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幸運は、扉を開けて

6:弾力のある家


──ヤバいヤバいと狼狽えていたところで、何も解決はしない。
それはわかっているのだが、お互いあまり見たくもない者を見てしまい、しかもそれが唐突に消えるという考えたがたい出来事に遭遇してしまって、互いに「ヤバい」しか言えなくなっていた。
完全に思考停止だった、
総司と隆弘は、とりあず食堂の椅子に座って、しばらく額を押さえていた。
何となく落ち着き始めると、反省会のような空気が漂い始める。
「……とりあえず、謝る」
 先に口を開いたのは隆弘だった。
いつもは冷静沈着で、できるサラリーマン、というような自信を全身から感じるのだが、今はそんなもの、どこにも見当たらない。
「さっき、お前を変人っぽい目で見た。その事は……謝る」
そうしおらしく告げる声は、二日酔いの男のようなものだった。
「……いーえ。俺もアレだわ、ホラー映画だったら、真っ先に死ぬタイプだった」
頬杖をつきながら、総司は目を閉じ、自嘲するような笑いを上げる。
この場にいるわけのない人影を、全力疾走で追いかけて取り乱す──なんて、主人公でもなかったら真っ先に死ぬタイプだ。そんな行動をとった自分が、恥ずかしい。
三十手前の男二人は、パニック後の恥ずかしさを噛みしめていた。
「……で、どう思う? その婆ちゃんの置手紙」
 椅子に座りながら、総司はぽつりと呟いて、隆弘の手元を指差した。桃色の便箋は、今は隆弘の手元にある。総司の祖母の字だ、というのは、隆弘も読んでみて、間違いないと思っているらしい。
「……わりと、新しい便箋だな」
「だろ? 他の手紙が古いぶん、際立つよな」
これは祖母がこの洋館を去る間際に書かれた、のかもしれない。
 だが謎は残る。
「何で婆ちゃんは、この手紙をここに残しておいたのかな? 切手も貼っていないし、何か知らせたいなら、親父にでも出せばよかった」
「書いて出したかったけど、ためらわれたんじゃないか。……何かいるって真顔で言ったって、言いたくはないけど──頭の方を心配されるだけだと思う。俺らみたいに」
若干疲れを感じさせる隆弘の切れ長の瞳が、こちらを見た。
「……まぁね」
 総司もため息をつく。
 もし今回の件で、隆弘の方が先に不可思議な事態に遭遇して、「親父がいたので殴った」なんて言いだしたら──総司もやはり、こいつ大丈夫かなぁ、と頭の心配をしたと思うのだ。
 総司の父も呑気な男で、実家が心霊スポット化していても、あまり大真面目に「幽霊が出る」とは思っていないようだった。調査に現在無職の、もと料理人という心霊スキルのない息子を使わすくらいだ。
 しかし、この屋敷で一人暮らしする高齢の実母が「この屋敷には何がが住んでいる」なんて言いだしたら、さすがにいろんな意味で顔色を変えたのではないか、と思うのだ。
 祖母には最期まで、痴呆の気はなかった。
「でも婆ちゃんの手紙では、見る感じ、悪い者じゃないよって言ってる。婆ちゃんは、何度かそれと遭遇していたし、怖がってもいなかったんじゃないかな?」
 そして、恥ずかしがり屋なので、なかなか姿を見せない、と記されていたのは──。
「……あの男の事かも」
「さっきお前が言っていた、外国の貴族っぽい男、ってやつか?」
 隆弘は半信半疑、といった目でこちらを見た。彼はその姿を見ていない。二階から駆け降りて来たとき、食堂には総司の姿しかなかったような気がする、と言っている。
 しかし総司は、その美麗な青年の台詞を、はっきりと聞いたのだ。
 ──痛い。お前の連れ、酷い。
 ──許さないからな。
「あの台詞だと、お前が見たお前の親父イコールそいつ、って事だろ?」
「俺が殴ったのもそれか」
「頬、痛そうに押さえていたからなー。お前、親父さんのどこ殴ったの」
「かっとなってあまり覚えていないけど。多分、あのにやついた顔」
「……」
 二人して、再び黙り込む。
 ──怪しげなものが出た。
 そいつはなんだか、姿をころころと変えられるらしい。
 そして、それを殴ってしまった。
 ──許さないから、と言われた。
「俺、呪われたかもしれないな」
 はは、と隆弘は珍しく、乾いた笑いを浮かべていた。人は精神の疲弊が限界を迎えると、ひたすら笑うしかない場合もあるようだ。
「いや、待て待てわからんし。でも、となると俺が見た白濱さんも、あいつが化けていた可能性もあるって事だよね」
「そう考えるのが、一番自然だろう」
「性格悪いなー、あいつ。人が一番、会ったら嫌なところに化けるわけか?」
 総司は椅子の背もたれに体を預け、脱力しながら息を吐いた。
 『とても恐ろしいものを見た』
 この屋敷に不法侵入をしてくれた若者たちは、口々にそう言っていたという。だがそれが何なのか、どういった姿をしているのかなどは、全く話さなかった。
 だがそれが、とても個人的に会いたくないと思っている者や、怖いと思っているものが出たと言うのなら……言いたくない気持ちもわかってしまう。
「……とりあえず、帰ろう。これ以上は俺らじゃどうしようもないよ。素人じゃ無理だって、親父に報告しよう」
 ため息をついて、総司は席を立つ。だが、隆弘の動作は緩慢だった。立ち上がる姿にも、いつもの覇気はない。
「……おい、大丈夫か?」
 肩を叩くが、隆弘は弱々しく「だめ」と首を横に振って、ため息交じりに言う。
「お前は女々しい奴だと思っていたけど、案外こういうとき、タフだな。見直した」
「恋愛に関して、すこぶる女々しい事は認めるよ」
 総司は苦笑する。
「でも、怖いって言うか腹が立っているし、意味不明過ぎて落ち込む暇がないな。これに関しては」
 あと、隆弘の方が今回珍しく駄目になっていたので、こっちまで落ち込むわけにはいかないな、と思っているのもある。
 彼の父の姿をした「なにか」は、手を広げて隆弘を歓迎するようなそぶりを見せたという。
(俺だったら、どうしたかな)
 白濱が、もしにこやかに──あまりそんな事をする男ではなかったけど、彼がもし、こちらに手を広げて、総司を歓迎していたら。
(殴ったかな。文句言ったかな)
 ──それとも、もっと別の行動をとったかな。
考えてみたが、今自分がどうするのか、それは総司には、どうしてもわからなかった。


 総司は隆弘を引きずる様に立たせて、冷え切った廊下を歩く。
「とりあえず、考えてもどうしようもないし、出よう。俺運転するから。温かいものでも食いに行こうよ」
 この辛気臭い屋敷に、一秒だっていたくなかった。玄関ホールまで来て、扉に手をかけたが、金色のドアノブは鍵でもかかっているように、びくともしない。
「……ん?」
 疑問に思いながら、体勢を変えて力を込めたが、ドアノブは全く動かない。向こう側から、押さえつけられているみたいに。
「どうした?」
 黙って慌てる総司に、隆弘が気付いた。
「いや、それが……。ドアノブ全然動かない」
「……」
 隆弘は眉を寄せた。無言で総司を押しのけて手をかけるが──やはりドアノブは、少しも動きはしないのだ。
(なんで?)
 入ったとき、内鍵なんてかけていなかった。実際、鍵はかかっていない。なのに、ドアノブが回らないのだ。
「……築百年でしょ? さすがに壊れたのかなー」
 閉じ込められた、という空気を否定したくて、総司は乾いた笑いを浮かべる。
「……勝手口がある。そちらに回ろう」
 玄関扉を開ける事を諦めて、廊下を振り返った隆弘は、ふと表情を固まらせた。
 どうしたのかと、見たくはないと思いつつ後ろを振り返ると──階段のそばに、誰かいた。
 あの青年だった。
 青年はどこか偉そうに、腕を組んでこちらを見つめている。
「お前っ──!」
 あいつだ。あのときの青年だ。そう声を上げた瞬間、洋装の青年は、にっと笑った。
 まるで、ざまぁみろ、とでも言う様に。
「……っ」
 隆弘が顔を青くして、狼狽えた動作で背を激しく玄関扉にぶつけた。その音と同時に、青年は煙のように姿を消した。
「……な」
 無言の時が、数秒過ぎた。
 それが消えても、隆弘は背を扉に張り付けながら、固まっていた。
「なんだ、あれ……」
「俺が見た奴だ」
 総司は止める隆弘を振り切って、階段に近寄った。人影も気配も、全くない。
「……隆弘、大丈夫だ。いないみたい」
 その声に息をついて、隆弘は再度玄関のドアノブに手をかけるが、動かないのは先ほどと同じだった。
 そのまま無言で、食堂裏の裏口まで歩いて見たが、勝手口は開かない。はめ殺し以外の窓も試してみたが、まるで外から釘を打ちつけられているかのように、開かない。
「……閉じ込められた、かな」
 ぽつりと口にすると、急に恐怖がやってきた。
 室内で、電気は来ているとはいえ、屋敷の中は寒い。
「携帯が、圏外になってる」
 その声に振り向けば、隆弘がスマートホンの画面を無表情に眺めながら固まっていた。
「え、そんな事……マジか」
 総司も自分のスマートホンを取り出して、眉を寄せた。今時、樹海の中でもあるまいし。街の小高い山の上とはいえ、電波が全く入らないわけがない。
 偶然にしては出来すぎている。
 許さない──とあの青年が言った通り、彼はこちらを、外に出す気がないのかもしれない。
「……すまん。俺のせいかもしれない」
「おいおい、何でお前が責任感じるわけ? 仕方ないだろ?」
 よろよろと壁にもたれてしまう隆弘を励ましつつ、総司は応接室に行く。そこの本棚から書籍を一冊抜き取り、思いきり窓にぶん投げてみた。
 がしゃん、という音がすると思った。
 しかし不思議な事に、窓ガラスは弾力のあるゴムのようにしなり、ぶ厚い本を弾き返したのだ。
「……」
「……」
 二人は真顔で黙った。
「……二十年以上生きて来たけど、俺こんなの初めて見たよ。窓ガラスって弾むんだなぁ」
「別に、見たくもなかったがな」
 隆弘は、落ちた書籍を拾い上げる。
 どうしようという思いが、二人の間に漂う。気温も下がってきているようで、室内でも息は白くなってきた。
「なぁ隆弘、お前二階の探索、全部終わった?」
「いや。まだ途中」
「一応さ、もっと何かないか、探してみない? もしかしたらまだ、婆ちゃんのメッセージが残っているかもしれないし」
「いつあれが出てくるかわからないのに、探すのか」
「じっとしていても寒いだけだし。多分あいつ、性格悪いから、俺らが怖がっているのほくそ笑んで見ているんだよ。腹立つだろ?」
「……まぁ、それは」
 それもそう、と言う様子で、隆弘は頷く。
「でも、夜まで出られなかったら──今日から気温が下がると天気予報が言っていたからな。こっちも凍死の可能性がある。あまり時間がないぞ」
「俺らがここにいるって事は、親父も知ってる。もし今日俺もお前も戻らなかったら、絶対に誰か探しに来るよ。あと、夜まで出られなかったら、最終手段はあれよ」
 総司は応接室の、使い込まれた暖炉を指差した。
「何か燃やして暖を取って、一晩しのぐ。お前まだ、煙草止めてなかったよね? ライターあるでしょ?」
「あるけど……」
 隆弘はスーツの胸元から、銀色のジッポ式ライターを取り出す。
「窓ガラスが本を弾く家で、燃えるものってあるのか?」
「……わかんない」
 総司は両手を広げ、首を傾げた。
 ──きっとこの世には、そういう存在もいるのだと思います。
(とは言っても、何でもあり過ぎて怖いよ、婆ちゃん……)
 内心ため息をつきつつ、総司は亡き祖母を思う。彼女はどうやって、『そういう存在』と上手くやっていたと言うのか。
(ここで、従弟と死ぬのも嫌だなぁ)
 失恋したときは、もう人生どうでもいいや、とまで思ってしまったわけだが。
 このまま終わりたくないなぁという思いも、若干生まれ始めていた。