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檻の中のカラスと孔雀

06:猛禽、怪鳥伝説について聞く


 今は夏の終わりだが、小さな嵐が訪れようとしているらしい。
 森の木々は強い風に揺れてざわめき、粒の大きな雨粒は、相変わらず窓をぱたぱたと打ち続ける。
 不気味な空気が立ち込める中、キールは椅子から立ち上がると、客間の隅にある本棚の前に立った。
 そこから一冊、日に焼けた、古びた背表紙の本を取り出す。そしてテオドールの前まで来ると、その本を差し出した。もとは黒に金の縁取りがしてある美しい装丁の本だったようだが、今はあちこち箔が剥げて、随分とぼろぼろだ。中の紙も黄ばんでしまっている。
「……これは?」
 テオドールが視線だけ上に上げると、キールはわずかに頷いた。
「この辺りの民話をまとめた本ですよ。この中の、最初のお話しなのですが──」
「……悪いが、俺は字が読めん」
 テオドールは本から視線を逸らす。テオドールは字を知らない。兄も、義姉もそうだった。故郷のブーチャでは文字を読める人間の方が少なかったわけだが、読めることが前提で話をされると、己の無知さを突き付けられるようで、気まずい。
「では、私がかいつまんでお話しますね」
 テーブルの上にその本を置いて、キールは特に気にした様子もなく、もといた椅子に座る。そして雨に濡れた窓の方を眺めた。
「テオドール。市街地からそう離れていない場所に、こんな深い森が残っていること──ここに来る途中で、何か思うことはありませんでしたか?」
 キールの視線は、うっそうとした黒い森の方へと注がれている。テオドールはしばらく考えて、頷いた。
「違和感は持った。あと、おかしな森だなという感覚はあった。うまく説明はできないが……ぞっとする、というか」
 その感覚は、思い過ごしではないと思う。荷馬車の馬は突然怯えて前に進むことを拒んだし、あの乱暴そうな御者でさえ、何かを感じ取っていたようだった。
 テオドールの言葉に、キールは静かに頷く。
「あなたの感覚は正しいと思いますよ。古くからこの森には、奇妙な言い伝えがありまして。その、本に書いてある話の事なんですけどね。近隣の者は訪れることを嫌う森だったそうです。──怪鳥が出る、と信じられていたので」
「……怪鳥」
 テオドールの脳裏に一瞬、夢で見た見上げるほどに大きな、青緑の鳥が思い出された。美しく獰猛そうな、あの鳥。
「それは、とても大きな鳥だったそうですよ。人なんて、くわえて軽々飛び上がってしまいそうな。本の中に挿絵もあります」
 言われて、テオドールは恐る恐る、目の前のテーブルに置かれた本を手に取った。
 かさついた本を開いていくと、あった。翼を広げている大きな鳥の絵だ。その鳥に、小さく描かれた人々が、矢を浴びせていた。
 黒のインクで描かれていて色はわからないが、長い尾羽と猛禽類のような爪、曲がったするどい口ばし、反り立った冠羽が特徴的な鳥だった。自分が夢で見たあの鳥と、少し似ている。
「本当にいたのか? こんな鳥が」
「いた、とは伝わっていますね。実際、当時この辺りを治めていた王朝の王が、怪鳥狩りのために兵を動員したという話もあります。その物語は、そういう話なんですけど──最後の辺り、見てみてください」
 言われるがまま、テオドールは本をめくった。何枚かめくっていくと、不気味な挿絵があった。苦しみもがいて死んでいく、大勢の人間の絵だ。
「これは……」
 テオドールは眉を寄せる。
「王は怪鳥狩りに成功したんです。そして供養のために、肉をその場にいたもの全員で食べた。ところが……その怪鳥の肉を食べた者は、全員苦しみもがいて亡くなったのです。それがきっかけでその王朝は傾いて、滅亡することになったと言われています。今から二百年ほど前のことですね。怪鳥の祟りだと、人々には信じられていました」
「祟り……毒に当たった、とかではなく?」
「現実的ですねぇ、あなた。でもどうなんでしょう? 鳥って、毒があるんですかね?」
 キールも素直に首を傾げる。
「……稀だが、いると聞く。毒虫を餌にして、身にその毒をため込むような奴」
「へぇ。それは器用な。見てみたいなぁ」
 キールは興味津々というような声で、こちらを見た。マキーラに触りたがったりと、意外に生き物が好きな男なのかもしれない。
「……でもそんなことがあったので、人々はますます森には近寄らなくなりました。夜、その怪鳥の不気味な鳴き声と、苦しみもがく兵の霊を見るから、ということですが」
「お前もここで、見たのか? 霊とやらも」
「私は見ていませんね。多分、兵の霊うんぬんは作り話でしょう。この森には獣や鳥がたくさんいますから、夜にギヤ―ギャー鳴いたりはしますし。そういうのが、人々の恐怖心を煽ったんでしょうね」
「でもそれと、あの子供と何が関係あるんだ」
「ここまでが前提、ですよ。テオドール」
 睨むテオドールに、キールは笑顔を返した。
「……今から十年と少し前のことです。この森の中から、美しい女の歌声が聞こえてくるのに、通りかかった人々が気付きました。何を歌っているのかはわからない。何語なのかもわからない。そんな歌だったそうです。人々は、怪訝に思っていました。こんな森の中で何をしているのだろう? 綺麗な歌を歌っているのは、一体どんな女性なのだろう?  どうしても気になった人々が、そこで見たのは──まだ二十歳にも満たないであろう若い女性。長く豊かな金の髪が特徴的な、非常に美しい女性だったそうです」
 ──金の髪。
 テオドールはふと、アルノリトの姿を思い出した。あの少年も顔立ちは愛くるしく整っていて、ふわふわとした金の髪を持っている。
「女性は樹々の間を縫うように歩きながら、小鳥の囀りのように、楽しそうに歌っていたそうです。その不思議な美女の噂は、たちまち街にも広がりました。時の皇帝陛下の耳にもね。陛下はその女に興味を持って、捕らえて連れてくるよう兵に命じた」
「……お前らの統治者ってのは、昔っからろくなことしないんだな」
「そうおっしゃらないでくださいよ」
 テオドールの呆れたような顔と声に、キールは困ったように眉を寄せた。
「その方は、政治や戦に関しては名君だったのですが……少しでも噂になるような美しい女がいれば、自分の者にしたくてしょうがないという、困った面も持っておられた。非常に性欲が旺盛な方で、何十人と愛人を抱えて。どう思います? 男として」
「……羨ましいとか、俺にそういう言葉を求めているわけか?」
「……あなたに聞いた私が馬鹿でしたよ。そんな、心底馬鹿にした顔しないでください」
 キールはため息をついて苦笑いを浮かべると、話を続ける。
「結局数日かかって、女は連れてこられました。でも女は、自分の名前も、言葉も話せなかった。それでもその陛下は、その女の美貌にたちまち虜になった。森に帰りたがる彼女のために、専用の屋敷を建てさせたんです。それが、今私たちがいる、ここです。別名、鳥かご屋敷」
(鳥かご……)
 テオドールは、部屋の中を見渡した。立派な暖炉、彫刻の入った飾り窓、石の床──どれも金のかかるものだ。外から屋敷を見たときも、貴族の別荘のような印象を受けた。皇帝の寵愛を受けた女が暮らす屋敷として建てられたというなら、それも納得する。
「出入口には見張りをつけて、半ば幽閉に近かったようですね。陛下はときおりここにお忍びで訪れては、女を抱いたそうです。女がどういう態度でそれを受け入れていたのかは知りません。ですが、女はすぐに孕んだ」
「……産んだのか? ここで?」
「えぇ」
 テオドールの問いに、キールは目を伏せて、頷いた。
「私もその現場を見たわけじゃない。だがその出産の光景は、あまりに異常だったと聞いています。産まれたものは、鳴き声を上げなかった。つるりとした──人の頭ほどありそうな、大きな卵のようなもので」
「……」
 語り慣れた童話のように、淡々と語るキールの口元を、テオドールは何とも言えない思いで、じっと見ていた。
 非常に怪しげな、眉唾物の話だ。だが、そういう事もあるのかもしれないというものに、自分は出会ってしまっている。
「……呼ばれた産婆も、出産の報に駆け付けた陛下も、女が産んだものを見て愕然とした。陛下はその女が化け物だったと悟って、その場で斬り捨てた。卵も──と思ったのでしょうけど、そこにいた人々はみな、その卵を割ってみる勇気がなかったそうです。何が出てくるのか、想像ができなかったからでしょうね。 ……結局、女の亡骸を弔うこともなく、関わった産婆には十分な金を与えて、逃げるようにその場から立ち去った。鳥かご屋敷はそれっきり、打ち捨てられてしまった」
(……成程)
 テオドールは冷めた思いで納得した。
 ほこりをかぶってしまっているが、家具はどれも高価なもの。
 それらが持ち出しされることもなく、時だけ流れて行ってしまったように枯れているのは、そういった事情が絡んでいるからなのだろう。この件の当事者たちは、高価な家具や調度品を放棄してでも、二度とここに関わりたくなかったのだ。

(続く)