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檻の中のカラスと孔雀

12:猛禽、看病する


「昨日は、あれだけ格好いいこと言っていたくせにな」
 テオドールはため息をつきながら、書斎のソファの上でぐったりと横になっている男に白湯を差し出した。
「面目ない……」
 年下の騎士はだるそうに唸りながら、身を起こす。カップに入った白湯を受け取ると、その熱さを確かめるように、ちびりちびりと飲み始めた。
 二日続けて雨に降られたこの男は、大風邪をひいていた。今は酷い頭痛と熱、そして関節の痛みに襲われているらしい。
 朝は早起きだと言っていたくせに朝食を食べに来ないので、テオドールは「昨日忙しかったようだし、疲れているのだろう」と様子を見に行かなかった。
 その後、寝起きの悪いアルノリトに朝ご飯を食べさせて、井戸のそばで洗濯をしていると、こちらを探していたらしいアルノリトが半べそで「キールが死んじゃう!」と飛びついてきた。手を引かれながら書斎に来てみると、この男がソファの上に丸まって、唸っていた。
「さすがに死んじゃう、ほどじゃないとは思いますけどね……まだ死にたくないし」
 カップを持ちながら、キールは苦笑した。今は髪も汗で乱れ、声もかすれている。
「ご当主も大げさだ」
「前の奴の事、思い出したんじゃないのか」
 キールの前任者は、いなくなる直前、具合が悪そうだったという。心配して近寄ったアルノリトをその男は拒絶し、この屋敷から出て、街で死んだのだ──とあの子供は言っていた。
 多分アルノリトの頭の中には、そのときのことが強く思い出されたのだろう。「ただの風邪だろうから大丈夫」とキールが伝えてようやく落ち着いたらしく、それでも不安げな様子で外に出て行った。
「なんか食いたきゃ、作るぞ。材料限られるが」
「お気遣い、ありがとうございます。……あなたがいなかったら」
「あ?」
「あなたがいなかったら、ご当主が言う通り、死んじゃう可能性もあったかもしれないですね。ここに好んで様子見に来てくれる人なんていませんし。悪化して動けなくなったら、そこで終わりだったかも」
 白湯を飲み干して、再びソファに身を横たえたキールは、動いた拍子に頭痛が増したのか、呻きながらも毛布に包まった。
「……ご当主は、今どうしてます?」
「外。マキーラと日光浴」
「大丈夫なんですか? 目を離して。あまり遠くに行かれると……」
「マキーラがついているから、大丈夫だと思うが。あいつ、あの子供に従順ってわけじゃないようだから」
「……と、言うと?」
「危ないことをしたり、はしゃぎすぎると怒るんだと。俺には叱っているのかもよくわからんのだが」
 昨晩「マキーラに怒られちゃった……」とアルノリトがしょぼくれていた。
「階段の、高いところから飛び降りる遊び」をしていたところ、口ばしで突かれたらしい。
「教育的指導は入れるんだ……というかあなたはその状況、普通に受け入れちゃっているんですね」
「まぁ、一応」
「鷹ってそんなに賢いんですか?」
「個体差はあるだろ。マキーラは特別賢いと思うが」
「鷹と恋仲ですからね、あなた」
 テオドールは濡れ布巾をしぼると、べしゃりとキールの顔面にぶつけた。
「冗談です……病人にはもうちょっと優しくしてくださいよ」
 鼻の上に乗ってしまった布巾を上にずらしながら、キールがこちらを睨んでいた。
「寝るなら、きちんとベッドで寝たら? 上、一室空いている。使うなら掃除するし、俺が寝てるところ使ってもいいし」
「いいんです。私はこれで」
「何かのこだわり?」
「えぇ。昔から、こういうところでだらだら本を読みながら寝るの、好きで。狭いところに挟まって寝ると、落ち着く……」
「ふぅん」
 テオドールは気のない返事をした。字が読めない自分には、あまり楽しみ方がわからない。
「でも具合悪いときは、きちんと寝ろよ。あまり目も使うな」
「わかってます。……あなたにそんな優しいこといわれると、ちょっと調子狂いますね。こんなに面倒見てもらう羽目になるとは」
 キールはソファに横たわったまま、苦笑する。
「俺だって熱でうんうん唸ってるやつに辛く当たるほど、鬼じゃない」
「出会ったばかりの頃のあなたなら、笑いながら『ざまぁ』とか言いそうでしたよ」
「それは言っただろうな」
「そこは否定しないんですね」
 キールは呆れていたが、半分笑ってもいた。
 この「鳥かご屋敷」で二晩を明かした。
 テオドールのなかで、この男への敵意というのは、少し薄まりつつある。己の人生への納得できない怒りというのは消えていないし、この国の人間を許したつもりもない。
 だがこの男に当たり散らしたところで意味はないのだ、ということは理解した。
  ──傷ついている人に言うべきではなかった。
 今熱で情けなく寝込んでいるこの若者は、昨日そう言って自分を慰めた。それまで自分は、自身が傷ついているとも思わなかったのだ。どちらかと言えば、それを認めたくなかった、という方が正しいかもしれない。
 奪われても奪われても、絶対に、この現状に屈しない──自分が傷ついて弱っていると認めてしまったら、その決意が粉々になってしまうかもしれなかったからだ。
 ──俺が生きていけない。
 やけくそのように口をついて出た言葉は、自分でも衝撃だった。
(俺は俺で思うより、ぎりぎりだったってことだ)
 生き残るために周囲に媚びる奴隷を見たときは、そんな彼らの弱さや無様さを、内心非難していた。自分は違う、こいつらのようにはならない、と思いたかった。
 だが実際は、受けた傷の痛みを怒りでごまかしていただけだったのだ。
 自分は特別な人間などではなく、決して強くもなかった。あっけなく現実に、心折れそうになっていたのだ。
 この男に「傷」を指摘された瞬間は、人前で裸にされたような気分で、息が止まった。だが反論の言葉は出てこなかった。少し前なら、この男に「そんなことはない」と食って掛かっていただろう。
 一晩ゆっくり考えてみて、自分はあの瞬間、わずかに癒されたことに気付いた。
 この男は自分に、歩み寄ろうとしていた。青臭い言葉だったが嘘はなく、自分を気遣っているように見えた。それがありがたかった。
 本心か本心じゃないか、なんてわからない。だがそれを気にしていたら、人は誰とも付き合えない。
(昔の俺は、笑うんだろうな)
 ブーチャでマキーラを肩に、森の中を走り回っていたころの自分は、きっと笑う。敵に懐柔されやがった、馬鹿め──と、侮蔑した瞳で。
 しかしテオドールは、己に言い訳する気にはならなかった。あのころと違い、自分はいろいろと、考えなかったようなことを考えてしまっている。
「……あまり、思いつめるべきじゃないですよ」
 窓の外を眺めていたテオドールの背に、キールが声をかける。振り向くとキールは、相変わらずだるそうな視線で、こちらを見ていた。
「あなたは無骨だけど、心の中では真面目にいろいろ考えていらっしゃるんでしょう」
「いろいろ考えない人間がいると思うのか」
「まぁ、中には条件反射で生きてるような人もいますよ。でもあなたは……多分そうじゃない」
「買いかぶりすぎだよ。それに、わかったように言わんでくれ」
 テオドールは肩をすくめて、苦笑した。
「でもその言葉は、そっくりあんたに返すよ。役目だの騎士としてのなんちゃらだの、お前は完ぺきにこなそうとし過ぎるんだろうよ。 父親のことは、俺には何とも言えんが……もう少し楽に生きたらいいのにな。学にない俺に、言われたくはないだろうが」
「……そんなこと、ないですよ」
 キールはため息をついて、天井を仰いだ。
「まさかあなたに、同じこと言われるなんてね」
「……同じ?」
 テオドールが眉を寄せると、キールは小さく喉を鳴らして笑った。
「その言葉。父に同じことを言われたのを覚えています。昔から融通の利かない、型にはまった子供だったんですよ、私は」
「……想像できる」
「でしょう?」
 朝の柔らかい木漏れ日が差し込む屋敷の中で、二人はふきだすように笑った。ここにきて、まさかこの男と嫌みな笑みではない笑みを交わし合うことになるとは、夢にも思わなかった。
「……談笑ついでに、私はあなたに一つ注文があります。ずっと言いたいの我慢していたんですけど」
 思い出したようにキールは身を起こし、テオドールを睨んだ。
「なんだよ」
 身構えると、キールは少しむすりとした顔で告げた。
「私やご当主のこと、きちんと名前で呼んでください。お前とかあんたとか、そんなのばっかりじゃないですか。名前、憶えていないわけじゃないですよね」
「そういうわけじゃないんだが……」
 テオドールは困った。
 ──正直、呼びたくなかったのだ。
 この国の人間と関わりたくなかった。心を通わせるつもりもなかった。名を呼び合うような関係にもなるつもりもなかった。
「言ってみてくださいよ、私の名前」
「……キール」
「覚えてるじゃないですか。あまりもう、あんたとか呼ばないでくださいよ」
「別にいいじゃないか、あんたはあんたで」
「人をその人の名前で呼ぶってのは、学がないだの奴隷がどうのこうの気にする前に、人付き合いの基本でしょう? ご当主もいるんですから、大人として少しは見本になってくださらないと」
「いやだから、俺は見本になるような……」
「がたがた言わずに、やる」
 キールに眉を寄せられながら睨まれて、テオドールは曖昧に頷いた。
「……善処する」
「そうしてください。もう、妙なところで面倒くさい人なんだから」
 キールは疲れたように息をついて、寝込んでしまった。
(こいつもまぁ、面倒くさいんだけどな……)
 多分本人も自覚があるだろうし、言ったところでまたうるさいと思われるので、テオドールは黙っておいた。
 そのとき、そばの窓ガラスをこつこつと叩く音がする。
 ふと見れば、窓の外からアルノリトが必死に背伸びをして、テオドールに気付いてと言わんばかりに窓を叩いていた。
「どうした?」
「これ!」
 窓を開けると、アルノリトは満面の笑顔で、小さな拳に握ったものを差し出した。背後ではマキーラが、テオドールの顔を見上げて甘ったれた声で鳴いている。
 アルノリトが握りしめていたのは薄紫色の、小さなすみれの花だ。
「キールにあげて。おみまい!」
「どこから摘んできた、これ」
「そこの軒先。そんなに遠く行ってないもん。マキーラも怒るし」
 少々膨れながら、アルノリトはつぶやいた。そのまま部屋のなかを覗き込みながら、首を傾げる。
「……キール寝てるの? 起きたら、はやく元気になってって、伝えてね。僕ちゃんと、一人でも勉強できるし、いい子にしてるから」
 アルノリトはそう言うと、危なっかしく地面に下りて、玄関の方へ向かっていった。
「……だそうだ。起きてるって言えばいいのに」
「言えますか……」
 額の上に腕を置いて、キールはため息をつく。なんとなく、気恥ずかしそうだった。あの子供の「おみまい」は、この男を癒したのだと思う。
「コップ借りるぞ。これ、水入れて生けておく」
「お願いします」
 キールは素直に頷いた。
 すみれの花は小さい。軒先に生えていても、自分などは見落としてしまいそうだった。
 多分あの少年は、自分なりにキールのために、何かできることがないかと必死に考えていたのだと思う。嗅ぐと、さわやかな甘い香りがした。
「あれは、いい子だな」
「えぇ」
 返事をしながらも、キールは複雑そうで、その声は重かった。
「いい子だから……困ってます。もっと化け物じみたものだったら、良かったのに」
 だったら、もっと素直に憎めたし、機械的に接することができたのに──ということなのだろう。
「……嘘じゃないと思うぞ。お前を気遣ってるのは」
 すみれを持って、テオドールは扉へ向かう。早く生けてやらないと、握っていてはしおれてしまう。
「ぼやきくらいなら聞いてやる。お前は、よくやってるよ」
「あなたが優しすぎて、気持ち悪いですねぇ……」
「嫌味言ってる元気があるなら寝ろ。あとで、何かスープでも持ってくる。さっさと治せよ」
「はい。……ありがとうございます」
 キールの安堵したような声に、テオドールは返事もせず、そのまま書斎を後にした。
 人に素直に感謝されると、どう反応していいのか、困る。だから無口になって、周りに愛想がないのだと言われてしまう。テオドールも別に望んで、そういう態度を取りたいわけでもないのだ。
それでよく失敗した。
(二十五年も人間やってるくせに)
 自分はどうしてこう学ばないのだ、と思う。
 厨房に入って、水瓶からグラスに水を注ぐ。中にすみれの花を生けると、長さもばらばらで不格好ではあったが、素朴な愛らしさがあった。
 あの子供が小さな手で、キールのために摘んできた花だと思うと、贈られたのは自分ではないのに頬が緩んだ。

(続く)