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町に出る鬼

02 そこにいるのにもう一人


少年が倒れていたのは、庶民が暮らす長屋が連なる地区だった。
武家の子供らしい景伊が、あの一帯に住んでいるとは考えにくい。
武家屋敷が多いのは、あそこからもう少し離れた場所になるはず。
だとすれば、この子供はあの場までやってきて、斬られたのだろうか。
しかし景伊の手のひらには、抵抗した時にできる切り傷が多くあった。
この傷からすれば、黙って斬られたわけではないだろう。斬りつけられながらも、相当抵抗もしているはずだ。
倒れていたのは小屋の近くだったが、住宅密集地でそんな騒ぎがあれば、なぜあそこに住む人間は気がつかなかったのか?
…どこか別の場所で斬られて、あそこへ捨てられた…?
定信は考えをめぐらすが、どれも想像の域を出ない。
結局は、この子供しか知りえない。
今、自分はこの子供の側を離れる訳にはいかない。
利秋が何か手掛かりを持って来てくれるのを、待つしかなかった。

その利秋が帰ってきたのは、夜と言うよりも明け方近くの事だった。
「あのガキ、どうだ」
帰るなりそう告げる顔色は、どことなく良くない。疲れもあるのだろうが。
「……名前は一応聞けました。そっちは何かわかったんですか?」
「正直、まだわからん。ただ、奇妙な事を聞いた」
利秋は定信の真剣な顔を見るとそのまま黙って部屋へ入り、襖を閉めた。
「お前があの子供を拾ったのと同じ時間頃。ここからそう離れてない場所で、殺人があった」
「……え」
一瞬言葉を失う定信を見てから、利秋は言葉を繋げた。
「一家3人が夜のうちに殺されていた。武家の家なんだが、その様子が尋常じゃない。 死体が何かに食い荒らされてた。俺もちょっと手伝いに行ったが、ひどいなんてものじゃなかったよ。血を見慣れた連中でも吐いてやがった」
ありゃぁ、人のやることじゃないね、と利秋は呟く。
「……」
「…鬼が出たとか言い出す奴もいるし。何なんだろうね全く」
鬼。
そんなもの、定信は信じていない。
しかし利秋がこれほどまで言うというのは、現場は相当な地獄だったのだろう。
胡散臭い話だろう?俺もそう思う、と言いながら利秋は床に胡坐をかいて座り込む。
この男は迷信だとかそういったものを馬鹿にするタイプなので、そういった事を口に出すのも珍しい。
「まだ捜査途中で俺も詳しい話は知らないんだが、物盗りの様子でもないし、怨恨って言ったってあんなのは異常だ。 それで、少し気になったんだが…」
利秋が、言いにくそうに定信を見て、言った。
「その家の家紋ってのが、あいつの着物についてた家紋と同じ沢瀉なんだよな。名前名乗ったんだろ? 苗字は」
利秋の言葉に、定信は少年が語った名前を思い出す。
「長棟……」
そう定信が語った瞬間、利秋の眉間のしわが深くなった。
(共通してるって言うのか)
同じ晩に、近くで起こった凄惨な事件。
そして、体に傷を負った、身元不明な瀕死の少年。
共通する苗字。
「ちょっと待って下さい、それじゃ」
「落ちつけ。本当に無関係かもしれないし、あの家に何らかの関わりがある子かもしれない。ただ、誰か行方不明になっているって話は出ていないらしい。…俺ももう少し調べてみるが、定信。お前もあの子供を助けた事は誰にも言うな。きちんとした事がわかるまで、な」
利秋の言葉に、定信は唇を噛んだ。

あの雪の日にあった事件。
定信は知らないその家は、少年が倒れていたその夜に猟奇的な事件に襲われたのだと言う。
何人もの人が殺され、定信自信はその様子を見たわけではないが、その死体の様子は獣が食い殺した様な酷い有様で、やったのはヒトではないとさえ言われている。
血の海であった現場からは、何か獣のようなものがいた形跡はない。
何人か生き残りがいるようだが、実際に何が家族を襲ったのか、見た人間はいない…。
嫌な事件だ。
偶然にしては、嫌過ぎる事件だった。
だが、それとこの少年を結び付けるのはどうなのか、と定信は思う。
景伊の傷は鋭い刃物で切られたものだ。刀傷にしか見えない。これは、ヒトによって傷つけられたものだ。 噂のようなものではない。

でも、もし。
もしこの子供がそれに関わっていたら?

(馬鹿らしい)
定信は頭を振った。
何も証拠なんてない。知りもしないのに、俺は。
利秋はまた、夜遅いというのに出掛けてしまった。
どういった仕事を任されているのか教えてはくれないので、何をしているのかは知らない。
迎えに来た部下たちとなにやら事件の事も話していた。
「そんなに遅くなるつもりはないが、戸締りはきちんとしてろよ。って言うか、今日は外出るな。わかったな?」
利秋はそう言って出掛けて行った。
もちろんそのつもりもなかった。

定信は自分の布団を引っ張り出すと、景伊が眠っている部屋までそれを抱えてきて、敷く。
今は静かに眠っているが、目を離す気になれない。かと言って寝る気にもならない。
景伊を連れて来てからろくに寝ていない。疲れているはずなのだが、神経が高ぶっていて眠気が来ない。
外はまた雪が降り始めている。静か過ぎる夜だ。
どうしたものか、と思って眠る少年の姿を見ていると、布団が微かに動いた。
見れば、少年目が薄く開いていた。
「…起きたのか。具合どうだ?」
話しかけたが、一瞬反応がなかった。 もう一度声をかけようとしたとき、それまで天井を眺めていた生気のない瞳が、ゆっくりと定信を見る。 まつ毛の長い、黒い瞳。
「……水」
みずがのみたい、と少年の乾いた唇が動く。
わかった、と飲みやすい様に体を少し起こしてやって、口元に水の入った器を当ててやれば、景伊は時折痛みに顔を歪ませながら それを飲んだ。
「何か食べるか?お前、ここんとこ何も食べてないだろ。腹減ってるんじゃないのか?」
その問いには、首を横に振る。
「今は、夜?」
「ああ。……お前が来てから、丸一日経っちまったよ」
そう、定信は笑って見せると、景伊は目を細める。
「治療費なんて、払えない」
「そこ心配するのか?俺が勝手に助けただけだ。お前がそんなの気にする必要はねぇよ」
「……」
景伊は定信から目を逸らした。
この少年はあまりしゃべらない。表情も乏しい。もちろん傷にひびくというのもあるだろうし、そんな力も今はないのだろうが、痛いだとか、そういった事を口にする事もなかった。
定信は景伊を布団に寝かせる。
「今は余計な事考えなくていいさ。体休めて傷治せ。後の事はそれからだっていい」
そう言うが、少年の目はどこか虚ろで、天井を見上げているのか、何も見えていないのか。
子供のする眼ではないような気がした。
何をされたら、こんな目をする子供ができるというのだろう。
心を失う程、恐ろしい目にあったというのか?
「お前、何があった…?」
景伊は答えない。
だが、黙って景伊を見る定信の視線に耐えかねたのか、静かに口を開いた。

「俺は、家族を殺したのかもしれない」

少年の突然の告白に、定信は言葉を失う。
「殺した…かもしれない?どういうことだ」
景伊の言葉の意味をわかりかねていた。
「…わからない。あの日、物音に気付いたときには、血まみれになった家族が倒れてた。そばには、俺がいたんだ」
自分と同じ姿の「俺」が、血まみれの家族の側に立っていた。
少年は青ざめ、唇が震えている。
「口元が血に染まってた。人を食ってた。あいつは、俺を見ると笑って消えた……そのすぐ後に、兄がやってきた。生きていてよかったと思ったのに、 あの人は俺に刃を向けた。『お前が殺したのを見た』と言ってた」
少年の言葉は断片的だ。
(ちょっと待て)
定信は利秋が言っていた事を思い出す。
人とは思えぬ者に殺されていたという死体。
「俺は違うって言った。でもあの人は信じてくれなかった……。違う、俺じゃないのに」
「落ちつけ」
「どうして…どうして信じてくれないんだろう。あの人は、どうして」
ぼたぼたと、少年の目から涙が流れ落ちた。
「なんで」
少年は口にしなかったが、定信はなんとなく、彼の怪我が誰に負わされたのか、わかってしまった。

兄貴に斬られたのだ。こいつは。

「俺にも、わからない。あの人は俺が家族を殺すのを見たって言う。でも俺じゃない、俺がやったんじゃない…!」
「景伊落ち着け!」
当時の事をはっきりと思い出しはじめたのか、混乱し始める少年の肩を押さえる。
「…それとも、俺の頭がおかしいのか。……あの人の言う事が正しいのか?」

あの人の言うとおり、俺が皆を殺したのか?

目を見開き、景伊は定信に問う。定信には答える事ができない。
少年の見たもの。それはおそらく、「鬼が出た」とさえ言われる事件そのものなのだろう。
自分の姿をしたものが家族を殺した。
少年の言う事が事実だとは、定信にもわからない。
普通なら有り得ない話で、少年の妄言だとも限らなかった。
だが、この怯えた様子からは「嘘」だとも思う事ができなかった。
景伊が、赤く腫れた目で定信を見ている。
どう答えていいのか、悩んだ時だった。
カタン、と音がして、部屋の障子が開いた。
そこには先ほど出掛けた、利秋の姿がある。
一瞬驚いたが、見慣れた姿を見て定信はほっとした。
「お帰りなさい。ずいぶん早かったですね」
「まぁ夜遅いしな。仕事ばっかりしてるわけにゃいかないよ」
そう、疲れたように言う利秋の鋭い視線が、景伊に向けられる。
景伊は少し怯えたように、身をすくめた。 「…お前は初めて話をするんだったな。この家の主人の、利秋さんだ。俺の親戚だよ。利秋さんもそんなに睨まないで下さい」
「悪いね、元々こういう顔だ」
そう言いながら、利秋は部屋に入ってくる。細面のひょろ長い男だが、何を考えているのか読めない面がある。
嫌いではないが、このときばかりは定信も悩んだ。
この男は感が鋭い。
先ほどの話ももしかしたら聞こえていたかもしれないし、定信は話をするものか迷った。
だが、そのとき。
景伊がぎゅ、と定信の袖を掴んだ。
景伊からすれば、利秋は見知らぬ人間だろう。
緊張するのはわかるが、この家の家主で親類でもある男だ。
何もそんなに、と思って景伊を見ると、景伊は怯えた表情のまま、少し震えている。
様子がおかしい。
どうした、と思ったときだった。
玄関の方で人の気配がする。
「定信、帰ったぞ。開けてくれ」
声と同時に、こぶしでどんどんと戸を叩く音がした。
利秋の声。
え、と定信は腰を浮かしかけて、部屋の入り口からこちらを見下ろしている利秋の顔を見た。
無表情で、こちらを見下ろしている顔に、思わず背筋が冷えた。
出掛けに、利秋はなんと言った?
…戸締りをしておけ、と。だから出入り口にはつっかえ棒をして、彼が帰るまで外からは開けられないようにしていた。

気配なく、部屋の中に居た、この男はなんだ?

「おい定信、寝てんのか?」
利秋の苛立った声がする。
普段なら機嫌が悪くなる前にすっ飛んで行くのだが、理解できない出来事を前に、動く事ができない。
「…お前、何だ」
そう、声を絞り出すのが精一杯だった。
目の前の男はわずかに首をかしげてみせる。
「…何って、お前がそれを聞くのか?」
楽しげに、人をからかうかのような、仕草。…利秋そのものでしか、ない。
「…あいつだ」
景伊が小さな声で呟いた。
唇が震えている。
「おまえの…お前のせいでっ!」
飛び掛かりそうになる景伊の体を必死で止める。
「止めろ景伊、駄目だ!」
「離せ、こいつが…お前が!」
景伊は暴れるが、傷の痛みに顔を歪める。
ぜいぜいと荒い息を吐きながら、その目は目の前の男を憎しみのこもる目で睨みつけていた。
景伊の怒りは尋常じゃなかった。
「利秋」は、その様子を笑みさえ浮かべて眺めている。
(違う)
利秋ではない。限りなく利秋に近い見た目をしているが、これは利秋ではない。
景伊の体をかばうように抱きよせながら、定信は後ずさった。
その瞬間、ガタンと派手な音が響き渡る。
「…お前ら、大丈夫か!」
外にいた利秋が、つっかえ棒ごと戸を外から蹴り倒して入ってきていた。相変わらず滅茶苦茶する男だ。
反応がない事を不審に思ったのだろう。
だが、こちらを見た瞬間、利秋の表情が凍りついた。
「…!嘘だろ…」
利秋もすぐに状況を悟ったようだった。
自分と同じ顔をした男がそこにいるのだから。
冗談じゃない、と言いながら利秋は刀を抜き放つ。
普段は冷静な男だが、彼もこの事態に戸惑っている。 「利秋の姿をしたもの」はうんざりしたように、ため息をついて周囲を、利秋と定信を交互に見た。
「…まぁいいか、今は満腹だし」
そのまま振り向くと、景伊を見てにっと笑った。
「お前が望むなら、残ってる「あいつ」だって食ってやってもいいんだからね?」
「…黙れ!」
景伊が歯を向いてうなった。
その言葉に笑みを浮かべると、それはあっというまに溶けて消えた。
姿が崩れた、と思ったのは一瞬だった。
見れば、先ほどまで男が立っていた場所は何か液体をこぼしたように濡れている。
その場にいた3人ともが呆気にとられていたが、利秋は舌打ちすると台所にずかずかと入って行き、 塩を引っ掴み戻ってくると思いっきり床に叩きつけている。
「化け物が…」
忌々しげにつぶやいて、そのまま景伊の胸倉をつかんだ。
「…利秋さん!」
定信が止めるのも聞かず、利秋は険しい顔をして景伊を見下ろしている。
景伊は驚きながらも、黙って利秋を見上げた。
「景伊、お前が知っている事をいいから全部吐け。…あれは何だ。お前は見た事があるんだろう」
「…知りません」
「知らなくてもいい、見た事何でもいい、話せ!」
景伊が、利秋の問い詰める様な視線から目を逸らした。
「…あれが何なのかは、知りません。でも、あれは俺の家族を殺したものだと、思います」
少年は震えながらも、記憶をたどる様に話し始めた。

あれそのものとは、本当に面識がなかった事。あの夜に初めて見た事。
だが相手は自分の名前を知っていた事。
自分が見たときは「景伊」の姿をしていた。恐らく、姿と声を自由に変える事ができる事。
人間を貪る様に食い散らかしていた事。
…それ以外は、本当に知らないのだ、と言った。
どこへでも唐突に現れると言うのなら、戸締りなんて意味をなさないだろう。
それでも、と蹴り倒した戸を手間取りながらはめ直すと、利秋はため息をついて部屋に座り込んだ。
「…すみません、利秋さん」
「ん?」
その側へ座りながら、定信は申し訳なさそうに言った。
「…ご迷惑をおかけして」
「…別にかまわんよ。お前は医者の仕事をしただけで、あの子供も本当に何も知らないんだろう?何が迷惑ってわけじゃないさ。…ただ」
「ただ?」
『満腹』って言ったな、さっきのアレ」
定信はさきほどの化け物の言葉を思い出す。

『今は満腹だし』と言っていた、アレ。

「満腹じゃなかったら、俺らは食われてたんでしょうね」
「だろうなぁ。3人食い殺されてた、って話だからな。景伊が見たあれとさっきのやつが同じなら、そりゃ腹いっぱいだろうよ」
「…利秋さん」
「悪い冗談だな。まぁ、あの子も災難だ。人に化けるって言ったって、あれじゃ見分けられない。あいつの兄貴が勘違いしたって仕方ないだろうよ」
なんとも気の重い話だ、と思った。
あの子供が何故あんなに憔悴しているのか、やっとわかった気がする。
凄惨な光景を見て、家族を殺され、その家族から犯人呼ばわりされて傷を負わされたのであれば。
「どうするんですか、これから」
「どっちみち、景伊の家の人間とも話をしないといけないだろ。向こうがどの程度知ってるのかは知らないが。しばらくはここに置いといて、 休ませてやれ。俺が話しに行くよ」
利秋は疲れた様に床へごろんと寝ころんだ。
「しかしなぁ、何でこんなに妙な事ばっかり起きるんだか」
「まだ何かあるんですか?」
「…最近俺が忙しかった理由だけどな」
利秋は寝っ転がったまま、随分と真剣な目をして天井を眺めている。
「山一つ向こうの地で、時折夜に妙な奴が出るって話があったんだよ。銀色の髪で、色が白くって、目の色まで灰色だって。 山から下りて来た鬼だって言われてたらしい」
「…鬼、ですか?」
定信が眉をしかめる。
景伊の家の事件を最初に聞いた時も、「鬼が出た」と言われていたのを思い出す。
「…今回の事とは関係なく、ですか?」
「俺も最初関係があるのかと思ったんだ。でも随分離れてるしな。変な話だと思ってたんだが、 今日そいつが捕まったんだよ。この町で」
「…え」
「さっき出てきたのはそれの確認。鬼だ鬼だって言われてっから、どんな化け物かと思えば。 ただの白っぽい優男でなぁ。髪も目の色も確かに違うけど、鬼には見えん。…ひとまずそいつの取り調べも俺の仕事になったらしい。 何でもかんでも下っ端に押し付けようってのが気に入らないがね」
俺自身の興味もあったから引き受けたよ、と利秋は床で伸びをしている。
「ちょ、大丈夫なんですか、そんなに何でもかんでも引き受けて?」
「別にそいつは人齧ったりするような奴じゃなさそうだしな。さっきのアレの方がよっぽど怖いさ」
それよりあの子供、と言って、利秋は指で障子で隔たれた部屋を指す。
「できるだけ目を離すなよ。今一番きつい時期だろうからな」
定信はしっかりと頷いた。
少年の寝ている部屋は、薄暗く明かりがたかれている。
音をたてないようにと部屋に入るが、人の気配を感じたのか、少年の目が薄く開いた。
「…いろいろあって疲れたろ。今日はこのまま俺がいるから、もう寝てろ」
景伊が瞬きをしてこちらを見ているが、表情までは薄暗くてはっきりと見えない。
「利秋さんだって、お前がここに居ていいって言ってるんだ。だからゆっくり休め」
頬に触れると、指先が濡れた。
(…泣いているのか?)
見れば、嗚咽もなく、少年の瞳から涙が流れている。

「…ごめん、なさい」

小さな声だった。疲れ切ってしまった、子供の声だった。
「謝る事はない。何もなかったんだから。利秋さんが『戸の閉まりが悪い』って言ってたくらいだよ。まぁあれはあの人のせいだし」
笑ってそう言うが、少年はふるふると首を横に振った。
謝ったきり、景伊は黙り込んだ。
もっと、愚痴を吐けばいいのに。
定信は思う。
謝らなくてもいいのに。
こんな事になった元凶を、呪えばいいのに。
吐きたいだけ吐き出せば、もっと楽になれるのだろう。
だがこの子供はそれをしない。
何もかもが嫌になってしまっても。
この子供は、昨晩「アレ」と出会った。
そして今日、「アレ」はここへ来た。
この子供を追ってなのかはわからない。
今回はたまたま何もなかっただけなのかもしれない。
次に出会った時は…わからない。考えたくなかった。
でも、定信はこの子供を放り出す事はできなかった。医者としての責任もある。
自分が助けたのだから、という責任もある。
それよりも、何よりも。
こんな子供が、目の前で何もかも嫌だ、という目をして、死んでいくのが見たくなかった。

「…なぁ、景伊」
声をかければ、少年がわずかにこちらを見た気配がした。
「今は外、雪が降ってる。…寒いよな」
しばらく身を斬る様な寒さは続くだろう。静かな部屋に、外の風の音が響く。
「もう少ししたら春が来る。その頃にはお前の体も、少しは良くなってるだろう。そしたら…そしたら、いろんなところへ行こうな。 …まぁ、この辺りは何もないけどさ。俺のお師匠さんにも会わせたいな。なかなか面白い人なんだ。近所のガキどもも、うるさいけど可愛いし…」
楽しい事。
指であれこれ何があるか考えてみるが、そこそこ大きな子供の楽しめる事、と考えても思いつかない。
自分がこいつぐらいのときはどうだったか。何が楽しかっただろうか?…考えたが、わからなかった。
「川の近くは桜も多いし、花見もできるな。酔っ払いが多いけど…いろいろ店が出て、賑やかだ」
それだけ喋って手を伸ばすと、景伊の頭をくしゃりと撫でた。

「…一緒に行こうな」

安っぽい気休めの言葉しか吐けない事を、定信は悔いた。
この子供の心の内を晴らしてやる事など、今の自分にできはしない。
景伊から返事はなかった。
ただ、かすかに頷いたのが、手のひらに伝わる感覚でわかった。
それで、十分だと思った。