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幸運は、扉を開けて

3:現在の自分は、ただの炭


 ──のめり込んでいた、惚れていた、受け入れてもらっていた、好かれていたと思っていた──だから、失くすと傷も大きかった。
相手は、同じホテルで働いていたバーテンダーだった。
仕事終わりにホテルの上階にあったバーに飲みに行って、そこで知り合った。
どちらから好きだ、と言ったのかははっきり覚えていない。
彼は酒の専門家、自分は料理。ジャンルは違ったが、話せば話題はいくらでも出てきた。静かなバーの中では賑やかに話す事はなかったが、黙っていても居心地のいい、そんな相手だった。
それなりに思い出もあるはずなのだが、今ではそれも、よく思い出せない。正直、思い出したくない。
自分よりも五つ年上の男だったが、それなりに大きなホテルで働いて満足していた自分とは違い、彼はもっと先を、上を見ていたのだろう。
有名な大会で賞を取ったとかで、いろいろなところから声がかかかるようになった。海外に修行で行ってみないか、他の三つ星ホテルのバーで働かないか、店を持たないか──そんな誘いに、彼は少年のように弾んでいた。
(あのとき喜んでやれば、違ったのかな)
今でもそう、考える。そして悔いる。
総司は相手の状況の変化を、喜ぶことができなかった。
一緒になって喜んで、その背を押してやれるような男であれば、まだ関係は続いていたのかもしれない。
だが、相手が自分の夢が第一で、己は所詮二の次三の次の存在なのだと思い込んでしまったとき、総司は非常に面倒くさい男になってしまったのだ。
子供のように不満をぶつけた。
苛立って、先に別れると言ってしまったのは自分だ。
相手は引き留めてくれる、焦ってくれるのだと思った。だが彼は、総司の言葉をそのまま受け入れた。
焦る事もなく戸惑うこともなく、ただ淡々と。

──そうしようか。その方が、互いに良さそうだから。

無駄に優しく言われたその台詞。そして自分が犯した失態の衝撃──今でも忘れられない。
(──嘘だよ)
本当はまだ好きなのだ。
別れたくないのだ。
ただ、置いて行かれるようで、焦ってしまっただけなのだ──言い訳は山ほど浮かんだ。
だが、あまりにもあっさりと別れに同意した彼が普段、何を考えて自分といたのかと思うと、恐ろしくて、情けなく縋り付く事などできなかった。自分の横を通り過ぎて、部屋から出て行く男の背を、振り返る事もできなかった。
(自分で振ったくせにな)
総司はそう、諦めの息をつく。
付き合っていた期間は、確か二年ほどだ。
今まであまり恋愛に熱心なタイプでもなかったから、あれほどまで自分で好きだと思って、手放したくなくて、入れ込んだ恋は初めてだった。
だから喪失感が大き過ぎた。彼がいなくなったホテルに、勤めていたくもなかった。
職場にも友人連中にも秘密の恋愛だったから、仕事を辞めて実家に戻った理由を、総司の家族も知らない。
唯一知っているのは、この隆弘だ。
総司が地元に戻ったときに、久々に一緒に飲んだのだが、久しぶりの再会で、近況を報告しあっていると高ぶってしまったらしく、総司は情けなく酔っ払い、出会いから別れまでを全部隆弘に半泣きで吐いたらしい。
隆弘は後日、冷静に「すごく面倒くさい女と飲んだ気分だった」と言っていたが、まさしくそれだったと思う。
そんな経緯、男と付き合っていた事実を淡々と「俺にはわからない世界」と言いながらも受け入れてくれた隆弘には、感謝しかない。そして彼も仕事とはいえ、こんな「やさがし」に付き合ってくれた事には、申し訳ないとしか言えない。
「……自分でもなぁ、凄まじく恰好悪いとは思っているんだよ。ただもうちょっと、何するにしても時間が欲しいだけ」
「別に俺は、格好悪いとかは言ってないだろう」
隆弘は洋館を見上げながら、他人事のように呟く。
「俺はそこまで誰かを好きになった事ってないし、なる気もないし、結婚する気もないから、お前の気持ちは一生わからないのかもしれないけど」
「あ、そうなの? お前そういう願望ないほう?」
「親のぐだぐだ具合を見ているからね。あれを自分の身でやる自信がないなー、と」
「……」
そう言われると、総司としても返す言葉がない。多分、幼少期に両親が多額の借金、実父の失踪を経験している隆弘の方が、自分のこんな失恋よりもへヴィな思いを沢山してきているだろう。だが彼は、子供時代から弱音も泣言も言わなかった。
「……お前はどうやって乗り切ったの? いろいろ」
「目標があった」
「目標?」
「しっかり働いて借りた金を返して、どこかに潜伏しているであろう逃げた親父をいつか探し出してぶん殴る、が人生の目標」
「借金返済の心根は立派だけどさぁ。……殴った後、どうする」
「さぁ」
「……さぁ、って」
「許せたらそこまで。許せなかったら、わからない」
隆弘の真剣な瞳に、総司は黙った。
わからない──というのは、とても物騒な事なのだろう。
隆弘が自分に「男と付き合えるのが理解できない、そこまで人を好きになる感情も理解できない」というのと同じく、自分も隆弘が抱く実父への複雑な感情というのは、完全に理解してやるのは難しい事だ。総司はそこまで、人を憎んだことがない。自分のもとをあっさり去ったあの男の事も、不思議と恨んでいない。
相手が悪いと思ってしまえば楽だと思うこともあるが、悪いのは、あのときあの男の背を押してやれなかった、自分だからだ。
だからと言って、わからないからと言って、否定するものでもない気もする。その資格もないような気がする。ただこの場合、そうなのか──と聞いてやるのが一番いいのだろうと思った。自分がそうされて、楽だったように。
「……まぁ、それでも俺は、お前を良い奴だと思っているよ」
言葉に困りながら、そう言ってスーツの背中を叩くと、隆弘は不気味そうに目を細めてこちらを見た。
「……言っておくが、お前は論外だからな。付き合うとかそういうの、絶対に無理だから」
「いや俺も、お前とは絶対に無理だわ……」
総司も眉を寄せた。良い奴だとは思っているが、互いに知り過ぎているからか、どうもこの男を性的な目では見られなかった。隆弘もうんざりしたようにため息をつく。
「もう馬鹿言ってないで、いい加減さっさと中に入るぞ。俺はお前ほど暇じゃない」
「はいはい。そう無職を暇暇っていじめんなよ──」
笑ってそう言いかけた瞬間だった。
 ──突然。
ふっと、首筋に吐息を吹きかけられた気がした。
「……どうした?」
 立ち止まり、後ろを振り向く総司を、隆弘は怪訝なまなざしで見つめた。
「……いや、なんでも?」
へらりと笑って見せたが、風とは違う、生温かかったそれに、総司は少しだけ鳥肌を立てていた。
勿論、振り向いた先には誰もいない。庭は閑散としていて、隠れる場所もない。
(確かに暇だし、多少金が出るからって、こんなの引き受けたわけだけど)
失恋の感傷が、一気に自分の中からなくなっていくのを感じる。逆に浮かんできたのは、この屋敷に対して感じた不気味さだ。
父の実家が心霊スポットになっている──と聞いたときは、ちょっと笑ってしまったくせに。
だが隣にいる隆弘は、何かを感じ取った様子もない。
(そもそも、幽霊とか俺見た事ないしなー。隆弘も見た事ないし信じないからここにいるわけで)
 ──だが、本当にここに何かいるとしたら?
自分達は、その恐ろしいものに遭遇したら、どうすればいいのだ?
(まぁ、俺ら霊能者とかでも何でもないしなぁ。何もできないかぁ)
中が荒らされていないか確認して、怪しげなものがないかぱっぱと見て帰ればいい──そんな思いを胸に、総司は先に行く隆弘に追いつこうと、速足で屋敷に向かった。