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幸運は、扉を開けて

7:くじらに飲まれたときの脱出方法


 家は生きもの、という言葉を昔聞いた。
 それは確か、祖母の言葉だ。
聞いたのがいつだったのかは忘れたが、確か子供の頃だった。何故こんな不便な立地の洋館に暮らし続けるのか、それが子供心にも不思議で、総司が何の気なしに尋ねた時だったと思う。
──家なんてね、人が住まないと、すぐ駄目になっちゃうものなのよ。
──生き物みたいなものだから。お世話する人がいないとね。
祖母はそう、にこやかに答えた。
当時はただ「ふぅん」としか思わなくて、総司も深くその話題を続ける事をしなかったのだが、当時の「生きている」という言葉を、今になって生々しく思い出した。
(ガラス、弾んだもんな)
 自分でも乱暴だとは思ったが、扉から外に出られないし窓も開かないのであれば仕方ない、窓ガラスを割ってでも脱出を──そう思って投げたぶ厚い本を、窓ガラスはゴムのようにしなって、弾き返した。
 あれから隆弘と共に、おっかなびっくり窓を調べてみたのだが、指で触れた感触は、冷たく固く、自分達が思う「ガラス」そのものだった。
 家は、生き物。
 ──この家は、もしかして本当に生きている?
(って考えると、嫌だなぁ……)
 この家から出られない自分達。
なんだか巨大なものに、生きたまま飲み込まれてしまったようで、気持ちが悪くなってきた。
(ピノキオって、どうやって脱出したんだっけ?)
 総司は唐突に、童話『ピノキオ』を思い出した。確か終盤、くじらに生きたまま、飲み込まれるシーンがあったはずだ。でもそんな童話に触れたのは子供の頃の事なので、もう思い出せない。
隆弘と二人、寒いなか出口を探して歩き回って、もし出られなかったら──そこまで考えて、総司は考えるのをやめた。
あまり、悪い方には考えたくない。いざというとき、動けなくなってしまう。
(……でも、本当に、何なんだろうな、ここ)
 そう疑問に思いながら、総司は玄関ホールから二階へと繋がる、立派な階段を上る。
 屋敷の中は静寂に包まれていて、自分達の足音、衣擦れ、そして体重を受けた階段がわずかに軋む音しか聞こえない。
 後ろについて来ている、隆弘も無言だった。ちらりと後ろに視線をやれば、隆弘は重苦しい表情で、眉間にしわを寄せながらも、周囲の気配に慎重に、気を配っているようだった。
(……こいつがこんなに怖がるの、初めて見たな)
 総司としては、それが意外だった。
思えば、十代前半に父が事業に失敗し、多額の借金を残し失踪、残された母と二人、親戚には「一族の恥」として辛く当たられる──というドラマのような人生を生き抜いてきた男だ。
彼は子供の頃から強かった。少々屈折してもおかしくなかっただろうに、決して腐らなかったという点は、総司も素直に尊敬している。自分だったら、そんな風には生きられなかっただろう。
 そんなメンタルが強く賢い彼でも、こういった「理解不能なできごと」というのは、弱いらしい。むしろ賢いが故に、常識的な予測がたてられず、怯えているのか。
「……総司」
「なに?」
 そんな総司の思考を読み取ったのか、後ろから隆弘が名を呼んだ。背中越しに振り向けば、隆弘はなんだか、ばつの悪そうな顔をしていた。
「悪い、なんか……自分がここまで、こういうのに弱いとは」
「いやぁ……そんな事ない。俺も一人だったら、多分おかしくなってたよ」
 あはは、と乾いた笑いが漏れる。総司だって、空元気ではあるのだ。
「……俺、ホラー映画とかは、別に苦手じゃないんだが」
「わかるわかる。俺もホラーとかは、指差して笑いながら見られるもん。……でも実際に降りかかってくると、別だよねぇ」
「……まぁ、確かに」
 隆弘が、気の重そうな表情で天井を見上げた。
先ほど二人して階段を上り始めた直後から、廊下の照明が、急に激しく点いたり消えたりしている。二人のやる気を削ぐには、十分だった。
「これさぁ、完全に消えて停電になったらどうしよう?」
「言うな……」
 隆弘が憂鬱そうに首を振った。
 もうすぐ日が暮れる。真っ暗になった館に閉じ込められるなんてこと、考えたくもない。

 実は先ほど、気になるものを見つけた、と隆弘が言うので、二人は二階の一室に入った。
二階には四部屋あるが、うち二つはがらんとしていて、家具は何もない。生活感を残すのは、窓の端にタッセルでとめられたベージュのカーテンだけだ。もともとはこの部屋もゲストルームだったらしいが、ベッドなどは処分されてしまったようだ。
「家具がないと、部屋の印象って違うよね。ただの箱、と言うか」
 部屋の扉は、開けたままにしておいた。また閉じ込められては、たまったものではない。
その部屋に足を踏み入れて、総司は窓際に立ってみた。高台に建つこの洋館は、周囲をうっそうとした木々に囲まれているように思えたが、二階の窓からは木々を少々見下ろすかたちとなっており、小高い山の下に広がる街並み、そしてはるか向こうに霞がかかった海が見えた。眺めは良い。
「おぉ、オーシャンビューだね」
「オーシャンビューには遠すぎる。そう広告うったら、詐欺って言われる絶対」
「仕事の事は忘れろよ。……でもなんで金持ちって、こう高いところに家を建てたがるのかね? マンションも高層階買いたがるだろ?」
「……知らん。いろいろ持つと、高いところから全部を見下ろしたくなるのかもしれんな」
 隆弘は不動産管理会社の人間だが、あまり物件を求める人間の心情に興味はないらしい。
「それより、あれだ。最初見たときは、あまり何も思わなかったんだが」
 隆弘は嫌そうに窓の横を指差した。カーテンに隠れて見えなかったが、そこには小さな額がかけられていた。絵かと思ったが、写真のようだ。
「……なにこれ?」
「この松葉の館を設計した、海外の技師の写真だそうだ」
「えーと……『ダンクマール・バッハ』……?」
 総司は眉間にしわを寄せて、その小さな写真と添えられた文章を読んだ。
 ──ダンクマール・バッハ技師。
ドイツ人建築家であり、教会や領事館など、この地に残っているいくつかの洋館を手掛けた。
一九一〇年、母国への帰国を目前に控え、急逝。五五歳。
「……なんか、鬱になる事が書いてあるんだけど」
「解説文はいい。それより写真」
 隆弘に急かされて、すっかり薄くなってしまったその写真に視線を移す。写っているのは、外国人の男性だ。
「なんとなく似ていないか? さっきのあの男に」
「えー……どうかな? すっごく薄いから、よくわからないけど」
 総司は眉を寄せた。写真はかなり古く、白黒写真というよりはセピア調になっていた。
男が古めかしいスーツ姿である事はわかる。目鼻立ちのはっきりとした、どこか貫録のある姿だが、中年の域に差し掛かったその男は立派なひげをたくわえていて、あの美麗な青年と似ている、とは言い辛かった。
「目鼻の雰囲気とか、似ていると言えば似ているし……似てないと言えば、似ていないし……」
 ──ダンクマール・バッハ。
 建築家として、有名な人なのだろうか?
 首をひねりつつ、総司は己のスマートホンを取り出したのだが、電波は未だに圏外だった。検索もできやしない。舌打ちして、そのままダウンジャケットのポケットに突っ込む。
「……これを、見た時だったんだんだよな」
 しかし隆弘は冷静に、その写真を睨んでいた。
「この物件、明治の頃に外国人が建てたとは聞いていたけど、こんなの飾ってあったんだな、と思って。説明文を読んでいたときに、後ろに人の気配がして──」
「……出たの?」
 両手をだらん、と前に垂らしながら問えば、隆弘は無言で頷く。
「俺は、お前が一階から上がって来たんだと思って振り向いたんだ。そしたら、目の前に親父が、気持ち悪いくらいの笑顔で立っていた。親父がいなくなったの、もう十年以上前だろ。なのに全然老けていない。あのときのままで、無言で笑ってた」
「……そりゃ、怖いよね」
 想像して、総司はぞっとする。
 だがこの従弟は、そんな不自然さよりも父に対する怒りが勝ったのだ。豪快に殴ったそうだから、メンタルが強いのか弱いのか、よくわからない。
「……で、さっき下であの若い男を見たろ。何となく、この写真の事を思い出して。ちょっと、似てないか?」
「そうかなぁ? この写真だいぶオッサンだし」
 わかんないよ、と総司は首を振る。
 あの青年は、随分と若かった。二十代前半、といったところだろうか。この写真は、建築家の晩年に撮られたもののようだから、貫録あるこの姿とあの青年の姿が、どうにも総司には重ならない。
「それに、このオッサンは建築したちょっと有名な人ってだけで、この人が住んでいたわけじゃないだろう? オッサンが化けて出るの、おかしいだろ?」
「……だから知らん。あとオッサンオッサン言うな。また出てきたらどうするんだよ。外国人は、過去に何人か住んでいたらしいが……」
 この館は瓜生家の手に渡るまで、持ち主を何度か変えている。この辺りは海沿いで、貿易が盛んだった。大きな船が寄港するような港もあった。
  鉄道、炭鉱、建築に宗教の布教──明治の終り頃にはたくさんの外国人技師がこの地に訪れ、暮らしていたという。小学生の頃、郷土の歴史というやつで調べた。この「松葉の御屋敷」も、当時のそういった物件の生き残りだ。
「でも本当に、血生臭い事件なんてなかったはずだし……あとは──ふぁっ?」
「ど、どうした?」
 突然隆弘が奇声を上げたので、総司もびくりと肩を震わせて見る。
 隆弘は毛を逆立てたような表情で、己のスーツの足元を、さかんに気にしていた。
「なんか今、足首にもふっとしたものが触れた……」
「もふ?」
 総司は、怪訝な顔をする。
「なんかこう、ふわっとしたような、毛皮っぽいというか……」
「動物?」
 総司は周囲を見渡した。そんなものが通り抜けた事には気が付かなかったし、イタチか猫が入り込んでいたとしても、自分達の足元を駆け抜けたのであれば、すぐ気付くはず。
 気のせいなんじゃないの──とは言いたかったが、今まであんまりな体験ばかりしているので、今更そんな事も言えない。
 だがふと、開け放たれたドアの方に視線をやったとき、小さな動く影が見えた。ぎょっとして扉の外まで駆けだしたが、素早いそれは廊下を駆け抜けて、階段を跳ねる様にして階下に消えて行った。
「……猫か、何か?」
「いや、違うでしょう明らかに……猫だったら見てわかるよ……早すぎて柄も何もわかんなかったよ……」
「いや、猫は本気で走ると結構速い……」
 はは、と二人して乾いた笑いを浮かべる。
 ──明らかに、ここには何かいる。自分達の常識も経験も飛び越えた、何かだ。
「……ちょっと整理するぞ」
 頭が痛そうな顔をしながら、隆弘はスーツのポケットから黒い手帳を取り出し、胸ポケットに差していたボールペンを持った。恐怖が一周して、少々いつもの理性的な姿を取り戻したらしい。
 メモ欄を開きながら、がりがりと今までの時系列を書き始めた。