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檻の中のカラスと孔雀

04:猛禽、孔雀に懐かれる


 名前を呼ばれた気がして、テオドールは目を開ける。
 いつの間にか、周囲が真っ暗になっていることに驚いた。自分は何をしていたのだろう、とぼんやりする頭で、直前の事を思い出す。
 ──確か、あの埃だらけの客間にいた。
 砂だらけの床、蜘蛛の巣が垂れ下がった天井。そこにあった年代物の椅子に腰かけて、窓を打つ激しい雨と、室内の暖炉の、暖かな炎を見ていたはずだった。
 今も変わらず、体は椅子には座っていたが、暖炉の薪は燃え尽きて、炭が熱を抱いて闇の中で赤く光っている。
(……そこまで寝ていたのか? もう夜?)
 そう思ったとき、背後に動くものを感じた。何かと思って振り向いたテオドールは、椅子に腰かけたまま、目を見開いて固まってしまった。
 ──今までの人生で、見たことがないものがいた。
 それは見上げるほどに大きな、鳥のような化け物だった。青緑の羽毛と、鷹のように鋭いくちばしと爪。長い尾羽──それが身をかがめるように姿勢を低くして、椅子の真後ろからこちらを凝視している。
 まるで、これは食べられるものか? と吟味しているような視線だった。
「……」
 テオドールは声も出なかった。その巨大な鳥の化け物は、フクロウのように、首を大きくくるりと曲げて、斜め下からテオドールの顔を見つめている。一瞬逃げ出そうと腰を浮かしかけたが、あまりに巨大なそれは、ひょいと首を動かせば、容易にテオドールの頭をついばんでしまうだろう。逃げれば逆に本能で、ぱくりといかれそうな気がした。
 闇の中で、顔を強張らせながらその怪鳥と見つめ合っていたテオドールの中に、次第に奇妙な落ち着きが生まれ始めた。
(これは……因果と言えば、因果なんだろうな)
 鳥を使って狩る側にいたものが、今度は鳥に狩られようとしている。──でき過ぎているなと思うと、場違いな笑みが浮かんできた。
自分の人生に対する、あきらめのようなものに近かった。
(まぁ、あれだ。……ここで奴隷としてこき使われて死ぬよりは、鳥の胃袋に収まる方が俺もいい。媚びてまで生きようとは思わんさ)
 この国の人間にとって、奴隷として売られてきた他国の人間は、家畜と同類だ。借金を抱えて飲んだくれているような、どうしようもない人間にさえ、奴隷というだけで下に見られる。それはここに来る道中や、市街の人々の様子で痛いほど理解した。
 奴隷となった者の中には、そういう連中の靴先に、膝まづいて口づけをしてまで服従を誓う者もいた。
 もちろん自分と同じく、生き別れとなった家族や友人、恋人と再会するために生き抜こうとして、そういう道を選んだものもいる。反抗し続けるテオドールを「馬鹿だな」という目で見ていた奴隷もいた。彼らの言いたいこともわかるのだ。だがどうしても、納得ができない。
 ──あまり好きじゃありません。今のこの国の風潮が。
 テオドールは脳裏に、先ほど少しだけ話をした若き騎士の姿がふと浮かんだ。
 キールというあの男は、他国を攻めて人をかき集め、奴隷を売り買いし、自慢しているような今のこの国の風潮は嫌いだと言っていたが、テオドールとしては「だからなんだ」という思いだった。
(嫌いだから、なんだというんだ)
 あの男がどんな理由があってここにいるのか、今そんなことは知らない。
 だが彼は、国の騎士だ。テオドールの故郷を襲ったような下っ端の兵ではなく、この国の君主に仕え、十分に学もありそうな──そんな男だった。
 本当にそんなことを思っているなら、この国の将来を憂いているなら、君主の前で堂々と意見でもしてくれればいいのだ。実際に売られ、少年に買われた自分を前にそんなことを言ったところで、自分が心許すとでも思ったか。学のなさそうな、僻地の民である自分など、簡単に懐柔できると思ったか。
 思い出すと、ぐつぐつと腹が立ってくる。
(唯一心残りというなら、兄さんと義姉さんの事だが──)
 こんなことになるなら、もう少し話をしておけばよかった。テオドールは自分でも、自身が口下手な男だと自覚している。わざわざ感謝なんて伝えなくても、自分がそう思っていることを、彼らはわかってくれていると思っていた。
 「……心残りのない人生なんて、そんなものはあり得ないのだろうけどな」
 テオドールはそう呟いて、静かな思いで、玉虫色の鳥を見上げた。
 大きな鳥は、ぞっとするような冷たい視線と威圧感を持っていたが、その姿は自分が見てきたどんな生き物よりも美しかった。きっと、鳥の世界で「王」とか「神」がいるなら、こういう存在なのだろうな、とテオドールは思う。
 その鳥も、じっとテオドールを見つめていた。だがやがて、それに飽きたかのようにふわりと巨大な翼を広げると、風を巻き起こしながら、一気に虚空へと舞い上がり、見えなくなった。
 頭上からはひらひらと一枚の羽毛が落ちてくる。テオドールは反射的に、それを指で掴んでいた。
 窓際で見た、あの色鮮やかな羽だった。
 
「っ……!」 
 首ががくんとなった衝撃で、目が覚めた。
 はっとしながら目を開けると、周囲はまだ薄暗い程度だ。窓の外は相変わらずの豪雨だし、暖炉の炎も、煌々と力強く燃えている。薪の量も減っていない。
(夢……?)
 胸の中で暴れる鼓動を感じながら、テオドールは恐る恐る周囲を見渡した。体は相変わらず、暖炉の前の椅子に座ったままだ。おそらく瞬間的に襲って来た睡魔に負けて、うたた寝をしていたのだろう。
 そのとき、部屋の外で何か、がちゃんというような陶器が割れるような音がした。テオドールは眉を寄せて立ち上がり、客間の扉を開けた。
「うー……」
 何か近くで、人の困ったような唸り声がする。何かと思いながらそちらに行ってみると、声の主は炊事場にいた。
 煤だらけの炊事場──部屋の隅にはこれまた煤だらけになっている立派な食器棚があった。下の部分は引き出しになっているが、上の部分にはガラスの入った飾り棚となっており、高価そうな茶器やカップなどが並んでいる。
 その棚の前で、小さな少年がこちらに背を向けて、懸命に背伸びをしていた。半ズボンにひざ下まである皮のブーツをはいている。上は白いシャツで、後頭部はふわふわした淡い金の髪に覆われていた。
(あの子供か?)
 テオドールは眉を寄せた。
 そういえば例の「ご当主」アルノリトはいつも全身ローブに包まっていて、目元しかわからなかった。屋敷に帰って、濡れたローブは脱ぎ捨てたのかもしれない。後姿は、小奇麗な格好をした、育ちのよさそうなご子息、という様子だ。
 どうやら上のガラスが入った戸棚部分にあるカップを取りたいらしいのだが、手が届かないらしい。足元には一つ、割れた白い陶器のかけらがあった。先ほどの音は、これなのだろう。
「……」
 どうしようか迷った。多分これがあの黒衣の青年であれば無視したと思うのだが、子供が懸命に、ぷるぷると背伸びをしながらカップを取ろうとしているのに知らんふり、というのは、無骨ではあるが人並みの良心を持っているテオドールには難しかった。無言で歩み寄り、 後ろからひょいと、少年が取ろうとしていたカップを掴む。
「あ」
 少年が声を上げて、こちらを見た。その瞬間、テオドールも少年の顔を見たのだが──少々固まってしまった。
 少年は、非常に愛くるしい顔立ちをしていた。澄んだ明るい緑の瞳、ふわふわの金の髪、真っ白で頬に少々赤みがさした肌──だがその右側頭部には、金髪に交じって緑や青などの羽毛が、びっしりと生えていた。
 一瞬髪飾りかと思ったのだが、それは頭髪と同じく、毛の流れにそって生えている。大きな目を縁どる金のまつげにも、ところどころ長い羽が生えており、まばたきのたびに揺れていた。
(あぁ……)
 外で少年が目元以外をローブで隠していた意味を、テオドールは冷めた頭で理解した。こんな人間を見たのも初めてだが、思ったより、心は落ち着いている。どこか納得したような思いもあった。窓際で見つけたあの鮮やかな羽は、この少年の「抜け毛」だったわけだ。
「ありがとう、テオドール」
 だがアルノリトは天使のような笑顔で、テオドールに笑いかける。テオドールもどういった顔をしていいのかわからず、そのままカップを手渡した。
「一個落として割っちゃった。……キール怒るかなぁ。僕がそこらのものに触ると、怒るんだ」
 アルノリトはしゃがんで、割れたカップのかけらに手を伸ばす。
「……触るな。指を切る」
 それを制して、テオドールはその場にしゃがみ、破片を拾う。
「あの男は?」
「男……キールのこと? 今、二階の物置部屋だよ」
 拾った破片を、とりあえずそばにあったテーブルの上に置く。厨房は客間に比べて多少整頓されている気がした。
「君の着るものを探すんだって。自分のじゃ小さそうだって言ってた」
(……あいつ、細長いからな)
 テオドールは、夢の中でまで腹を立てていた、あの若者のことを思い出す。年齢の割に感情を荒立てることなく、淡々と話す若者だった。首も腰も顎も細く、テオドールの思う「屈強な騎士」からはかけ離れた男だ。
「物置なら、多分前の人のが残ってるから」
「……前の人?」
 尋ねると、アルノリトは素直に頷いた。
「うん。前の人。キールの前に、ここにいた人。」
「その人は、今どこに?」
「死んじゃった。だから、キールが来たんだよ」
「……」
 アルノリトはそう、何でもないことのように言うと、カップを持って客間に歩いて行った。

 客間のふかふかとした、二人掛けのソファ。
 アルノリトはそこに座って、茶を幸せそうに飲んでいた。寒いので温かいものが飲みたかったらしい。
 ……結局、湯を沸かした熱い鍋を触る手も、見ていて危なっかしかったので、茶を淹れるところまで全部テオドールがやってしまった。「甘くして!」とせがまれたので、少年が持ってきたはちみつも、たっぷり入れてやった。
 すると、何故か──懐かれた。「隣に来て」とガウンの袖を引っ張られたので、仕方なくというかなんというか、少年の隣に腰かけている。
(本当に、妙な子供だな……)
 隣で機嫌のよさそうなアルノリトを見ながら、思う。
 基本テオドールは、子供にそこまで好かれない。
 故郷でも、周囲の大人たちには昔から「働くし、決して悪い奴じゃないんだが、どうにもこいつは無口すぎるなぁ」と言われながら育った。
 周囲は、テオドールが早くに両親を亡くしたので、こういう子に育ってしまったのだと同情的に見ていた部分もあったようだが、別に本人としてはそんな気もなかった。両親が相次いで死んだのは自分が赤子のときなので、正直なところ、彼らの記憶はない。そのぶん兄夫婦には、我が子のように育ててもらった。だから、人に同情されるような育ちをしたわけではないと、自分では思っている。
 ……だがそんな男だったので、成人してからも子供に好かれたためしはない。常に肩に乗るマキーラは子供にも威嚇をしていたし、どちらかと言えば、怖い大人だと思われていた気がする。別に、怒鳴った記憶も、子供が嫌いだなんて言った覚えもないのだが。
(……まぁ、これを普通の子供と思っていいとは思わないが)
 椅子の肘置きに、頬杖をつきつつ思う。
 体毛がところどころ、色鮮やかな羽毛となっている少年。ときどき妙に大人びた喋りをすることもあるが、足をぷらぷらさせながら甘い茶を飲んでにこにこしている姿は、ただの幼い子供のようにも見える。
 ──ご当主。
 ──やっかいなところと商売しちまった。
 ──あれは祟るんだよ。
 この街に来て聞いた、この少年に対する言葉。
 何故羽が生えているのか──テオドールにはわからないし、気軽に聞いていいとも思えなかった。見た目がこれなら、周囲が怯え、敬遠するのもわかる気はする。そんな目で見られながらもここでゆったりと暮らしていけるのは、立派な屋敷と土地を持つ、良家の跡取りだから、ということだろうか? 
(だが、祟るとはなんだ?)
 テオドールのそばには相変わらずマキーラがいるが、彼の冠羽は立っていないし、大きく身を膨らませてもいない。キールのときは、獲物を狙うように鎌首をもたげて、今にも飛び掛からんとしていたくせに。
(マキーラは全く敵視も警戒もしていない、か)
 テオドールは判断つきかねていた。こんな人間は初めてなので、しばらく悩んで、口を開く。
「前に、確か言っていたな。マキーラは俺を『つがい』として見ているって……どうして、マキーラの言っていることがわかる?」
 率直にそう尋ねる。カップを小さな両手で持ちながら、大きな緑色の瞳がこちらを見た。
「テオドールはこんなにマキーラと仲が良いのに、わからないの?」
「……」
 素直に「わからないの?」と言われると、怒っていいのか呆れたらいいのか、わからなくなってしまった。
「俺がわかるのは、怒ってるとか今は機嫌が悪いとか喜んでるとか……その程度だよ。どんなことを考えているのかとか、そんなことはわからない」
「ふぅん……」
 アルノリトは、考えるように首を傾げた。
「僕は、鳥の話すことは大体わかるんだ。でもほとんどの鳥は僕を怖がってる。こっちから話しかけたら、驚いて逃げちゃうから」
 少年はカップをテーブルの上に置いて、テオドールの後ろにいるマキーラに手を伸ばした。普通なら指に穴が開くくらい強く噛まれるのだが、マキーラは挨拶するように少年の指をがじがじと甘噛みし、首を傾げている。それを見て、アルノリトは何がおかしいのか、けたけたと笑っていた。
「マキーラは面白い子だねぇ。君を守ってるつもりでいる。君のことが大好きで──だから君が、他の人に触られるのが本当に嫌いなんだ」
(……そうなのか、お前?)
 思わず、眉を寄せながらマキーラを睨むが──なぜかくるりと顔を逸らされた。この少年の言う事が本当だとしたら、育ての親であり相棒であるはずのこちらのことを「つがい」認定していたりと、なかなか愛が重い鷹である。
 マキーラは自分が話題にされることを嫌ったのか、羽ばたいて窓際に飛んで行ってしまった。
「……マキーラはね、最初から僕のところに飛んできたんだよ」
 その大きな、茶色のまだらな背を見ながら、アルノリトがつぶやいた。
「君を追ってここにきて──この森には、ご飯を食べに来ただけみたいだけど。この辺りには森なんて、ここしかないしね」
 マキーラは森林に暮らす鷹だ。この国まで来て、自然と休める場所として選んだのが、この屋敷を囲う深い森だったのだろう。
「……そこの杉の樹にいたと聞いた」
「そう。キールから聞いたの?」
 問われて頷く。あの男はそう言っていた。見たこともないような大きな鷹が、杉の樹のてっぺんにいたのだ、と。
「この辺りには、あんな大きな子はいないよ。最初、飼われていた子が逃げたんだと思ったんだ。で、二階の窓からおうちはどこなの? って聞いた。そしたらこの子、逃げずに僕をじっと見て……すごく『悔しい』ってつぶやいた」
「……」
「爪も翼も、まるで役に立たないって。こんな強そうな子がずっと言うんだ。大事な人が囚われてるのに、何もできない、悔しいってずっと、怒ってて」
「……だから、わざわざ俺を買ったのか?」
「だって」
 アルノリトは大きな目を細めて、こちらに笑いかけた。
「大好きな人と離ればなれにされちゃうのは、寂しいよ。僕にできることなら、なにかしたかったから」
 当たり前でしょうと言わんばかりだった。あまりにも純粋な笑みと言葉に、テオドールは黙るしかなくなってしまった。
 この少年は、深くなんて考えていない。完全に子供のやることだ。ただ初めて自分から逃げ出さなかった鷹の強い言葉とその願いを、純粋な善意でかなえてあげたいと思っただけなのだ。
 奴隷を買う行為も意味も、正直よくわかっていないのかもしれない。
 そのとき、部屋の扉が少々乱暴に開いた。キールが、小脇にいくつか洋服を抱えている。部屋の中をちらりと見渡した青年は、並んでソファに腰かけていたテオドールとアルノリトを見て、若干意外そうに眉を寄せた。
「……ご当主、そちらにおいででしたか」
「うん。テオドールにお茶淹れてもらったよ。甘いの」
「それは、よいことですね」
 にこりともせずに言うと、キールはそのままテオドールの前に歩み寄る。
「服、適当に探してきました。少々古いですがご辛抱を。……好みとかあります?」
「……ない。着れりゃいい」
 こちらもそっけなく答えると、衣服が投げ渡される。ガウンのままでは行動も制限される。とりあえず何でもいい。もうこの世にいない人間の服だろうが、着られるものがあるのはありがたい。
「ご当主、茶を飲み終えたら、部屋に戻ってください。夕食まではお勉強の時間ですよ」
「えー。テオドールとまだお話ししたいー」
「駄目です。決まりでしょう? できたら、私にきちんと見せてください」
「……はぁい」
 アルノリトはしゅんとしながら、ソファから降りる。そして怒られた子供の顔で、テオドールのガウンの裾を掴み、見上げてきた。
「ねぇ……このまま、どこかに行っちゃったりしないよね? また、お話ししてくれるよね?」
「……ひとまずは」
 すがるような目で見られて、今すぐ出て行きたいです、なんて言えなかった。もうじき日が暮れるし、逃げ出したところで、今の自分の体力ではどこかで行き倒れるに決まっている。
 だが少年は、テオドールの答えにほっとしたように微笑んだ。
「本当? じゃあ僕、ちゃんとお勉強してくるから!」
 アルノリトは笑顔でそういうと、ぱたぱたと走って、客間を出て行った。
「……随分懐かれましたね、ご当主に」
 その姿を見送りつつ、キールがつぶやいた。
「あなたも、ご当主の姿を見て、さほど動揺していないようですし」
「……同じかな、と思って」
 テオドールの呟きに、キールが眉を寄せた。
「何と?」
 問われて一瞬、夢で見た大きな玉虫色の怪鳥の姿が脳裏をよぎった。
「あれが人を食うような化け物だとしてもだ。──あんたたちだって、他国の人間を食いものにして、こき使って殺しているわけだ。大して変わらん」
「私たちと化け物は同列ですか……そこまで口が悪くて、よく今まで無事に運ばれてきましたね」
「自分でもそう思う。無礼だとか言って、斬りかかるか?」
「……ここで? 勘弁してくださいよ」
 キールは笑いながら、窓際まで歩き、そばにいたマキーラに手を伸ばす。冠羽が立っていないので大丈夫かと思ったらしいのだが──振り向いたマキーラに思いっきり噛まれていた。
「ちょ、痛い痛い痛い」
「指に穴開くぞ」
「……のんきに見ていないで止めてくださいよ、飼い主」
「勝手に触ろうとしたあんたが悪い。マキーラ、そのあたりでやめておけ。食っても不味いぞ」
 テオドールの言葉に、マキーラは「ケッ」と悪態をつくように鳴いて、テオドールのところまで飛んできた。
「飼い主そっくりな気質だなぁ……」
 噛まれた指先を見つめながら、キールは苦々しい声でつぶやいた。
「……それで?」
 テオドールは足を組み、目の前の男を睨んだ。
「ご当主は出て行ってしまったのに、御付きのお前が、ここでのんきに俺とだべっている理由は?」
 睨みながら言えば、キールは細い目でにっこりと笑う。初めて見た、満面の笑みというやつだった。
「あなた、案外察しが良くて助かります。でもなぜ、そう思いました?」
「金貨三枚。……俺の値段だ。ここで俺を逃したら、あんたたちはただ損をしただけになる。こっちの貨幣はよくわからんが、おそらく子供の小遣いって額でもないだろう」
「確かに。でもご当主は多分、良いことをしたんだと思って満足されているでしょう。罠にかかった動物を放してあげた、それくらいの感覚でしょうから」
「あんたは満足じゃないだろう」
「まぁ、そうですね……ここまで連れてきてしまいましたし。正直、私としては、お金の問題より情報漏洩の方が怖い」
 漏洩、という言葉に、テオドールはため息のような息を漏らした。
 ──まぁそうだろうな、という思いもある。
 ここは、いろいろと謎がありすぎる。住む者も、屋敷も。
「本来は、一般の方は立ち入り禁止です。許可の無い者も。私の役目は、ご当主の身の安全を守ること、この屋敷に立ち入った者の口を封じることですが──ただあなたの場合、少々特殊ですね」
「……特殊」
「ご当主が直々に『欲しい』と言われた。ご自分で連れ帰ると決めた。今までなかった事例です」
「……反対すればよかっただろ」
「しましたが、阻止できなかった結果がこれです。だからと言って、今あなたを手にかけたら──こっちに余波が来そうで」
「余波?」
「……それも後ほど、順を追ってご説明しますが……あなた、名をテオドールと言いましたよね? 私とちょっとした取引をする気はありますか?」
 キールは窓際の壁にすがりつつ、腕を組んだ。相変わらずの涼しい表情で、こちらを見ている。
(ちょっとした、なんて言うが)
 どうせ、断らせる気なんて微塵もないのだろうな、この男には──と、テオドールは苦々しい思いで、その顔を見ていた。

(続く)