HOMEHOME CLAPCLAP

幸運は、扉を開けて

9:同音異義語に流されて


 祖母に害をなすもの、祖母の許しなくこの館に入り込む者──この存在はそれに怒っていて、親類だろうと掃除に来た業者だろうと物件を保存したい市の職員だろうと、ただの侵入者にしか見えないのだ。
 扉を壊した若者たちが事故まで起こしたのは、恐怖による動揺もあっただろうが、彼の本気の怒りを受けたからなのかもしれない。
 そう思うと──この存在に対する怒りや苛立ちや意地悪な心が、急にぷすんと、しぼんだ気がした。
「……なるほど。頑張ってたんだな、お前」
 思わず同情的な声が漏れた。青年は、僅かにむっとしたような顔をする。
『……わかったならもう出て行けよ。窓割ろうとした事も殴った事も、今ならまだ、許してやる』
「うん、まぁそうなんだけど……」
 上から目線で言われて、真実を言うべきか言わざるべきか──総司は悩んだ。
 彼が待つ「さゆりちゃん」はもう、帰ってこないのだ。
 だが、このまま屋敷に入る人間を攻撃し続ける事は、きっとよくない。祖母はもう帰らないと言う事を、教えるべきではないのか。
 しかしこれ以上激昂させるのは、よくない気もする。
「はいわかりました」と素直に出て行くべきか、もう少し語るべきなのか──総司が悩んでいると、意外にも隆弘が、青年に話しかけた。
「お前は、いつまで待つんだ」
『……そんなのさゆりちゃんが、帰るまでだ。そういう約束だ』
 青年は、当然と言う様に答える。
「成程。……お前は人じゃないみたいだが、人の言葉に耳を傾けるような頭と冷静さはあるのか。同じ言葉を繰り返すだけか。対話はできるのか」
「ちょ、隆弘……!」
 いきなり何言い出すんだこの男、と総司は慌ててコートの袖を引っ張ったが、青年は少々苛立ったように、眉を寄せる。
『馬鹿にするな。お前達の言葉くらい理解してる!』
「そうか」
 隆弘は静かに頷く。
「なら、わかるよな? 人の寿命に限りがある事。弱って入院した婆ちゃんが、なかなか帰ってこない理由。いろんな人が出入りするようになった理由。……その人たちが言っていた事、お前も聞いたんじゃないのか」
 ──死んだ婆ちゃん。
 そんなキーワードを、自分達も散々出している。数少ない遺品を片付ける為、父も祖母の死後、この家に入った。故人をしのぶような話だってしたはずだ。
「──お前も、薄々察していたんじゃないのか? それとも、気付かないふりをして暴れて楽しんでいるだけか。どうなんだ」
『……』
 青年は押し黙る。
「お前がそうやって一人で好き勝手暴れているせいで、屋敷の悪評がたっている。今じゃ呪われた館扱いだ。それこそ、婆ちゃんの為になっていないんじゃないのか」
 責めるような冷たさを含んだ隆弘の言葉に、青年は唇を噛み、拳を握ると視線を俯かせた。
 固く握りしめた拳は、震えていた。
 その素直な無言の沈黙が、彼の解答なのだろう。
 この存在は、本当は知っているのだ。
「さゆりちゃん」がもう、この屋敷に帰る事がないという事を。それでも待っていたのだ。
 そのとき唐突に、くしゃりと青年の顔が歪んだ。
「あぁ……ちょっと待て隆弘。言い過ぎ。きつい」
 子供のような表情で、青年が泣きそうになってしまったので、総司は慌てて間に入った。
「何で止める」
 隆弘は苛立った声でこちらを睨む。
「俺たちだってこいつに散々引っ掻き回されたんだぞ。お前だって例の──」
「……例のあれ、はもういい」
 総司は首を横に振る。
 無様に、状況も忘れて、振られた男の背を追いかけてしまった事──確かに思い返せば屈辱だ。だが、あのときの自分の行動が、己の本心なのだとわかった。恥ずかしくて、情けなくて、苛立ったが──自分はまだ、あの男に未練がある。
 もう終わった事だなんて、簡単に言えはしないのだ。
 そしてこのわけのわからない存在も、きっと──祖母の死を受け入れる事ができていないのだ。祖母が帰るまでこの家を守る、そんな約束にすがりついて、多分前に進めていない。
 わかっている癖に──そんな気持ちは、総司には痛いほどわかってしまった。
 ちらつく男の面影を振り切って、総司は階段の上に立つ、青年の方を見上げる。子供を窘めるようなため息が出てしまった。
「お前も、やり過ぎの面はあるけどな。俺はお前がそうやって、長年婆ちゃんを守ってくれていたなら、嬉しいよ。婆ちゃんがなかなかこの家を離れなかった理由も、何となくわかったしね」
 ──彼がいたからだ。
 彼は何故か、祖母を妙に慕っている。祖母はきっと、不思議なこの存在との暮らしを楽しんでいたのだろう。
「これ、婆ちゃんが残した文章なんだけど」
 総司は、青年に台所で見つけた手紙を差し出した。青年は、しばらく総司の挙動を警戒するように見つめていたが、ゆっくりと差し出した手紙に手を伸ばす。
「ここに、怒らせなければ優しくていい子って書いてあるだろ? 婆ちゃんも本当に、お前の事気に入っていたんだな。だから、悪い奴はともかく、手当たり次第に攻撃するのはやめてくれ。それは多分、婆ちゃんも喜ばないから」
『……でも、この家は』
「ん?」
『壊されるんじゃないのか。誰も住まないんだろう』
 青年の声は、小さく不安げだった。
「住まないけど、壊す予定もないんだよ。歴史的建築物らしいし、話がうまくまとまれば、市の方で保存してくれる予定。……だから、お前にこれ以上暴れられて悪い噂が立つと、うちとしても困るの。本当に壊さなきゃいけなくなるかもしれない」
『……』
 青年は、手紙を握ったまま目を潤ませていた。長い間、じっと手紙の文面を見つめながら黙っていた。
そして、耐えきれなくなったのか、急にぼろぼろと泣き始めた。その姿に、総司も隆弘も思わずぎょっとしてしまった。
 ただ不気味で恐ろしくて、腹立たしい謎の存在だと思っていた。
 だがこんな、人間のように泣くのか。
『戻ってくるって』
 闇の中に、鼻をすする音が響く。
『戻ってくるって、約束したのに……』
 しゃがみこんでぐすぐすと泣くその姿は、とても『長生きして、賢い存在』には見えなかった。
 自分達と同じように生きて、物を考え、人との別れに涙する──そんな存在に見えた。
 素直に誰かを慕って、別れに泣けるその姿は、自分よりもよっぽど素直だ、と総司は思わず自嘲する。
(俺に足りなかったのは、こういう可愛げな部分か)
 ふと、あの日の、不完全燃焼な別れを思い出す。
 武骨なあの男は、わがままだった自分の何を見て、何を好いて付き合っていてくれていたのだろう? 
 自分に見切りをつけてこちらの元を去ったとき、どんな気分だったのだろう? 意地を張らずに格好悪くすがりつくように追いかけていれば、何か違ったのだろうか? 
 今となっては、知る由もない。
 総司は少し考えて、青年にゆっくり歩み寄ると、その頭を撫でた。柔らかい髪の感触が、手のひら越しに伝わる。
「とりあえず、もう泣くなよ。俺らも悪さしないで帰るし……でもお前、どうするんだ? 俺らが帰った後も、ここで一人か。ここにいるのか?」
『……』
 青年は答えない。ただ俯いている。
 この青年はなんなのだろう? 総司はただ、不思議に思った。
 人間でない事は間違いない。事実この屋敷は、完全に彼の意識に支配されている。隆弘が父を見て、総司があの男の姿を見たように、こちらの思考を多少読む能力もあるらしい。それにこうして、手で触れる事もできる。
 妖怪? 幽霊? ──家の意思? 
(全然意味わからん)
 総司は諦めたように息をついた。だが、己の手がきちんと青年に触れられた事に、多少安堵もあったのかもしれない。困ったように笑ってしまった。
「……なんだったら俺らについて、この後温かいものでも食いに行くか? お前食えるのか知らんけど。こんなところにずっと一人で、寂しかったろ」
「おい総司……」
 何言っているんだお前、というような顔で、隆弘が眉を寄せた。
「いやでも、なんかこのままってのも」
 後味が悪いなと思ったのだ。
 この青年が、事情を理解してくれたなら、きっとこの屋敷で、おかしな現象はもう起きないはずだ。父からの依頼もどう説明するべきかは悩むが、とりあえず完了、という事になる。
 だが、自分達はそれでいいとしても、屋敷に残されたこの存在はどうするのだろう? 
 祖母はもう帰ってこない。
 一人、木々に囲まれた静かな洋館で、淡々と一人ぼっちで過ごす青年の姿というのを想像すると、酷く悲しい光景のように思えた。
『……なんで、そんな事言うんだ』
 青年は、まだ涙が浮いた目でこちらを見上げている。
「なんでかなぁ?」
 総司も苦笑するしかない。自分が優しい人間だと思った事はないが、多分──自分もいろいろあって、寂しいのだ。
『……お前は、さゆりちゃんに似ているな』
「そう? まぁ孫だしね──」
 青年は黙ってこちらを見上げていた。観察するように、こちらを真顔で睨んでいる。そして、ぽつりと呟いた。
『憑いて行っても、いいぞ。お前に』
「え」
 何が、と言おうとした瞬間だった。一瞬、肩にずんと重いものが乗る。目に見えない圧力に貫かれたような感覚だった。衝撃に思わず、呻きが漏れて体がよろめく。だがその妙な違和感は、すぐに消えた。
(……憑いて?)
 思わず肩をさすりながら、その言葉の意味を考える。
 ──なんだったら俺らについて、温かい物でも。
 確かに総司はそう言った、が。
(今憑かれたの俺? こいつ、憑りつくタイプなの? そう言う意味じゃなかったんだけど……)
 時間が経てば経つほど、言葉の意味にぞっとしてきた。
 だが泣き止んだらしい青年は、手紙を大事そうに胸のポケットに入れると、立ち上がってにこりと笑った。
 そのとき、消えていた屋敷の照明が一斉に点く。玄関の鍵がかちゃんと勝手に周り、ぎぃ、と軋みながら扉が開いた。玄関扉の向こうは、夜の闇が広がっている。
 その光景は、なかなか怖いものがあった。
『鍵は開けたぞ。さぁ、温いものを食べに行こう』
 青年は身軽に、ひらりと階段を飛び降りると、玄関ホールに立ち、こちらを見上げた。そしてすたすたと、扉に向けて向けて歩いて行く。
(だから何なの、あいつ……)
 家に憑りつく何かなのかと思いきや、そうでもないらしい。案外、自由に出入りができるようだ。
「……知らないからな、俺」
 その声に振り向けば、様子を見守っていた隆弘が目を細めて、こちらを睨んでいた。
「あんなのに、変な同情するから……」
「いやだって、俺だってこう来るとは思わなかったし! 悪い奴じゃないのかなって思っちゃったんだよ!」
「お前ちょろすぎ。……言いたかないけど、例の男にも遊ばれただけだろ、絶対」
「ちょ、お前、白濱さんの悪口言うなよ!」
「はいはいわかった。悪いのはお前だったな」
「……そうですね」
 こきこきと首を鳴らしながら、総司はぼやいた。何だか肩こりがするような気がするのは──気のせいだろうか。
「でも、あいつがここを離れたら、もう変な現象起きないよね、多分。この件解決って事でいいよね。やさがしなんて終りで良いよね」
 怒らせなければ多分ヤバくない──祖母もそう言っていたし、何となく大丈夫だとは思うのだが、どうだろうか。
「楽天家なんだか湿っぽいのかよくわからんな、お前。でも、親父さんにどう説明するんだ」
「そこだよねぇ……」
 総司は腕を組んで、悩んだ。この家の不審な現象は、あの青年が元凶であることは間違いない。
 だが『なんか外国人みたいな幽霊のようなものが出て、そいつが原因だったみたいで、婆ちゃんに懐いていたが故に暴走していたみたいで──』なんて言ったところで、父は信じるのだろうか。
 多分父は、呪いの札とか、誰かの遺髪だとか、そういう見てわかりやすいもの見つけてほしかったのだと思う。
 総司がそう首を傾げていたとき、隆弘が「あ」と何かに気付いたような声を出した。
「なに」
「いや、あれ。あいつの影……」
 声を潜めて、隆弘が言う。
 玄関ホールの黄色みを帯びた照明に照らされた、青年の背後に伸びる長い影は、妙にいびつだった。
 総司は眉を寄せる。影は、人型ではない。
「なにあれ。四足……? 尻尾でかいし、短足でふさふさしてる……」
 どこかで見た事のあるシルエットだ。アライグマのような、犬のような──。
「……あれ、タヌキか?」
 ぽつりと呟いた隆弘の言葉に、あぁ、と総司は納得した。
 思い出してみれば二階で、何か黒っぽい四足の動物が駆け抜けて行ったのを見た。
 考えてみると、自分達はそれぞれ、ご丁寧にも一番会いたくない人間に遭遇したのだ。
 そのほかにも恐怖体験はいろいろしたが、あれは心霊体験というよりも「化かされていた」と言われた方が、若干しっくりくる気もする。
「そう言えばタヌキって、人化かすとか言うよね。遭遇したの初だけど……」
「この時代に、か……?」
 そう言う隆弘の声は、疑問と苛立ちに満ちていた。
「って事は、俺たちはあのタヌキに化かされていた、とでも? 俺は信じないぞ。タヌキ殴ったとか、そんなの信じないぞ!」
 隆弘は頭を抱えて、何やらぶつぶつと言っていた。だが玄関ホールに立ち、喚くこちらを見上げて、楽しんでいるような青年の背後に伸びる黒い影は、どう見てもそれっぽい獣、にしか見えなかった。
 ──この世には、そういう存在もいるのだと思います。
(そういう事か、婆ちゃん……)
 総司は、祖母の手紙にあった一文を思い出す。
 だが、まだ「あぁ、そうなんですね」と事実をそのまま受け入れる事ができるほど、自分は人間ができていない。
 そんな広い心があったら、今こんな事になってない──総司はそう思いながら、屋敷を後にした。
 二人が玄関扉を出ると、扉は自然に閉まり、鍵がかかった。
 青年は、感慨深そうな顔をして、松葉の屋敷を見上げていた。
 恐らく、この屋敷で、おかしな現象が起こる事はもうないのだろう。