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町に出る鬼

01 雪と鮮血


上条定信は見習いの医者だった。 背は高く体つきもがっしりしていて、医者には見えないとよく言われる。
正確にはまだ見習いの身であり、その日も師のもとへ診察の手伝いに行った帰りだった。
もうとっくに日も落ちて、辺りは暗く寒い。
足を速めて帰宅しようとすると、空から何か白い物がひらひらと振ってくる。
「雪かよ……」
定信は夜空を見上げながら呟いた。 どうりで寒いはずだと思った。
足の指が寒さで痺れる。
赤みの強い髪に手をやりながら、本降りになる前に帰ろうと、足を速めたときだった。
突然、がたんという何かが倒れる様な大きな音がした。
定信は思わずびくんと肩を跳ねさせ、立ち止る。
周囲を見回すが、辺りに人通りはない。
長屋らしき家はいくつか連なっているが、戸は固く締められている。
(何だ?)
どことなく不安な気持ちを抱えながら、一歩踏み出した。
そのときだった。
風に乗って、微かにうめき声が聞こえた。
(人だ)
その瞬間、恐れが吹き飛んだ。周囲を見回しながら、声がした方へ足を進める。
相手がわからないという恐怖もあったが、何よりもし病人だったら、という思いがあった。
冬の冷たい風にかき消されそうな小さな声。
その微かな声を頼りに、定信は近くの小屋の裏へ回った。
声はこの辺りから聞こえた様な。
「…誰かいるのか?」
声をかけたが返事はない。
返事のかわりに漂ってきたのは……血の臭いだった。
「…っ、おい!」
闇に目が慣れて来て見えたもの。
そこに倒れていたのは、13、4歳くらいの少年だった。
色調の暗い着物に袴を穿いている。格好からして侍の子のような。
「大丈夫か、おい!」
慌てて近寄って抱き起こすが、少年に触れた瞬間、ぬるりとした感触を手のひらに感じた。
思わず見た自分の掌は、どす黒く染まっている。血だ。
見れば二の腕や背中、腹などにいくつか切り傷があり、出血している。
道具箱の中から布を取り出し、傷口に巻き付け止血をする。傷は場所によってはかなり深いようだが、この暗闇の中では傷の正確な様子を見る事はできなかった。
少年は意識がないらしく、呼んでも目を覚ます様子もない。荒い呼吸に時折うめきが混じる。
師のところへ運ぶか。いやしかし、出血量が多い。ここからでは遠い。とにかく、一刻も早く処置をしなければ。
定信は覚悟を決め、少年を背に背負った。思ったよりも軽い体だった。


「ちょ…どうしたんだお前、それ!」
背に軽い少年を背負って走った定信は、思い切り屋敷の戸を拳で叩きまくった。
わかったからそんなに叩くな馬鹿、と言いながら戸を開けた男が、血塗れの定信を見てぎょっとしたような顔をする。
この男の名は利秋という男で、定信よりも十近く年上の男だった。
貧乏侍で定信の遠縁にあたる。この男の元へ今は居候している身だった。
「長屋街のところで倒れてて。すみませんちょっと屋敷汚すかもしれないんですが、手当させて下さい」
息を切らしながら、定信は利秋の返答を待たずに少年を屋敷に連れ込む。
少年を背負っていたせいで、定信は髪も着物も少年の血に染まっていた。
「わかったからちょっと待て!布団敷くから」
利秋も慌てて屋敷内へ戻った。

「こりゃひでぇな…」
少年の着物を脱がして傷を見る利秋が顔をしかめる。あちこちにある傷は刀傷だろうか。
背中にばっさりとやられた大きな傷があるし、腕にも腹にも刺されたような傷があった。手のひらにも抵抗した時にできたらしい傷がある。 こんな子供が何でこんな目に。
定信も眉を寄せながら、傷を消毒していく。
傷を縫おうと少年の背中に触れた瞬間、少年の体がびくん、と跳ねた。
「ぁっ…!」
弾かれたような悲鳴が上がる。意識が戻ったのかと思いながら、定信は腹をすえて針を握った。
「利秋さん、押さえてて下さい。…縫います」
「…わかった」
利秋が頷いて、細い少年の体を押さえつける。
「痛いかもしれないが、少し我慢してくれ。大丈夫だから。な?」

その後しばらくは地獄のような時間だった。
その体のどこにそんな力があるのかと思う程、少年は抵抗した。しばらくは痛みに声を上げていたが、傷を全て縫い終る前に失神したらしく、声は聞こえなくなった。
静かになった少年を着替えさせ、布団に寝かすと、定信はやっと一息ついたように息を吐き出す。
「助かりそうか、こいつ」
利秋も少し疲れたように側に胡坐をかいて、こちらを見ていた。
「幸いどれも致命傷にはなっていないと思います。ただ出血が多いし傷も大きいんで、安心はできないですけど」
「そうか。しかしまぁこんなガキに酷い事するもんだね。どこの家の子だ?」
定信は血塗れになった少年の着ていた着物を広げてみる。着物の袖についている家紋は丸に沢瀉。どこにでもあるもので、さほど珍しくはない。
しかしそれ以外は手がかりになりそうな物もなかった。
「沢瀉の家か…武家で、ねぇ。いくつか心当たりはあるが…」
利秋がそう唸っていると、屋敷の扉がどんどんと叩かれる音が聞こえた。何か利秋を呼ぶ声も聞こえる。
「なんか今日は騒がしいな。ちょっと見てくる」
利秋が席を立つのを見送って、定信は布団の少年に目をやった。
血を失ったせいか、顔色は悪い。
こんな雪の日の夜に、一体何があったというのか。
子供が出歩く時間でもなかったろうに。
そんな事を考えていると、玄関から戻ってきた利秋が着替え始めた。その様子に、定信は疑問を抱く。
「こんな時間に出るんですか?」
「ん?あー、詳しくは呼びに来たやつも知らんみたいだが、何かあったらしい。後頼むわ。そいつ絡みかもしれんし、ちょっと様子見てくる」
ばたばたと忙しなく、利秋は出掛けて行った。

本当に騒がしい夜だと思う。
外はこんなに静かな夜なのに、一体どうして。

だがそのとき、少年のうめき声に定信の意識は呼び戻された。
少年の顔を覗きこめば、黒い瞳が力なく開いて、虚空を見上げていた。
「…目が覚めたか?」
声が聞こえているのか、わからない。だが定信はゆっくりと声をかける。
「…大丈夫か?俺の声、聞こえてるか?」
そうやって問いかければ、虚ろだった少年の瞳が、ゆっくりと定信の方を向いた。そしてゆっくりと頷く。
定信は安心して、安堵の息を吐いた。 「俺は上条定信。医者…っていってもまだ見習いなんだが。ここは俺が居候させてもらってる家だが、安心していい」
定信はゆっくりと少年の頭を撫でる。振り払う力もないのだろうが、少年はされるがままにしていた。
「お前、近くの路地で倒れてたんだ。何箇所か斬られてたから、縫わせてもらったよ。傷がちょっと深かったから、痛むと思うが」
定信は少年を安心させるように頭を撫でながら、言葉を続ける。
「お前、名前はなんていう?」
「…かげい」
「ん?」
よく聞きとれず、定信は聞き返した。
「長棟、景伊」
少年の口から、か細い音が吐き出される。ながむねかげい。それが少年の名前らしい。
「景伊、か。珍しい名前なんだなぁ。どこに住んでた? お前の家族に無事を知らせないと」
「家族…」
景伊が天井を見上げたまま、呟く。
しばらく記憶を掘り起こすように、少年は天井を見上げていた。
斬られた事で記憶が混乱しているのだろうか、と定信は思った。
しかし何かを思い出そうとしていた様子の少年が、突然体を震わせたかと思うといきなり吐いた。
「おい、大丈夫か?」
定信が慌てて少年の背をさする。えずきながら、少年は首を横に振った。
(…いない、って事か?)
少年の反応の意味するものが、定信には理解できなかった。
ただ無理して今は話させる事はできない。
何があったのかは少年が自然に語るまで待った方がいいのかもしれない。今は相当精神的に混乱しているようであった。


少年は、それからまたすぐに眠ってしまった。
荒い呼吸が聞こえる。額に触れると少し熱く、熱が出ているような気がした。
冷えた水に浸した手拭を額に置いてやると、景伊が息を吐いた。
利秋もまだ帰ってくる様子がない。
深夜を過ぎても帰って来ないというのはあまりない事で、少し心配だった。
もともと面倒な仕事を任される事が多い様だし、彼なら大丈夫だろうという思いもあるのだが。
もう少し待つか、と思いながら少年に目をやると、薄く目を開けてこちらを見上げているのに気が付いた。
目が少し潤んでいる。痛みで熟睡できないのかと思いながら、再度頭を撫でた。
「大丈夫だからな、景伊」
大丈夫、大丈夫。
安心させるように何度も言い聞かせる。
すると景伊がわずかに安堵のような悲しいような、表情を歪めた。

「兄上……」

熱に潤んだ瞳で、定信を見上げて、少年は呟いた。
予想外の言葉に定信は目を見開く。
景伊は重そうに腕を伸ばしかけるが、指先が定信の頬に届く前に、腕を止めた。
「お前」
この子供は、自分を見上げながら「兄」と呼んだ。
いや、視線はぼんやりとしている。熱に浮かされている。
(俺を誰かと間違えているのか)
定信は、景伊の腕を取る。
荒い息の少年は、まだこちらを薄く開いた瞳で無表情に見つめていた。
「ごめんなさい…」
そうはっきりと呟いて、少年がまぶたを閉じ、眠った。
「……」
何を謝ったのか。定信にはわからない。
景伊の腕を布団の中に入れてやりながら、定信は何とも言えない気持ちで、眉根を寄せた。
「……兄貴がいるのか」
できれば身内と会わせてやりたい。その気持ちが強まった。