HOMEHOME CLAPCLAP

セルージャの日記

日記になんて、どうせ一週間も続かない


「お前の書く文章は、相変わらず幼児並みだなぁ」と、ある日何気なく言われてしまった。
 そう言ったのは、ともに傭兵として生きる仲間たちだったが、彼らも大して悪気なんてないことは、セルージャにもよくわかっていた。
 自分がこの一年、継続してブルウズの文字の勉強を続けていたことを、彼らも知っている。頑張れよ、なんて声をかけてもらったこともあった。
 ただみんな酒が入っていたので、セルージャの書いた何気ない文章を見て、そう酒の席の笑いにしてしまっただけなのだと思う。
 自分も集団の中でいじってもらえるような存在になったのだと思えば、多少ありがたさもあったのだが、その「幼児並み」という言葉は、妙に頭の中にこびりついた。
 話題にされた己の顔は笑っていたが、なんだかそのもやもやは続いて、夜に一人で寝台に潜り込んでも、なかなか消えてくれなかった。
 静かな闇の中で、見慣れた天井を眺めながら、セルージャはようやく、己の「もやもや」の正体に気付いた。
(これ、悔しいんだろうな)
 読み書きがまだ完ぺきではないというのは事実だから、言い返したいわけではない。
 だが──。
(そりゃ、俺は学生じゃないしさ。一日中勉強しているわけじゃないんだからさ、片手間なんだし。そもそも俺、そんなに頭良いほうじゃないし──)
 そこまで心の中で愚痴って、思わずため息をついた。他国の文字なんて、そう簡単に身につけられるかよ。お前がやってみろよ──そう言いたくなる。
  だがそれを言い訳にしていては、きっといつまでたっても「幼児並みの文章」のままだ。
(もっと、書くことに慣れないと駄目か)
 しかし、書くとは言っても、何を書けばいいのだろう? セルージャには手紙を書くほど知人も友人もいない。自主的に何か行わなければ──。
(あ。そうだ)
 セルージャはふと、思いついた。
 ──日記を書いてみたらいいんじゃないか?
 この目まぐるしく過ぎる、生活の記録。
 誰にも見せる必要はないし、己の心情や出来事を、単語や文法を調べながら書いていけば、それなりに勉強になるのではないだろうか?
 日記なんて、これまでの人生の中で書こうと思ったこともないが、故郷を離れて一年。この国での生活はまだまだ新しいことばかりだ。
 自分の心にも変化が生まれているし、そういったことを記録して、整理していくのも、悪いことではないかもしれない。
(明日は非番だし、時間あるし──専用の道具を買いに行こう)
 確か城下に、筆記具を取り扱う店があったはず。
 形から入ることだって、今は決して悪いことじゃないはずだ──セルージャはそう自分を納得させて、シーツの中に潜り込んだ。
 新しいことを思いついて切り替えができたおかげか、例のモヤモヤは多少薄くなっていた。


「なぁ、セルージャ」
 翌日、着替えて城門を出ようとしたところで、セルージャは背後から呼び止められた。
振り向くと、グラースがそこにいた。彼の藍色の民族衣装は、どこにいてもよく目立つ。
「今から街にでも出るのか」
「あぁ。すぐ戻るけど」
「別にそれは構わんよ。それより、イリダル見なかったか? 朝から探しているんだが」
「イリダル?」
 セルージャは目を丸くした。
イリダルは同室の若者で、セルージャの二歳年上だ。隊の中では一番歳が近い。物おじせず気が強くて、こちらをぱしぱしとよく叩くので、最初はあまり好きではなかったが、話をするうちになんとなく打ち解けた。
 今では友人と言ってもいいのかもしれない。そういえば、彼も今日は非番だったはずだ。
「俺が朝起きたときはいたけどな……どこか行くとかは聞いてないよ。そのへんにいると思うけど……何か用事?」
「そう。仕事のことでちょっとな」
「……何かあったのか?」
 声を潜めて聞けば、グラースは首を横に振った。
「いや別に。全然悪いことじゃないから。むしろいいこと」
「いいこと?」
「この間、馬車の積み荷の護衛にあいつ付けただろ。無事ちゃんと届いたからって、依頼元から報酬とは別に、ご褒美もらっただけ。陛下経由で」
「あぁ、そういう……」
 セルージャは納得した。
 先日、イリダルは南部への荷運びとその警備を頼まれて、数人の仲間と城を出ていた。
 貴族の婚礼道具を運ばなければならなかったようだが、道中はあまり治安が良くなく、騎士など護衛につけていては、高価な品を運んでいると言っているようなものだ。そこで、商人に変装して荷運びを行ったらしい。
 この城の傭兵たちは、基本頼まれれば変装だろうが潜入だろうが、何でもする。
 結局、やはり途中で盗賊と遭遇したらしいが、無事に荷物は運べたし、盗賊もついでに何人か捕らえたらしい。ご褒美とは、その事だろう。
「まぁ、大した額じゃねぇけどな。貰えるものは貰っときゃいい。もし見かけたら、俺のところに来るよう言ってくれ」
 そう言うと、グラースは足早に城のほうへと戻っていった。相変わらず、忙しそうな男だ。その背を見送りながら、ふと思う。
(……イリダルって、暇なとき何やってるんだろうな?)
 考えてみると、同室の友人の趣味も城外での交友関係も、全く知らない。彼はなかなか負けん気が強く、年長者から言わせれば「生意気」の部類らしいのだが、あれこれ言いながらも仕事はきちんとするので、ある意味可愛がられてもいた。無駄に城を抜け出すこともない。出かけていても、きちんと門限までに帰ってくる男だ。
 セルージャも元々、一人で行動することに慣れた男なので、同室の男がどんな生活を送っているのか、あまり気にしたこともなかった。
(まぁ、いいか。どうせ夕方には戻るだろうし、会ったら大隊長が呼んでたって言っとこう)
 そう思って、セルージャは己の目的を果たすべく、街へと出かけた。

 筆記具を買いそろえて店を出ると、まだ時刻は昼を過ぎたころだった。
(相変わらず、いつも人が多い街だなぁ)
 市街地は買い物客でにぎわっている。飲食店のテラスは、優雅に昼食を楽しむ人々でいっぱいだ。
 故郷のバーガトゥイも西方では大きな国だったが、どちらが都会か、なんて比べるまでもない。この街は運河が細かく張り巡らされ、街道も隙間なく石畳が敷かれている。
 人が多くてとにかく疲れる──だがセルージャは、この雑多な街を案外好いていた。
 自分の彫りの浅い顔立ちは、ブルウズの人間から見れば「この辺りの出身ではない」とすぐわかるそうだ。
 しかしこの国は様々な民族、人種が入り乱れているので、故郷のように少々珍しい見た目をしても、あまり悪目立ちしない。正直、誰も自分のことなんて見ていない──それが、セルージャにとって心地よかった。
(でも特にやることないし……もう帰るか)
 買うものは買ったし、と思って視線を上げると、街道の反対側にふと見知った後姿を見た気がした。色素の薄い、短く刈られた金髪、背を少しだけ丸めて歩くような歩き方──。
(あれ、イリダルか?)
 セルージャは眉根を寄せた。距離が離れているので、こちらには気付いていないようだ。彼は通りの反対側を通って、街の外周方面に向かっているように見える。
 どこにいくのだろう? ここより外は、市民の住宅地だ。
「……」
 自分でも、趣味が悪いと思った。でもちょっとだけ、同室の友人の行動が気になって──セルージャは後をつけてしまった。

 細い街道を縫うように歩くこと、しばらく。イリダルは、裏路地にある小さな木造の家屋に入っていった。両脇を大きな集合住宅に挟まれ、肩身が狭そうに建っている、二階建ての建物だ。
(あいつ、こんなところで何してんだ──?)
 民家みたいだけど──と建物の前まで来た時だ。がちゃりと扉が開く。予想外に早く、イリダルが中から出てきた。
「あ」
 イリダルも、玄関の前に立っていたセルージャに気付いた。何とも言えない顔で、そう声を漏らす。
「……」
 勝手につけていた手前、セルージャも何も言えず、しばらく二人して、無言で見つめあってしまった。


「──孤児院?」
 なんでお前がここにいるんだよ、というひと悶着はあったものの、結局用事を終えたというイリダルとともに、城に帰ることになった。
 イリダルは最初、あまり語ろうとしなかったが、ぽつりと、あそこにいた理由を話し出した。
 あの古びた建物は、実は孤児院なのだという。
「孤児院って、もっと郊外にあるんだと思ってたけど……」
 セルージャのイメージでは、孤児院とはもっと柵で囲われたような開けた場所に、にぎやかしく存在しているものだった。
「お前の想像はよくわかんねーけどな……でけーのもあるよ。ただあそこはちっさい建物だから、今いるのは十人くらいか。個人経営だしな」
「その割に、静かだったな。子供の声がしなかった」
「今は学校行ってる時間だよ。俺ガキ嫌いだし、うるさいのがいないときに来てる」
「何しに?」
「うるせーやつだなぁ……金だよ、金。寄付。……そこまで大した額じゃねーけど」
 言いにくそうに、イリダルは視線を背けながら言った。そして、はぁ、と大きなため息をつく。
「なんでお前に、こんな事言ってんだかなぁ」
「つけたのは、悪かったけど」
「いーよ、こういうのは気付かなかった俺がまぬけなんです。……似合わないことしているな、と思ってるだろ」
「いや別に」
「いんや、自分でもわかってる。……いつだったかな、お前にも言ったよな、俺。孤児院脱走して、この街に来たって」
「あぁ」
 こくり、とセルージャは頷いた。彼は物心ついたときにはすでに孤児院にいて、名前もそこでつけられたのだと聞いた。
 環境が劣悪で、少年時代に脱走してこの街に来た、ということも。そしてこの街で、スリや窃盗に手を染めて生き抜いていた、ということも。
「俺は、今は城勤めなんてやってるけどさ」
 両脇を高い建物に挟まれた路地は狭く、暗い。その隙間から除く青空を見上げるようにして、イリダルはつぶやいた。
「あのまま孤児院で大人になってたって、ろくでもない人間になっていたことは間違いないね。もともと嫌なガキだったし、腕っぷしに物を言わせるような生き方しかできなかったと思う。こういう、薄暗い場所でさ──ずっと、一生」
「……そうか?」
「まぁ、お前にゃ絶対わかんねぇだろうよ、王子様。俺とお前じゃ、生まれも立場も全然違うんだからさ」
「……」
 セルージャは黙った。ほの暗い瞳でそう言われると、何も返せなくなる。
 国では見た目の問題で論外扱いされていて、弟以外からは同胞とも思われていなかったが、暮らしの上ではそこまでひどい扱いをされていたわけではない。
 食うに困ったこともなければ、寝る場所がなかったわけでもない。ふかふかのベッドで眠っていた。周囲の視線は痛かったが、別に投獄されていたわけでもない。自由にふらふらしていた。でも、王の兄だったから、それが許されただけだ。
 自分だって辛かった──そう言ったところで、イリダルは多分、鼻で笑うのだと思う。別に互いに、不幸自慢をしたいわけではないのだろうが。
「……まぁ、なんだ。変な話になったけど」
 気まずくなった空気に、イリダルが舌打ちをしながら頭をかきむしる。
「あそこの孤児院は、結構感じがいいところでさ。なんかこう、少人数だからだと思うけど、家族っぽくて。学校にもあそこから行かせてるし。ただ個人でやってるから、あまり金がないみたいで」
「それで寄付?」
「そう」
 イリダルは、ため息をつきながら頷く。
「この国は馬鹿でっかいからさぁ、あんな入り組んだところにある小さな孤児院なんて、偉い人には見えねぇんだよね。気付くのは、似たようなところで生きてきた奴だけって言うか……別に、陛下に文句つけてるわけじゃねぇぞ」
「うん」
「まぁなんていうか、俺も悪いことたくさんしてきたわけだし、罪滅ぼしってわけでもないんだけど、やらないよりましって言うか、ああいう連中の苦労もわかるって言うか……あぁ、もう説明するの面倒くせぇ!」
「いいよ、言いたいことはわかったから」
 イリダルがイライラしてきたので、セルージャは苦笑しながら頷いた。
「らしくないとか思ってるんだろ。笑うなよ」
「別に、お前の行いを笑ってるわけじゃない。お前こそ決めつけるなよ。立派だと思うけど?」
「……お前のそういう物知り顔なところ、好かん」
「どうも。元々人に好かれやすい人間だとも思ってないから」
「ほんっと可愛くないやつだよなぁ、お前……。絶対顔で得しているだろ。お前、その顔がなかったら、ただのくそ野郎だからな」
「見た目で得したことなんて、全然ないぞ」
「それはお前の国が頭おかしいだけだろうが。大隊長は、お前のこと可愛がるけどさぁ。どこがいいんだろうなぁ。やっぱ顔?」
「さぁ?」
 セルージャもそっぽを向いて、つぶやいた。
 あの男を最初に求めたのは、自分だ。あの男も、あまりに情けないこちらを放っておけなかったのかもしれない。当時のことを思い出すと、すがりついた自分が恥ずかしくて、逃げ出したくなる。
 あの男はあの男で、自分を過去の己や亡くした兄弟たちと重ねてみている部分があったようだ。
 今でも一緒にいるし、自分はあの男を好いている。この国になじみたいのも、文字を覚えたいのも、兵士として生きると決めたのも、全部あの男が関係している。あの男に必要とされたいから、求められる存在でありたいから、自分はすべてにおいて向上したいのだ。
(結局のところ、俺は常に必要とされたい『誰か』がいないと、生きていけないわけだ)
 そんな自分の精神面に、思わずため息が出る。
 だがあの男が今自分をどう見ているのか、というのはあまりわからない。あまり己のことは語りたがらないし、愛を語る男でもないからだ。
 むしろ、他との交流をもっと深めるように常々言われている。多分、自分がいつ死ぬかわからないような身の上だから、というのもあるのだろうが。
 もしあの男が死んだら、自分はどうするのだろう?
「……そうそう。その大隊長、お前を探してたから」
「え」
 欝々としてきた己の恋愛感情を振り切って言えば、イリダルが目に見えて固まった。
「え、ちょ、ちょっと待って俺、まだ何もやらかしてない……」
「悪いことじゃないそうだから。前の荷運びのことでご褒美出たって。戻ったら俺のところ来いって言っていたよ」
「そ、そうか……」
 イリダルはほっと胸をなで下ろした。その様子が、セルージャには不思議でならない。ご褒美よりも、あの男に怒られないで済んだ、ということのほうが大きいらしい。
 その昔とっ捕まえられて殴られた、というのはそれほどまでに大きなトラウマなのだろうか。この男も、グラースには懐いているはずなのだが。
「……なぁ。今日のこと、大隊長には黙っておけよ。ほかのみんなにも」
「いいけど。別に知られて悪いことじゃないだろ? 関心すると思うけど」
「いやだ。なんか恥ずかしい」
 イリダルがそう照れくさそうに言うので、セルージャは少し、笑ってしまった。
 そして案の定「笑うな!」と、ぺしりと頭を叩かれたのだった。


 イリダルがグラースのもとに行った後、一人で部屋に戻ったセルージャは、買ったばかりの日記帳を開いた。
 表紙は深い青色で、金の箔で蔦文様が描かれている。どこか高級感を感じるが、表紙裏に汚れがあるそうで、随分と値引きされていた。
 だが汚れなんてセルージャにはわからなかったし、贈り物でもない。自分の勉強用には十分だ。
 ──今日から日記をつけようと思う。
 最初の記念すべき一ページ目に、そう記す。
 ──自分の性格的に、一瞬間続いたら奇跡だと思う。だがこの日記帳が埋まるまで文章を書き続けられたら、多少読み書きが上達していると思うので、できるだけ頑張りたい。
「……」
 辞書を片手に、セルージャは初日の出来事として何を記そうか考えた。やはり今日は、イリダルとのことだろう。
 ──イリダルの新しい一面を知った。子供は嫌いなんて言いながら、寄付するあいつがらしいなと思った。普段言わないけど、いろいろ考えている男だ。
(……俺はここに来てから、人の役に立つようなこと、したかなぁ?)
 羽ペンを握りながら、セルージャは考え込んでしまった。

(終)