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幸運は、扉を開けて

5:ここ、ヤバくね?


(俺は素面だ)
総司は食堂の大テーブルに腰かけて、頭を抱えていた。
昼間っから飲む趣味はない。今、少々精神的に落ち込んでいる事は認めるとしても、もう三か月も前の事だ。いい歳こいて失恋で頭がおかしくなっているなんて、思いたくはない。
それに、もともと別れを切り出したのは自分だ。それなのに自分が振られたかのような、まるで被害者のような気分になっている自分の姿が透けて見えてきて、総司は自分を蹴りたくなった。
 ──こんなんだから駄目なんだ。
こんなのだから、あっさり別れに同意されたりするのだ──そう反省するが、今は自己分析をしている場合ではない、と総司は頭を切り替える。
あれはもう終わった事だ。長々とぐちぐちしているのも、男らしくない。

松葉色の御屋敷の食堂は、しんと静まり返っていた。
隆弘は今、ここにはいない。
『あの人がここにいた、ここを通った』と強く主張する総司の姿を、こいつ頭大丈夫なのかなぁ……というような視線で見つめた後、一人で二階を見てくると言った。
 ──お前、先に車に戻って休んでろよ。
 そう言って、彼は一人で階段を上って行ってしまった。今、上階から時折、天井を通して隆弘が歩いているのだろう物音だけがする。
自分も一緒に行くとは言ったが、冷たく「いい」と断られてしまった。
(頭おかしいとか、思われたんだろうなぁ)
総司は思わずため息をつく。
異常者を見る目──と言えば言い過ぎかもしれないが、そんな色を含んだ目で見られた事は、少々腹立たしいし、自分の心にダメージがあった。だがきっと、大真面目にそんな主張をしていた総司の姿は、屋敷内の心霊現象よりも、不法侵入者とばったり遭遇する事よりも、隆弘には恐ろしく見えたのかもしれない。
車に戻っていろとは言われたが、隆弘一人をここに残すのは何だか気が引けた。なので中途半端に終わってしまった食堂の探索を一人行う事にする。
総司は己の太腿を叩き、喝を入れると立ち上がり、戸だなの引き出しを開けて中を確認し始めた。横にある食器棚も綺麗なものだ。海外製の、値の張るティーカップなどがずらりと並んでいる。そのガラス戸に自分の姿が薄く映った。気合を入れて立ち上がった割に、覇気のない顔をしている自分に笑った。
(幽霊だったって、わけじゃないだろうし)
別れた相手とはいえ、相手が死んだとは思いたくない。ここに出てくる理由もわからない。
見たのはたった一瞬、窓の外を通り抜ける横顔だけ。
だが、見間違えではなかった。心臓が跳ねるとはこういうことを言うのだと、思わず納得したほどだ。
半分ずぼら的に伸ばしていた黒髪は肩につくくらいの長さに伸びていて、よく適当に結んでいた。背も高くて筋肉質で「奥の方からぬっと出てくる」という言葉が合う様な、大柄な男だった。そんな男が白シャツと黒のベストという、バーテンダーの制服を身にまとっている姿は、意外なほどよく似合って、心底格好良かった。
名は、白濱といった。五つ年上のその男の事を、総司は白濱さんと呼んでいた。
名前を心の中で呟いた途端、きゅうに胸の中がもやもやしてきた。
それまで必死に「あの人」「あの男」として、自分の中で名を思い出さないようにしていた総司は、またため息をつく。
(……でも、幽霊じゃないとして……やっぱあり得ないだろ。あの人がここにいるのって。ふつーに考えて)
白濱は総司より先に、ホテルを辞めた。辞めたと言っても栄転に近い。コンテスト入賞をきっかけに、有名店から声がかかったからなのだが、今どこに勤めているのか、総司は知らない。正直知りたくもなかった。
別れてから、連絡はしていない。向こうからもない。地元の話はちらりとした気もするが、「どこどこの何市に住んでいる」程度の話しかしていないから、白濱は総司の実家の事など知らないはずだ。ホテルを辞めて、自分が今実家に戻っているということも知らないだろう。
もし共通の知人から何か聞いていたとしても、今日総司が山の上の洋館の探索に来ている、なんて事を知るはずがない。
そもそもあの男に、自然の中でハイキングするような、爽やかな趣味はなかった。そんな偶然あってたまるか、と内心吐き捨てる。
(なのに一瞬、驚いた)
そしてその背を探して追いかけてしまった。隆弘も驚くような、全力疾走で。
「……まだ、好きなんだな」
一人でそう、呟く。
認めるのは嫌だが、本心はそうなのだろう。
どっと疲れて、総司は引き出しを閉める。
(何なんだよほんと。それとも、俺マジでどっかおかしいのかな)
自分はまともだと思っているのに、周囲から狂人だとしか見られていないのだとしたら、それほど怖い事はないと思う。自分はまともだ、という自信がなくなってきた。
そう半分自棄になりながら、棚の新たな引き出しを開けると、引き出しの中に色鮮やかな和紙が張られた紙の箱がでてきた。箱を取り出して開けると、いくつかの封筒がまとめて入っている。
手紙のようだ。
「ん……?」
なんだこれ、と総司は手紙を取り出してみる。手紙は祖母のもののようだ。晩年は足腰が弱く、二階にあまり上がらないようにしていた祖母は、よくこの辺りに座っていた。食堂のテーブルで手紙を書いたりしていたようなので、ここにまとめて入れておいたのかもしれない。新しいものから異常に古そうな手紙まで、いろいろあった。
「これ差出人爺ちゃんだ……」
見た事もないような古い切手が貼られた手紙。祖父からの恋文か何かだろうか。思わず手に取ってにやついた。
(こういうの、全部取ってたんだなぁ)
祖母はまめな女性だった。いいところの御嬢さんだったらしく、当時としては珍しく祖父と恋愛結婚をしたという事だが、総司の目から見ても、どこか可愛らしい雰囲気を残した女性だった。どこか浮世離れしていた、とも言えた。
晩年、ある程度己で身辺整理をしていた祖母だが、この大量の手紙は捨てなかったようだ。綺麗な箱に入れて取ってあるあたり、宝物だったのかもしれない。
(大事な遺品だよなぁ)
今まで誰も気づかなかったのだろうか? 
祖母の私室や応接室の書類は整理されていたようだが、食器棚の引き出しの奥に、こんな箱が入っているとは思わなかったのかもしれない。
親父に渡そう、と中を確認していると、珍しく切手の貼られていない封筒を見つけた。
 桃色の、花の絵柄が印刷された封筒だ。表面を見て、総司は眉を寄せた。

 ──この屋敷で、不思議な体験をされた方へ。

「……なにこれ?」
思わず声が出た。その字は、間違いなく祖母の字だった。
祖母は、この屋敷の怪現象について、何かを知っていたのだろうか? 
だが生きているときはそんな事、一言も言っていなかった。そして体を悪くするまで、父の「同居しないか」という誘いを断って、頑なにこの不便な屋敷で暮らし続けた。それは、祖父との思い出があるからだと思っていたのだが。
「……」
総司は生唾を飲み込みながら、封筒の中から便箋を取り出す。便箋は一枚だけだった。縦書きの便箋に、祖母の綺麗な字が並んでいる。

 ──ここには、不思議なものも暮らしています。

「……え?」
「も」?
と言う事は、祖母は暮らしながら、その存在を自覚していたという事なのだろうか?

 ──それは、悪いものではありません。
怒らせなければ、とても優しく、良い子です。恥ずかしがり屋なので、なかなかわかりやすい姿で出て来てくれないと思いますが、もし出会う事があったら、仲良くしてあげてください。

「……」

 ──私も最初は驚きましたが、きっとこの世には、そういう存在もいるのだと思います。人がこの世の全てを理解しているなんて思う事は、きっとおこがましい事なのです。

「…………」
総司は固まった。
生前の、どこか少女のような雰囲気を持った優しい祖母の顔を思い出した。その祖母が、ふふ、と困ったように笑いながら、この手紙を書いている姿を想像してしまった。
(……婆ちゃん呑気過ぎ……)
そのときだ。
二階でガタンと、何か大きな音がした。びくりと肩を揺らして、総司は天上を見る。真上だ。
(隆弘?)
何か家具が倒れたような──大きな音。咄嗟に腰を浮かした総司は、一瞬見えたものにぎょっとした。
視界の端──食堂の、大テーブルの向こう側に、『誰かが』腰かけているのが見えたのだ。
ぎりぎりと、壊れた人形のように、総司はそちらに首を動かす。
(な、に?)
何か見えた──というのを認めたくはなかった。だが、その姿ははっきりと、総司の目に入って来た。
テーブルの端に、青年が一人腰かけていた。どこから入ったのか、いつの間にいたのかわからない。この寒い時期だというのに、少々古風な、シャツにスーツベストを着た、色白の青年だった。歳は総司よりもまだ若く見える。艶のある茶髪も合わさって、外国人かハーフのようにも見えた。驚くほどに、美男子だ。
一瞬ぎょっとした総司だったが、何故か怖いという気持ちにはなれなかった。その青年が、まるで歯が痛いとでもいうように、頬を押さえて唸っていたからだ。青年はどこか恨めし気に、総司を睨んでいる。
「……いたい」
「は?」
総司は眉を寄せた。突然降ってわいた男にかけられた言葉の意味が、全く分からない。
いたい? 何が?
「お前の連れ、酷い……」
「え? ……連れ? 連れって、隆弘の事か? って言うかあんた、誰だよ……ここ、俺んちの所有……」
「許さないからな」
「あ?」
少々かちんときた。 何で勝手にここに入った挙句、いきなりキレられなければいけないのか──と言いかけたとき、誰かが階段を駆け下りてきた。隆弘だった。彼は息をきらして、顔面蒼白であたりを見回していた。
「隆弘!」
呼びかけると、食堂にいたこちらに気付いたのか、隆弘がどこか焦ったような目を向けた。
「総司……」
どこか呆然とした呟きだった。普段あれだけ冷静な男の取り乱した様子に、思わず駆け寄る。
「お前、大丈夫か? さっき何かでかい音がしたけど。あと、今──」
「……親父が、出た」
「え?」
真顔でぽつりと呟いた隆弘に、総司の方が呆気にとられた。
「親父って……お前の親父か?」
事業に失敗して多額の借金を残したまま失踪し、未だに行方がわかっていないという、あの──そう問えば、隆弘はめずらしく冷や汗など垂らしながら、無言でこっくりと頷いた。その瞳が、未だに小刻みに揺れているのがわかった。
「出たって……それでどうしたんだよ」
「殴った」
「は?」
総司の思考が止まる。
「あのときのまま、急に出てきて、にやにやしながら手を広げて、俺の名を呼ぶもんだから……馴れ馴れしくするなって、腹が立って」
(いや確かに再会したら、とりあえず殴るとか言ってたけどさ)
隆弘は、家族に迷惑をかけた挙句自分だけ逃げ出した父を、未だに恨んでいる。それは先ほど聞いたが……。隆弘は己の、右手を見つめていた。
「殴った感触はあったんだ。でも、そいつ吹っ飛んで椅子を倒した瞬間、消えて」
「……」
先ほどの物音か──と背後を振り向くと、先ほどまでそこにいたはずの、外国人風の青年の姿がない。
(うっそ……)
総司の頬が引きつった。食堂から外に出るには、入り口付近に立っている自分達のそばを通らなければならないはずなのに。
「……なぁ、入って来たとき、お前そこに誰かいたの、見た?」
総司は部屋の奥を、力なく指差す。
「うちの親父?」
「いや、全然違う。外国人っぽかった。なんか昔の貴族みたいな恰好したイケメン……」
隆弘はしばらくそちらを見ていたが、やがて黙って首を横に振った。
「誰も見ていない。動揺していたから、自信無いけど」
「……」
総司と隆弘は視線を交わらせると、しばらく黙り込んだ。
 ──ここ、なんかヤバくね?
互いにそう考えている事は、長年の付き合いでよくわかった。