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檻の中のカラスと孔雀

15:猛禽、恋バナをする


 ──お兄ちゃん、という言葉に、テオドールもアルノリトも固まっていた。
 アルノリトはとっさに、言葉の意味がよくわかっていなかったのかもしれない。大きな目をぱちぱちとさせながら、大樹の下にいるその金髪男を見上げていた。
 男は、腕を組んだまま、その反応を興味深そうに観察している。
(こいつ……)
 突然なんなのだ? と、テオドールはアルノリトの肩を掴んだまま、不審な視線を送る。
 このあたりの住民は、健全な市民からごろつきまで、この森が過去に何度も恐ろしいことが起こり、奇妙な子供が暮らしている、ということを知っていた。
 他国の民を無給で使いつぶせる労働者程度にしか思っていないこの強気な国が、生贄のように担当者一人を向かわせて、極力それと関わらないようにしながらも、監視を続けるほど恐れているのだ。
 その様子がテオドールには滑稽に見えたし、馬鹿らしく、情けなくも見えていた。
 だがこの男は堂々と森の入り口を突破して、森の深部に入り込んでいる。迷い込んだ、というわけではないようだ。頭に羽の生えたアルノリトの姿を見ても、想定内だというように見える。
 ──兄。
 その言葉が引っかかる。
 テオドールにはこの男がなんなのか、そんなことさっぱりわからなかったが、この男との遭遇は、あまりよいことには思えなかった。どうにか屋敷の方へ戻った方がいい──とアルノリトの肩をこちらに引き寄せようとした瞬間、誰かが後ろから、自分の肩に手を置いた。
「っ……!」
 ぎょっとしながら振り向くと、見知った男がそこにいた。
「……キール」
「そのまま。ご当主を抱いて、下がってもらえますか」
 いつの間にか背後にいたキールは、そう小声でつぶやく。彼は初めて出会った時のように、感情の読めない淡々とした顔をしていた。
 テオドールはまだ固まったままのアルノリトを、後ろから抱き上げた。少年は暴れもせず、簡単にテオドールの腕の中に収まる。だが意識は、目の前の男に向けられたままだ。こちらを見ようともしない。
 そのままゆっくりと後ろに下がると、キールはまっすぐな己の長剣を引き抜いて、入れ替わるように前に出た。この若き騎士は焦る様子もなく、剣を両手に握ると下段に構え、目を細めながら金髪男を見据えた。
「……ここがどういう場所か、お分かりか」
「そりゃあ、よく知ってるよ」
 キールの低く硬質な声に、男は緊張感もなく、呑気に答えてみせた。
「皇帝陛下のこさえた、『鳥かご屋敷』のある森だ。私邸なんていうが、所詮は女の囲い場よ。もの好きなもんだね、ほとんど病気──」
 男の喋りを断ち切るように、キールは素早く間合いを詰め、男の喉元に長剣の鋭い切っ先を突き付けた。テオドールには、その踏み込みも何も見えなかった。
(こいつ……やっぱり相当腕が立つんだな)
 感心するよりも、なんだかぞっとしてしまった。いつもの、どこか抜けているような雰囲気はまるでない。キールの黒い目は、鋭く男を睨みつけていた。
「余計なことをおしゃべりする前に、ご自分の身を案じられた方がよいのでは? ……どこのどなたかは存じませんが、誰であっても、侵入者はただでは帰せない」
「ふぅん……誰で、あっても?」
 金髪の男は、己の首元に突き付けられた剣先を眺めながら、ひくりと片眉を上げて見せた。
「この距離で見ても、俺が思い出せんか? ……この薄情者。お役目は結構だが、俺を殺すとお前の首が飛ぶぞ、キール」
 男の小馬鹿にしたような苦笑に、キールは一瞬眉を寄せたが、何かに気付いたのか、徐々に顔を強張らせた。
「まさか……殿下?」
「おうよ。気付いたならさっさと剣を下ろせ、この馬鹿野郎」
「……申、し訳」
 キールは慌てて剣を腰の鞘に収めると、困惑した様子のまま、さっと片膝をついた。
「かしこまらんでいい。こっちも連絡なしに来たんだから、仕方あるまいよ」
 緊張した面持ちで頭を下げるキールに、金髪の男は面倒くさそうに声をかけた。
「お前と会うのもずいぶん久しぶりだ。十年ぶりくらいか? なら、俺の顔がわからずとも仕方ない」
 殿下、と呼ばれた金髪の色男は、こちらをちらりと見た。テオドールに抱かれたアルノリトは、いまだにその男を凝視しながら、警戒半分、興味半分といった様子で固まっていた。
 男はこちらに近づいて、アルノリトの顔を覗き込む。
「突然すまないね。君の土地に、勝手に入ったことを許してくれるかな」
「……キールのお友達なの?」
 アルノリトは、戸惑いの混じったような声で告げる。
「そう。昔からのね。名はイラリオンという。呼びにくければ、イーラと呼んでくれてかまわないよ。親しい人は、みなそう呼ぶ」
「……」
 イラリオン、と名乗った男は優しく微笑んでいたが、アルノリトはテオドールにしがみついたまま、借りてきた猫のような状態で、無言でこっくりと頷いただけだった。
「で、さっきから君を抱っこしているこの男は?」
 金髪男は、アルノリトを抱くテオドールにも視線を移す。
「テオドールだよ」
「テオドール?」
「……先日雇った下男です」
 キールがそう端的に補足を入れる。一瞬ちらりとこちらを見たキールは、「頼むから、今は余計な事を言わないでください勘弁してください本当にお願いします」というような、こちらに精一杯すがる目をしていた。
「あぁ……なんか報告で読んだような」
 男は興味深そうに、アルノリトを抱いたままのテオドールを眺める。
「まぁよい。いろいろと話もしたいところだが、先に屋根のある所へ行こうか。この様子だと、また夕立が来る。たまらんね、この時期は」
 イラリオンは空を見上げた。背の高い木々の隙間から見える空は、晴れている。だが湿った風に乗って、南の方からぶ厚い灰色の雲がどんどん流れてきていた。
「では、屋敷までご案内します」
「かまわんよ。勝手に行くから」
 キールは慌てて腰を上げたが、イラリオンはひらひらと手を振ってそれを制した。
「場所は知っている。この森には、人を頭からついばむ怪鳥なんぞおらんのだろう? ……たくさんいるなんて聞いたことがないからな」
「しかし、殿下」
「たまには一人歩きくらいさせんかい。お前は俺の御付きじゃないだろう、キール?」
「……承知いたしました」
 キールは渋い顔で一礼した。イラリオンは満足げに頷くと、軽やかな足取りで森の中に消えて行ってしまった。時々茂みの向こうから、彼の指笛が鳴る。周囲の小鳥たちはなわばりを侵されたと勘違いして、ざわざわと鳴き返していた。
「……同じじゃない」
 それを黙って見送っていると、腕の中のアルノリトがぽつりとつぶやいた。
「ん?」
「僕のお兄ちゃんって言ったけど、あの人僕と同じじゃない。羽がないもん。一緒じゃないよ。背中とか、見えないところにあるの?」
「……どうでしょう」
 アルノリトにじっと見つめられて、キールは難しそうに言葉を濁した。
「テオドール、降ろして」
 何となく納得がいかないような表情で、アルノリトは地面に降りた。
「キイチゴ置いてきちゃったから取ってくる。僕、先に屋敷に戻るね」
「あ、おい」
 テオドールが止めるのも聞かず、アルノリトはもと来た道を戻ってしまった。
 どことなく、機嫌が悪そうだ。
「まいったなぁ……」
 後ろではキールが、疲れた顔でぐったりと肩を落としながら、ため息をついている。
「……お前、実は凄いんだな」
 テオドールは少しだけ感心したように声をかけた。
「屋敷から、ここだろう? 普通わからん距離だろうに。よく侵入者に気付いたな」
「あなたの鷹が呼びに来ただけですよ。私は別にすごくないです」
 キールはげんなりした顔のまま、頭上を指さした。テオドールが上を向くと、そばにある大きな樹の枝に隠れるようにして、マキーラがこちらを見下ろしていた。音もなく羽ばたいて、こちらにやってきていたらしい。
 テオドールが声をかけると、いかつい顔に似合わぬ甘えた声で鳴く。
「井戸のそばで薪の整理をしていたら、いきなり彼が私の目の前に降りてきまして。なんだかじっと見上げてくるんですよ。触らせてくれるのかと思って近寄ったら、馬鹿にしたようにけたたましく鳴いて、こっちにすごい勢いで飛んで行かれたものですから……あなた方がいたのはわかっていましたし」
 なんだか気になって、とキールは苦笑した。
「そしたらキイチゴが入ったかごはそのままだし、あなたもいない。甘いものが大好きなご当主が、山盛りのキイチゴを放置して、どこかに行くわけがないんですよ。小鳥も騒いでいたし、何かまずい、と思って」
「お前の勘が良くて助かったよ……ところであの派手な男、知り合いなのか」
「……えぇ、まぁ。……すみません。下男なんて紹介をして」
「買った、って言われなかっただけまし」
 テオドールは笑いながら、マキーラを呼ぶ。マキーラは木々の枝の中から飛び出すと、屋敷の方へとまた飛んで行った。おそらくアルノリトを追ったのだろう。マキーラの姿が小さくなるのを見上げながら、二人も屋敷の方へと足を向ける。
「……先ほどの方は、皇帝陛下のご子息です。イラリオン殿下とおっしゃいます」
 しばらく無言で歩いて、キールがぽつりと口を開いた。
「何十人といる陛下のご子息・ご息女の中で、当初はそう重要視されたお方ではありませんでした。しかし今は、急速にその支持者を増やしていると、風のうわさでは聞いていました。最後にお会いしたのは、私が子供のころでしたが……ずいぶんとお変りになられた」
「そんな男と知り合いとか……お前、本当にいい育ちだったんだな……」
「というか、普通に家がご近所でしたからね。幼馴染……と言うのは畏れ多いのですが、それに近かった。あの方は私より二歳年上ですけど、当時は気が弱くて儚げで、ほとんど主張もされず、ほかのご兄弟と比較されて、縮こまっていることの方が多かったので……年下だった私の方が、同年代よりも付き合いやすかったんだと思います」
「……今、全然そんな面影ないんだが」
「えぇ……だから全然わからなかったんですよ……」
 キールも頭が痛そうにしていた。
「殿下は幼少のころお母様が亡くなられたのをきっかけに、首都を離れて、跡目争いからも一線引いておられた。こちらにいたころから、ずいぶんと苦労をされたのです。ほかの兄弟との折り合いが悪く、随分ひどい嫌がらせをされたのだと聞いています」
「ふぅん……兄弟で仲が悪いっていうのも、悲しいな」
 テオドールには想像がつかない。この世で唯一血のつながりがある兄を憎いと思ったこともないし、激しい喧嘩をしたこともないからだ。
「そうですね。でも兄弟とは言っても、殿下は元々一人っ子ですよ。周囲には母親の違う兄弟という存在が、たくさんいて」
「あぁ……例のほとんど病気な、皇帝陛下の女好きの結果か」
「……だからそれ、ほかの人の前で言っちゃだめですよ」
 キールは苦々しい顔で釘をさす。
「特に殿下のお母様は美しくて、その美貌から陛下の一番の寵姫だったのです。それが、ほかの女性やご子息には面白くなくて、嫌がらせに繋がったんですよ。でもそんなご苦労までされたのに、陛下の中での「一番」は、長くは続かなかった」
「……例の、卵を産んだ女?」
「えぇ。……イラリオン殿下のお母様は、陛下がその女に入れ込み始めたころから、傷心からかひどく体調を崩されて、心身ともにずいぶんとやつれてしまった。そのせいか、入れ込んだ女を化け物と斬り捨てた後も、陛下は彼女のもとには戻らなかった。そのまま、お母様は亡くなってしまって。殿下はだれにも顧みられず、周囲の重圧に屈する形で、お母様の故郷へと移り住まれたんですよ」
「ろくでもない……」
 つくづくこの国の「皇帝陛下」には、不快感しか抱かない。テオドールは吐き捨てるように言った。
「ろくでもない、はまぁおおむね同意します。街で口にしたら私の首は飛びますが」
 キールは今日、何回目になるのかわからないため息をついた。
「……聞けば聞くほど、俺にはよくわからんな。綺麗でなければ価値がないのか。そうもあっさり人を捨てられるのか。そいつにとって、愛情とは何なんだろうな。性欲だけか」
「性欲だけかもですねぇ……あなたは?」
 キールが小首をかしげて訪ねてきた。
「ご家族のことは聞きましたが、国にいい人はいなかったんですか?」
「……そんなのいないよ」
 半笑いで答えたのが、いい人、と言われてふと脳裏に浮かんだのは、なぜか義姉の姿だった。特に美人というわけではなかったが、素朴で、とにかく優しい義姉。自分にたくさん愛情を注いでくれた、母親のような存在だ。
(いや、義姉さんはないだろ。歳も離れてる。それに義姉さんは、兄さんの──)
 向こうは自分を「息子のように思っていた」わけだ。自分は恥ずかしかったから意地で母と呼んだことはないのだが、そんな相手に、自分は心の底でほかの女に向けるような好意を抱いていたなんて、思いたくない。
 義姉を抱きたいなんて、そんな生々しいことを思ったこともないのに、義姉の姿を思い浮かべてしまった、この動揺はなんだ。
 相手は、兄の妻。
 なんだか、自分が急に不潔な存在に思えてきた。
「……いたんですね」
 口元を抑えて黙り込んだテオドールを見て、キールはぼそりとつぶやいた。
「……だから、いない」
「いいんですよ、別に。あなたがどんな恋をしていようが、興味はあるけど笑いませんよ。私の初恋の方が、よっぽど笑われると思いますから」
「お前の初恋?」
 なんだそれ、と眉を寄せると、キールは思い出すように苦笑していた。
「すっきりしたいので、この際言っちゃいますけどね。初恋と言っていいのかわかりませんけど……幼少の私のあこがれは、まさしくイラリオン殿下でしたよ」
「……さっきの、あれか?」
 確かに見た目はよいが、人を食ったような、何か癪に障るあの男。
「そうです。私は儚く美しく、泣いてばかりのかわいそうな殿下を守って差し上げたいと思った。殿下が首都を離れる日、私に会いに来てくださったのですけどね。私はそこで『将来、あなただけの、あなたを守る騎士になる』と誓いをたてたのですよ。ませてますね」
「それ、俺に言っていいのかよ……」
「いいですよ。あなたに隠すこと、別にないですし」
 キールは妙にあっけらかんと、過去の思い出を話した。
「でも、なんでそこまで」
「殿下が、父を失った私の悲しみを、一生懸命慰めてくださったからですよ」
 キールは草を踏みしめて歩きながら、曇り始めている空を仰いだ。
「強い騎士である父は、幼少の私のあこがれであり誇りであり、自慢だった。父が誰かに殺されるなんて、そんな日来るわけがないと思っていた。でもそれが現実になった日、自分の世界が壊れたように感じました。実際壊れそうなくらい泣いたし、ふさぎ込みましたよ。でも殿下は、ご自身もいろいろ辛かったと思うのに、そばにいて慰めてくれたわけです。悲しみを共有してくださった」
「……」
「あのときの誓いは、確かに、騎士を目指す最初の目標ではありました。薄情なので、多忙を言い訳に、近年は忘れていましたが」
 懐かしそうに語ったキールは、こちらを見て苦笑した。
「でも、現実はこんなものですね。殿下はお会いしない間に、私など必要もないくらいにたくましく成長されているし、私は表舞台から外されている。子供のころ思い描いていた将来というのは、今思い返すと、切ないものですね」
「……」
 同意するべきか悩んだが──テオドールは頷いた。

(続く)