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檻の中のカラスと孔雀

20:猛禽、お勉強をする気になる


 キールは、狭い食堂のテーブルに腰かけたまま頬杖をついて、朝から悩んでいた。
「そういえば明日だったか、行くの」
 一応、城から派遣された立場であるキールは、この屋敷での生活を週に一度、報告に上がらねばならない。
 備品の補充もそのとき行うし、彼としては肉親や友人と会うことが可能な、貴重な息抜きの時間であるはずなのだが──今回ばかりは妙に憂鬱そうだ。
「えぇ。きちんとやるのかも、まだわからないんですけど……」
 すっかりぬるくなってしまった茶をすすりつつ、キールは頭が痛そうな顔をしている。
 この国の君主が突然昏倒し、意識もなくいずれ死にそうだという情報は、イラリオンからもたらされたものだ。そんな状況下であれば、報告会どころではないだろう。
 イラリオンのこともある。彼をかくまっていることを正直に言うべきか否か──ということも悩んでいるようだった。
「正直な話、このままというのは、あの人のためにならない気もするんですよ」
「……でも戻っても、殺されるかもなんだろ?」
 テオドールは、キールの隣に茶を持って腰かけた。
 イラリオンは元寵姫の子で、数多いとされる現皇帝の子息の中でも知名度はある。そして頭もよく気さくで見栄えも良いので、後継に彼を押したい層もそれなりにいるらしい。
 しかしそれを面白く思わない兄弟も多くいて、イラリオンの背に傷を負わせたのは、おそらくその中の誰かの手によるものということだが、イラリオン曰く「心当たりが多すぎて、どれなのかよくわかんない」と笑ってしまうほど、彼に死んでほしいと思っている身内は多いらしい。
 イラリオンが戻れば、彼らを敵視する兄弟たちはさらなる手を打つかもしれないし、イラリオンを擁護する人々は、彼に傷をつけられたことに感情的になり、犯人探しもはじまるだろう。イラリオンを旗印に上げて剣を持ち、血で血を洗う争いに発展するかもしれない。
 イラリオンは、それが嫌だというのだ。
「でもこのままずるずる逃げても、あの方が不利になるだけですし……まぁ、これは私の憶測ですが……殿下は、待っておられるのかもしれないですね」
「何を?」
「次の後継者が、自分を抜きにしてさっさと決まること。殿下としては、父危篤の場から逃げ出した愚か者と呼ばれて、周囲が自分に愛想をつかし、自分を後継者に据えようなんて者がいなくなるのを、ここで待つ気なのかもしれません」
「……それでいいのか? あの人は」
「……さぁ?」
 キールも首を振る。特別な思い出のある幼馴染とはいえ、会っていなかった年月の間にイラリオンの性格は随分と変わってしまったらしい。話していてもキールが時々理解不能だな、という顔をするのを、テオドールも見ていた。
「まぁ、あの方の場合は半分ヤケなんだと思うんですけど……」
 キールは言いながら、ちらりと客間の方に視線をやった。
 その「ヤケになっておられるであろう」皇太子殿下は、今客間にいる。
「暇」と言いながら屋敷の内部をあちこちと探検して、二階の物置部屋から古びたイーゼルを発見したらしい。奥にしまい込まれたキャンバスや描画紙、使い古した絵筆まで見つけた彼は、暇つぶしに絵を描くことにしたようだ。テオドールもちらりと見たのだが、窓から見える森の風景を描いていた。予想外に上手くて驚いた。
「あの人、ああいうのもできるのか」
「もともと、子供のころからお上手でしたからね。絵を描いたり、作曲したり。そのすじでは、結構有名だったんですよ」
「ふぅん……」
 上流階級の趣味だな、とテオドールは思った。しかしあの男は教養の範囲を超えて、それで食べていけるだけの才能もあるのだろう。描いているときは、なんだか楽しそうだった。
「ところであの画材、誰のだ?」
「知りません。物置にあんなものがあったってことも知らなかった」
「お前、本当に屋敷の中きちんと見てないな……普通こんなところに放り込まれたら、一回全部確認するだろ」
 呆れた視線で見るが、キールも素直に、渋い視線で頷いた。
「だって、怖かったんですよ、あの物置」
「天下の騎士様がよく言う……」
「どうとでも言ってください。別に何か潜んでいそうだから怖いとか、そういうのじゃなくて、乱雑過ぎて。……あなたは知らないと思いますけど、前任の方の几帳面な性格を知っていたから、余計に」
 キールの声は沈む。今はいない彼と、砂埃と蜘蛛の巣だらけだった屋敷を思い出しているのだろう。
「ここの荒れ具合が尋常じゃなかったの、あなたも見たでしょう? あれが平気になってしまうくらい、あの人は変わってしまっていたのだと思うと、怖くて。自分もこうなるのかなぁとか、いろいろ考えてしまって。なんだか触れなくて」
 自分も、気付かない間に心を病むのでは──キールはそれを恐れていたのだろう。
「あんなところで生活していた方が、余計に病むぞ」
「今はそう思います」
 キールはさっぱりとした顔で頷いた。
「所詮はいいわけですよ。有能な男を気取っていたつもりでしたが、私は片付けもできない男だったわけですから」
「わかったなら、自分の部屋の掃除くらいちゃんとしろよ。俺はやらんからな」
「……床くらい掃きに来てくれたっていいじゃないですか」
 なぜかキールは膨れる。
「あのなぁ……重要書類とかあるんだろうが」
「あなたもともと、読む気ないでしょ」
「読む気ないっていうか、もともと字が読めんって言っただろうが」
「だったら、ご当主と一緒に勉強しましょ? ご当主も、まだ読み書きは初めたばかりですし。私、教師やりますよ?」
「……」
 テオドールは、眉間にしわを寄せ、目をつぶって考えた。小さな子供に交じって、自分のような大人が勉強するなんて、恥ずかしいような。
 特にテオドールの住んでいた地域はブーチャの中でも貧しい地域だったので、学校なんてなかったし、学びたいという子供もいなかった。子供は親の手伝いをして働くことが美徳で、当たり前だったのだ。
「俺はいいよ……読めたところで」
「腹の足しにもならない、ですか? ……この先どうなるかなんて、私もお約束できない部分はあるんですから、できることはやっておいた方がいいと思いますよ」
「……」
「学のある者とない者であれば、ある者の方が重用されます。あなたが大嫌いなこの国の人間も、読み書きができることで、多少扱いを変えてくる部分もあるでしょうから。無学な奴隷上がりなんて目で見られ続けるのも、嫌でしょう?」
「まぁ、実際そうだが……」
 学はないが若くて丈夫、という宣伝文句で売られていたので、思い出すと腹立たしい。
 学ぶ機会を得たところで、自分は特別賢くはないという自覚はあるが、キールの言う通り、先は見えないのだ。
 兄や義姉が見つかって、約束通り故郷に帰すことができたとしても、一面焼け野原になった村に帰したところで、彼らは生活できない。やはり金はいる。
 いつまでここにいるのかわからないが、外に出たとき、学があった方が多少稼ぎも良くなるかもしれないというのなら──自分はやるしかない。
「……わかった。教えてくれ」
「わかりました。そのかわり、私の部屋の掃除もお願いしますね」
(こいつ、ちゃっかりしてる……)
 にこやかに言うキールを、思わず睨む。最近多少手伝ってくれるのだが、やはり掃除は苦手らしい。この男も、根っからのお坊ちゃまだった。
 そんな会話をしていると、客間にいたマキーラがテオドールのもとに飛んできて、テーブルの上に乗った。
 冠羽が少し立っている。あまり機嫌が良くないらしいが、隠れるようにテオドールの腕をくぐって、無理やり中に胸元に入ってきた。甘えているわけではないようだが──。
「どうした? お前」
 珍しい行動を不思議に思ってマキーラに声をかけていたとき、大きな紙を持ったアルノリトがぱたぱたとこちらにやってきた。
「もうマキーラ、じっとしててよー」
 朝ごはんも食べてぱっちりと目を覚ましたアルノリトは、絵を描くイラリオンに興味を持ったらしい。どういう経緯で物置小屋に画材があったのかは知らないが、前任者も絵を描いたりすることはなかったようなので、アルノリトにとってはその光景が珍しかったらしいのだ。
 イラリオンの周りを興味深そうにちょろちょろしていたところを「描いてみる?」と誘われ、先ほどまでイラリオンに絵を教えてもらっていた。
「ねぇテオドール、マキーラ全然じっとしてくれないの。描きたいのに。やだって言うの」
「こいつ、そういうの嫌いそうだからなぁ……勘弁してやれ」
 普段は「しょうがないな」というようにアルノリトと遊んでくれるマキーラも、今はつんと尾を向けている。多分アルノリトだから逃げているだけで、相手がキールならガンを飛ばしまくった挙句、噛みにいっていただろう。
「ご当主、今描いている絵は、どんな感じなんですか?」
「えっとね、こんな感じ!」
 朗らかなキールの問いに、アルノリトは背伸びしながら、ご機嫌で描きかけの絵を広げて見せてくれた。
(……なんだろうこれ)
 思わず、テオドールとキールは二人同時にそんな顔をしてしまった。羽らしきものが見えるので鳥、だとは思うのだが──線がぐちゃぐちゃしていてよくわからない。
この子供は、絵は上手くない。
 だがアルノリトは、あまり気にしていないようだ。
「おじさんね、凄く絵が上手いし、描くの早いんだよ。僕も描いてくれたの!」
 にこにこと興奮を語る。多分アルノリトにとっては、上手い下手の問題ではなく、これは楽しい体験なのだ。
「もうマキーラ全然描かせてくれないから、テオドールにこの絵、あげるね」
 鳥らしき絵をテオドールに手渡すと、アルノリトはまたぱたぱたと客間に戻っていった。おじさーん、と明るく呼ぶ声がする。
 イラリオンのことは随分警戒して疑っていたが、もともとは素直な子供なので、絵をきっかけに懐いたらしい。アルノリトは、自分に優しい大人にはすぐ懐くのだ。
「殿下は、おじさんと呼ばれているのですか……」
 アルノリトの背を見送っていたキールは、しみじみと同情する様な口調でつぶやいた。
「お兄さん、はあいつの中で駄目らしいからな……」
 テオドールも苦笑する。
 だがイラリオンも諦めるのは得意な男なようなので、今は「おじさん」と呼ばれても嫌な顔ひとつせず、笑顔で対応していた。
 イラリオンの中でもアルノリトは「よくわからない存在」であるようなのだが、一応父を同じとする兄弟でもあり、ぎすぎすしていない兄弟関係というのは彼にとっても初めてのようで、それなりに楽しんでいる様子だった。
(今まで、生まれが高貴な連中は気楽で、苦労なんかしてないんだと思っていたけど)
 それもある種の偏見だったのだろうな、とテオドールは思う。
 彼らは食うには困らないだけで、その家柄や血に大いに振り回されることも多々あるのだな、と思う。きっと彼らにとっては、何もない自分のような人間が、羨ましく思えるときもあるのかもしれない。

(続く)