり着く前に亡くなっている場合も、少なくないと──」
「……言うな」
 遮るように、テオドールはつぶやいた。自分でも恐ろしいほど、低い声が出た。
「俺だって、それは考える。わかってるんだよ。全部見た」
 乱暴に捕らえられ、積み荷のように船底に大勢で押し込められて、時には暴力を振るわれながら各地に送られた。全員が無事この国についたわけではないことを、テオドールだって知っている。 中には途中で命を落とした者もいた。
 死体と隣り合わせで移動したことも、実際にある。
「着いても、売られた場所による。……都市部の下男扱いならまだいい方だ。もの好きの相手をするためだけに買われた連中は、使い捨てで駄目になったらすぐ捨てられる。 僻地の農園だの炭鉱に送られたら、それこそ地獄だ。動けなくなるまで働かされて、死ぬ」
 市場に並ぶ前、各地から集められた奴隷たちはそう嘆いていた。ともに荷馬車に乗っていた綺麗な女と顔立ちが整った少年は、市場に並んですぐ売れた。 性欲処理の対象として買われたのだとは、誰が見ても明らかだった。彼らがこの後どんな目に合うのか、テオドールは想像したくもない。
 奴隷の運命は、買った者によって変わるのだ。
「あの人たちは若くない。……兄さんは体が悪いしあまり動けない。あんたたちも、使えないって思うだろうよ。それなのに、そんな人たちまでどうして連れて行ったんだろうな。 道中で死んでるかもしれない? ……そんなの俺だって考えるさ」
 頭に血が上ってきて、テオドールは唇を噛む。「その可能性」は自分でもわかっていたはずだった。
 だがこの男から指摘されると、我慢ならなかった。
「お前が言うなよ、それを……お前が俺を馬鹿にしているのは知ってるよ。見つけてどうするんだって内心笑ってるんだろ。でもな、俺はもうそれくらいしか支えがないんだよ! それがなきゃ、俺が生きられないんだよ!」
 思わず椅子を立ち激怒したテオドールを、キールは困惑したような顔で見つめていた。その顔を見ていると、突然だったが、すっと怒りが冷めた。自分一人で激高し、暴れているように思えた。ますます、馬鹿だと思えた。
 前髪を掴み、息を吐きながら、再び椅子に腰を下ろす。
 こんなに大声をはりあげて誰かを怒鳴ったのは、生まれて初めてのような気がした。
 長い時間黙って、肩で息をして──外で降りしきる雨の音を聞きながら、テオドールはつぶやく。
「……悪かった」
「謝らなくて、いいです」
 キールは落ち着いていた。思わず年下のくせにと思ってしまうくらい、冷静だった。
「謝らなければいけないのは、私です。……傷ついている人に言う言葉じゃなかった」
(傷……)
 キールの言葉に、テオドールはうつむきながら考える。
 自分は、傷ついているのだろうか?
 自分の中にあるのは怒りと屈辱だけだと思っていた。自分が傷ついているなんてそんなこと、考えたこともなかった。
 キールは椅子を立つと、テオドールの前に立った。何を言うのかと虚ろに見上げれば、キールはテオドールの肩に、黙って手を添えた。
「……」
 一瞬振り払おうかと動きかけたが、やめた。キールはその若い顔に、妙にこちらを気遣うような、真剣な色を浮かべていたからだ。
「探しますから」
 ぽつりと、キールはつぶやく。
「二人の事は、きちんとあなたが納得するまで、探しますから。だから──生きていけないなんて言わないでください。ここはある種、牢獄のような場所ですが、あなたであれば休むことのできる場所だと思いますから」
(俺で、あれば)
 その言葉の意味を、黙って考える。
 この鳥かご屋敷のご当主は、テオドールを受け入れてくれている。ただの奴隷であれば、こうはならなかっただろう。自分と深い絆がある鷹が自ら、自分を助けようとしてこの縁を繋いだ。 そして、この男とも出会った。
 命令に忠実でありながら、様々な鬱屈を抱えた、この若い騎士。
「ここは世間とは隔絶されています。あなたを奴隷と罵る者はいない。私もそう思って接しているわけではないですから」
「お前のいう事が、どこまで本音か、わからない……」
 ため息交じりに、テオドールは言う。
「自分が楽をしたいから、俺にここに残るよう言った癖に」
「それは認めますけど」
 キールはしゃがんで、テオドールの手を取った。
「国は違えど、立場は違えど、私とあなたは同じ人間だ。目の前で人が苦しむのは辛い。そういう人を助けたいと思うのは、人の本質だと、私は信じている。だから私は、父と同じ騎士になりたかった。その初心を思い出しました」
「初心か……」
 テオドールはつぶやく。何故か、薄く笑いが浮かんできた。
「なのに今は、こんな檻の中で暮らす羽目になったわけだ。そりゃ、来たくなかったよな」
 望んだわけではない、と言ったキールの言葉を思い出す。
 この男はもっと広い世界で活躍する自分の姿を思い描いていただろう。だがそうはならなかった。真逆の世界で、国の暗部に触れるような生き方を迫られている。
(……青臭い男だ)
 なんだこの男、案外若者らしい熱と使命に満ち溢れているじゃないか──と思った。
 どちらも自分にはない。だが普段なら安っぽいと言ってしまいそうな励ましも、今はありがたかった。確かに自分は、頭の方も弱っているようだ。
「……でもな、はいそうですかって、すぐお前への態度を改められるような俺じゃない」
「当然でしょう。散々私の国に、嫌な思いをさせられているわけです。理屈だけで動けたら、人間苦労はしない。人は単純じゃないんです」
 キールは目を細めて、微笑んで見せた。
(なるほど)
 テオドールも、黙って頷く。
 この男も理屈で動ききれないから、感情が邪魔するから──苦労しているわけだ。

(続く)